黙示録講解

(第29回)


説教日:2011年5月8日
聖書箇所:ヨハネの黙示録1章1節ー8節
説教題:すぐに起こるはずの事を(27)


 きょうも3月11日に起こりました東日本大震災に関連するお話を続けます。そして、そこからヨハネの黙示録1章1節に記されています「すぐに起こるはずの事」にかかわる問題について、すでにお話ししてきたお話へと移っていきたいと思います。
 私たちは、大震災の被害の甚大さを目の当たりにしてたじろぎつつも、この大震災をみことばの光の下で受け止めなければならないことを覚えさせられてきました。それは、私たちがこの世界のすべてのものの造り主であり、お造りになったすべてのものを、今に至るまで真実に支え続けておられる神さまの御前に、ひれ伏して礼拝するとともに、被災地の方々、特に、すべての聖徒たちのために執り成し続けるためのことです。
 そのようなわけで、大震災の後には、それにかかわるお話を続けてまいりました。それはまた、この大震災のことをみことばの光の下で受け止めるなら、私たちの思いが、黙示録に示されているます、終わりの日におけるイエス・キリストの再臨に向けられることになるからでもありました。
 先主日は、ノアの時代の大洪水によるさばきのことを取り上げました。このようなときに大洪水によるさばきのことを取り上げることには抵抗があるかもしれません。しかし、これには一つの目的がありました。それは、あの大洪水によるさばきが執行された恐ろしい時代の中にあって、主とともに歩み続け、主のみことばにしたがって箱舟を造り、実際に、大洪水によるさばきから救われたノアの姿勢から学びたかったからです。
 そのために私たちが注目したのは、箱舟から出てきたノアがまず第一にしたことを記している創世記8章20節に、

ノアは、のために祭壇を築き、すべてのきよい家畜と、すべてのきよい鳥のうちから幾つかを選び取って、祭壇の上で全焼のいけにえをささげた。

と記されているということでした。これにはいくつかのことがかかわっていますが、先週注目したことは、ノアがささげた全焼のいけにえは、主がご自身の民の罪を贖ってくださるために備えてくださったものであるということでした。ノアがこのような意味をもっている全焼のいけにえをささげたことは、ノアが自分は罪あるものであり、罪を犯しているものであることを自覚していたことを意味しています。自分も外の人々と同じように、主のさばきを受けて滅びなくてはならないものであることを知っていたということです。
 ノアとその他の同時代の人々を区別していたのは、ノアが主と主の恵みを信じて、それに頼っていたのに対し、同時代の人々は、主を信じてはいなかったということです。そのことは、先週取り上げました、ノアの時代の洪水によるさばきが執行される前の状況を記している6章5節ー8節に記されていることから分かります。
 5節ー7節には、

は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。それでは、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。そしては仰せられた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。」

と記されています。ここには、人類の罪による本性の腐敗が極まってしまったことと、罪を極まらせた人類に対して、主がさばきを執行されることを決意されたことが記されています。そして、これに続く8節には、

 しかし、ノアは、の心にかなっていた。

と記されています。これは、直訳調に訳しますと、

 しかし、ノアはの御目の中に恵みを見出した。

となります。ノアは主の恵みとあわれみを信じ、それにより頼んでいたのです。ですから、ノアは、主がその一方的な愛と恵みによって備えてくださった救いを信じ、主のみことばにしたがって箱舟を建造し、実際にその箱舟に入ることによって救いにあずかりました。ノアは、決してそのことで誇ことはできません。なぜなら、ノアは自分のよさによって救われたのではなく、ただ主の恵みによって救いにあずかっているからです。そのことはノア自身が最もよく知っていたことでした。そのことが、箱舟から出てきたノアがまず主のための祭壇を築いて、全焼のいけにえをささげたことに現れています。
 主は罪ある者を救うために罪の贖いを備えてくださり、その恵みを信じてより頼む者の罪を贖ってくださり、救ってくださるのです。ローマ人への手紙3章23節、24節に、

すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。

と記されているとおりです。
 私たちも自らのうちに罪を宿しているものでありながら、ただ主の恵みによって罪を贖っていただいているものです。この度の大震災の報に接して、主の御臨在の御前にひれ伏して礼拝し、その恵みを信頼しつつすべての聖徒のために執り成し祈り続けたいと思います。


 ノアが主にささげた全焼のいけにえを初めとして、古い契約の下で主が備えてくださった動物のいけにえは、やがて主が備えてくださる完全な罪の贖いのためのいけにえを指し示す「地上的なひな型」でした。神のかたちに造られた人は人格的な存在であり、神のかたちとしての栄光と尊厳性が与えられています。これに対して、動物はそのような栄光と尊厳性を与えられていません。ですから、動物の血が神のかたちに造られた人の罪をきよめることはできないことは明白なことです。ヘブル人への手紙10章4節に、

雄牛とやぎの血は、罪を除くことができません。

と記されているとおりです。その「地上的なひな型」である動物のいけにえが指し示していたのは、人となって来てくださった永遠の神の御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いです。ヘブル人への手紙10章10節には、

このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。

と記されており、14節には、

キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。

と記されています。
 ノアがささげた全焼のいけにえが古い契約の下にある「地上的なひな型」であっただけではありません。ノアの時代に執行された大洪水によるさばきも、古い契約の下にある「地上的なひな型」でした。それは、やがて来たるべき世の終わりになされるさばきを指し示す「地上的なひな型」でした。
 神さまは創造の御業によって、この世界を歴史的な世界としてお造りになりました。そして、人を神のかたちにお造りになって、この世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになりました。人は、自分に与えられた賜物としてのさまざまな能力を用いて、造り主である神さまのみこころに従って、この世界の歴史と文化を造るようにと使命を与えられました。それで、人は、必ず、何らかの歴史と文化を造ります。それに対して、神さまは、人がどのような歴史と文化を造るかを評価されます。その意味での評価の時は、人が神さまに対して罪を犯して、御前に堕落していても、していなくても、必ずあるはずです。
 人は愛を本質的な特性とする神のかたちに造られています。それで人はその愛の特性を発揮して、歴史と文化を造るはずでした。それが神さまのみこころに従うことでもあります。このようにして、本来、人が造る歴史と文化は、神さまの愛といつくしみに満ちた栄光を現す歴史と文化でした。しかし、実際には、人は神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまいました。そのために、人は神さまのみこころに従って歴史と文化を造る使命を果たすことはなくなってしまいました。かえって、自らの罪の本質的な特性である自己中心性を表現する歴史と文化を造ってしまうものになってしまいました。
 神さまはこれまでの人類の歴史の中でただ一度だけ、ご自身に対して罪を犯して、御前に堕落してしまった人類が、その罪による本性の腐敗を極まらせてしまうままにされました。それが先ほど引用しました、創世記6章5節に、

は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。

と記されている状況です。
 そして、このような状況を生み出してしまった人類を大洪水によっておさばきになりました。これは、その時代だけでなく、そのような時代に至るまでの人類の歴史と文化全体をおさばきになることです。その意味で、これは終末的なさばきでした。しかし、この終末的なさばきも、古い契約の下における「地上的なひな型」でした。主はこの「地上的なひな型」によって、終わりの日における最終的なさばきがあることを指し示しておられます。

 このことを踏まえて、ペテロの手紙第二・3章に記されています、終わりの日に関する教えを見てみたいと思います。
 3節ー7節には、

まず第一に、次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、次のように言うでしょう。「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。父祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」こう言い張る彼らは、次のことを見落としています。すなわち、天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によって成ったのであって、当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。

