黙示録講解

(第30回)


説教日:2011年5月22日
聖書箇所:ヨハネの黙示録1章1節ー8節
説教題:すぐに起こるはずの事を(28)


 先週は春の特別集会をもちましたので、ヨハネの黙示録からのお話は中断しました。きょうは黙示録からのお話に戻りたいと思います。
 これまで1章1節に出てきます「すぐに起こるはずの事」について、いろいろなことをお話ししてきました。その最後の問題として、この書の22章7節、12節、20節に記されています、

 見よ。わたしはすぐに来る。

という栄光のキリストのみことばをどのように理解したらいいかということをお話ししています。
 これまで、この問題とのかかわりで、終わりの日にイエス・キリストが再臨されることについて、いろいろなことをお話してきました。そのお話をまとめようと思っていた矢先に、東日本大震災が起こりました。それで、急遽、この大震災にかかわるお話をすることにしました。それも、終わりの日に関する黙示録の預言のみことばと関連がないわけではありませんので、「すぐに起こるはずの事」についてのお話の続きとして、お話ししてきました。
 前回は大震災に関連するお話との関連もありまして、ペテロの手紙第二・3章に記されています終わりの日に関するペテロの教えについてお話を始めました。前回取り上げましたのは、3節ー7節に記されている教えです。そこには、

まず第一に、次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、次のように言うでしょう。「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。父祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」こう言い張る彼らは、次のことを見落としています。すなわち、天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によって成ったのであって、当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。

と記されています。
 きょうは、これに続く、8節ー13節に記されている教えを取り上げたいと思います。そこには、

しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。

と記されています。
 きょうは、この初めの部分を取り上げます。


 8節に記されています、

 主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。

という教えは、詩篇90篇4節に記されています、

 まことに、あなたの目には、
 千年も、きのうのように過ぎ去り、
 夜回りのひとときのようです。

というみことばに基づくものであることが、広く認められています。
 この詩篇90篇4節のみことばは、その前の2節で、

 山々が生まれる前から、
 あなたが地と世界とを生み出す前から、
 まことに、とこしえからとこしえまで
 あなたは神です。

と言われていますように、神さまが永遠に存在される方であられることを受けています。そして、その4節に続く5節、6節に、

 あなたが人を押し流すと、
 彼らは、眠りにおちます。
 朝、彼らは移ろう草のようです。
 朝は、花を咲かせているが、また移ろい、
 夕べには、しおれて枯れます。

と記されていますように、永遠に存在される主の御前に、人は「移ろう草のよう」にはかないものであることが示されています。
 しかし、それだけではありません。4節のみことばの直前の3節には、

 あなたは人をちりに帰らせて言われます。
 「人の子らよ、帰れ。」

と記されています。これは、神のかたちに造られた人が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことを受けて、主が宣言されたさばきのみことばを記している、創世記3章19節に、

 あなたは、顔に汗を流して糧を得、
 ついに、あなたは土に帰る。
 あなたはそこから取られたのだから。
 あなたはちりだから、
 ちりに帰らなければならない。

と記されていることを受けています。さらに、詩篇90篇ですが、7節ー9節には、

 まことに、私たちは
 あなたの御怒りによって消えうせ、
 あなたの激しい憤りにおじ惑います。
 あなたは私たちの不義を御前に、
 私たちの秘めごとを御顔の光の中に置かれます。
 まことに、私たちのすべての日は
 あなたの激しい怒りの中に沈み行き、
 私たちは自分の齢をひと息のように終わらせます。

と記されています。私たちのいのちのはかなさは、私たち自身の罪に対する主の御怒りによるさばきによることが明らかにされています。
 けれども、それで終わるのでもありません。12節に、

 それゆえ、私たちに
 自分の日を正しく数えることを教えてください。
 そうして私たちに
 知恵の心を得させてください。

と記されていますように、私たちは主の御前における私たち自身の罪とその結果である死の現実をしっかりと心に留めて、知恵深く生きるべきことが示されています。そして、続く13節、14節に、

 帰って来てください。
 よ。いつまでこのようなのですか。
 あなたのしもべらを、あわれんでください。
 どうか、朝には、あなたの恵みで
 私たちを満ち足らせ、
 私たちのすべての日に、喜び歌い、
 楽しむようにしてください。

