先主日にはペルーへの宣教師であられる川崎 淳先生が、お働きのご報告とあかしをしてくださるためにいらしてくださり、説教も担当してくださいました。そのためにヨハネの黙示録からのお話はお休みしました。きょうは黙示録からのお話に戻ります。
これまで、1章1節に出てきます「すぐに起こるはずの事」ということばに関連して、いろいろなことをお話ししてきました。この「すぐに起こるはずの事」ということばは、黙示録に記されていることを要約するものです。それで、このことばの意味することについて、いろいろなことをお話ししてきました。その最後の問題として、この書の22章7節、12節、20節に記されています、
見よ。わたしはすぐに来る。
という栄光のキリストのみことばをどのように理解したらいいかということをお話ししています。基本的な問題は、イエス・キリストが、
見よ。わたしはすぐに来る。
と言われてから、2千年経った今日に至るまで、イエス・キリストの再臨はないということです。
これまで、この問題とのかかわりで、終わりの日にイエス・キリストが再臨されることについて、いろいろなことをお話してきました。その間に、東日本大震災が起こりました。それで、何回か、この大震災にかかわるお話をいたしました。前回と前々回は、大震災に関連するお話とのつながりで、ペテロの手紙第二・3章3節ー13節に記されています、終わりの日に関するペテロの教えについてお話ししました。きょうも、そのお話を続けます。
これまで、2回にわたって、3節ー9節に記されています、
まず第一に、次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、次のように言うでしょう。「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。父祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」こう言い張る彼らは、次のことを見落としています。すなわち、天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によって成ったのであって、当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。
しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。
と記されています、みことばを取り上げてお話ししました。
きょうは、前回お話ししたことの補足をしたいと思います。
前回は、8節、9節の、
しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。
というみことばの意味についてお話ししました。
しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。
ということばは、これによって導入されている、
主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。
ということが、とても大切なことであることを示しています。このことの根本には、無限、永遠、不変の神さまは、ご自身がお造りになったこの世界の時間の流れの中になく、この世界の時間の流れと、それにともなう変化が直接ご自身にかかわることはないという、いわば、哲学的あるいは神学的な事実があります。
そもそも、時間は神さまがお造りになったこの世界の時間であり、神さまがこの世界を時間とともに変化する世界としてお造りになったので、この世界では時間が流れているのです。決して、神さまが創造の御業を遂行される前から、つまり、まだこの世界が造り出されていないのに、時間だけが無機的に流れていて、あるとき神さまが創造の御業を開始されたということではないのです。創世記1章1節の、
初めに、神が天と地を創造した。
というみことばは、時間も含めて、この世界のすべてのものが、神さまによって創造されたということを示しています。その意味で、この「初めに」の「初め」は「絶対創造」の「初め」を意味しています。それが、この世界のすべてのものの「始まり」の時です。
神さまが、私たちの住んでいるこの世界を、時間とともに変化する世界としてお造りになったので、私たち人間を含めて、この世界の中にあるすべてのものは、時間とともに経過し、変化していきます。しかし、この世界をお造りになった神さまご自身は、この世界の中にある方ではありません。神さまはこの世界の時間の流れとともに経過し、変化していくような方ではありません。その意味で、神さまはこの世界を超越しておられます。
