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説教日:2010年10月31日 |
先週もお話ししましたが、「イエス・キリストの黙示」は、その「黙示」ということばが示していますように、その当時に見られた文学形式である「黙示文学」としての特徴を示しています。しかし、黙示録にはそれ以外の特徴があります。3節に、 この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。時が近づいているからである。 と記されているように、この「イエス・キリストの黙示」は「預言」としての意味をもっています。 このことは、黙示録に記されていることが旧約の預言者をとおして与えられた、契約の神である主の預言の流れの上にあることを意味しています。 預言者といいますと、旧約の時代に起こされた預言者たちを思い起こしますが、新約の時代にも預言者が起こされています。 エペソ人への手紙3章5節には、 この奥義は、今は、御霊によって、キリストの聖なる使徒たちと預言者たちに啓示されていますが、前の時代には、今と同じようには人々に知らされていませんでした。 と記されています。 ここで「この奥義」と訳されたことばは関係代名詞で、その前の4節に出てくる「キリストの奥義」を指しています。ここでは、その「キリストの奥義」が「キリストの聖なる使徒たちと預言者たちに啓示されて」いると言われています。 この「使徒たちと預言者たち」は一つの冠詞によってまとめられています。同じ冠詞が「使徒たちと預言者たち」にかかっています。そのような場合には、両者が同じ人たちであることがあります。しかし、この場合、「使徒たちと預言者たち」の間には「キリストの」(直訳「彼の」)ということばがあって、前の方の「使徒たち」にかかっています。それで、「使徒たち」と「預言者たち」は区別されていて、それぞれ別の人々を指していると考えられます。 ちなみに、「キリストの奥義」が「御霊によって、キリストの聖なる使徒たちと預言者たちに啓示されています」と言われているときの「啓示されています」ということばは、黙示録1章1節冒頭の「イエス・キリストの黙示」ということばに出てくる「黙示」ということば(名詞・アポカリュプシス)の動詞(アポカリュプトーの不定過去時制、受動態)です。 ここでは、新改訳の訳に従いますが、 この奥義は、今は、御霊によって、キリストの聖なる使徒たちと預言者たちに啓示されていますが、 と言われた後に、 前の時代には、今と同じようには人々に知らされていませんでした。 と言われています。ただし、ギリシャ語の原文ではこの順序が逆になっていて、 この奥義は、前の時代には、人々に知らされていませんでした。 ということばが先に来ています。しかし、「前の時代」と「今」が対比されていることには変わりがありません。そして、ここでは、この「預言者たち」が「前の時代」ではなく「今」の時代にいることが示されています。つまり、これは新約の時代の「預言者たち」です。 このことは、「使徒たちと預言者たち」というように、先に「使徒たち」が出てきて、「預言者たち」が後から出てくることにも反映しています。 ここで改めて注目したいのは、「前の時代」と「今」が対比されているということです。 この「前の時代」と訳されたことば(ヘテライス・ゲネアイス)は、文字通りには「別の時代」です。しかし、ここに記されていることから判断しますと、これは新改訳の訳が示しています「前の時代」のことです。 大切なことですが、ここで区別されている「前の時代」と「今」の時代を区別する基準があるということです。ここでは「キリストの奥義」が啓示されているかどうかによって分けられています。しかし、これには、より広く包括的な区別の基準があります。それは、「前の時代」において契約の神である主のみことばをとおして約束されていた贖い主であられる御子イエス・キリストが来てくださって、贖いの御業を成し遂げてくださったことです。 御子イエス・キリストは、その十字架の死によって、私たちご自身の契約の民の罪を贖ってくださり、栄光を受けて死者の中からのよみがえってくださり、父なる神さまの右の座に着座してくださいました。これによって、「今」の時代が始まっています。「今」の時代は聖書の中ではしばしば「この時代」と呼ばれています。 さらに、これと関連していて、黙示録の理解にとっても大切なことですが、聖書の中には、「今」の時代あるいは「この時代」と対比され、区別される時代は二つあります。 一つは、今お話ししました、「今」の時代あるいは「この時代」に先立つ「前の時代」です。「前の時代」は、贖い主と贖い主によって成し遂げられる贖いの御業を預言し、約束していた時代です。 