黙示録講解

(第2回)


説教日:2010年10月10日
聖書箇所:ヨハネの黙示録1章1節ー8節
説教題:イエス・キリストの黙示(2)


 黙示録1章1節には、

イエス・キリストの黙示。これは、すぐに起こるはずの事をそのしもべたちに示すため、神がキリストにお与えになったものである。そしてキリストは、その御使いを遣わして、これをしもべヨハネにお告げになった。

と記されています。
 先主日には、冒頭の「イエス・キリストの黙示」という、この書全体の表題に当たることばについてお話ししました。
 先主日にお話ししたことですが、原文のギリシャ語では「黙示」ということばが最初に出てきます。このことばは、すでにあるのに、それまで隠されていたことを明らかにすること、確かにあるのに隠されていることを明らかにすることを意味しています。
 また、新改訳で「イエス・キリストの黙示」と訳されていることばは、文法の上からは、[「イエス・キリストの」という属格を目的格的属格と取って]「イエス・キリストについての黙示」とも、[属格を主格的属格と取って]「イエス・キリストによる黙示」、イエス・キリストが与えてくださった黙示とも訳すことができます。ここでは、これに続いて、

これは、すぐに起こるはずの事をそのしもべたちに示すため

と言われています。これは「イエス・キリストの黙示」の内容が「すぐに起こるはずの事」であることを示しています。それで、この場合は、「イエス・キリストによる黙示」という意味であると考えられます。とはいえ、先週もお話ししましたが、この「すぐに起こるはずの事」の「黙示」の主人公はイエス・キリストです。


 1節では、「イエス・キリストの黙示」という表題に続いて、

これは、すぐに起こるはずの事をそのしもべたちに示すため、神がキリストにお与えになったものである。そしてキリストは、その御使いを遣わして、これをしもべヨハネにお告げになった。

と記されています。
 ここには、このイエス・キリストによって与えられた黙示が私たちに伝えられるのに4つの段階があったことが示されています。
 その4つの段階を見てみましょう。
 まず、

神がキリストにお与えになったものである。

ということばによって、この黙示の究極的な起源が父なる神さまであることが示されています。父なる神さまがイエス・キリストにこの黙示をお与えになりました。
 次に、

そしてキリストは、その御使いを遣わして、

ということばによって、この黙示がイエス・キリストから「御使い」に委ねられたことが示されています。
 この場合、新改訳の「キリストは」と訳されたことばは、文字通りには「彼は」です。[注] それで、文法の上では、これは新改訳のように「キリストは」と理解することもできますし、「神は」と理解することもできます。つまり、「その御使いを遣わして」この黙示を「しもべヨハネにお告げになった」のは、父なる神さまであるとも、イエス・キリストであるとも理解できるのです。

[注]主動詞である「お告げになった」が3人称単数形であり、それにかかる分詞である「遣わして」が3人称・男性・単数形です。

 もし、父なる神さまが「その御使いを遣わして」この黙示を「しもべヨハネにお告げになった」というのであれば、疑問がわいてきます。
 その「その御使い」は、すでに父なる神さまがイエス・キリストにお与えになっている黙示を、イエス・キリストから受け取って、それをヨハネに伝えたということなのでしょうか。この場合には、イエス・キリストはただ父なる神さまからの黙示を受け取って、父なる神さまがお遣わしになる「御使い」に委ねただけであるということになります。イエス・キリストは積極的な役割を果たしてはおられないことになります。
 あるいは、父なる神さまはこの黙示をイエス・キリストにお与えになるとともに、「御使い」にもお委ねになって、それをヨハネに伝えさせたということなのでしょうか。この場合には、イエス・キリストはただ父なる神さまからの黙示を受け取っただけであるということになります。
 このどちらの場合でも、その前の1節の冒頭において、「イエス・キリストの黙示」と記されていることと合わないと思われます。
 さらに、同じ黙示録の22章16節には、

わたし、イエスは御使いを遣わして、諸教会について、これらのことをあなたがたにあかしした。わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。

というイエス・キリストのみことばが記されています。イエス・キリストご自身が「御使い」をお遣わしになったとあかししておられます。それで、1章1節では、新改訳のように、「キリストは」と理解したほうがいいと思われます。つまり、イエス・キリストが「その御使いを遣わして」この黙示を「しもべヨハネにお告げになった」ということです。
 黙示録の中では、御使いが重要な役割を果たしていることが、そこかしこに示されています。同じように、黙示が御使いに託されたことは、22章の6節にも、