しかし、このこと、神さまがこの世界を超越しておられるということは、神さまがご自身のお造りになったこの世界と無関係に、超然としておられるということを意味してはいません。神さまはご自身がお造りになったこの世界とその中にあるすべてのものを、ご自身がそれぞれものにお与えになった特性を生かし、導き、支えておられます。この世界の中にあって、自ら変化してしまうものが、時の流れを越えて、この世界をいつまでも支え続けることはできません。ただ無限、永遠、不変の神さまだけが、この世界とその中のすべてのものを、それぞれの特性を生かしつつ、支え、導くことができるのです。
このこととの関連で、主のみことばを見てみたいと思います。エレミヤ書33章20節、21節には、
主はこう仰せられる。もし、あなたがたが、昼と結んだわたしの契約と、夜と結んだわたしの契約とを破ることができ、昼と夜とが定まった時に来ないようにすることができるなら、わたしのしもべダビデと結んだわたしの契約も破られ、彼には、その王座に着く子がいなくなり、わたしに仕えるレビ人の祭司たちとのわたしの契約も破られよう。
と記されており、25節、26節には、
主はこう仰せられる。「もしわたしが昼と夜とに契約を結ばず、天と地との諸法則をわたしが定めなかったのなら、わたしは、ヤコブの子孫と、わたしのしもべダビデの子孫とを退け、その子孫の中から、アブラハム、イサク、ヤコブの子孫を治める者を選ばないようなこともあろう。しかし、わたしは彼らの繁栄を元どおりにし、彼らをあわれむ。」
と記されています。
ここに記されています、契約の神である主のみことばは、主が真実な方であり、ご自身の民に与えてくださった契約の約束を必ず実現してくださるということを示してくださるために記されています。このみことばが記されたエレミヤの時代に、南王国ユダは契約の神である主を捨て、回りの国々の偶像を取り入れて礼拝していました。それにともない、社会も主の御前に腐敗し、堕落してしまっていました。そのために主の聖なる御怒りによるさばきが下され、ユダ王国はバビロニヤによって滅ぼされ、人々はバビロンへと捉え移されました。いわゆる「バビロンの捕囚」です。そのような、人の目から見ると絶望的な状態になったのですが、なおも神さまは、人の世界の現実がどのようであれ、ご自身が契約によって約束してくださったことを実現してくださると、エレミヤを通して啓示してくださったのです。
いまお話ししていることとの関連で注目したいのは、その際に主は、
もし、あなたがたが、昼と結んだわたしの契約と、夜と結んだわたしの契約とを破ることができ、昼と夜とが定まった時に来ないようにすることができるなら、
と言われました。これは「人にはそのようなことをすることができない」ということを踏まえています。さらにその奥においては、「昼と夜とが定まった時に来」るのは、神さまが昼と夜とに契約を結んでくださり、真実にそれを支え、保ち続けてくださっているからだということを示しています。
これに対して、「昼と夜とが定まった時に来」るのは、地球の自転によるのであって、別に神さまが昼と夜とに契約を結んでくださり、真実にそれを支え、保ち続けてくださっているからではないというようなことが言われます。昔の人々は、まだ科学的なことが分からなかったから、「神」を持ち出して説明したのだというのです。これは、古代の人々のことがよく分からないことをいいことにして、さげすむことであり、それゆえに自分が何ものであるかをわきまえず、神さまがどなたであるかを知らず、科学がどういうものであるかもよくわきまえていないための発言です。[注 最後の科学のことについては、私が記しました小冊子『信仰と科学』を見てください。]
地球が自転し、太陽の回りを公転するするようにお造りになったのは神さまです。すべての天体がどのように関係づけられるかをお定めになったのは、この世界の造り主である神さまです。神さまはそのようにお定めになっただけでなく、そのすべてを真実に支えてくださっています。このように、神さまが地球の自転や公転を支えてくださっています。神さまは天地創造の御業以来、変わることなく、倦むことなく、それを支え続けておられます。
主はそのことを真実になし続けてくださることを、契約において保証してくださっています。もちろん、夜や昼は人格的なものではありませんから、主も主のの契約を知りません。そうであっても、主は「昼と夜」に対して真実を尽くしてくださっています。[注 聖書が記された古代オリエントの文化の中では、契約は基本的に、双方が対等に合意して結ばれたのではなく、主権者の一方的な意思によって結ばれました。]このようにして、神さまが天地創造の御業の初めから、地球の自転や公転を真実に支え続けてくださっているので、私たち人間は、それを「法則」として捉えているのです。法則がこの世界のすべてのものを支えているのではありません。神さまが真実に、この世界のすべてのものを支え続けてくださっているので、人はそれを「法則」として捉えることができるのです。