と記されています。
 3節に、

まず第一に、次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、

と記されていることは、使徒たちが警告していたことでした。ユダの手紙17節、18節に、

愛する人々よ。私たちの主イエス・キリストの使徒たちが、前もって語ったことばを思い起こしてください。彼らはあなたがたにこう言いました。「終わりの時には、自分の不敬虔な欲望のままにふるまう、あざける者どもが現れる。」

と記されているとおりです。
 ペテロの手紙第二では、ここに出てくる「あざける者ども」とは、基本的には、2章1節に、

しかし、イスラエルの中には、にせ預言者も出ました。同じように、あなたがたの中にも、にせ教師が現れるようになります。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを買い取ってくださった主を否定するようなことさえして、自分たちの身にすみやかな滅びを招いています。

と警告されている「にせ教師」たちのことであると考えられています。それとともに、ここではその「にせ教師」たちの教えにしたがっている人たちをも含めてのことであると考えられます。引用はしませんが、テモテへの手紙第二・4章2節ー4節に記されていますように、人々がにせ教師たちを歓迎することもあるのです。
 ペテロの手紙第二・3章3節では「あざける者どもがやって来てあざけり」と言われています。これは、直訳では「あざける者どもがあざけりとともにやって来る」ということで、その人々があざけることを強調しています。徹底的なあざけりがなされるということです。その人々があざけるのは、これに先立つ2節に、

それは、聖なる預言者たちによって前もって語られたみことばと、あなたがたの使徒たちが語った、主であり救い主である方の命令とを思い起こさせるためなのです。

と記されていることから分かりますように、古い契約の下で預言した「聖なる預言者たち」と「使徒たち」が語った教えのことです。それは「主であり救い主である方の命令」と言われています。3節、4節に記されていることから、それは終わりの日に関する教えで、特に、今の生き方にかかわる教えのことであると考えられます。
 3節で、

終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、

と言われているときの「欲望」と訳されたことば(エピスミア)自体はよい意味での欲望も悪い欲望も表しますが、ここでは悪い欲望のことです。
 4節には、

次のように言うでしょう。「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。父祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」

と記されています。ここで言われている「父祖たち」が誰のことを指しているのかが問題となっています。
 近年の注解者のほとんどが、この「父祖たち」は、第一世代のクリスチャンたちのことであると考えています。そして、このあざける者たちは、イエス・キリストや使徒たちがイエス・キリストの再臨はその第一世代の者たちが生きている時代にあると教えていたのに、それが起こっていないということをあざけっていると言うのです。
 まず、一つの注釈をしておきます。しばしば、イエス・キリストや使徒たちが、第一世代のクリスチャンたちが生きている間にイエス・キリストの再臨があると教えていた、あるいはそのように信じていたと言われます。しかしそれは、イエス・キリストや使徒たちの教えについての一つの解釈に基づくことです。それについては別の解釈をすることができます。その点につきましては、この黙示録についてのお話の中でお話ししましたいくつかのことからもお分かりのことと思います。
 いずれにしましても、この「父祖たち」は、第一世代のクリスチャンたちのことであるという理解はいくつかの理由によって、退けられるべきであると思います。
 まず、新約聖書の中では「父祖たち」ということばは、基本的に、旧約の「父祖たち」を意味しています(ヨハネの福音書6章31節、7章22節、使徒の働き3章13節、13章32節、36節、ローマ人への手紙9章5節、ヘブル人への手紙1章1節など)。
 また、先ほど触れました2節から、あざける者たちが否定することの中に「聖なる預言者たちによって前もって語られたみことば」があると考えられます。これは、先ほどお話ししましたように、旧約の預言者たちの教えのことです。
 さらに、もしこの「父祖たち」が第一世代のクリスチャンたちのことであるという理解が正しいとしますと、あざける者たちは、イエス・キリストの再臨の日がいつであるかについてのイエス・キリストや使徒たちの教えが間違っていると主張していることになります。それは、必ずしも、イエス・キリストの再臨そのものを否定することではありません。
 けれども、あざける者たちは「何事も創造の初めからのままではないか」というように、創造の御業の初めにまでさかのぼり、人類の歴史全体を視野に入れて、自分たちの主張を補強しようとしています。これは、実質的には、神さまがこの世界に超自然的に介入されることはないと主張することです。それで、あざける者たちは、特に、終わりの日におけるイエス・キリストの再臨そのものを否定していると考えられます。
 このことと関連して、あざける者たちが「自分たちの欲望に従って生活」すると言われていることに注目したいと思います。あざける者たちが終わりの日におけるイエス・キリストの再臨を否定していることが、「自分たちの欲望に従って生活」する生き方を生み出しているということになります。
 これらのことから、ここで言われている「父祖たち」は旧約の「父祖たち」を指していると考えられます。そうしますと、このあざける者たちは、「父祖たちが眠った時からこのかた」長い時間が経っているけれども、この世界には何ら変わりがないということから、神さまの超自然的な介入を否定していると考えられます。そして、それを論拠として、イエス・キリストの再臨そのものを否定していると考えられます。
 このようなあざける者たちの主張に対して、5節、6節には、

