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説教日:2011年11月6日 |
御子イエス・キリストは旧約聖書において約束されていたメシヤとして来てくださいました。ご自身は永遠の神の御子であられ、無限、永遠、不変の栄光の主であられます。その御子イエス・キリストが、私たちご自身の契約の民と一つとなってくださり、私たちの罪を贖うために十字架にかかって死んでくださいました。 その十字架の死は、見える形としては、ローマの兵士たちによって十字架につけられたものと見えます。実際、マルコの福音書15章27節に、 また彼らは、イエスとともにふたりの強盗を、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけた。 と記されていますように、イエス・キリストとともに「ふたりの強盗」が十字架につけられました。その意味では、彼らも同じように、人間が考え出した処刑の方法の中で最も残酷なものの一つに数えられている十字架刑の苦しみを味わいました。けれども、十字架につけられた御子イエス・キリストには、そのような人の手による十字架刑がもたらす肉体的な苦痛以上の苦しみが加えられています。それは、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによる刑罰の苦しみです。 このことについては、以前、説教でお話ししたことがありますが、改めてお話しして、特に、時間の性格ということについて考えてみたいと思います。 マルコの福音書15章25節には、 彼らがイエスを十字架につけたのは、午前九時であった。 と記されています。「午前九時」と訳されているのは、新改訳欄外にありますように、ギリシャ語の原文では「第3時」です。これはその当時の時間の数え方によるもので、私たちの「午前九時」に当たります。そして、33節、34節には、 さて、十二時になったとき、全地が暗くなって、午後三時まで続いた。そして、三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは訳すと「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。 と記されています。この「十二時」は、その当時の時間の数え方では「第6時」であり、「午後三時」はその当時の時間の数え方では「第9時」です。 ここでは、「午前九時」から「十二時」までの3時間と、「十二時」から「午後三時」までの3時間が、まったく違った時間の性格をもっていることが示されています。 「午前九時」から「十二時」までの3時間においては、人々がこぞって、十字架につけられたイエス・キリストをあざけっています。29節ー32節には、 道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おお、神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。十字架から降りて来て、自分を救ってみろ。」また、祭司長たちも同じように、律法学者たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。「他人は救ったが、自分は救えない。キリスト、イスラエルの王さま。今、十字架から降りてもらおうか。われわれは、それを見たら信じるから。」また、イエスといっしょに十字架につけられた者たちもイエスをののしった。 と記されています。この記述から分かりますように、人々はこぞって、イエス・キリストとともに十字架につけられた強盗たちまでが、イエス・キリストが十字架につけられて、降りることができないことをあざけっています。 ここでイエス・キリストは、十字架刑のもたらす肉体的な苦しみと、人々のあざけりを受け続けることによる精神的な苦しみという二重の苦しみによって、十字架から降りるようにと誘惑されています。しかし、もし、イエス・キリストがこのときに、十字架から降りてしまわれたら、そこにいた人々は仰天するでしょうが、私たちご自身の民の罪の贖いは成し遂げられないことになってしまいます。もちろん、その能力という点から言いますと、永遠にして全能の神の御子イエス・キリストにとって、十字架から降りることはたやすいことでした。ですから、イエス・キリストはご自身の意志で十字架にとどまり続けられたのです。ヨハネの福音書10章18節に、 だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。 と記されているとおりです。 この「午前九時」から「十二時」までの3時間の騒々しさに対して、「十二時」から「午後三時」までの3時間においては、様相がまったく変わってしまいます。マルコの福音書15章33節、34節には、 さて、十二時になったとき、全地が暗くなって、午後三時まで続いた。そして、三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは訳すと「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。 