と記されていますように、主の恵みとあわれみを求めるように導かれています。
 もちろん、このことの根底には、主がその一方的な愛とあわれみによって、私たちのために罪の贖いを備えてくださっており、恵みによって私たちをそれにあずからせてくださるという、福音のみことばに示されている事実があります。
 神さまがその一方的な愛とあわれみによって、私たちのために罪の贖いを備えてくださっていないのであれば、私たちが自らのいのちのはかなさを嘆いてみても、それは空しい嘆きでしかありません。また、自分の罪の現実を認めても、そこから希望は生まれてはきません。さらに、自分の罪が絶対的に聖く義であられる神さまによってさばかれるべきものであることを知っても、そこには絶望と恐怖しか生まれてきません。
 あるいは、神さまが私たちのために救いを備えてくださっても、私たちが絶対的に聖く義であられる神さまの目にかなう善行を積んで、救いを獲得しなければならないのであれば、罪ある私たちに望みはありません。
 ただ神さまがその一方的な愛と恵みによって備えてくださった罪の贖いによる救いだけが、本性が罪によって汚れており、実際に罪を犯してしまう私たちに救いをもたらし、私たちのうちに望みを生み出します。
 実際に、聖書に記されています福音のみことばにあかしされていますように、神さまはご自身の御子を贖い主として立ててくださいました。御子イエス・キリストは父なる神さまのみこころにしたがって、罪を除いてのことですが、私たちと同じ人の性質を取って来てくださいました。そして、私たちの罪をその身に負って、十字架におかかりになり、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによる刑罰を、私たちに代わって受けてくださいました。神さまは、このようにして、御子によって成し遂げてくださった罪の贖いを、まったくの恵みによって私たちに与えてくださいました。私たちはそれを信仰によって受け取っただけでした。それだけで、神さまは御子イエス・キリストによって成し遂げてくださった罪の贖いを私たちに当てはめてくださり、私たちの罪を贖い、私たちの罪を赦してくださり、私たちを罪の結果である死と滅びの中から贖い出してくださいました。
 このように、詩篇90篇は、ただ、神さまが永遠の存在であられるのに対して、人間ははかないものであるということを述べているだけではありません。とこしえからとこしえまで神であられる主は、絶対的に聖く義であられると同時に、限りない愛とあわれみと恵みの主であられることが踏まえられています。それで、この詩篇は1節の、

 主よ。あなたは代々にわたって
 私たちの住まいです。

という告白で始まっているのです。私たちはとこしえに主とともに住まい、主との交わりのうちに生きることが、この詩篇の基調となっています。主が永遠なる方であられることが、このような意味をもっています。

 詩篇90篇をこのように理解することは、ペテロの手紙第二・3章8節に記されています、

 主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。

という教えの理解にとっても大切なことです。[注]


[注]この教えにつきましては二つの理解があります。一つは、これがその前の7節に、

しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。

と記されていることを受けて、主のさばきの期間が「千年」であるということを示しているという理解です。これは、その当時のユダヤ教のラビたちの教えなどに基づいて論じられています。
 けれども、8節は「しかし」(デ)という接続詞で始まっていますから、7節に述べられていることをさらに詳しく説明しているとは考えられません。さらに、この教えは、

愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。

ということばで導入されていますから、極めて重要なことを述べているはずです。けれども、この理解が示す、主のさばきの期間が「千年」であるということは、

 キリストの来臨の約束はどこにあるのか。

という、あざける者たちのあざけりに答えるものではありません。
 これらのことから、この理解は退けられるべきであると考えられます。実際、大多数の人々はもう一つの理解を取っています。そのようなわけで、ここではもう一つの理解に基づいてお話を進めていきます。


 主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。

という教えは、主が永遠の存在であり、ご自身が造られた世界の時間を超越した方であられることを踏まえています。私たち人間は時間とともに変化するこの世界に属しています。その私たちにとっては、1日と千年の間には大変な違いがあります。また、私たちは1日1日を生きていくほかはないものであって、この日を飛び越えて明日に生きることさえできません。さらに、先ほどは引用しませんでしたが、詩篇90篇10節に、

 私たちの齢は七十年。
 健やかであっても八十年。
 しかも、その誇りとするところは
 労苦とわざわいです。
 それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。

