黙示録講解

(第3回)


説教日:2010年10月17日
聖書箇所:ヨハネの黙示録1章1節ー8節
説教題:すぐに起こるはずの事を(1)


 黙示録1章1節には、

イエス・キリストの黙示。これは、すぐに起こるはずの事をそのしもべたちに示すため、神がキリストにお与えになったものである。そしてキリストは、その御使いを遣わして、これをしもべヨハネにお告げになった。

と記されています。
 冒頭の「イエス・キリストの黙示」ということばは、この書全体の表題に当たるもので、イエス・キリストがこの書に記されている「黙示」をお与えになられたということを示しています。これに続く、

これは、すぐに起こるはずの事をそのしもべたちに示すため、神がキリストにお与えになったものである。

ということばは、このイエス・キリストが与えてくださった「黙示」が究極的には、父なる神さまから出ていることを示しています。そして、この「黙示」の内容が「すぐに起こるはずの事」であることを示しています。
 今日は、この「すぐに起こるはずの事」についてお話ししたいと思います。ただし、今日、そのすべてをお話しできませんので、この「すぐに起こるはずの事」の根本にあることをお話しします。


 まず、ことばの問題ですが、この「すぐに起こるはずの事」と言われているときの「はずの」と訳されたことば(デイ)は、新約聖書においては101回出てきます。このことばは、「必ず・・・となることになっている」、「・・・しなければならない」、「・・・でなければならない」というようなことを表します。新約聖書においては、一般的に、そこに神さまのみこころ、あるいはご計画があるので、「必ず・・・となることになっている」、「・・・しなければならない」、「・・・でなければならない」ということが示されています。
 このことばが用いられている例としてよく知られているのは、イエス・キリストがご自身の契約の民のために苦しみを受けて死なれ、その後、栄光を受けてよみがえられることについての教えです。
 マタイの福音書16章16節には、ペテロがイエス・キリストのことを、

 あなたは、生ける神の御子キリストです。

と告白したことが記されています。そのすぐ後の21節には、

その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。

と記されています。ここで、

 そして三日目によみがえらなければならない

と言われているときの「なければならない」と訳されていることばがこのことば(デイ)です。これは、原文のギリシャ語では、

ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならない

と言われていることのいちばん初めにあって、この全体にかかっています。それで、このすべてのことが起こら「なければならない」ことを示しています。
 イエス・キリストがご自身の契約の民のために苦しみを受けて死なれ、その後、栄光を受けてよみがえられることは、父なる神さまのみこころによって定められた、主の民の救いのご計画のうちにあることでした。その父なる神さまのご計画に基づいて、イエス・キリストは、

ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならない

と教えられたのです。
 同じようなことは、栄光を受けて死者の中からよみがえられたイエス・キリストが弟子たちに現れてくださったことを記している、ルカの福音書24章25節ー27節に、

するとイエスは言われた。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいるはずではなかったのですか。」それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。

と記されています。ここで、

キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいるはずではなかったのですか。

と言われているときの「必ず・・・(する)はず」と訳されていることばがこのことば(デイ)です。
 これは、先ほどお話ししましたように、イエス・キリストがご自身の契約の民のために苦しみを受けて死なれ、その後、栄光を受けてよみがえられることは、父なる神さまのみこころによって定められた、主の民の救いのご計画によることであったことを踏まえています。そのことを神さまは旧約聖書全体をとおしてあかししてくださっていました。そのようにして啓示されたみことばによれば、

キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいるはず

であったのです。
 黙示録1章1節に出てくる「すぐに起こるはずの事」の「はずの」と訳されたことば(デイ)も、これと同じように考えられます。これが「すぐに起こるはずの事」、すぐに起こらなければならないことであるのは、それが、神さまがその主権的なみこころによってお立てになった、ご自身の契約の民のための救いのご計画のうちにあるからです。