25節に記されています、
もしわたしが昼と夜とに契約を結ばず、天と地との諸法則をわたしが定めなかったのなら
という契約の神である主のみことばも同じように理解されます。ここには、「天と地」ということばが出てきます。これはいろいろな機会にお話ししていますように、神さまがお造りになった「すべてのもの」を意味しています。今日のことばで言いますと「宇宙」に当たります。ここでは、神さまが、その「天と地との諸法則」を定められたということが示されています。それを神のかたちに造られた人は、この世界の「諸法則」として受け止めています。もちろん、これは、神さまが創造の御業において「天と地との諸法則」を定められたということだけでなく、その後も真実に、ご自身がお造りになったすべてのものを、十把一からげにではなく、大きなもの、小さなものにかかわりなく、一つ一つのものの特性を生かし、一つ一つを支え、導いてくださっていることを意味しています。
無限の神さまにとっては、この世界のどのようなものも、大きすぎることもなければ、小さすぎることもありません。神さまご自身にとっては、ご自身がお造りになったこの世界にあるものの、大きさの違い、すなわち「量的な違い」は、ご自身が、それらのものを支えたり、導いてくださるうえでの障害にはなりません。大宇宙が大きすぎて手に負えないとか、人が小さすぎて目に入らないということは、まったくないのです。ペテロの手紙第二・3章8節の、
主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。
というみことばは、時間的な面から、神さまとこの世界のことを取り扱っています。これを空間的な面から言いますと、主の御前には、大宇宙も、私たちのひとりのようであり、私たちのひとりも、大宇宙のようであるのです。
いずれにしましても、神さまが、ご自身のお造りになったすべてのものを、私たちの目から見て、大きなものも小さなものも、また大きなことも小さなことも、それぞれの特性を生かしながら、支え、導いてくださっています。それを神のかたちに造られた人は「法則」として受け止めています。神のかたちに造られた人は、造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったために、その「法則」が造り主である神さまから独立して成り立っているとしているのです。
さらに、神さまがこの世界を時間とともに変化する世界としてお造りになったということは、この世界がただ単に時間とともに移り変わり、経過していくという意味ではありません。神さまはこの世界を「実を結ぶ世界」としてお造りになりました。「実を結ぶ」といいますと、植物のことを思い出しますが、それも、神さまが植物を実を結ぶものとしてお造りになったからです。植物が実を結びことは、神さまがお造りになった「実を結ぶ世界」の現れです。私たちはこのことを比喩的に用いて、広い意味で「実を結ぶ」ことを理解しています。神さまは、この世界にある私たち人間の働きも、実を結ぶようにしてくださっています。
ヨハネの福音書12章24節には、
まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。
というイエス・キリストの教えが記されています。これは、この後の部分に記されていることから分かりますが、イエス・キリストが私たちの罪を贖ってくださり、私たちを死と滅びの中から救い出して、永遠のいのちに生きるようにしてくださるために、十字架にかかって死んでくださることを指しています。その意味で、このイエス・キリストの教えでは、「一粒の麦」すなわち種が「死ぬこと」が取り上げられていますが、それによって「豊かな実」が結ばれることが踏まえられています。
この世界が「実を結ぶ世界」であるということは、この世界はただ時間とともに変化していく世界ではなく、より大きな目的に向かって進んでいく世界であるということです。この世界の中にある一つ一つのものが、それぞれの存在に与えられている意味があり、価値があり、その意味と価値をより豊かに発揮し、現すようになるために、時間とともに変化していくということです。そのような意味で、私たちはこの世界を「歴史的な世界」と呼んでいます。何の目的も意味もないままに、ただ移り変わっていくだけのことは「歴史的」なこととは言えません。
