黙示録1章1節には、
イエス・キリストの黙示。これは、すぐに起こるはずの事をそのしもべたちに示すため、神がキリストにお与えになったものである。そしてキリストは、その御使いを遣わして、これをしもべヨハネにお告げになった。
と記されています。
冒頭の「イエス・キリストの黙示」ということばは、この書全体の表題に当たるものです。これは、イエス・キリストがこの書に記されている「黙示」を与えてくださったということを示しています。
これに続く、
これは、すぐに起こるはずの事をそのしもべたちに示すため、神がキリストにお与えになったものである。
ということばは、このイエス・キリストが与えてくださった「黙示」の究極的な起源が父なる神さまであることと、その「黙示」の内容が「すぐに起こるはずの事」であることを示しています。
今日も、先主日に続いて、この「すぐに起こるはずの事」についてお話しします。
「すぐに起こるはずの事」についてお話しすると言いましても、具体的に何が起こるのかということではありません。それは、この「イエス・キリストの黙示」としての黙示録全体が記していることです。それについては、黙示録に記されていることをたどりながらお話ししていきます。今お話ししようとしていることは、イエス・キリストが与えてくださった「黙示」によって示されていることが「すぐに起こるはずの事」としてまとめられていることの意味についてです。
これには、いくつかの問題がかかわっています。二つほどのことを取り上げたいと思いますが、今日は一つの問題についてお話ししたいと思います。
この「イエス・キリストの黙示」は父なる神さまがイエス・キリストにお与えになり、イエス・キリストが御使いを遣わして、ヨハネに示してくださったものです。そのようにして、神さまが「すぐに起こるはずの事」を示してくださったのですから、確実なものです。このことから、これまでに、さまざまな時代の人々が、自分たちの時代に起こっている出来事を、黙示録に預言されていることの成就であると考えてきました。そして、自分たちの時代が終わりの日に当たり、その時代に、イエス・キリストが再臨されると考えました。実際に、イエス・キリストの再臨の日を割り出して、その日を待っていた人々もありました。
また、そのような終末的な危機意識から、熱狂的な運動が起こったり、さまざまなカルト的な教団が形成されたり、カルト的な教団が黙示録に記されていることを曲解する形で利用して、その勢力を拡大したこともあります。その中には今日まで残っているものもありますし、悲惨な結末を迎えたものもあります。
そのような事例については、いくつか本が書かれていますので、調べることができます。それが本になるほど、多くの事例があるわけです。
私のこととしましては、今から4十数年前に、最初に学んだ神学校のあるクラスで、その頃起こっていることで、聖書の終末に関する預言の記事と関係がありそうなさまざまなニュースの記事を集めるという課題があったことを思い出します。
私はほとんど集められなかったのですが、そのようにして集められたものを、先生がクラスで取り上げられました。その当時のヴェトナム戦争を初め、いくつかの紛争、また、大地震や飢饉のニュースなどがありました。さらには、私の記憶が間違っていなければ、数年後に日本で大ブームとなった、ノストラダムスの予言のことまで出てきました。
ただ、これによって、先生が私たちに何を教えようとしておられたのかは、思い出せません。主の再臨はいつあってもおかしくないということだったのでしょうか、あるいは、このようなものを集めれば、主の再臨はすぐにもあるというような思いになってしまうので気をつけなさい、ということだったのでしょうか。先生の名誉のために記しておきますと、先生は、決して私たちをあおるようなことはなく、かなり慎重でした。
このことと関連して考えておきたいのは、この「イエス・キリストの黙示」を記している黙示録の性格、あるいは、特徴です。この書が記された時代には、一般に「黙示文学」として分類される文学形式があり、その形式で記された文書が他にもたくさんありました。この黙示録もそれに属していると考えられます。また、黙示録の最初の読者たちは、黙示文学になじんでいたと考えられます。しかし、それは私たちにはなじみのないものです。それで、私たちは黙示録を理解するために、この書に取り入れられている文学的な特徴、特に、さまざまな象徴的な表現をいちいち調べながら、その意味を汲み取らなければなりません。しかし、さいわいなことに、黙示録の背景になっているのは、基本的には、旧約聖書です。それで、私たち旧約聖書に親しんでいる者にとっては、旧約聖書をまったく知らない人々よりは、黙示録に記されていることの意味を汲み取りやすいと考えられます。
