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説教日:2011年10月23日 |
先ほどお話ししましたように、1章1節に記されていますみことばは黙示録がどのようにして与えられたかについて記しています。それで、ここに出てくる「すぐに起こるはずの事」ということばは、黙示録に記されていることを全体的に要約するものです。実は、これと同じようなことばは、ほかにも黙示録の中に出てきます。 これと同じことばは、黙示録の最後の章である22章の6節に出てきます。そこには、 御使いはまた私に、「これらのことばは、信ずべきものであり、真実なのです」と言った。預言者たちのたましいの神である主は、その御使いを遣わし、すぐに起こるべき事を、そのしもべたちに示そうとされたのである。 と記されています。ここに出てくる「すぐに起こるべき事」と訳されていることばは、1章1節で「すぐに起こるはずの事」と訳されていることばとまったく同じことばです。 この22章6節の前の1節ー5節には、 御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。 と記されています。これは、この前の21章に記されていることを受けています。21章においては、終わりの日に再臨されるイエス・キリストが、ご自身の成し遂げられた贖いの御業に基づいて、新しい天と新しい地を創造されることと、その新しい天と新しい地の中心にあります新しいエルサレムのことが記されています。それは「小羊の妻である花嫁」(21章9節)と呼ばれている、主の契約の民の共同体です。そして、この22章1節ー5節に記されている「都」は新しいエルサレムのことです。 ここ22章1節ー5節では、21章9節から21章の最後である27節に記されている新しいエルサレムのことを、天地創造の御業において神さまが、ご自身が御臨在される所として設けられた、エデンの園の表象を用いて描いています。創世記2章、3章に記されていることから分かりますように、神のかたちに造られた人は、そのエデンの園に置かれて、そこにご臨在される神である主との交わりのうちに生きていました。この神である主との愛の交わりこそが、神のかたちに造られた人のいのちの本質です。エデンの園には、その中央にいのちの木が1本あっただけですが、この「都」では「いのちの水の川」の「両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり」と言われています。これによって、この新しいエルサレムがエデンの園の完成であり、エデンの園において神のかたちに造られた人が享受していた神である主との愛にあるいのちの交わりが、さらに豊かなものとして実現することを示しています。 そして、この22章1節ー5節の描写をもって、終わりの日に再臨される栄光のキリストが、十字架の死と死者の中からのよみがえりをもって成し遂げられた贖いの御業に基づいて造り出された新しい天と新しい地の描写は終わっています。言い換えますと、ここで神さまが御子イエス・キリストを通して成し遂げられた贖いの御業は完全に実現するということです。これに続いて6節に、 御使いはまた私に、「これらのことばは、信ずべきものであり、真実なのです」と言った。預言者たちのたましいの神である主は、その御使いを遣わし、すぐに起こるべき事を、そのしもべたちに示そうとされたのである。 と記されているわけです。そして、この中に、ここでは「すぐに起こるべき事」と訳されていますが、1章1節に出てくる「すぐに起こるはずの事」ということばが出てきます。ですから、黙示録に記されている主の贖いの御業の歴史の記事は、「すぐに起こるはずの事」ということばによって導入され、「すぐに起こるはずの事」ということばによってまとめられています。 このことも、この「すぐに起こるはずの事」ということばが黙示録に記されていることを全体的にまとめているということを示しています。言い換えますと、この「すぐに起こるはずの事」ということばは、黙示録に記されていること全体の枠組みとなっていて、黙示録に記されていることは、終わりの日におけるイエス・キリストの再臨も含めて、すべて、この「すぐに起こるはずの事」の枠の中に入るということです。 もう一つ、1章1節に出てくる「すぐに起こるはずの事」ということばとまったく同じではありませんが、同じようなことばが、4章1節に出てきます。そこには、 その後、私は見た。見よ。天に一つの開いた門があった。また、先にラッパのような声で私に呼びかけるのが聞こえたあの初めの声が言った。「ここに上れ。この後、必ず起こる事をあなたに示そう。」 と記されています。 冒頭の「その後」、直訳で「これらのことの後に」ということばが示していますように、ここで、それまでに記されていることに区切りがつけられ、ここから新しいことが示されるようになります。その前に記されていることは、1章10節、11節から始まっています。その1章10節、11節には、 私は、主の日に御霊に感じ、私のうしろにラッパの音のような大きな声を聞いた。その声はこう言った。