と記されていますように、私たちは地上の生涯において、主によって定められた「」を越えて、千年もの間生きることはできません。しかし、永遠の神であられる主にとっては、この時間とともに変化する世界の時間の流れが、ご自身に直接的にかかわることはありません。主にとっては、この世界の1日が短すぎることもなければ、千年が長すぎることもありません。あるいは、たとえ千年であっても主にとっては短いからといって、1日が短すぎるということもありません。
 このことは神さまの御業にも当てはまります。全能の神である主は、一瞬のうちに、この大宇宙に相当する世界をお造りになることがおできになります。その御業のためには、1日が短すぎるということはありません。
 もちろん、実際には、創世記1章に記されていますように、神さまの創造の御業は、創造の御業の6日にわたってなされました。その意味で、創造の御業は徐々に遂行されました。それは、神さまが、ご自身がお造りになったこの世界に合わせて、御業を遂行されたからです。神さまは最初にお造りになったものをもとにして、それらをさらに整える形で、創造の御業を遂行されました。その際に、神さまはすでにお造りになったものの特性を生かす形で、次の御業を遂行しておられます。それで、創造の御業は、徐々に進められる形を取っています。
 このことは、創造の御業だけでなく、私たちをも含めて、神さまがお造りになったこの世界のすべてのものを支え、導いておられる摂理の御業にも当てはまります。神さまはお造りになったすべてを、それぞれの特性を生かす形で支え、導いてくださる御業をなさっておられます。神さまはこの世界を時間とともに変化する世界としてお造りになりました。それで、ご自身がお造りになったこの世界の変化を生かしておられますし、私たちの成長を真実に支えてくださっています。ですから、神さまの摂理の御業は徐々になされていますし、私たちにもそのように感じられます。
 いずれにしましても、永遠の神であられる主にとっては、ご自身がお造りになったこの世界の「一日は千年のようであり、千年は一日のようです。
 しかし、このことは、ここに記されている、ペテロの教えの根底にあることであり、いわば、当然のこととして踏まえられていることです。ここでペテロが伝えようとしていることは、さらにその先にあると考えられます。

 8節で、

 主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。

と言われていることは、続く、9節において、

主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。

と記されていることとのつながりで理解する必要があります。
 ここで「ある人たちがおそいと思っている」というのは、イエス・キリストの再臨のことです。その「ある人たち」は、イエス・キリストが再び来られることが遅れていると思っていたのです。[注]


[注]3節に記されているあざける人たちは、

キリストの来臨の約束はどこにあるのか。父祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。

と言ってあざけっています。これは、前回お話ししましたように、イエス・キリストの再臨そのものを否定していると考えられます。それで、この3節の「あざける者ども」と9節の「ある人たち」は必ずしも同じ人たちであるわけではありません。


 この人々は時間の流れ、時間の経過だけを考えて、遅いとか早いとか判断しています。これは、時間が無機的に流れるものであるという、時間の理解に基づくものです。しかし時間は、神さまがお造りになったこの世界の時間です。神さまがこの世界をお造りにならなかったら、時間はありませんでした。この世界がないのに、時間だけが無機的に流れているということはありません。天地創造の御業の御業の前に時間が無機的に流れていて、その流れの仲のあるときに創造の御業が始まったということではないのです。時間は創造の御業とともに始まりました。
 そうであるとしますと、本来、時間は、神さまがお造りになったこの世界の豊かさと深く結びついています。神さまは創造の御業の6日にわたって、この世界を明るく、暖かく、いのちに満ち溢れた世界としてお造りになりました。イザヤ書45章18節に記されているみことばに沿って言いますと、神さまはこの地を「人の住みかに」形造られました。そのために神さまは、明るく、暖かく、いのちにあふれ、、実を豊かに結ぶ世界をお造りになったのです。人が種を蒔けば、芽を出し、生長し、実を結ぶに至ります。それによって、さらに生き物たちのいのちが育まれます。そのような創造の御業が遂行された間にに流れた時間は、神さまが神のかたちに造られた人のために、明るく、暖かく、いのちにあふれ、豊かな実を結ぶ世界をお造りになった時間として、深く豊かな意味をもっていました。決して、神さまの愛と恵みといつくしみに満ちた御業と無関係に、無機的な時間が流れていたのではありません。
 このことは、神さまの創造の御業の完成をもって終わってしまって、その後は無機的な時間が流れているのではありません。創造の御業以来、今日に至るまで、神さまの愛といつくしみに満ちた、まことに深く豊かな意味をもった時間が流れています。
 それなのに、どうして人は、時間は無機的に流れていくものであると感じてしまうのでしょうか。
 問題は、人が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落しまったことにあります。心が神さまから離れてしまっている人は、時間の流れを造り主である神さまと無関係なものであるかのように感じ取っています。そのために、時間が無機的なもので、ただ流れているだけのものであるかのように感じ取っているのです。
 しかし、実際には、先ほどお話ししましたように、神さまは、ご自身がお造りになったすべてのものの、それぞれに寄り添うようにして、それぞれの特性を生かし、支え導いておられます。マタイの福音書5章45節に記されています、