御使いはまた私に、「これらのことばは、信ずべきものであり、真実なのです。」と言った。預言者たちのたましいの神である主は、その御使いを遣わし、すぐに起こるべき事を、そのしもべたちに示そうとされたのである。

と記されています。その他、御使いたちの果たしている役割につきましては、5章2節、7章1節ー4節、8章1節ー5節、10章1節ー10節、14章6節ー11節、15節ー19節、15章1節とそれに続く記述、16章1節それに続く記述、17章1節、7節ー18節、18章1節ー3節、19章17節ー18節、20章1節ー3節、21章9節ー10節、21章1節などを見てください。黙示録に知ることを理解するためには、黙示録全体をよく読む必要がありますので、是非、通してお読みください。その際に、これらの個所に注意してくだされば、御使いたちがいかに大きな役割を果たしているかが分かります。
 この黙示が私たちに伝えられるに至る段階のことに戻りますが、さらにその次に、

 これをしもべヨハネにお告げになった。

ということばによって、「御使い」がこの黙示を、この書の著者であるヨハネにもたらしたことが示されています。1章17節後半ー19節には、栄光のキリストがヨハネにお語りになった、

恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。そこで、あなたの見た事、今ある事、この後に起こる事を書きしるせ。

というみことばが記されています。これに従ってヨハネは、このイエス・キリストが示してくださった黙示を書き記しました。
 そして、最後に、

 これは、すぐに起こるはずの事をそのしもべたちに示すため、

というみことばによって、それが私たち主の契約の民に示されていることが記されています。
 この場合の「しもべたち」がだれを指すかが問題となっています。10章7節と11章18節には、「しもべである預言者たち」のことが出てきます。これは旧約聖書において主の預言者たちのことが、しばしば、主の「しもべである預言者たち」と呼ばれていることを受けています。[注] この黙示録10章7節と11章18節では、「しもべである預言者たち」は、旧約の預言者たちと新約の預言者たちとを指していると考えられます。

[注]列王記第二・9章7節、17章13節、23節、21章10節、24章2節、エズラ記9章11節、エレミヤ書7章25節、25章4節、26章5節、29章19節、35章15節、44章4節、エゼキエル書38章17節、ダニエル書9章6節、10節、アモス書3章7節、ゼカリヤ書1章6節

 このことに照らして、1章1節の「しもべたち」も預言者たちのことであるという主張もあります。しかし、ここでは、「しもべである預言者たち」に当たるのは「しもべヨハネ」と言われているヨハネです。すでにお話ししましたように、ヨハネは自分が受けた黙示を書き記すように命じられています。そして、3節に、

この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。

と記されていますように、すべての主の民がヨハネの記した黙示を聞いて、心に留めることが期待されています。それで、1章1節の「しもべたち」は主の新しい契約の民すべてのことであると考えられます。
 そして、主の「しもべたち」と預言者たちとの結びつきから、ここで「しもべたち」と呼ばれている新しい契約の主の民の共同体も、このようにして与えられた「黙示」に示されていることをあかしする、預言者的な働きに召されていると考えられます。より具体的には、父なる神さまが御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業と、それに基づく、創造の御業の回復と完成を告げる福音あかしする、預言者的な働きに召されているということです。

 このように、「イエス・キリストの黙示」は、父なる神さまからイエス・キリストに与えられ、イエス・キリストがそれを御使いに託され、それを御使いがヨハネに示し、ヨハネが記したものが私たちにも与えられています。
 そうしますと、これは「御使いの黙示」と呼ばれてもいいのではないかというような疑問も生まれてきます。確かに、人間であるヨハネと私たち主の契約の民に「黙示」が与えられるようになるすぐ前に御使いがかかわっています。しかし、これをそのように呼ぶことはできません。
 このこととの関連で、ヨハネは重大なあかしをしています。この書の終わりの部分である22章8節ー9節には、

これらのことを聞き、また見たのは私ヨハネである。私が聞き、また見たとき、それらのことを示してくれた御使いの足もとに、ひれ伏して拝もうとした。すると、彼は私に言った。「やめなさい。私は、あなたや、あなたの兄弟である預言者たちや、この書のことばを堅く守る人々と同じしもべです。神を拝みなさい。」

