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説教日:2011年11月20日 |
最も基本的なことは、1章3節に、 この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。時が近づいているからである。 と記されていますように、黙示録に記されていることは預言としての意味をもっているということです。そして、大切なことは、聖書に記されている預言は、世間一般で言われている「予言」とは違って、何年何月にこのようなことが起こるというようなことを伝えようとしていないということです。 聖書に記されている預言は、基本的に、それが語られた時代の主の契約の民に対する、主のみこころを明らかにするものです。その意味では、預言のみことばには、それが語られた時代の性格が反映しています。黙示録も初代教会の時代に記されましたので、その時代のさまざまな性格が反映されています。 そうではありましても、黙示録も含めた、旧約聖書と新約聖書の預言のすべてにおいて示されている契約の神である主のみこころには、中心となっている主題、テーマがあります。それは、言うまでもなく、神さまが備えてくださった贖い主であられる御子イエス・キリストをあかしすることです。というのは、聖書に記されている預言だけでなく、聖書のみことば全体が、神さまが備えてくださった贖い主であられる御子イエス・キリストをあかししているからです。 ヨハネの福音書5章39節、40節には、 あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。 というイエス・キリストの教えが記されています。 この段階では、新約聖書はまだ記されていません。それで、この場合の聖書というのは、旧約聖書のことです。しかも、ここでイエス・キリストは旧約聖書の特定の個所のことではなく、旧約聖書そのもの、旧約聖書全体が、イエス・キリストを、預言的にあかししていると教えておられます。 ここではさらに、「永遠のいのち」は、旧約聖書において預言的にあかしされているイエス・キリストのもとに行くことによって得られるものであるということも示されています。というのは、11章25節、26節に、 わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。 と記されており、14章6節に、 わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。 と記されていますように、イエス・キリストご自身が、私たちを永遠のいのちに生かしてくださる、いのちそのものであられ、私たちのいのちの源であられるからです。 先ほど引用しました5章40節において、イエス・キリストは、教えを聞いているユダヤ人たちに、 それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。 と言われました。これは、永遠のいのちを得るためには、イエス・キリストの御許に行かなければならないということを踏まえています。 イエス・キリストの御許に行くということは、イエス・キリストを信じるということを意味しています。イエス・キリストを信じることがイエス・キリストの御許に行くということで表されていることには、意味があります。イエス・キリストの御許に行くことによって、私たちはイエス・キリストとの人格的で親しい交わりにあずかるようになるからです。イエス・キリストを信じるということは、イエス・キリストの御許に行き、イエス・キリストとの愛にある交わりのうちにあって、イエス・キリストを知り、信頼するようになることを意味しています。 言うまでもなく、そのイエス・キリストとの親しい愛の交わりを支えてくださるのは、イエス・キリストご自身です。6章37節ー40節に、 父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行うためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行うためです。わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。 と記されているとおりです。 ここでイエス・キリストは、 父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。 と教えておられます。これはまた約束でもあります。これまでお話ししてきたことに照らして言いますと、イエス・キリストは御許に行く者たちを受け入れ、ご自身との親しい交わりのうちに保ち続けてくださるということです。そのようにして、イエス・キリストとの親しい交わりのうちに生きることが、永遠のいのちの本質です。 そればかりでなく、イエス・キリストは、 わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。 と教えておられます。これは、イエス・キリストの御許に行く者たちをイエス・キリストが受け入れてくださり、ご自身との親しい交わりのうちに生きる者として保ち続けてくださるだけでなく、その愛にあるいのちの交わりを栄光あるものとして完成してくださるために、ひとりひとりをよみがえらせてくださるということを、約束してくださっているものです。 イエス・キリストの御許に行く者は、ここでイエス・キリストが教えておられる、終わりの日のよみがえりを頂点とする、すべての祝福にあずかるのです。それが父なる神さまのみこころであり、イエス・キリストが父なる神さまのみこころにしたがって、私たちのために実現してくださることです。 これらのことから分かりますが、聖書全体が、父なる神さまが遣わしてくださったご自身の契約の民のための贖い主であられるイエス・キリストをあかししていることには、明確な目的があります。それはまた、ヨハネがこの福音書を記した目的でもあります。