 このことをきちんと理解しないで、「すぐに起こるはずの事」ということばを聞きますと、物事が運命的に決まっていて、すべて機械的に起こっていくというようなイメージが生じてしまいます。そして、黙示録に示されていることはそのような運命的に定められて機械的に起こって行く物事の流れであるかのように受け止めてしまいます。
 このこととの関連で思い出していただきたいことがあります。それは、かつて「みこころを知るために」ということでお話ししまして、その前半が、数年前に『私たちに現された神のみこころ』という本として出版されたものの中でお話ししています、永遠の聖定のことです。「すぐに起こるはずの事」の背景にある、私たち主の契約の民のための神さまの救いのご計画は、この永遠の聖定において定められているものです。
 この永遠の聖定について、今お話ししていることとかかわることをまとめてみましょう。
 神さまの永遠の聖定は、神さまが創造と摂理の御業と贖いの御業にかかわるすべてのことを永遠に定めておられるものです。言い換えますと、この世界のすべてのことを永遠に定めておられるものです。それは、無限に深くて広く、無限に複雑なもので、神さまがお造りになったこの世界とその中の一つ一つのものに関わるみこころです。それは、また、この世界のすべてのものが複雑に関わり合っていること、また、関わり合いながら変化していることのすべての根底にあるみこころです。そして、全体として見たときにも、まったき調和のとれた、永遠に変わらないみこころです。
 この世界が137億光年という、私たちの想像を絶する広がりをもっており、その中で起こっていることも私たちの想像をはるかに越えています。そうであっても、この世界のすべてが今日に至るまで混乱することなく保たれてきているのは、そのすべてを神さまが永遠の聖定において定めておられ、それにしたがって、神さまがすべてのものを支え、導いていてくださるからです。詩篇119篇89節ー91節には、

 主よ。あなたのことばは、とこしえから、
 天において定まっています。
 あなたの真実は代々に至ります。
 あなたが地を据えたので、
 地は堅く立っています。
 それらはきょうも、あなたの定めにしたがって
 堅く立っています。
 すべては、あなたのしもべだからです。

と記されています。
 神さまは、そのすべてを、初めから終わりまで、一点の揺るぎもなく定めておられますし、一点の曇りもなく明快に見通しておられます。しかし、人間であれ御使いであれ、どのような被造物も、それを神さまのように見通すことはできません。ですから、私たちは、神さまの永遠の聖定を直接的に見るような形で知ることはできませんし、そのようなことをしようとしてもなりません。そのようなことをしようとすることは、造り主である神さまと神さまによって造られた私たちの間にある絶対的な区別を否定し、神さまの聖さを冒すことです。
 それでは、どうして、神さまが永遠にすべてのことを定められていることが、私たちに啓示されているのでしょうか。もちろん、それは、私たち神の子どもたちの益のためです。
 造り主である神さまを知らない人々は、占いに頼ったり、「神」のお告げを聞こうとしたりしています。その場合、その人々が信じている「神」は、人間の想像によって考えられたものです。人間と同じように、この世界の中に住んでいるものであり、人間よりは大きな力をもっているので、少し先のことが読めたり、目の前のことを操作して少しは変えることができる存在であると考えられています。
 人間が考えるそのような「神」には限界がありますが、それは人間の限界を映し出しています。その「神」の上には、さらに、その「神」をも律している、大きな「ものの流れ」があることになります。そのようなものを、人は「運命」と呼びます。人間が考える「神」は、せいぜいその「運命」の流れを予知するか、その流れを変えられるだけであると考えられています。これは、造り主である神さまが、この世界、この広大な宇宙のすべてを造り出され、支えておられ、導いておられるのとは、まったく違います。そして、そのような「神」とのかかわりでは、占いや「神」を操作して動かそうとするおまじないが生まれてきます。
 占いやおまじないをする人々は、そのようなものを頼みとしていますが、結局、それが単なる幻想でしかないのではないかと感じたり、その奥にある「運命」の真っ暗で不気味な力、機械的で冷徹な力におびえるほかはありません。その「神」を信頼し、安心して待つということはありません。
 このようなことを考えますと、神さまが、私たちに、ご自身が永遠にすべてのものごとを定めておられることを示してくださっていることの意味が分かってきます。他にも意味はありますが、そのうちの一つの意味が分かってきます。これによって、神さまは、ご自身を信頼することが最も確かなことであることを示してくださるとともに、私たちを、神さまに信頼するようにと、招いてくださっておられるのです。