と記されています。
 これと同じようなことは、19章9節、10節にも記されています。どちらも、ヨハネが御使いの足下にひれ伏そうとしたのは、御使いがヨハネに黙示を示したことと関連しています。御使いはそのようにしようとしたヨハネを止めました。それは御使いが神ではないからですが、そのことはヨハネもよく知っていたはずです。ヨハネは黙示を示してくれた御使いへの敬いの念をもったのだと考えられます。しかし、御使いはこのことにおけるすべての栄誉を神さまのみに帰すべきことを示しています。これによって、イエス・キリストから遣わされて、ヨハネに黙示を示した御使いは、その黙示を与えたのは自分ではないことを示しています。
 その黙示は父なる神さまから出たものであり、御子イエス・キリストが御使いに託したものです。それで、その黙示そのものは神の権威に基づいています。しかし、それを伝えた御使いは、いささかもこの黙示に権威を加えてはいません。それで、この黙示は「御使いの黙示」と呼ばれてはならないのです。
 そうしますと、それなら、この書を「ヨハネの黙示録」と呼ぶこともできないのではないかという疑問も出てくることでしょう。確かに、今お話ししたような意味では、この黙示を「ヨハネの黙示」と呼ぶことはできません。ただ、私たちが手にしているのは記された書物としての「黙示録」です。そして、それを栄光のキリストに命じられ、御霊に導かれて記したのはヨハネです。その意味では、この書を「ヨハネの黙示録」と呼ぶことができます。この「ヨハネの黙示録」という、御霊によって霊感された書物に記されているのは、「ヨハネの黙示」ではなく、「イエス・キリストの黙示」です。
 また、これらのことを厳密にとらえたうえでのことですが、神さまは預言者や使徒に召された人々には、それとしての権威を与えておられます。ヨハネはそのような権威を与えられた人のひとりです。それで、これは「ヨハネが見た黙示」、「ヨハネが記した黙示」という意味で、「ヨハネの黙示」と呼べないわけではありません。

 そうしますと、さらに、もう一つの疑問がわいてきます。ここに記されている「黙示」は父なる神さまから出たものです。そうであれば、これは「父なる神の黙示」あるいは「神の黙示」と呼ばれてもいいのではないかという気もします。それは、そのとおりです。けれども、これが「イエス・キリストの黙示」と呼ばれていることには理由があります。
 これは、三位一体の神さまのお働きにおける御父、御子、御霊の「役割分担」を反映しています。このことにつきましては、いろいろな機会にお話ししてきましたので、簡単にまとめておきます。
 三位一体の神さまのお働きにおける、御父、御子、御霊の「役割分担」において、父なる神さまは三位一体の神さまを代表しておられます。それで、創造の御業も贖いの御業も、そのご計画を立てられたのは父なる神さまです。あらゆるものは父なる神さまから出て、父なる神さまに帰されます。ローマ人への手紙11章36節には、

というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。

と記されています。すべてのことが、父なる神さまから出ているのです。
 このように、創造の御業と贖いの御業のご計画を立てられたのは父なる神さまですが、その御業を、父なる神さまのみこころに従って、実際に遂行されるのは御子です。ヨハネの福音書1章1節ー3節には、

初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

と記されています。
 ここで、

 初めに、ことばがあった。

と言われているときの「ことば」は、14節で、

 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。

とあかしされている、後に、ご自身の民である私たちを死と滅びから贖い出してくださるために人となって来てくださった、永遠の神の御子です。また、

 初めに、ことばがあった。

と言われているときの「初め」は、この造られた世界の「初め」のことです。私たちが知っている時間はこの世界の時間ですので、時間はこの世界が造られたときに始まっています。しかし、

 初めに、ことばがあった。

と言われているときの「ことば」は、この世界の「初め」において、すでにずっと存在しておられたことが示されています。[「あった」は未完了時制で、過去(この場合は「初め」)における継続を表しています。]つまり、この「ことば」は永遠の神であられるのです。この後で、

