黙示録講解

(第50回)


説教日:2011年11月13日
聖書箇所:ヨハネの黙示録1章1節ー8節
説教題:すぐに起こるはずの事を(48)


 黙示録1章1節には、

イエス・キリストの黙示。これは、すぐに起こるはずの事をそのしもべたちに示すため、神がキリストにお与えになったものである。そしてキリストは、その御使いを遣わして、これをしもべヨハネにお告げになった。

と記されています。ここに出てくる「すぐに起こるはずの事」ということばは、黙示録に記されていることを全体的に要約するものです。このことは、これとまったく同じことばが、黙示録の最後の章である22章の6節に出てくることからも分かります。22章6節には、

御使いはまた私に、「これらのことばは、信ずべきものであり、真実なのです」と言った。預言者たちのたましいの神である主は、その御使いを遣わし、すぐに起こるべき事を、そのしもべたちに示そうとされたのである。

と記されています。ギリシャ語の原文では、ここに出てくる「すぐに起こるべき事」と訳されていることばは、1章1節で「すぐに起こるはずの事」と訳されていることばとまったく同じことばです。また、内容の上からも、この6節の後半で、

預言者たちのたましいの神である主は、その御使いを遣わし、すぐに起こるべき事を、そのしもべたちに示そうとされたのである。

と言われていることは、基本的に、1章1節に記されていることと同じことを述べています。
 黙示録には、1章4節に、

 ヨハネから、アジヤにある七つの教会へ。

と記されている中に出てくる「アジヤにある七つの教会」によって代表されている、黙示録が記された時代に存在していた教会のことから始まって、世の終わりにおける新しい天と新しい地の完成に至るまでの歴史が記されています。そして、この歴史を導いておられるのは、栄光のキリストです。
 その歴史の具体的な描写は、この22章6節の前の5節で終わっています。ですから、その当時の教会から、世の終わりにおける新しい天と新しい地の完成に至るまでの、御子イエス・キリストの御業の歴史全体が、1章1節の「すぐに起こるはずの事」ということばによって導入され、22章6節の「すぐに起こるはずの事」ということばによって締めくくられています。それで、この「すぐに起こるはずの事」ということばは黙示録に記されていることを全体として要約しているということになります。
 そうしますと、一つの問題が生じてきます。それは、黙示録には、終わりの日に栄光のキリストが再臨され、ご自身が成し遂げられた贖いの御業に基づいて、新しい天と新しい地を再創造されることまで記されています。それが、「すぐに起こるはずの事」としてまとめられているのはおかしいのではないかという疑問です。
 これを別のこととして見ますと、黙示録の22章7節、12節、20節に記されています、

 見よ。わたしはすぐに来る。

という、栄光のキリストのみことばが記されてから2千年たった今も、イエス・キリストの再臨がないことを、どのように理解したらいいかということです。


 前々回のお話でお話ししたことですが、この1章1節と22章6節に出てくる「すぐに起こるはずの事」ということばは、ダニエル書2章28節に記されているみことばとの関連で用いられていると考えられます。そこには、