 神さまの永遠の聖定は、無限、永遠、不変の神さまの無限の知恵によるものです。そのような、神さまの永遠の聖定におけるみこころは、ばらばらなことの寄せ集めではありません。そこには、すべてを調和のうちににまとめている「主題」と「目的」に当たるものがあります。それは「ただ神の栄光のために」(ソリ・デオ・グローリア)ということです。神さまの永遠の聖定の全体を貫いているのは、「ただ神の栄光のために」ということです。それは、私たちにとっては、何よりも、神さまを造り主として礼拝すること、また、御子イエス・キリストを贖い主として礼拝することに現れてきます。
 黙示録をお読みになってお気づきになられたことと思いますが、黙示録は父なる神さまと、5章6節で「ほふられたと見える小羊」として示され、11節で「ほふられた小羊」として示されている御子イエス・キリストへの礼拝によって貫かれています。「イエス・キリストの黙示」において示されているのは「すぐに起こるはずの事」なのですが、それは父なる神さまと「ほふられた小羊」への礼拝によって貫かれているのです。
 「イエス・キリストの黙示」において示されている「すぐに起こるはずの事」は、父なる神さまのみこころにしたがって、すべてのことを治めておられる栄光のキリストの支配の下に起こることです。その意味で、それは、「すぐに起こるはずの事」、すぐに起こらなければならないことです。そして、この「すぐに起こるはずの事」、すぐに起こらなければならないことが実際に実現していきますと、すべてのものが声をそろえて、父なる神さまと「ほふられた小羊」を讚えて、礼拝します。
 黙示録4章11節には、

主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。

という父なる神さまへの讃美のことばが記されています。また、5章11節ー14節には、

また私は見た。私は、御座と生き物と長老たちとの回りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍であった。彼らは大声で言った。
 「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」
また私は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。
 「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。」
また、四つの生き物はアーメンと言い、長老たちはひれ伏して拝んだ。

と記されています。
 これは、先ほど触れました、人間が考える「神」を頼みとすることと何と違うことでしょうか。そこにある「神」との関係を示すものは、占いやおまじないです。先ほどお話ししましたように、占いやおまじないをする人々は、そのような「神」を頼みとしながらも、結局、それが単なる幻想でしかないのではないかと感じながら恐れたり、その奥にある大きな「運命」の真っ暗で気ままな力、機械的で冷徹な力におびえるほかはありません。

 このように、神さまの永遠の聖定におけるみこころは、どんなに細かなことに関しても、また、大きなことと思えることに関しても、すべて「神さまの栄光が現わされること」を最終的な目的としており、そのことにおいてすべてが調和しています。ただし、それがどのように調和しているのか、私たちがすべて見通すことができるわけではありません。特に、私たちがこの世にあって味わわなくてはならない試練や苦しみが、「神さまの栄光が現わされること」とどのようにつながっているのか、すぐには理解できないことがいくらでもあります。
 しかし、このこととの関連でお話しするのですが、神さまは永遠の聖定において、私たちのことをどのように定めてくださっているかを示してくださっています。ローマ人への手紙8章28節ー30節には、

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。

と記されています。
 29節には、私たちに対する神さまの永遠の聖定における定めのことが、

神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められた

と記されています。このことを実現してくださるために、父なる神さまはご自分の御子を私たちのための贖い主として立ててくださいました。そして、そのことを旧約聖書において約束してくださいました。それで、先ほど引用しましたマタイの福音書16章21節、22節や、ルカの福音書24章25節ー27節に記されていましたように、イエス・キリストは、ご自身が、私たち、主の契約の民のために苦しみを受けて死なれ、その後、栄光を受けてよみがえられ「なければならない」(デイ)と教えられました。
 実際に、イエス・キリストは、ご自身の意志によって十字架におかかりになって、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによるさばきを、私たちに代わって受けてくださいました。そして、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださいました。そればかりでなく、イエス・キリストは御霊をお遣わしになって、御霊によって私たちをご自身と一つに結び合わせてくださり、私たちをご自身の復活のいのちによって新しく生まれさせてくださいました。それで、続く30節で、