「あなたの見ることを巻き物にしるして、七つの教会、すなわち、エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤに送りなさい。」 と記されています。このみことばから分かりますように、これから3章の終わりまで、小アジアにある「七つの教会」に対する主イエス・キリストのみことばが記されています。それは、「わたしはあなたの・・・を知っている」というみことばから始まっていて、教会のかしらである栄光のキリストが、それぞれの教会に御目を留めてくださり、励まし、警告し、教え諭してくださっているものです。 これに続いて、4章1節の、 その後、私は見た。見よ。天に一つの開いた門があった。また、先にラッパのような声で私に呼びかけるのが聞こえたあの初めの声が言った。「ここに上れ。この後、必ず起こる事をあなたに示そう。」 というみことばが記されています。この最後に、 この後、必ず起こる事をあなたに示そう。 と記されています。「この後」ということばは、先ほどの4章1節の冒頭の「その後」と同じことばで、直訳では「これらのことの後に」です。それに続く、「必ず起こる事」と訳されたことばは、1章1節に出てくる「すぐに起こるはずの事」ということばと同じような言い方です。その違いは、1章1節の「すぐに」ということばが、「これらのことの後に」となっていることです。それで、この「この後、必ず起こる事」を「すぐに起こるはずの事」に合わせて訳しますと、「これらのことの後に起こるはずの事」となります。 先ほどお話ししましたように、1章1節と22章6節に出てくる「すぐに起こるはずの事」(「すぐに起こるべき事」)は黙示録に記されていることを全体的にまとめるものですが、この4章1節はすでに1章10節ー3章の終わりまでに記されていることを踏まえています。それで、ここでは「これらのことの後に起こるはずの事」となっているわけです。そのことだけが違うだけで、これら三つの個所に記されていることは、実質的に同じで、黙示録に記されていることを全体的にまとめるものです。 この黙示録に記されていることを全体的にまとめることばには、旧約聖書の背景があります。それは、ダニエル書2章28節、29節に記されているみことばです。そこには、 しかし、天に秘密をあらわすひとりの神がおられ、この方が終わりの日に起こることをネブカデネザル王に示されたのです。あなたの夢と、寝床であなたの頭に浮かんだ幻はこれです。王さま。あなたは寝床で、この後、何が起こるのかと思い巡らされましたが、秘密をあらわされる方が、後に起こることをあなたにお示しになったのです。 と記されています。これはダニエルがバビロンの王ネブカデネザルに語ったことばの一部です。 簡単に事情をお話ししますと、2章1節、2節に、 ネブカデネザルの治世の第二年に、ネブカデネザルは、幾つかの夢を見、そのために心が騒ぎ、眠れなかった。そこで王は、呪法師、呪文師、呪術者、カルデヤ人を呼び寄せて、王のためにその夢を解き明かすように命じた。 と記されています。この場合の「カルデヤ人」は特殊な意味で使われていますので新国際訳(NIV)は「占星術師」と訳しています。このとき、ネブカデネザルは「呪法師、呪文師、呪術者、カルデヤ人」に、自分が見た夢がどのような夢であったかを教えないで、彼らが、その夢がどんな夢であったかをネブカデネザルに知らせてから、その夢の解き明かしをするように求めました。それは、もし夢がどのようなものであったかを先に教えれば、彼らはその場しのぎの解き明かしをするであろうという理由によっていました。9節には、 だから、どんな夢かを私に話せ。そうすれば、あなたがたがその解き明かしを私に示せるかどうか、私にわかるだろう。 というネブカデネザルのことばが記されています。そして、ネブカデネザルは、夢とその解き明かしを示すことができないなら、「呪法師、呪文師、呪術者、カルデヤ人」たちの手足を切り落とし、家族を滅ぼすと宣言しました。 「呪法師、呪文師、呪術者、カルデヤ人」たちにはそのようなことができないことが分かると、ネブカデネザルは「怒り、大いにたけり狂い、バビロンの知者をすべて滅ぼせと命じた」(12節)のです。 ダニエルはことの次第を聞いて、しばらくの猶予を得て、神さまに祈りました。19節には、 そのとき、夜の幻のうちにこの秘密がダニエルに啓示された と記されています。ダニエルは神さまをほめたたえ、ネブカデネザルの前に出て、ネブカデネザルが見た夢とその夢の解き明かしを告げました。 ネブカデネザルが見た夢については31節ー35節に、 王さま。あなたは一つの大きな像をご覧になりました。見よ。その像は巨大で、その輝きは常ならず、それがあなたの前に立っていました。その姿は恐ろしいものでした。その像は、頭は純金、胸と両腕とは銀、腹とももとは青銅、すねは鉄、足は一部が鉄、一部が粘土でした。あなたが見ておられるうちに、一つの石が人手によらずに切り出され、その像の鉄と粘土の足を打ち、これを打ち砕きました。そのとき、鉄も粘土も青銅も銀も金もみな共に砕けて、夏の麦打ち場のもみがらのようになり、風がそれを吹き払って、あとかたもなくなりました。