さらに、いくらその当時の人々が黙示文学になじんでいたからといって、それで、黙示録に記されていることが理解できるというわけではありません。というのは、この書の表題に当たる「イエス・キリストの黙示」についてお話ししたときに取り上げましたマタイの福音書11章25節ー27節に記されていますように、イエス・キリストが、父なる神さまに向かって、
天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません。
と告白しておられるからです。すでにお話ししたことですので結論だけを言いますが、血肉の力、すなわち、人間の生まれながらの知恵や力で、父なる神さまがイエス・キリストをとおして示してくださった「黙示」を理解し、悟ることはできません。
黙示録も含めて聖書のみことばは、イエス・キリストをあかししています。特に、私たちご自身の契約の民のために貧しくなって来てくださって、十字架にかかって死んでくださったイエス・キリストが栄光の主であられるということをあかししています。そのようなことは、神さまに対して罪を犯してしまって、罪の自己中心性に縛られてしまっている人間には、理解し、悟ることができません。罪の自己中心性に縛られてしまっている人間が考える栄光は、他の人より物質的に豊かであり、他の人々より地位が高く、他の人々を屈服させ、他の人々を従わせるような栄光です。人々に捨てられ、十字架につけられて最も悲惨な死を遂げたイエス・キリストは、このような栄光の尺度にまったくかなっていません。
人々に捨てられ、十字架につけられて最も悲惨な死を遂げたイエス・キリストにおいてこそ、神さまの栄光は最も豊かに現されていると聖書のみことばはあかししています。先主日にお話ししましたように、黙示録も「ほふられた小羊」への讃美をもって、このことを繰り返し強調しています。このことは、ただ、イエス・キリストがその十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いの御業に基づいてお働きになる御霊が、私たちをイエス・キリストの復活のいのちによって新しく生まれさせてくださり、福音のみことばを理解させてくださることによって、悟ることができるようになります。コリント人への手紙第一・2章14節に、
生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。
と記されていることは、黙示録も含めて、神さまのみことばのすべてに当てはまることです。
ですから、黙示文学になじんでいれば、それだけで、黙示録が分かるようになるというわけではありません。これに対して、人々に捨てられ、十字架につけられて最も悲惨な死を遂げたイエス・キリストが栄光の主であられることを告白している私たちは、黙示録を理解するための鍵を手にしていることになります。
このように、黙示録は黙示文学という文学形式に分類されますが、それが黙示録の特徴のすべてではありません。黙示録には他の黙示文学とは違った特徴もあることが指摘されています。
その中の一つですが、1章3節には、
この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。時が近づいているからである。
と記されています。このことは、黙示録に記されていることが「預言のことば」であるということ、黙示録は「預言」の書でもあるということを示しています。これは、注意深く受け止められなければなりません。というのは、旧約聖書、新約聖書を問わず、聖書の「預言」は、基本的には、その当時の人々に対する神さまのみこころを啓示するもので、基本的に、その時代の人々のことを取り扱っているからです。そして、その中に、将来の出来事が啓示されることがあるのです。しかも、それは、ただ単に将来どのようなことが起こるかということを示すだけではなく、神さまの贖いの御業の歴史の中で、それがどのような意味をもっているかをも明らかにします。その意味で、聖書の「預言」は単なる予告としての「予言」とは違います。
日本語でもこのことを踏まえて、聖書では神さまが「預けてくださったことば」、あるいは、神さまから「預けられたことば」という意味ででしょう、「預言」と表記して、いわゆる予告としての「予言」と区別しています。