この世界とその中にある一つ一つのものに意味があり、価値があるということは、最終的には、この世界を意味があり、価値がある世界としてお造りになった神さまとの関係におけることです。私たち人間もある目的をもっていろいろなものを造ります。そのように造られたものは、それを造った人の目的にしたがって、価値が決定されます。
詩篇19篇1節、2節には、
天は神の栄光を語り告げ、
大空は御手のわざを告げ知らせる。
という告白が記されています。
この世界のすべてのものは神さまの御手の作品であって、何らかの形で、造り主である神さまの愛といつくしみ、聖さと義、善さと美しさと真実さなど[注 これらを神さまの「属性」と呼びます。]を映し出すように造られています。それで、この世界のすべてのものには意味と価値があります。私たちはこのことを、「神さまがお造りになったすべてのものは、神さまの栄光を現している。」と言っています。
神さまががお造りになったこの世界が「実を結ぶ世界」であるということ、言い換えますと、歴史的な世界であるということは、この世界が歴史の流れとともに、造り主である神さまの栄光をより豊かに現すようになる世界としてお造りになったことを意味しています。
先ほど、神さまが、ご自身のお造りになったすべてのものを、私たちの目から見て、大きなものも小さなものも、また大きなことも小さなことも、それぞれの特性を生かしながら、支え、導いてくださっているということをお話ししました。それには、このような、造り主である神さまの栄光を現すためという面があるのです。
神さまは、すべてのものを、ご自身の愛といつくしみ、聖さと義、善さと美しさと真実さなどの特性を、何らかの形で、映し出すものとしてお造りになりました。たとえば、天体の運行は造り主である神さまの真実な御手のお支えを映し出し、あかししています。あるいは、地に棲む小さな虫も、そのいのちの営みをもって、造り主である神さまが生きておられる方であることを映し出し、あかししています。そして、言うまでもなく、神のかたちに造られた人は、被造物としての限界の中でではありますが、神さまが生きておられる人格的な方であられることを、映し出し、あかししています。
このように、神さまはこの世界にあるすべてのものをお造りになり、お造りになったそれぞれのものが、その特性を現わすように支えてくださり、導いてくださっています。それは、現状維持ということではなく、時間とともにそれが積み上がって、より豊かなものとなっていくように、支え、導いてくださっています。さまざまな植物は種から始まって、生長します。また、やがてその実を結ぶようになります。また、地に棲む小さな虫にも成長がありますし、子孫を生み出す形で、いのちを育んで、それを豊かにしようとします。神のかたちに造られた人も、からだが成長するだけでなく、人格的な資質においても成長し成熟していきます。さらに子どもを生んで、そのいのちを歴史的に継承するだけでなく、文化も歴史的に継承して、豊かにしようとします。
もちろん、草木や小さな虫は造り主である神さまを知りません。自分たちが神さまによって造られ、何らかの形で、神さま栄光を映し出すように造られていることを知りません。それを汲み取って、神さまに栄光を帰すのは、神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人です。人は草花や樹木や、虫や動物たちが、何らかの形で、造り主である神さまの栄光を現すものとして造られていることを汲み取るだけではありません。何よりも自分たちが、神のかたちに造られていて、造り主である神さまの愛とあわれみ、聖さと義、善さと美しさと真実さなどの人格的な特性を、自分たちの生き方を通して、意識的に、自覚して、現すように造られています。このようにして、神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人は、自分たちを含めて、この世界のすべてのものが、神さまの御手の作品であり、何らかの形で造り主である神さまの栄光を現していることをくみ取り、いっさいの栄光を神さまに帰して、神さまを礼拝することを中心として、歴史と文化を造る使命を委ねられています。造り主である神さまは、神のかたちに造られた人がこの歴史と文化を造る使命を果たすために、お造りになったすべてのものを真実に支え、導いてくださっている、という一面があります。
ペテロの手紙第二・3章8節に記されています、
主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。
というみことばは、このことにもかかわっています。