そして、その像を打った石は大きな山となって全土に満ちました。 と記されています。 この後、ダニエルはこの夢の解き明かしをします。「頭は純金」と言われているのはネブカデネザル、すなわちバビロンを指していると言われています。その際に、ダニエルは、ネブカデネザルに「国と権威と力と光栄」を与えられたのは「天の神」であると言っています。つまり、神さまはネブカデネザルをも治めておられるということです。その後の国については、それがどの国であるかということは明確に示されていませんので、見方が分かれています。福音派の学者たちは、一般的に、「胸と両腕とは銀」と言われているのは、メディア・ペルシアを指しており、「腹とももとは青銅」と言われているのはギリシア、そして、最後の「すねは鉄、足は一部が鉄、一部が粘土」と言われているのはローマを指していると考えています。[注]そして、「人手によらずに切り出され」た「石」は、これらの帝国をさばいて滅ぼしてしまうと言われていますが、これはメシヤを王とする神の国、メシヤの国を指していると考えられます。 [注]批評的な学者はメディア・ペルシアを一つとしないで、胸と両腕とは銀」と言われているのは、メディア、「腹とももとは青銅」と言われているのはペルシア、「すねは鉄、足は一部が鉄、一部が粘土」と言われているのはギリシアを指していると考えています。ダニエルは、そのように国を特定することは意図していなかったと考える学者もいます。 2章38節には、 あなたはあの金の頭です というダニエルのことばが記されています。このように、バビロンのことが、その王であるネブカデネザルであると言われていることに合わせて言えば、「人手によらずに切り出され」た「石」は、メシヤすなわちイエス・キリストであるということになります。ルカの福音書20章18節には、 この石の上に落ちれば、だれでも粉々に砕け、またこの石が人の上に落ちれば、その人を粉みじんに飛び散らしてしまうのです。 というイエス・キリストの教えが記されています。続く19節には、イエス・キリストがご自身を「この石」にたとえておられることが示されています。 いずれにしましても、ダニエル書2章35節に、 その像を打った石は大きな山となって全土に満ちました。 と記されていますように、メシヤを王とする神の国が、とこしえの主権を確立するようになることが示されています。黙示録はまさにこのことを、より詳しく記しています。この意味で、ここに記されていることは、黙示録に記されていることと符合しています。 このように、ダニエルはネブカデネザルに、ネブカデネザルが見た夢とその解き明かしを告げるのですが、その際に、ダニエルがネブカデネザルに語ったことばの一部が、先ほど引用しました、2章28節、29節に記されています、 しかし、天に秘密をあらわすひとりの神がおられ、この方が終わりの日に起こることをネブカデネザル王に示されたのです。あなたの夢と、寝床であなたの頭に浮かんだ幻はこれです。王さま。あなたは寝床で、この後、何が起こるのかと思い巡らされましたが、秘密をあらわされる方が、後に起こることをあなたにお示しになったのです。 ということばです。 28節に出てくる「終わりの日に起こること」の七十人訳は、先ほど取り上げました黙示録1章1節と22章6節に出てくる「すぐに起こるはずの事」(「すぐに起こるべき事」)ということばや、4章1節に出てくる「これらのことの後に起こるはずの事」ということばと、同じような言い方です。これらの言い方に合わせて訳せば、「終わりの日に起こるはずの事」となります。「すぐに起こるはずの事」ということばとの違いは、「すぐに」に当たる部分が「終わりの日に」となっていることだけです。 これらのことから、黙示録1章1節と22章6節に出てくる「すぐに起こるはずの事」ということばや、4章1節に出てくる「これらのことの後に起こるはずの事」ということばは、ダニエル書2章28節の七十人訳に出てくる「終わりの日に起こるはずの事」を背景として記されていると考えられます。 そうしますと、ダニエルにとっては「終わりの日に起こるはずの事」という遠い先のことであったことが、黙示録を記しているヨハネにとっては「すぐに起こるはずの事」となっていることが分かります。ダニエル書2章に記されている、ネブカデネザルが夢を見たことは、1節に「ネブカデネザルの治世の第二年」と言われています。これは紀元前603/4年のことです。黙示録がいつ記されたのかについては意見が分かれています。遅いほうのドミティアヌス帝の時代であったとすれば、それは81年ー96年の間になります。そうしますと、ダニエルがネブカデネザルの夢の解き明かしをしたときに「終わりの日に起こるはずの事」とされていたことが、7百年ほど後にヨハネが黙示録を記したときには、「すぐに起こるはずの事」となっているのです。 けれども、このことの要点は、7百年ほど後という時間の長さにあるのではありません。このことの要点は、ヨハネが黙示録を記したときには、ダニエル書で「終わりの日に起こるはずの事」と預言的に言われていていることが、成就しているということにあります。 