聖書の「預言」は契約の神である主が、ご自身の契約の民であるイスラエルに遣わされた預言者たちをとおしてご自身のみこころを示されたものです。それは、主が与えられた契約のみことばであるモーセ律法に示されている主のみこころを土台として、その時代の主の民、特に、王を初めとする権力者たちが、主の契約のみことばに背いていることを糾弾しました。預言者たちは、彼らの偶像礼拝を糾弾して、彼らが主に立ち返るべきことを示しました。偶像礼拝に走る人々は主のみことばをないがしろにしてしまいます。それで、預言者たちは、しばしば、王たちを初めとする権力者たちが自らを肥やして、主の民の貧しい者たちを虐げていることを糾弾し、権力者たちが主の御前にへりくだって、公義を行うべきことを示しました。
預言者たちの預言が将来の出来事に触れるのは、主の贖いの御業の歴史の中で主が執行されるさばきと救いに関してです。それは、預言者たちの警告と勧めにもかかわらず、偶像礼拝を初めとするさまざまな罪を悔い改めることがないイスラエルの民にさばきがを下されることを警告あるいは宣言する預言です。同時に、その厳しいさばきにもかかわらず、主のアブラハム、イサク、ヤコブへの契約の真実は揺るぐことがなく、イスラエルには「残りの者」が残されること、そして、約束のメシヤによる贖いの御業が遂行されて、主の契約の祝福が主の民すべてに及ぶことが約束される預言が与えられています。そして、その中心にある約束のメシヤの苦難と栄光が預言として示されました。それは、やがて、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりとして成就するに至ります。
黙示録の「預言」もこの流れの上にあります。先ほど引用しました1章3節には、
この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。時が近づいているからである。
と記されていました。これは「この預言のことば」に聞き従う人々を、「幸いである」と言われている祝福に導く「預言」です。
しかし、先ほど触れました「ノストラダムスの予言」をブームにした手法は、巧みなこじつけによって、その「予言」がその通りになったことを示します。そして、その上で、いついつまでに人類は滅亡するということが「予言」されているというものでした。それは、もう運命として決まっていることで、どうあがいても、仕方がないというような感覚を植え付けるものでした。それで、それを信じ込んでしまった人々に絶望的な思いを植え付けました。
黙示録も含めて、終わりの日に関する聖書のみことばの教えは、終わりの日が、すでに運命的に決まっているかのように捕えて、その日を割り出すような形で受け止めるべきものではありません。
これに対しまして、みことばは、神さまがすべてのことをご計画し、定めておられると教えているではないか、ということが主張されるかもしれません。先主日は、それに対して、確かに、神さまがすべてのことをご計画し、定めておられるけれども、それは、神さまの永遠の聖定におけることであって、神さまによって造られた被造物として、時間の中にある人間の立てる計画とは、次元が異なっているということをお話ししました。
神さまの永遠の聖定は「永遠」のものです。しかし、この神さまによって造られた世界は時間的な世界です。しかし、私たちは神さまによって造られたものとしての限界の中にありますので、神さまに帰せられる「永遠」も「無限」も知ることができません。ここで「神さまに帰せられる永遠」というのは、時間が無限に続くという意味での「永遠」と区別するためです。聖書の中では、たとえば「永遠のいのち」というように、時間が無限に続くという意味での「永遠」のことも出てきます。私たちには、神さまに帰せられる「永遠」を知ることができませんので、神さまに帰せられる「永遠」と、この世界の「時間」がどのようにかかわっているかを知ることができません。もちろん「永遠」であられる神さまは、それを完全に知っておられます。
私たちは、造り主であり、あらゆる点で無限、永遠、不変であられる神さまと、神さまによって造られた自分たちの間にある「絶対的な区別」をわきまえなければなりません。とはいえ、私たちには、造り主である神さまと、神さまによって造られた私たちの間にある「絶対的な区別」がどのようなものであるかも、見通すことができるわけではありません。
それでは、神さまは私たちから隔絶された方であり、私たちは神さまのことをまったく知ることができないということになります。それは、そのとおりです。繰り返しの引用になりますが、テモテへの手紙第一・6章15節後半ー16節に、