こう言い張る彼らは、次のことを見落としています。すなわち、天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によって成ったのであって、当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。

と記されています。[注]

 [注]
こう言い張る彼らは、次のことを見落としています。

と訳されている部分は、新国際訳(NIV)のように、

 彼らは意図的に次のことを忘れています。

と訳すこともできます。また、

天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によって成った

と訳されている部分も、新国際訳(NIV)のように、

古い昔に神のことばによって、天は存在するようになり、地は水から出て、水によって成った

と訳すこともできます。ギリシャ語本分で最後に置かれている「神のことばによって」が強調のためであるとしますと、これは天と地のどちらの創造にもかかる可能性があります。

 ここで、ペテロは神さまの創造の御業と、ノアの時代の大洪水によるさばきのことを取り上げています。これがあざける者たちの主張の問題点を指摘するためのものであるということも、あざける者たちの主張の要点が、イエス・キリストの再臨が第一世代のクリスチャンたちの時代に起こらなかったという問題ではなかったということを示唆しています。
 この5節、6節に記されていることで大切なことは、「神のことばによって」と「同じみことばによって」と言われていることです。創造の御業における神さまのみことばは、神さまのご意思の発動です。それはこの世界のすべてのものを造り出した、力あるみことばです。神さまがそのみことばによってこの世界を造り出されたことは、神さまが単なるエネルギーのような存在ではなく、明確なご自身の意思をもっておられる人格的な方であられることを意味しています。そして、ここでは、神さまが同じ力あるみことばをもって、万物を保っておられることも示されています。
 このように、神さまは人格的な方であり、常に、ご自身がお造りになったものとかかわっておられます。ご自身がお造りになったものの特性を生かし、その一つ一つを支え、導いておられるのです。神さまはこのようなお方ですので、ご自身がよしとされるなら、通常とは違った形で、お造りになったものにかかわることもおできになります。
 ここでは、そのことが最も基本的なこととして、示されていますが、あざける者たちは、このことを無視しているのです。
 ペテロの手紙第二・3章5節では、この最も基本的なことの上に立って、まず、神さまの創造の御業の初めのことに触れています。ここでは、

地は神のことばによって水から出て、水によって成ったのであって

と言われています。これはまず創世記1章2節に、

地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。

と記されていることを受けています。最初に造り出された状態の地は「大水」に覆われていました。そして、

 地は神のことばによって水から出て

ということは、創世記1章9節に、

神は仰せられた。「天の下の水が一所に集まれ。かわいた所が現れよ。」そのようになった。

と記されていることを指していると考えられます。そして、

 地は神のことばによって・・・水によって成った

ということは、少し解釈が難しいのですが、創世記1章6節、7節において、

神は仰せられた。「大空が水の真っただ中にあれ。水と水との間に区別があれ。」神は大空を造り、大空の下の水と、大空の上の水とを区別された。そのようになった。

と記されていることを受けていると考えられます。これは今日のことばで言いますと「大気圏の形成」に当たることです。
 創造の御業の初めの段階においては、この地の最も基本的な状態が造り出されています。その初めの段階から、すべて、神さまはご自身のみことばによって、創造の御業を進めておられます。
 ペテロの手紙第二・3章では、続く6節で、