神さまが備えてくださり、旧約聖書において約束してくださっていた贖い主は、すでに、来てくださって、贖いの御業を成し遂げてくださっています。永遠の神の御子が人の性質を取って来てくださり、私たちと一つとなってくださり、十字架にかかって、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきを、私たちに代わって受けてくださいました。それによって、私たち主の契約の民の罪に対するさばきは終わっています。また、御子イエス・キリストは、その十字架の死に至るまで神さまのみこころに従い通したことに対する報いとして、栄光をお受けになり、死者の中からよみがえられました。そして、天において父なる神さまの右の座に着座されて、すべてのものを治めておられます。父なる神さまの右の座に着座しておられるイエス・キリストは、特に、私たちご自身の契約の民を、御霊によって治めてくださり、復活のいのちによって生きる者としてくださり、父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きる者としてくださっています。 これらのことは、すでに、御子イエス・キリストが私たち主の契約の民のために成し遂げてくださったことです。コロサイ人への手紙1章13節、14節に、 神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。 と記されていますように、私たちはすでに「愛する御子のご支配の中に移して」いただいています。神の国に入れていただいていて、それにかかわる祝福にあずかっているのです。 そして、終わりの日にはイエス・キリストが再臨されて、すべてのものを、神さまの義の尺度にしたがって、最終的におさばきになり、すべての罪と悪を取り除かれます。そればかりでなく、ご自身が十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いの御業に基づいて、新しい天と新しい地を創造してくださり、そこに御臨在される父なる神さまの栄光の御前に、私たちを住まわせてくださり、私たちを父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きる者としてくださって、私たちの救いを完成してくださいます。 これらすべてのための基礎は御子イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いの御業であり、それはすでに終わっています。ですから、終わりの日にイエス・キリストが再び来られて、すべてを完全に実現してくださることは、確かなことなのです。 このようなことを、黙示録では「すぐに起こるはずの事」ということばで表しています。約束の贖い主はすでに来てくださって、私たちご自身の民のために贖いの御業を成し遂げてくださっており、私たちを父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生かしてくださっています。そして、その贖いの御業に基づいて、確かに、私たちの救いを完全に実現してくださり完成へと至らせてくださいます。その意味で、このすべてが「すぐに起こるはずの事」であると言われているのです。 言い換えますと、「すぐに起こるはずの事」の「すぐに」ということは、すでに成就の時代に入っていて、贖い主による贖いの御業は成し遂げられ、その完成は確かなことになっているという「時代の性格」、「時代の特徴」を指し示しています。これは、私たちが時計を見てその長さを数えて「早い」とか「遅い」というのとは違います。 これは、聖書に記されている預言の特徴によることです。聖書に記されている預言にとっては、その時代がどのような時代であるかということに大切なことです。それが預言と約束の時代であるか、あるいは、成就の時代であるかということは、決定的に重要なことです。黙示録1章3節に、 この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。時が近づいているからである。 と記されていますように、黙示録は預言としての意味ももっています。しかし、それは古い契約の下での預言ではなく、すでに成就の時代になっていて、約束のメシヤによる贖いの御業が成し遂げられており、それに基づいてメシヤの御国の主権が確立していることが示されつつ、それが終わりの日における完成へと向かっていることが示されています。 このように、黙示録に記されていることはすべて、「すぐに起こるはずの事」としてまとめられますし、「すぐに起こるはずの事」として特徴づけられます。このことは、黙示録22章7節、12節に記されています、 見よ。わたしはすぐに来る。 というイエス・キリストのみことばが約束している、終わりの日にイエス・キリストが再臨されることにも、当てはまります。終わりの日のイエス・キリストの再臨も、「すぐに起こるはずの事」という枠の中に入っているのです。 |
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