神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。

と記されています。これは、29節で、

神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められた

と記されていることが、私たちの現実となっていることを意味しています。
 このことに基づいて、28節には、

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

という、私たちすべてが告白すべき告白が記されています。
 これは、ローマ人への手紙の流れでは、同じ8章の18節に、

今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。

と記されていることとつながっています。ですから、

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

と言われているときの、神さまが働かせてくださる「すべてのこと」の中には、この世にあるがために私たちが経験するさまざまな苦難を含んでいます。というより、ここ8章18章から8章の終わりまででは、その「今の時のいろいろの苦しみ」のことが一貫して取り上げられています。
 また、ここで、

 神がすべてのことを働かせて益としてくださる

と言われているときの「」とは、続く29節で、

なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められた

と記されていることが実現すること、つまり、私たちが「御子のかたちと同じ姿に」なることです。というのは、29節は「なぜなら」ということばによって、28節に述べられていることを説明しているからです。

 聖書は、父なる神さまが私たちを愛して、私たちを死と滅びの中から贖い出してくださり、ご自分の子としてくださるために、ご自分の御子イエス・キリストを贖い主として遣わしてくださったことに、父なる神さまと御子イエス・キリストの恵みとまことに満ちた栄光が現されていることをあかししています。この点に関しましては、引用しませんが、ヨハネの福音書1章14節、12章23節、24節、28節、エペソ人への手紙1章3節ー6節などを見てください。
 神さまの永遠の聖定の全体を貫いている中心主題と目的は「ただ神の栄光のために」(ソリ・デオ・グローリア)ということですが、その神さまの栄光は十字架にかかられた御子イエス・キリストにおいて最も豊かに現されました。ですから、先ほど引用しました、黙示録5章11節に記されている天における礼拝においては、御使いたちが大きな声で、

ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。

と、「ほふられた小羊」、すなわち、十字架につけられた御子イエス・キリストを讃美していました。その前の9節、10節にも、

あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。

という、「ほふられた小羊」への讃美が記されています。これは、1章5節後半と6節に記されている、

イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。キリストに栄光と力とが、とこしえにあるように。アーメン。

という栄光のキリストを讚える最初の頌栄とつながっています。
 「イエス・キリストの黙示」によって示された「すぐに起こるはずの事」を治めておられ、実現に至らせてくださるのは、この「ほふられた小羊」です。詳しい説明は省きますが、先ほど引用しました5章9節の、

あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。

という御使いの讃美は、このことをあかししています。この「巻き物」は、5章1節で、

また、私は、御座にすわっておられる方の右の手に巻き物があるのを見た。それは内側にも外側にも文字が書きしるされ、七つの封印で封じられていた。

と言われているものです。これには、この世界の歴史のあらゆることについて父なる神さまが定められたみこころが記されています。それは、1章1節のことばで言えば「すぐに起こるはずの事」です。
 先ほどの5章9節の御使いの讃美では、

あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。

というように、この「巻き物」の封印を解いて、そこに記されていることを実際に実現に至らせる方が「ほふられた小羊」であると告白されています。
 また、こ讃美では、これに続いて、

あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。

と讚えられています。これは「すぐに起こるはずの事」の中心に、「ほふられた小羊」によって贖われた主の契約の民があることを示しています。
 「ほふられた小羊」は、私たち贖われた民の救いをまったきものとしてくださるために、すべてのことを治めてくださいます。それは、私たちが「御子のかたちと同じ姿に」なるように「すべてのことを働かせて益としてくださる」ためでもあります。
 無限の栄光の主であられるイエス・キリストは、私たちを死と滅びの中から贖い出してくださるために、この上なく貧しくなってきてくださいました。そして、私たちのためにご自身のいのちをお捨てになって贖いの御業を成し遂げてくださいました。その愛と恵みは今も変わっていません。私たちをご自身の栄光にあずからせ、ご自身のかたちに似た者としてくださるために、今も、すべてのことを働かせてくださっています。
 


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