しかし、天に秘密をあらわすひとりの神がおられ、この方が終わりの日に起こることをネブカデネザル王に示されたのです。

と記されています。
 これはダニエルがバビロンの王ネブカデネザルに語ったことばの一部です。これが語られた事情につきましては、すでにお話ししたことですので、簡単にまとめておきます。
 このとき、ネブカデネザルは不思議な夢を見ました。それは2章31節ー35節に記されています、ダニエルのことばのなかで明かされていますが、「頭は純金、胸と両腕とは銀、腹とももとは青銅、すねは鉄、足は一部が鉄、一部が粘土」という大きな像の夢でした。さらにその夢の中で、「一つの石が人手によらずに切り出され、その像の鉄と粘土の足を打ち、これを打ち砕きました。そのとき、鉄も粘土も青銅も銀も金もみな共に砕けて、夏の麦打ち場のもみがらのようになり、風がそれを吹き払って、あとかたもなくなりました。そして、その像を打った石は大きな山となって全土に満ちました。」。
 ネブカデネザルは、バビロンにいる「呪法師、呪文師、呪術者、カルデヤ人」たちに、ネブカデネザルがどのような夢を見たのかということと、その解き明かしを告げるように命令しました。彼らはネブカデネザルが見た夢がどのようなものであったかを告げることはできませんでした。それで、その解き明かしもできませんでした。そのような中で、ダニエルが、ネブカデネザルが見た夢とその解き明かしを告げたのです。
 ダニエルはこの夢に出てくる大きな像の純金の頭はネブカデネザル、すなわちバビロンを指しているということを明らかにしています。その後の国については、それがどの国であるかということは明確に示されていませんので、意見が分かれています。福音派の学者たちは、一般的に、銀の胸と両腕は、メディア・ペルシアを指しており、青銅の腹とももはギリシア、そして、最後の鉄のすねと一部が鉄で、一部が粘土の足はローマを指していると考えています。
 その時、ダニエルは、ネブカデネザルに「国と権威と力と光栄」を与えられたのは「天の神」であるということも告げています。つまり、神さまはネブカデネザルをも治めておられるということです。このことは、その後に出てくる国々の王についても当てはまります。
 そして、「その像を打った石は大きな山となって全土に満ちました。」とダニエルが告げたことは、メシヤがそれらの国々をおさばきになり、メシヤを王とする神の国が、とこしえの主権を確立するようになることが示されています。黙示録はまさにこのことを、より詳しく記しています。この意味で、ここに記されていることは、黙示録に記されていることと符合しています。
 このように、ダニエルはネブカデネザルに、ネブカデネザルが見た夢とその解き明かしを告げるのですが、ダニエルはそれは、天におられる神さまがそれを示してくださったということをネブカデネザルに語っています。それが、先ほど引用しました、2章28節に記されています、

しかし、天に秘密をあらわすひとりの神がおられ、この方が終わりの日に起こることをネブカデネザル王に示されたのです。

ということばです。
 ここに出てくる「終わりの日に起こること」のギリシャ語訳である七十人訳は、黙示録1章1節と22章6節に出てくる「すぐに起こるはずの事」ということばと、同じような言い方です。黙示録に出てくる言い方に合わせて訳せば、「終わりの日に起こるはずの事」となります。「すぐに起こるはずの事」ということばとの違いは、「すぐに」に当たる部分が「終わりの日に」となっていることだけです。
 そうしますと、ダニエルにとっては「終わりの日に起こるはずの事」という遠い先のことであったことが、黙示録を記しているヨハネにとっては「すぐに起こるはずの事」となっていることが分かります。
 ここで大切なことは、ヨハネが黙示録を記したときには、ダニエル書で「終わりの日に起こるはずの事」と預言的に言われていていることが、成就しているということにあります。ヨハネが「すぐに起こるはずの事」ということばによって黙示録に記されていることを全体的にまとめているのは、それが成就の時代のこととしてまとめられるということによっています。繰り返しお話ししてきましたが、聖書に記されている預言にとって大切なことは、このような時代の性格です。

 以上はすでにお話ししたことのまとめですが、このこと、すなわち、今が成就の時代であるということについて、もう少しお話ししたいと思います。
 先ほどお話ししましたように、黙示録には、これが記された時代に存在していた教会のことから始まって、世の終わりにおける新しい天と新しい地の完成に至るまでの歴史が記されています。そして、この歴史を導いておられるのは、栄光のキリストです。
 栄光のキリストは、私たちのために贖いの御業を成し遂げられた方として、ご自身のからだである教会を導いてくださり、救いの完成へと導き入れてくださいます。
 イエス・キリストは永遠の神の御子であられますが、私たちご自身の契約の民のために贖いの御業を遂行してくださるために、私たちと同じ人の性質を取って来てくださいました。そして、十字架にかかって、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきを、私たちに代わって受けてくださって、私たちを罪とその結果である死と滅びの中から贖い出してくださいました。そればかりでなく、その十字架の死に至るまで、父なる神さまのみこころに従い通されたことに対する報いとして、栄光をお受けになり、死者の中からよみがえってくださいました。これによって、私たちをご自身の復活のいのちにあずからせてくだり、私たちを父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きるものとしてくださいました。1章5節後半と6節前半には、

イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。

と記されています。
 これらのことは、すでにイエス・キリストが私たちのために成し遂げてくださったことで、私たちの現実となっています。
 このようなイエス・キリストの贖いの御業には、二つの面があります。
 一つは、今から2千年前にイエス・キリストが私たちのために成し遂げてくださった御業です。
 無限、永遠、不変の栄光の主であられる神の御子が、罪のない、まことの人の性質を取って来てくださったこと、十字架にかかって、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきを、私たちに代わって、すべて受けてくださったこと、そして、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださったこと、さらに、天に上って父なる神さまの右の座に着座されたこと、そして、そこから約束の御霊を注いでくださったことです。
 これらの御業は、私たちの外で、すなわち、今から2千年前に、イエス・キリストが、私たちご自身の契約の民のために成し遂げてくださったことです。これはおとぎ話の中でのことではなく、歴史の中で実際になされた御業です。その意味で、これは客観的な御業です。
 今お話しましたイエス・キリストの客観的な御業はすでに、今から2千年前に成し遂げられていますが、まだ成し遂げられていない客観的な御業があります。それは、終わりの日にイエス・キリストが再臨されて、人類の罪を最終的におさばきになり、ご自身の契約の民の救いを完成させてくださり、新しい天と新しい地を再創造されることです。
 これらはイエス・キリストの贖いの御業の客観的な御業です。[神学的な用語としては、これらの御業を指すのに、historia salutisを用います。]
 もう一つの面は、今、父なる神さまの右の座に着座しておられる栄光のキリストが、御霊によって、私たちに対してなしてくださっている御業です。これが御霊によるという意味では、御霊のお働きと言うことができます。
 イエス・キリストは御霊によって、私たちをご自身と一つに結び合わせてくださり、私たちを復活のいのちによって新しく生まれさせてくださいました。それによって、新しく生まれた私たちが福音のみことばを理解し、みことばにあかしされているイエス・キリストとイエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いの御業を信じることができるようにしてくださいました。神さまはイエス・キリストとイエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業を信じた私たちを、義と認めてくださいました。そして、義と認めてくださった私たちに子としての身分を与えてくださり、実際に、神さまに向かって「アバ。父。」と呼ぶほどの親しい交わりのうちに生きるものとしてくださいました。この、神さまとの愛にある交わりが、永遠のいのちの本質です。そして、今は、御霊によって導いてくださって、私たちを御子イエス・キリストのかたちに似た者となるようにと造り変え、成長させてくださっています。このことは、コリント人への手紙第二・3章18節に記されています。
 イエス・キリストが御霊によって、私たちに対してなしてくださる御業にも、まだなされていないことがあります。それは、終わりの日に私たちに対してなされる御業で、私たちのからだを栄光あるからだによみがえらせてくださることです。私たちをイエス・キリストと同じように造り変えてくださることです。このことは、ヨハネの手紙第一・3章2節に記されています。
 これらは、イエス・キリストが御霊によって、私たちに対してなしてくださる御業です。[神学的な用語としては、これらの御業を指すのに、ordo salutisを用います。] 言うまでもなく、この私たちに対してなされる御業の土台に、今から2千年前にイエス・キリストが私たちのために成し遂げてくださった贖いの御業があります。

 今お話ししていることとのかかわりで注目したいのは、イエス・キリストが、今から2千年前に、私たちのために成し遂げてくださった贖いの御業の客観的な御業です。
 先週詳しくお話ししましたように、イエス・キリストが私たちのために十字架にかかって死んでくださったことには二つの面があります。
 一つは、イエス・キリストはローマの兵士の手によって十字架につけられて、人々からのあざけりとののしりをお受けになりながら、十字架刑がもたらす、想像を絶する苦しみを味わわれたということです。いわば、肉体的な苦痛であり、精神的な苦しみです。この点では、イエス・キリストとともに十字架につけられた二人の強盗たちも同じ苦しみを味わっていました。また、後にローマ帝国の迫害の中で、十字架につけられたクリスチャンたちも同じ苦しみを味わいました。
 けれども、イエス・キリストの十字架の死には、それ以上の恐るべき苦しみがありました。それは、12時から3時までの暗やみの中でなされた、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきの執行です。父なる神さまが私たちの罪に対する聖なる御怒りを、愛する御子イエス・キリストの上に余すところなくお注ぎになったということです。
 この時、御子イエス・キリストは父なる神さまとの交わりを断たれ、神さまの聖なる御怒りのもとに打ち捨てられました。ローマ帝国の迫害の中で、十字架につけられたクリスチャンたちは、十字架の上から父なる神さまと御子イエス・キリストに祈ることができました。父なる神さまと御子イエス・キリストは確かに、彼らの祈りをお聞きになりました。しかし、この暗やみの中では、御子イエス・キリストが父なる神さまを呼び求めても、返ってくるのは、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りであったのです。十字架刑がもたらす、肉体的、精神的な苦しみだけでなく、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りを余すところなく注がれるという霊的な苦しみの極みから、マタイの福音書27章46節に記されていますように、