 ことばは神であった。

と言われているとおりです。
 そして、3節では、

 すべてのものは、この方によって造られた。

と言われています。この「この方」は、永遠の「ことば」であられる方、すなわち御子です。
 ここで、

 すべてのものは、この方によって造られた。

と言われているときの「この方によって」ということばは、「この方」が実際に創造の御業を遂行されたことを意味しています。
 問題は、それでは、どうして父なる神さまが直接、創造の御業を遂行されなかったのかということです。これにつきましても、いろいろな機会にお話ししてきましたが、それは、やはり、三位一体の神さまのお働きにおける「役割分担」において、父なる神さまが三位一体の神さまを代表しておられることとかかわっています。
 そのお働きにおいて、三位一体の神さまを代表しておられる父なる神さまによって、神さまの無限の栄光は表現されています。御使いであれ人であれ、それに触れることはできないばかりか、それを直接的に見ることはできません。それは、かすかなたとえでしかありませんが、私たちが灼熱の太陽に直接的に触れることができないようなものです。これが「かすかなたとえ」でしかないのは、神さまの無限の栄光が燃える太陽の比ではないからです。
 私たちにとっては137億光年の彼方に広がっていると言われている宇宙の壮大さは想像を絶するものです。しかし、無限の神さまにとってそれは無きに等しいものです。とはいえ、神さまは宇宙を無意味なものとご覧になるのではありません。この宇宙は神さまの御手の作品として、神さまの御前に意味があり、価値があるものです。あくまでも、この壮大な宇宙も、あらゆる点で無限、永遠、不変の神さまと比べるとすると、無に等しいということです。この壮大な宇宙も、神さまの無限の栄光に触れるようなことがあるなら、たちまち焼き尽くされてしまいます。
 ですから、三位一体の神さまの無限の栄光を表現しておられる父なる神さまが直接的にこの世界をお造りになったとしたら、この世界は造られた瞬間に、神さまの無限の栄光に触れることになり、たちまちその無限の栄光によって焼き尽くされていたことでしょう。それで、創造の御業は、ご自身、無限、永遠、不変の栄光の神であられながら、その無限の栄光を隠し、無限に身を低くされて、この世界にかかわってくださっている御子が遂行されたのです。この世界が、神さまの無限の栄光によって焼き尽くされることがないのは、この世界が御子によって造られたばかりか、御子にあって造られ、御子のうちに保たれているからです。コロサイ人への手紙1章16節、17節には、

万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。

と記されています。
 このことは、神さまがご自身を啓示してくださることにも当てはまります。テモテへの手紙第一・6章15節、16節には、

神は祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です。誉れと、とこしえの主権は神のものです。アーメン。

と記されています。もし三位一体の神さまの無限の栄光を表現しておられる父なる神さまが直接的にご自身を現されたとしたら、この世界はその栄光によって焼き尽くされてしまいます。それで、父なる神さまは御子を通してご自身を啓示してくださっています。ヨハネの福音書1章18節には、

いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

と記されています。
 このように、父なる神さまは御子イエス・キリストによってご自身を私たちに啓示してくださっています。御子はご自身、無限、永遠、不変の栄光の神であられますが、その栄光を隠し、無限に身を低くされて創造の御業を遂行され、今も、この世界とその中にあるすべてのものにかかわってくださり、すべてのものを支え、導いておられます。
 そればかりでなく、人類が神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまった後には、さらに身を低くされて、私たちと同じ人の性質を取って来てくださいました。そして、十字架にかかって私たちの罪を贖ってくださり、私たちを復活のいのちに生かしてくださるために、死者の中からよみがえってくださいました。
 ですから、私たちはただ、ご自身無限、永遠、不変の栄光の神であれつつ、その栄光を隠し、無限に身を低くされた御子イエス・キリストをとおしてだけ、父なる神さまを知ることができます。それ以外に、父なる神さまを知る道があると考えることは、父なる神さまがあらゆる点で無限、永遠、不変の栄光の神であられることを否定することに他なりません。
 このような意味で、この黙示は父なる神さまから出たものですが、御子イエス・キリストによって私たちに啓示されたものです。それで、これは「イエス・キリストの黙示」と呼ばれます。

 すでにお話ししましたように、この「イエス・キリストの黙示」の内容は「すぐに起こるはずの事」です。私たちに「すぐに起こるはずの事」が「イエス・キリストの黙示」として示されていることには意味があります。この黙示は、いっさいのものの源であり、いっさいのものが帰せられる父なる神さまから出たものです。創造の御業と贖いの御業をご計画され、御子イエス・キリストによってすべてを実現してくださっている父なる神さまから出たものです。当然、「すぐに起こるはずの事」も父なる神さまがご計画され、御子イエス・キリストによって成し遂げられることです。その父なる神さまについて、ヨハネの手紙第一・4章9節、10節には、

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

と記されています。また、ローマ人への手紙8章32節には、

私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。

と記されています。ですから、「イエス・キリストの黙示」において示されている「すぐに起こるはずの事」は、これらのみことばにあかしされている、御子イエス・キリストをとおして示されている、父なる神さまの私たちに対する愛を映し出すものであるはずです。確かに、この「イエス・キリストの黙示」には、主の契約の民の苦難が示されています。しかし、もし私たちが1章3節において、

この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。

という祝福を信じ、そのうちを歩むなら、ローマ人への手紙8章38節、39節に記されている、

私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。

という告白へと導かれることでしょう。


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