神は祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です。誉れと、とこしえの主権は神のものです。アーメン。
と記されているとおりです。しかし、神さまは生きておられます。そして、すでに「イエス・キリストの黙示」についてお話ししたときにお話ししましたように、神さまは、ご自身の無限、永遠、不変の栄光を隠して、無限に身を低くして、この世界にかかわってくださる御子によって、ご自身を啓示してくださいました。ヨハネの福音書1章18節に、
いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。
と記されているとおりです。神さまは、御子イエス・キリストにあって、私たちの限界に合わせて、私たちに分かるようにご自身を示してくださっているのです。ヨハネの福音書14章9節に記されていますように、私たちと同じ人としての性質を取って来てくださったイエス・キリストご自身が、
わたしを見た者は、父を見たのです。
と教えてくださっています。私たちは、無限の栄光を隠して、無限に身を低くして、私たちと同じ人の性質を取って来てくださった御子イエス・キリストをとおして、また、イエス・キリストをとおしてだけ、父なる神さまを知ることができます。しかし、それは父なる神さまを直接的に見ることではありません。御子イエス・キリストにあって、私たちの限界に合わせてご自身を啓示してくださった父なる神さまを知ることです。
これと同じことは、神さまの永遠の聖定についても当てはまります。私たちは神さまの永遠の聖定におけるご計画あるいは定めを、私たち人間の計画に合わせて、人間の計画になぞらえて理解しています。それは、神さまが無限に身を低くして、私たちと同じ人の性質を取って来てくださった御子イエス・キリストをとおしてご自身とご自身のみこころを啓示してくださっているからです。しかし、それは神さまの永遠の聖定を神さまが知っておられるように知ることではありません。あくまでも、それを、私たち人間の計画になぞらえて理解しているだけです。私たち人間の計画は大ざっぱなものですが、神さまの無限の知恵に基づく永遠の聖定は限りなく深く、広く、豊かなものです。それは、私たちの想像をはるかに越えています。
このようなことを踏まえたうえで、終わりの日のことについて、マタイの福音書24章36節に記されているイエス・キリストの教えを見てみましょう。そこには、
ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。
と記されています。
ここでイエス・キリストは、「その日、その時がいつであるかは」父なる神さまがお定めになっておられることであって、ご自身もそれを知らないと言われました。もちろん、これは、贖いの御業の遂行における三位一体の神さまの御父、御子、御霊の「役割分担」にかかわることです。
創造と摂理の御業と贖いの御業の遂行における御父、御子、御霊の「役割分担」において、三位一体の神さまを代表される役割を担っておられる父なる神さまが、すべてのことをご計画する役割を果たしておられます。そして、その無限の栄光を隠し、無限に身を低くして、この世界にかかわってくださる役割を担っておられる御子が、その父なる神さまのご計画にしたがって、創造と摂理の御業、そして、贖いの御業を遂行しておられます。御霊は、御子が成し遂げられる創造と摂理の御業と贖いの御業を私たちも含めたこの世界に当てはめて、その一つ一つのものを、それぞれにふさわしく活かし、支え、導いておられます。
このようなわけで、あくまでも贖いの御業を遂行されるうえでのことですが、御子イエス・キリストは「その日、その時がいつであるか」を定める役割を担われませんでした。それは父なる神さまが定められるものでした。その無限、永遠、不変の栄光を隠し、無限に身を低くして、私たちと同じ人の性質を取って来てくださったイエス・キリストは、「その日、その時がいつであるか」を父なる神さまから示していただく立場に立たれました。その意味において、イエス・キリストは「その日、その時がいつであるか」を知らないと言われました。
では、永遠の神としての御子がそれをご存じないかというと、そのようなことはありません。永遠の神としての御子は歴史の中ですでに起こったことも、今起こっていることも、これから起こることもすべてご存知であられます。「その日、その時」も歴史の中で、これから起こることです。ですから、御子は「その日、その時がいつであるか」もすべてご存知です。
それでは、イエス・キリストはどうして、
ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。
ということを教えられたのでしょうか。それは、私たちが「その日、その時がいつであるか」を割り出すようなことをしてはならないことを教えるためであると考えられます。すでにお話ししましたように、そのようなことをしますと、もう「その日、その時がいつであるか」が運命的に決まっていて、人はどうあがいても、どうしようもないというような、絶望的な思いを生み出すことになります。あるいは、そのために、落ち着いて神の子どもとしての歩みを続けることもできなくなり、何かに追い立てられるように動き回ることになります。たとえそれが布教活動であるとしても、脅迫されるような形での布教活動が、真のあかしになるでしょうか。あるいは、逆に、「その日、その時」が遠い先のことであるとすれば、自分には関係がないとして、すましてしまう人々が出てくることでしょう。
このイエス・キリストの教えでは、「その日、その時がいつであるか」はイエス・キリストにも、天の御使いにも知らされていないと言われています。これを、黙示録1章1節に記されている、
イエス・キリストの黙示。これは、すぐに起こるはずの事をそのしもべたちに示すため、神がキリストにお与えになったものである。そしてキリストは、その御使いを遣わして、これをしもべヨハネにお告げになった。
というみことばに合わせてみますと、この「イエス・キリストの黙示」は「すぐに起こるはずの事」についての「黙示」ですが、「その日、その時がいつであるか」は示されてはいないということになります。言い換えますと、私たちが「その日、その時がいつであるか」を割り出すようなことはしてはならないということです。
ただ、この点につきましては、イエス・キリストが地上でメシヤとしてのお働きを遂行しておられたときには「その日、その時がいつであるか」を知らされていなかったけれども、栄光をお受けになって、父なる神さまの右の座に着座された後には、それを知らされたという見方があります。ただ、その見方にはみことばの根拠がありません。また、仮にその見方が正しいとしても、イエス・キリストが「その日、その時がいつであるか」はご自身にも知らされていないということを教えられた主旨からしますと、「その日、その時がいつであるか」を私たちに知らせることは、父なる神さまと御子イエス・キリストのみこころではないと考えられます。それで、「イエス・キリストの黙示」には、「その日、その時がいつであるか」は示されていないと考えられます。
ヨハネの福音書5章27節ー29節には、
また、父はさばきを行なう権を子に与えられました。子は人の子だからです。このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来る時が来ます。善を行なった者は、よみがえっていのちを受け、悪を行なった者は、よみがえってさばきを受けるのです。
というイエス・キリストの教えが記されています。ここには、いくつかの問題、たとえば、人は善い行いによって救われるのかというような問題がありますが、今お話ししていることとかかわることだけをお話しします。ここでイエス・キリストは、
墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来る時が来ます。
と教えておられます。ですから、終わりの日にはすべての人が「よみがえって」、栄光のキリストのご臨在の御前に立つようになります。また、コリント人への手紙第二・5章9節、10節において、パウロも、
そういうわけで、肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。
と教えています。ですから、「その日、その時がいつであるか」を割り出して、「その日、その時」が近ければあわてて動転し、遠い先であれば油断するということには、意味がありません。私たち神の子どもたちは、パウロが言うように、
肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。
という生き方をしていくものです。それは、主を喜ばせて救いを獲得するということではありません。私たちのためにいのちを捨ててくださった主が私たちを愛してくださったその愛のうちを歩むこと、そして、主が私たちを愛してくださったように、私たちも互いに愛し合う神の家族の歩みを、落ち着いて、着実に歩み続けることが主のみこころです。ですから、私たちがそのように歩み続けることが主に喜ばれることです。
|