一般にはこの宇宙の年齢は、137億年であると理解されていますが、永遠の神さまにとっては、それは長すぎることはありません。天地創造の御業の時から、137億年後の今日まで、真実にお造りになったすべてのものを、それぞれの特性を生かしながら、支え、導いてこられました。すべては神さまの真実で、いつくしみ深い御手のわざです。
その一方で、長くても百歳くらいという、私たちそれぞれの寿命も、神さまにとっては短すぎることはありません。神さまは私たちの人世の行程において、あふれるほどの愛といつくしみと恵みを注いでくださっています。
特に贖いの御業においてはそうです。ローマ人への手紙8章32節には、
私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。
というパウロのことばが記されています。
この場合の「すべてのもの」については、二つの理解がありますが、おそらく、私たちを神の子どもとして完全に御子イエス・キリストの栄光にあずからせてくださるために必要な「すべてのもの」を指していると考えられます。もう一つの見方は、この「すべてのもの」は神の子どもたちが受け継ぐ「すべてのもの」、すなわち22節の「被造物全体」を指しているというものです。その場合には、終わりの日に完成する新しい天と新しい地をも視野に入れていることになります。神さまは、終わりの日に御子イエス・キリストが完成してくださる新しい天と新しい地を、私たち神の子どもたちに受け継がせてくださいます。
ここで、神さまが私たちに「恵んでくださ」ると言われている「すべてのもの」が、私たちを神の子どもとして完全に御子イエス・キリストの栄光にあずからせてくださるために必要な「すべてのもの」を意味しているとしても(そういう意味だと思われますが)、もしそのために全宇宙が必要であれば、それをも与えてくださるという意味です。何せ、神さまは私たちをご自身の子としてくださるために、「ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された」のですから。実際には、私たちの罪を贖い、私たちを死と滅びの中から救い出してくださるためには、永遠の神の御子である方のいのちの値が必要であって、そのために全宇宙を差し出したとしても、少しも間に合いません。
このように、神さまは「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡され」ました。そのことを通して、私たちそれぞれに注がれた神さまの愛といつくしみは、(私たちもこの宇宙に存在していますので、このような言い方になってしまいますが)一般的に見た宇宙全体に137億年かけて注がれてきた愛といつくしみに、はるかにまさるものであるはずです。
また、御子イエス・キリストが十字架に付けられてから死なれるまで、6時間が経過しました。イエス・キリストは今日の時間で言いますと、午前9時頃十字架につけられ、午後3時に息を引き取られました。しかし、その6時間において、父なる神さまの無限、永遠、不変の愛が、この上なく豊かに示されました。それは全人類が、特に、主の十字架の死によって罪を贖っていただいた神の子どもたちが、今日に至るまでの2千年の間、さまざまな形で現してきた愛といつくしみを、すべて積み上げたとしても、いや、新しい天と新しい地において神の子どもたちが現すであろう愛といつくしみをも加えて、すべて積み上げたとしても、比較にもならないほどの愛であり、いつくしみです。そのような比類なき愛が、御子イエス・キリストにあって、私たちそれぞれの生涯において、常に注がれています。それで、私たちが御子イエス・キリストにあって、神の子どもとして歩むことは、私たちの生涯を、比類なき愛と恵みに満ちた、まことに豊かな「神さまの恵みのあふれる時」とすることになります。
私たちはこのようなことから、詩篇84篇10節に記されています、
まことに、あなたの大庭にいる一日は
千日にまさります。
という詩人の告白を理解することができます。神さまとの愛の交わりのうちにあって、その豊かな愛と恵みに包んでいただいている「一日」は、そうでない「千日」にまさります。
神さまはこの世界を歴史的な世界としてお造りになりました。それは、神さまがこの世界の時間を、ご自身の愛といつくしみを真実にお造りになったすべてのものに、特に神のかたちに造られた人に注いでくださる時としてくださっていることを意味しています。
その意味では、神のかたちに造られた人に委ねられた歴史と文化を造る使命を果たすことは、私たちに与えられている時を、造り主である神さまの愛といつくしみの御手のお働きを汲み取る時、それを汲み取って神さまを造り主として礼拝する時とすることです。それは、また、私たちにとっては、この、御子イエス・キリストにある、比類なき神さまの愛と恵みを受け止める時とすることでもあります。
|