 エリ、エリ、レマ、サバクタニ(「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」)

という叫びが発せられたのだと考えられます。
 このように、イエス・キリストは十字架の上で、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによるさばきをお受けになりました。それは、終わりの日に執行される最後のさばきによって罪に定められる人々が受ける「地獄の刑罰」に相当するものです。その意味で、イエス・キリストの十字架において、終わりの日に執行されるはずの、私たちの罪に対する、最終的なさばきの刑罰が執行されたということです。
 また、イエス・キリストの死者の中からのよみがえりは、イエス・キリストが地上の生涯のお働きの中でよみがえらせてくださった、ヤイロの娘やマルタとマリヤの兄弟ラザロのよみがえりとは違います。ヤイロの娘やラザロは、死んでから生き返りましたが、やがて肉体的に死にました。
 しかし、イエス・キリストはただ単に、死んで生き返っただけではありません。イエス・キリストは十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従い通したことに対する報いとして、栄光をお受けになって、死者の中からよみがえられたのです。ピリピ人への手紙2章6節−11節に、

キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。

と記されているとおりです。ローマ人への手紙6章9節には、

キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。

と記されているように、「死はもはやキリストを支配しない」のです。
 ですから、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことは、単なる生き返りではなく、終わりの日に、主の契約の民が、栄光のうちに死者の中からよみがえることの第一歩です。

 イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりは、今から2千年前に起こったことですが、その本質から言いますと、終わりに日に起こるべきことです。2千年前のイエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりにおいて、終わりの日に起こることが歴史の現実になったのです。
 そして、私たちは、その本質において、終わりに日に起こるべきことである、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりにあずかっています。
 イエス・キリストの十字架の死にあずかっている私たちにとっては、私たちの罪に対する最後のさばきは、すでに終わっています。なぜなら、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきは、十字架におかかりになった御子イエス・キリストに対してすべて執行されているからです。私たちの罪は、過去に犯してしまった罪も、これから犯すであろう罪も、すべて御子イエス・キリストの十字架の死によって贖われ、完全に、清算されています。
 私たちは御霊によって栄光のキリストと一つに結び合わされています。これによって、イエス・キリストの死者の中からのよみがえりにあずかって、復活のいのち、栄光あるいのちによって新しく生まれています。そして、栄光あるいのちにふさわしく、父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きています。エペソ人への手紙2章4節ー6節には、

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです――キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。

と記されています。
 このように、今から2千年前の、イエス・キリストの十字架の死と、死者の中からのよみがえりにおいて、終わりの日に起こるはずのことが、歴史の現実として起こっています。しかも、私たち主の契約の民は、すでに、それにあずかっています。イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いの御業に基づいてお働きになる御霊が、私たちを栄光のキリストと一つに結び合わせてくださって、イエス・キリストの復活のいのちによって新しく生まれさせ、栄光あるいのちに生きるようにしてくださっています。
 今が成就の時代であるということには、このようなことがかかわっています。
 復活について教えているコリント人への手紙第一・15章23節には、

しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。

と記されています。
 ここで、注目したいのは、この、

まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。

というみことばにおいては、イエス・キリストのよみがえりと、私たち主の民のよみがえりがひとまとまりのものとされているということです。ここでは、その間に2千年、あるいは、それ以上の時の隔たりがあるということは、念頭にありません。これが成就の時代、すなわち、終わりの日において起こるべきことが、すでに、イエス・キリストにおいて起こっているということによって特徴づけられる時代についての捉え方です。
 これと同じように、イエス・キリストは、その十字架の死において終わりの日に起こるべき、私たちの罪に対する最終的なさばきをすべて受けてくださっています。イエス・キリストは、終わりの日に起こるべきこととして、栄光を受けて死者の中からのよみがえってくださっています。そして、私たちを復活のいのちによって新しく生かしてくださっています。そうであれば、終わりの日に、イエス・キリストが再臨されて、このように始められたすべての御業を完成してくださることは、当然のこととして、ひとまとまりのこととして捉えられます。
 ヨハネが黙示録に記していることは、このような意味での成就の時代、すなわち、終わりの日において起こるべきことが、すでに、イエス・キリストにおいて起こっているということによって特徴づけられる時代において、起こることです。その意味で、ヨハネは黙示録に記していることを全体的に「すぐに起こるはずの事」ということばで要約していると考えられます。


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