当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。

と言われています。これはノアの時代の大洪水によるさばきのことです。ここでは、それは神さまが創造の御業において分けられ、ひとところに集められた水が元の状態に戻ってしまったことであると説明されています。
 これは大切なことです。イザヤ書45章18節に記されていますように、神さまは創造の御業によって、この地を「人の住みか」にお造りになりました。この地は、神のかたちに造られた人が神さまから委ねられた歴史と文化を造る使命を果たすのに最も適した所として造られたのです。ところがノアの時代において、人々は自らの罪による本性の腐敗を極まらせ、悪で地を満たしてしまいました。それは、神さまがこの世界をお造りになり、地を「人の住みか」にお造りになったみこころを台なしにすることです。それで神さまは、これと対応するように、創造の御業によって分けられた水を元に戻すことによって、さばきを執行されました。
 ペテロの手紙第二・3章では、続く7節に、

しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。

と記されています。ここには火によるさばきのことが記されています。火によるさばきのことは、新約聖書にはここにしか出てこないと言われることがありますが、バプテスマのヨハネの教え(マタイの福音書3章10節、12節)やイエス・キリストの教え(マタイの福音書5章22節、7章19節、13章40節、42節、18章8節、9節、25章21節)
に火によるさばきのことが出てきます。
 これには旧約聖書の背景があります。たとえば、イザヤ書66章15節、16節には、

 見よ。まことに、は火の中を進んで来られる。
 その戦車はつむじ風のようだ。
 その怒りを激しく燃やし、
 火の炎をもって責めたてる。
 実に、は火をもってさばき、
 その剣ですべての肉なる者をさばく。
 に刺し殺される者は多い。

と記されています(その他、詩篇97篇3節、ダニエル書7章9節、10節、マラキ書4章1節などを見てください)。
 この火によるさばきのことは、このノアの時代の大洪水によるさばきが、やがて来たるべき終わりの日におけるさばきの「地上的なひな型」であることを意味しています。
 ペテロの手紙第二・3章7節では、この火によるさばきのこととともに、

同じみことばによって・・・とっておかれ・・・保たれている

と言われています。ここでは、終わりの日に至るまで、この世界がみことばによって保たれていることが示されています。このことの根底には、神さまが創造の御業によって造り出されたすべてのものを真実に支えてくださっていることがあります。それとともに、これは、神のかたちに造られた人が罪を犯して、御前に堕落してしまった後の状況においては、大洪水によるさばきの執行の後に主がノアとノアとともに箱舟から出てきた生き物たちに結んでくださった契約によっています。創世記9章11節には、

わたしはあなたがたと契約を立てる。すべて肉なるものは、もはや大洪水の水では断ち切られない。もはや大洪水が地を滅ぼすようなことはない。

という神さまのみことばが記されています。
 あざける者たちは、神さまがこの契約に基づいて真実にすべてのものを保ち続けてくださっていることを盾にとって、

父祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。

とあざけっているのです。
 これは福音のみことばに示されている真理を曲げてしまっていることから生まれてくる姿勢であり、生き方です。このことを心に留めるとき、私たちは福音のみことばに示されている真理に立ち続けなければならないことを思わされます。自らの罪に悩むときであっても、終わりの日のさばきを否定し、あざけることによって、それから目をそらすのではなく、神さまが備えてくださっている御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いを信じて、それに信頼し続けることが福音のみことばが示す恵みの世界です。


【メッセージ】のリストに戻る

「黙示録講解」
(第28回)へ戻る

(c) Tamagawa Josui Christ Church