と記されています。 この3時間においては、暗やみが全地を覆い、人々のあざけりの声は止んでしまいます。人々はこの真昼の暗やみの恐ろしさに息を潜め、その意味を必死で考えていたはずです。というのは、そこにいたユダヤ人たちは旧約聖書になじんでいましたから、暗やみが神さまのさばきのしるしであることを知っていたはずだからです。これは一瞬の暗やみではなく、3時間もの間続いた暗やみです。 これに対応するものとしては、出エジプトの時代に、契約の神である主、ヤハウェが、ご自身の契約の民であるイスラエルの民を奴隷として虐げていたエジプトを、おさばきになったときのさばきが考えられます。主はエジプトの上に、十のさばきを下されました。それは段々とその厳しさを増していき、エジプトのあらゆる初子を滅ぼすという、十番目のさばきをもって頂点に達しました。 その十番目のさばきが執行された日に、イスラエルの人々は、主のみことばに従って、夕方に屠った小羊の血をそれぞれの家の入口のかもいと2本の門柱に塗りました。それによって、その家ではすでにさばきが執行されていると見なされましたので、その家の中にいる人々は、さばきに会うことがありませんでした。その小羊は、その家の人々の身代わりとなって屠られたのです。 これが歴史の最初の過越の出来事です。イエス・キリストは、この過越の小羊の本体として、十字架の上で屠られ、血を流されました。コリント人への手紙第一・5章7節に、 私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです。 と記されているとおりです。 実は、これに先立つ、9番目のさばきが、エジプト全土を「三日間」「暗やみ」が覆うということでした。出エジプト記10章22節、23節には、 モーセが天に向けて手を差し伸ばしたとき、エジプト全土は三日間真っ暗やみとなった。三日間、だれも互いに見ることも、自分の場所から立つこともできなかった。しかしイスラエル人の住む所には光があった。 と記されています。これほどの暗やみがあるのかということですが、私は何人かの人と一緒に、まったく光が入らない鍾乳洞に入ったことがあります。そこでは、目の前にいるはずの人も、まったく見えないのです。暗やみの恐ろしさを感じさせられました。 御子イエス・キリストが「過越の小羊」の本体として、十字架につけられて血を流されたときに全地を覆った「暗やみ」の3時間は、出エジプトの時代に、主がエジプトをおさばきになったときの「暗やみ」の「三日間」に対応していると考えられます。 このことは、この「暗やみ」の3時間においてこそ、神さまのさばきが執行されていたということを意味しています。そのことは、先ほど引用しましたマルコの福音書15章34節に、 そして、三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは訳すと「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。 と記されていることからうかがうことができます。 これは十字架刑という人間が執行することができる刑罰とは違います。十字架刑がもたらす苦痛であれば、イエス・キリストとともに十字架につけられた強盗たちも同じように味わっています。この時、イエス・キリストは十字架刑がもたらす苦痛をすべて味わっておられました。その上に、この「暗やみ」の3時間において、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきをお受けになったのです。 ヨハネの福音書1章1節には、 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。 と記されています。すでに何度もお話ししたことですので、結論だけをお話ししますが、ここで、 ことばは神とともにあった。 と言われていることは、「ことば」と言われている御子イエス・キリストが、永遠に父なる神さまとの愛の交わりのうちにいますことを意味しています。この永遠に父なる神さまとの愛の交わりのうちにいます御子が、この時、その人としての性質において、私たちご自身の民の罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきをお受けになったということです。言い換えますと、父なる神さまが私たちの罪に対する聖なる御怒りを、愛する御子イエス・キリストの上に余すところなくお注ぎになったということです。御子イエス・キリストは父なる神さまとの交わりを断たれ、神さまの聖なる御怒りのもとに打ち捨てられたのです。それが、 そして、三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは訳すと「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。 と記されていることの真相でしょう。[注] [注]イエス・キリストが十字架につけられたのが午前9時であったことは、マルコの福音書においてしか記されていません。