この「前の時代」すなわち預言と約束の時代は、人類が最初の人アダムにあって、造り主である神さまに対して罪を犯し、御前に堕落してしまった直後に、契約の神である主が贖い主の約束を与えてくださったことから始まっています。 これがどのようなことであるかは、すでにいろいろな機会にお話ししましたが、黙示録の理解にとって大切なことになりますので、少し時間を取ってお話ししたいと思います。 人類の堕落の直後に、契約の神である主が与えてくださった約束とは、創世記3章15節に記されている、 わたしは、おまえと女との間に、 また、おまえの子孫と女の子孫との間に、 敵意を置く。 彼は、おまえの頭を踏み砕き、 おまえは、彼のかかとにかみつく。 という、「最初の福音」のことです。これは、「蛇」へのさばきの宣言ですが、「蛇」の背後にあって働いていたサタンに対するさばきのことばとして語られています。 神さまが、この時、すなわち、最初の人アダムが神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまった時、直ちに、さばきを執行していたとしたら、どうなっていたことでしょうか。その場合には、罪によってサタンと一つに結ばれてしまっていた最初の人アダムもその妻エバも、その罪のさばきを受けて滅ぼされてしまうことになったでしょう。 そうすれば、人類の歴史はそこで終わっていたはずです。しかし、これでは、サタンのもくろみが実現してしまうことになります。サタンの特質も目的も神さまに逆らうことにあります。その目的を果たすために、サタンは神のかたちに造られた人を誘惑し、堕落に至らしめたのです。というのは、創世記1章26節ー28節に、 そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」 と記されていますように、神さまは人を神のかたちにお造りになって、歴史と文化を造る使命を委ねてくださったからです。 創造の御業において、神さまはこの世界を歴史的な世界としてお造りになりました。神のかたちに造られた人は、この神さまがお造りになった世界の歴史を造る使命を委ねられています。言うまでもなく、それは造り主である神さまのご栄光をより豊かに現すようになる歴史と文化を造る使命です。その神のかたちに造られた人が、神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまいました。これによって人は、神さまに逆らうことにおいてサタンと一つになってしまいました。このようにして、罪によってサタンと一つになってしまった人が、この時に、その罪をさばかれて滅びてしまったとしたら、人を神のかたちにお造りになって、歴史と文化を造る使命を委ねてくださった神さまの創造の御業における最も大切なみこころが実現しないまま終わってしまうことになります。ただ単に創造の御業におけるみこころが実現しないというだけでなく、まったくの失敗に終わってしまっていたことになります。それでは、サタンが神さまのご計画を台なしにしたことになってしまいます。霊的な戦いにおいて、サタンが勝利したことになります。 サタンはこのことを目指していたのです。私たちはサタンが私たち人間に罪を犯させ、私たち人間を不幸に陥れるように働いていると考えています。それは、ほんの一面でしかありません。サタンが最終的に目指していることは、神さまの創造の御業をとおして示されているみこころが実現することを阻止することです。そのためには、自分自身がさばきを受けて滅びることをもいとわないのです。 罪にはこのような「倒錯」があります。私たちも「このようなことは、神さまのみこころにそむくことであるし、自分を傷つけてしまうことである」ということを知りつつ、そのようなことをしてしまうことがあります(ローマ人への手紙7章15節参照)。サタンはそのような「倒錯」が徹底して、それが神さまに逆らうことであるという理由で、そのことなしているのです。 これに対しまして、御子イエス・キリストは神さまが創造の御業をとおして示されたみこころが最後まで実現するようにお働きになりました。父なる神さまはご自身の民を罪から贖い出してくださり、神のかたちの栄光を回復してくださることによって、創造の御業において示されたみこころが実現するようにしてくださいました。それで、御子イエス・キリストは贖い主となって来てくださったのです。 確かに、御子イエス・キリストは私たちを愛して、私たちの罪を贖ってくださるために十字架にかかって死んでくださいました。しかし、それだけではありません。御子イエス・キリストは創造の御業において示された父なる神さまのみこころが、贖いの御業をとおして回復され、完成に至るようになるために、十字架にかかって死んでくださったのです。 