天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださる

というイエス・キリストの教えに示されていますように、神さまはご自身に対して罪を犯している人間に対しても、なお、その愛とあわれみを示してくださっています。そのような神さまの愛とあわれみが、太陽が上り、また沈むという時の流れの中に示されています。ただし、罪を犯している人は、造り主である神さまも、神さまの愛とあわれみも認めることはありません。[注]


[注]神のかたちに造られた人は、神さまがお造りになったこの世界の時間が、神さまの愛といつくしみに満ちた時間としての意味をもっていることを汲み取る能力を与えられています。それで、人は、ある時を「種蒔き」の時あるいは「刈り入れ」の時(創世記8章22節参照)、さらには、「ぶどうの季節」、「渡り鳥の季節」などとして認識しています。けれども、神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまっている人は、このような豊かな意味をもった時の流れを、造り主である神さまと結びつけて理解しようとはしません。


 神さまがお造りになったこの世界の時間の、このような特性を念頭に置きますと、9節で、

主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。

と言われていることは、今が、神さまの愛とあわれみによる「忍耐の時」であることが分かります。また、コリント人への手紙第二・6章2節に、

神は言われます。
 「わたしは、恵みの時にあなたに答え、
 救いの日にあなたを助けた。」
確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。

と記されていますように、「今は恵みの時、今は救いの日です」。
 そうしますと、ここには、無機的に流れて行くと感じられる時間の尺度で受け止められた「遅い」とか「早い」ということとは違う、時間の流れがあることが分かります。
 私たち主の民は自分たちの置かれた状況の厳しさから、主の再臨が遅いと感じてしまうかもしれません。あるいは、さまざまな形で受ける迫害に対して、復讐心を燃やして、主が早く来てくださればよいのにと、考えてしまうようなことさえあるかもしれません。そのように感じているとしたら、御子イエス・キリストによる贖いの御業の完成の時からの2千年の時の流れは、再臨の遅れの時と感じられることでしょう。
 しかし、私たちが、これまでの時は主の忍耐の時であり、「恵みの時」、「救いの日」であったということを心底受け止めているとしたら、これまでの2千年の時を再臨が遅れていることの現れというようには感じられないことでしょう。
 無機的に時間の流れを測って判断している人にとっては、2千年の時は長すぎると感じられることでしょう。しかし、「ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられる」愛とあわれみの主の御前には、この2千年の時は、決して長すぎる時ではなく、まさに1日のようであるのです。
 私たちは、この2千年の時の流れの中に、神さまの忍耐の深さ、「ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられる」という、神さまの愛と恵みの深さと熱心さを感じ取るほかはありません。そして、そのような、神さまの限りない愛とあわれみと、永遠の神の御子イエス・キリストにある恵みに満ちた時の流れにあっては、その「ひと時」、「ひと時」が量的に測ることができない重さをもっていると考えられます。そうしますと、永遠の神の御子イエス・キリストにある神さまの無限の愛と恵みに満ちた時の流れにあっては、量的に測られたときの「1日」と「千年」の違いを越えた、いわば無限とも思える重みをもっている「神さまの時」があるのでしょう。そして私たちは、そのような極めて豊かな意味をもった「神さまの時」に、福音のみことばを悟り、御子イエス・キリストにある神さまの贖いの恵みにあずかったのではないでしょうか。


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