時間的な記述ではマルコの福音書にしたがっていると考えられるマタイの福音書とルカの福音書にこの記述がないということから、これはもともとのマルコの福音書にはなかったのではないかという見方があります(William Lane, The Gospel accrding to Mark.NICNT, Eerdmans, 1974, P567.)。これに対して、この記述がもともとマルコの福音書にあった可能性を擁護する議論もあります(R. T. France, The Gospel of Mark, NIGTC, Eerdmans, 2002, p.645.)。私は、これには神学的な理由、すなわち、伝えたいことのがあるのではないかと考えています。今お話しした出エジプトの時代の「暗やみ」の「三日間」と御子イエス・キリストの十字架の「暗やみ」の3時間が対応しているとすれば、マタイの福音書とルカの福音書は、その意味で、「暗やみ」の3時間を強調しようとしたと考えることができます。これに対して、マルコの福音書は「暗やみ」の3時間をその前の騒々しい3時間と対比させていると考えられます。 その3時間におよぶ「暗やみ」の中では、文字通り、筆舌に尽くすことができない恐ろしいさばきが執行されていました。それは、「地獄の刑罰」と呼ばれる刑罰に相当するものです。それは、すでに(「すぐに起こるはずの事を」の第44回で)お話ししました、「火の池」に投げ込まれるというさばきに当たります。黙示録20章10節には、 そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。 と記されており、14節、15節には、 それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。 と記されています。 ここで、もう一つのことに触れたいと思います。それは、古代教会において、御子イエス・キリストがまことの神であられるということについての論争、すなわち、三位一体論が確立されるに至る論争の中で自覚されてきたことです。 まず踏まえておきたいことは、罪はすべて、突き詰めていきますと、被造物である私たち人間が造り主にして無限、永遠、不変の栄光の神さまに対して犯すものであるということです。 罪の贖いによる赦しのためには、このような罪が、神さまの義の尺度に照らしてきちんと清算されることが必要です。そうでなくては、神さまの義が立ちません。そのためには、何の割引のない償いがなされなくてはなりません。 また、何かの償いがなされるときに、その償いの代価は償うべき対象の価値によって決まります。同じく壊したものを償うといっても、壊したものが、ただの茶わんであるのと、家宝の壷であるのとでは、償うための代価には大変な違いがあります。 私たち人間の罪は、被造物である人間が、造り主にして、無限、永遠、不変の栄光の主である神さまを否定し、神さまに栄光を帰することを否定したこと、あるいは、今も、否定していることにあります。これがどれほどの罪であるか理解することができるかどうかは、私たちが、神さまご自身と神さまの栄光とを、どのように理解しているかにかかっています。 神さまは無限の栄光に満ちた造り主であり、私たちはその被造物です。私たち人間の罪は、この無限の栄光の神さまに逆らうものです。そうであれば、このような私たち人間の罪をきちんと償うためには、無限の代価が払われなくてはなりません。そのようなことは、人であれ御使いであれ、有限な被造物にはできません。仮に罪のない人類がたくさんいて、その人類すべてのいのちを差し出したとしても、とても無限の代価にはなりません。被造物のすべてを積んでも、無限の神さまの栄光との間には、やはり、無限の開きがあります。おまけに、実際には、人類がすべて罪によって堕落しており、そのいのちが腐敗しているため、神さまの御前に、何かを償うことのできる価値をもってはいません。 このように、私たち人間には、自分の罪を償う手段はありません。これが人間の罪の現実です。 しかし、神さまはそのような人間の罪を贖う道を備えてくださいました。そのために、無限の代価を払ってくださいました。それが、ご自身のひとり子のいのちの値です。 御子イエス・キリストは、私たちご自身の契約の民の罪を贖うために、私たちと同じ人の性質を取って来てくださり、十字架にかかって、父なる神さまの聖なる御怒りによるさばきを受けて、死んでくださいました。私たちの罪に対する刑罰を、私たちに代わって、すべてその身に負ってくださいました。この御子イエス・キリストが十字架の上で流されたいのちの血が、私たちの罪を完全に償ってくださるのです。 仮に罪のない人類がいて、そのすべてのいのちを差し出したとしても、神さまの無限な栄光に対する罪は償うことができないというのに、どうしてイエス・キリストのいのちの血の値が、私たちすべての罪を清算することができるのでしょうか。 それは、ひとえに、御子イエス・キリストが、父なる神さまと本質と栄光において等しい御方、まことの神であられることによっています。このまことの神であられる御子が、私たちと一つとなってくださるために、私たちと同じ人の性質を取って、来てくださいました。