20章31節には、 これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。 と記されています。 旧約聖書全体は、このような意味で、父なる神さまが遣わしてくださった、ご自身の契約の民のための贖い主であられるイエス・キリストをあかししています。 実際に、ルカの福音書24章25節ー27節には、 するとイエスは言われた。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光に入るはずではなかったのですか。」それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。 と記されています。これは、13節に、 ちょうどこの日、ふたりの弟子が、エルサレムから十一キロメートル余り離れたエマオという村に行く途中であった。 と記されていますように、「エルサレムから・・・エマオという村に行く途中」にあった二人の弟子に、栄光を受けて死者の中からよみがえられたイエス・キリストが現れてくださって、語ってくださったものです。ここで、 それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。 と言われていているときの「モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体」ということばは、ヘブル語旧約聖書の区分を反映しています。いま私たちが用いている旧約聖書の区分は、旧約聖書のギリシャ語訳である七十人訳の区分にしたがっています。これに対して、ヘブル語旧約聖書は「律法(トーラー)」、「預言者たち(ネビイーム)」、「諸文書(ケトゥビーム)」の三つに区分されています。そして、最初の「律法」はしばしば「モーセ」あるいは「モーセの律法」とも呼ばれます。ですから、 モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。 ということは、この三つの区分にしたがって、旧約聖書全体から、ご自身について記されていることを説き明かされたということを意味しているわけです。その時、イエス・キリストは、旧約聖書が全体にわたって、「キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光に入る」ということを預言的にあかししていることを、具体的に説き明かされたのです。 また、この二人の弟子たちが、エルサレムにいた十一使徒たちとその仲間たちに報告したときに、イエス・キリストが彼らに現れてくださったことを記している、44節には、 さて、そこでイエスは言われた。「わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。」 と記されています。ここで、イエス・キリストは、 わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。 と語っておられます。「モーセの律法と預言者(複数形)」はヘブル語旧約聖書の最初の二つの区分を示しています。そして、「詩篇」は第三区分の「諸文書」の中の最も長い文書で、「諸文書」を代表的に表しています。ここでも、イエス・キリストは、ご自身のことが旧約聖書全体にわたって、預言的にあかしされていることを示しておられます。 そして、この44節に続く45節ー47節には、 そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、こう言われた。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。」 と記されています。イエス・キリストは、より具体的に、旧約聖書が全体にわたって、 キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。 ということを預言的にあかししていると教えておられます。 その際に大切なことは、このことを弟子たちが理解することができるように、イエス・キリストご自身が弟子たちの「心を開いて」くださったということです。 後に、ルカは使徒の働きを記しますが、使徒パウロがピリピで伝道活動をしたときのことを記している、16章14節に、 テアテラ市の紫布の商人で、神を敬う、ルデヤという女が聞いていたが、主は彼女の心を開いて、パウロの語る事に心を留めるようにされた。 と記しています。主がルデヤの心を開いてくださったので、ルデヤはパウロが伝えた福音のみことばを悟り、イエス・キリストを信じるようになりました。 つまり、イエス・キリストとその御業に関する聖書のあかしを理解し、悟り、イエス・キリストとその御業を信じるようになるためには、主イエス・キリストご自身が、私たちの心を開いてくださらなければならないのです。 イエス・キリストは、今日では、ご自身が着座しておられる父なる神さまの右の座から遣わしてくださった御霊によって、私たちの心を開いてくださいます。そして、福音のみことばにあかしされているご自身とご自身の御業を理解し、悟り、信じることができるように導いてくださいます。 このことをパウロは、コリント人への手紙第一・2章6節ー14節において、 しかし私たちは、成人の間で、知恵を語ります。この知恵は、この世の知恵でもなく、この世の過ぎ去って行く支配者たちの知恵でもありません。私たちの語るのは、隠された奥義としての神の知恵であって、それは、神が、私たちの栄光のために、世界の始まる前から、あらかじめ定められたものです。この知恵を、この世の支配者たちは、だれひとりとして悟りませんでした。もし悟っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。まさしく、聖書に書いてあるとおりです。 「目が見たことのないもの、 耳が聞いたことのないもの、 そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。 神を愛する者のために、 神の備えてくださったものは、みなそうである。」 