御子なる神さまが人に変化されたのではありません。まことの神であられる御子が、人の性質をもお取りになったということです。それが、今から2千年前の出来事です。 これは、まことの神であられる御子が人の性質において、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきを受けてくださるためでした。そのさばきは、人の性質においてでありますが、確かに、御子なる神さまがお受けになったものです。御子ご自身がすべての苦しみを味わわれ、いのちの値を差し出してくださいました。それで、無限の償いがなされ、私たちの罪が完全に清算されるのです。 もし、御子が単なる被造物であるとしたら、それがどんなに高い被造物であったとしても、そのいのちの値は有限なもので、無限の栄光の神さまに対する私たち人間の罪を、少しも償うことはできません。聖書が御子イエス・キリストの十字架の死によって、私たちの罪が完全に贖われるとあかししているのは、それが、父なる神さまと等しい本質と栄光の主であられる御子ご自身による罪の贖いであるからです。 このように、御子イエス・キリストが十字架につけられたときの「暗やみ」の3時間においては、無限、永遠、不変の栄光の主であられる御方が、ご自身がお取りになった人としての性質において、神さまの聖なる御怒りによるさばきをすべてお受けになりました。そこでは、有限な被造物には永遠に償うことができない、私たちの罪に対して、無限の償いがなされました。そのすべては、十字架におかかりになった御方が、神の御子、すなわち、無限、永遠、不変の栄光の主であられることによっています。 これらのことを踏まえますと、私たちが考える時間の流れにおいては、同じ3時間ですが、「午前九時」から「十二時」までの3時間と、「十二時」から「午後三時」までの3時間が、まったく違った時間の性格をもっていることが分かります。それは、目に見える形においては、「午前九時」から「十二時」までの3時間が、人々がこぞってあざけっている、騒々しい3時間であるのに対して、「十二時」から「午後三時」までの3時間が、まったくの暗やみに覆われて、人の声は沈黙させられたという違いです。 しかし、これには見えない現実があります。「午前九時」から「十二時」までの3時間においては、人間が課することができる十字架刑という最も残酷な刑罰の一つに数えられる刑罰が、御子イエス・キリストに対して加えられています。しかし、「十二時」から「午後三時」までの3時間には、さらにその上に、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきが下されています。そこでは、私たち人間が地獄において永遠に苦しみ続けても償うことができない罪の償いがなされて、実際に、成し遂げられました。その意味では、この3時間は無限の重みと意味をもった3時間でした。 このことほど、時間が、この時間的な世界をお造りになった神さまとのかかわりで意味をもっていることを示していることはありません。私たちがなじんでいる時間の概念では、3時間でしかありませんが、神さまとの関係においては、無限とも言うべき重さと意味をもっている時です。 詩篇84篇10節には、 まことに、あなたの大庭にいる一日は 千日にまさります。 私は悪の天幕に住むよりは むしろ神の宮の門口に立ちたいのです。 と記されています。ここでは、4行のうちの外側の、 まことに、あなたの大庭にいる一日は と言われていることと、 むしろ神の宮の門口に立ちたいのです。 と言われていることが対応しています。それで、内側の、 千日にまさります。 と言われていることと、 私は悪の天幕に住むよりは と言われていることが対応していると考えられます。ですから、 千日にまさります。 と言われているときの「千日」は「悪の天幕に住む」ことに相当する「千日」です。言い換えますと、神さまに背を向けて歩む「千日」です。 この1日と千日という計算で言えば、主の大庭にいる1年は千年にまさるということになりますが、このような計算は成り立ちません。というのは、このような計算は時を機械的に数えているからです。本来であれば、主の大庭にいる1日は、また、「悪の天幕に住む」千年にまさるということになりましょう。 そうしますと、逆に、千年の時が流れたのに、そこでなされたことをすべて合わせても、詩篇1篇4節のことばで言えば「風が吹き飛ばすもみがらのよう」であり、詩篇62篇9節のことばで言えば「息より軽い」と言われるべきことがあります。 私たちは今ここで、造り主である神さまを礼拝しています。それは御子イエス・キリストが十字架の上で私たちのために味わわれた「地獄の刑罰」の苦しみによって、私たち主の契約の民の罪が完全に贖われていることによっています。また、神さまによって造られた私たちが、造り主であり、無限、永遠、不変の栄光の主であられる神さまを礼拝することは、これがわずか1時間半のことであっても、それをはるかに越えた重みと意味があるはずです。 |
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