神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜ったものを、私たちが知るためです。の賜物について話すには、人の知恵に教えられたことばを用いず、御霊に教えられたことばを用います。その御霊のことばをもって御霊のことを解くのです。生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。 と述べています。 このように、旧約聖書全体は、契約の神である主が、ご自身の契約の民のために贖い主を備えてくださったことを、預言的にあかしし、約束してくださっています。そして、新約聖書は、永遠の神の御子イエス・キリストが、その約束の贖い主となってくださったことをあかししています。永遠の神の御子が人の性質を取って、来てくださり、十字架にかかって死んでくださり、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださったことによって、契約の神である主が旧約聖書をとおして預言し、約束してくださったことが成就していることをあかししているのです。その意味で、旧約聖書と新約聖書の全体が、イエス・キリストをあかししています。 繰り返しになりますが、それは、私たちが、聖書全体があかししている、イエス・キリストの御許に行って、イエス・キリストと一つに結ばれ、イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いの御業にあずかり、永遠のいのちに生きるようになるためです。 御子イエス・キリストは、このすべてのことを、ご自身をお遣わしになった父なる神さまのみこころにしたがって、私たちのためになしてくださいます。私たちがすることは、聖書全体をとおしてあかしされているイエス・キリストを信じることです。ヨハネの福音書6章28節には、ユダヤ人たちがイエス・キリストに、 私たちは、神のわざを行うために、何をすべきでしょうか。 と問いかけたことが記されています。これに対するイエス・キリストのお答えが、続く29節に記されています。それは、 あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。 ということでした。言うまでもなく、「神が遣わした者」とは、イエス・キリストが、 わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行うためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行うためです。わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。 とあかしされた、イエス・キリストご自身のことです。聖書全体があかししているイエス・キリストを信じることが「神のわざです」。言い換えますと、イエス・キリストの御許に行って、イエス・キリストとの愛にあるいのちの交わりに生きることが「神のわざです」。イエス・キリストは、ご自身の御許に行った私たちのすべてを最後まで支えてくださり、終わりの日に再び来られて、私たちの救いを完成してくださいます。 このことは、黙示録に記されていることにも当てはまります。 わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。 とあかしし、約束してくださったイエス・キリストは、実際に、このことを実現してくださるために必要な贖いの御業を成し遂げてくださいました。十字架におかかりになって、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによるさばきを、私たちに代わってすべてお受けになりました。そして、その十字架の死に至るまでの従順に対する報いとして栄光を受けて、死者の中からよみがえられました。 そのすべては、ご自身のためではなく、私たちのためになされたことです。すでに、父なる神さまのみこころにしたがって、私たちのために、これらすべてのことを成し遂げてくださったイエス・キリストは、ご自身が、 わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。 とあかししておられる父なる神さまのみこころをすべて、私たちのために実現してくださいます。 それにしましても、黙示録には、主の契約の民がさまざまな苦しみに遭うことが記されています。それは、脅しのためではありません。すでに、主のみことばに忠実に歩んでこられた主の契約の民たちが、黙示録に記されている苦難の道を歩んでこられました。しかし、イエス・キリストが、 わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。 とあかししておられるように、イエス・キリストはご自身の民を「ひとりも失うことなく」、真実にご自身との愛にあるいのちの交わりのうちに保ち続けてくださっています。黙示録は、それらのことが起こる具体的な状況を、預言的にあかししています。その上で、イエス・キリストが、ご自身の民の救いを完成に至らせてくださり、新しい天と新しい地において、私たちを父なる神さまとご自身との愛にあるいのちの交わりと、栄光あるものとして完成してくださることを保証してくださっています。 ですから、すでに、御子イエス・キリストの御臨在の御許に行って、イエス・キリストとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きている私たちは、黙示録の最後の祝福のことばの前の22章20節に記されています、 これらのことをあかしする方がこう言われる。「しかり。わたしはすぐに来る。」 という、栄光のキリストのあかしのことばに応答する、 アーメン。主イエスよ、来てください。 というみことばを私たちのことばとして祈ります。 |
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