注意しなければならないのは、御子イエス・キリストが私たちを愛してくださって十字架にかかって死んでくださったことと、父なる神さまを愛して、創造の御業において表された父なる神さまのみこころが、贖いの御業をとおして回復され、完成に至るために、十字架にかかって死んでくださったことは、対立することではないということです。御子イエス・キリストは贖いの御業において、私たちを愛して十字架におかかりになることによって、父なる神さまの愛を身をもってあかしされました。それによって愛を本質的な特性とする父なる神さまの栄光が現わされました。 このようにして、サタンは神さまの創造の御業をとおして示されているみこころが実現することを阻止するためには、自分自身がさばきを受けて滅びることをもいといませんでした。これに対して、御子イエス・キリストは、創造の御業において示された父なる神さまのみこころが、贖いの御業をとおして回復され、完成に至るようになるためには、私たちの身代わりになって、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきを受けることをもいとわれませんでした。 話を元に戻しますが、このように、サタンのもくろみが成功した状況の中で、契約の神である主は、先ほど引用しました「最初の福音」を啓示されました。それはサタンに対するさばきの宣言です。しかし、神である主はそのさばきを、その時に、直ちに執行されないで、「女」と「女の子孫」が「おまえ」と呼ばれているサタンとサタンの子孫に敵対して立つようになることをお示しになりました。これが、 わたしは、おまえと女との間に、 また、おまえの子孫と女の子孫との間に、 敵意を置く。 というみことばが示すところです。 「女」と「女の子孫」は、神である主に敵対しているサタンとその子孫に敵対して立つようになると言われています。ということは、「女」と「女の子孫」は、神である主の側につくようになるということです。このことが、「女」と「女の子孫」の救いを意味しています。 ここで、大切なことは、「女」と「女の子孫」は自分の力でサタンとサタンの子孫に敵対して立つようになると言われてはいないということです。最初の人アダムとその妻エバは、神である主の問いかけに対して、自分の罪を認めて悔い改めることはありませんでした。自分が罪を犯したのは、他人のせいであると弁解したのです。罪を犯した人は、だれも、自分の力で神さまの御許に立ち返ることができません。 このサタンに対するさばきの宣言においては、一方には「女」と「女の子孫」があり、もう一方にはサタンとサタンの子孫があります。その二つの間に「敵意」を置いてくださるのは神である主であると言われています。この救いのすべては、契約の神である主が、その一方的な恵みによって備えてくださるのです。それで、これは「最初の福音」と呼ばれます。 この場合、「女の子孫」は単数形ですが、集合名詞として「女の子孫」の共同体を表しています。同時に、聖書の中では一つの共同体には「かしら」があることが当然のこととして想定されています。「おまえ」と呼ばれているサタンとサタンの子孫の共同体の「かしら」は「おまえ」すなわちサタンです。しかし、「女」と「女の子孫」の共同体の「かしら」は「女」ではありません。それは、これに続く、 彼は、おまえの頭を踏み砕き、 おまえは、彼のかかとにかみつく。 というみことばに示されている「彼」です。これによって、ついには「女の子孫」のかしらであられる贖い主が、最終的なさばきを執行されるということが示されています。もちろん、ここでは「女の子孫」と「女の子孫」のかしらが明確に区別されているわけではありません。「女の子孫」の共同体も、サタンの「頭を踏み砕」くようになります(ローマ人への手紙16章20節参照)。しかし、それはあくまでも「女の子孫」のかしらとの結びつきにあってのことです。 これによって、サタンに対するさばきは、「女の子孫」のかしらであられる贖い主が、最終的なさばきを執行される時まで引き延ばされたことになります。また、これ以後の人類の歴史は、この「最初の福音」を背景として展開していくことになります。 このことは、サタンにとって、再びチャンスがやって来たことを意味しています。しかも、それはこの上もないチャンスです。その「女の子孫」特に、「女の子孫」の「かしら」を抹殺してしまえば、どうなるでしょうか。創造の御業をとおして示され、人類の堕落によって阻止されてしまったみこころを、「女の子孫」の「かしら」が遂行する贖いの御業をとおして回復し、完成に至らせてくださるという、神さまのみこころが、またもや、阻止されてしまうことになります。そればかりではありません。神さまは「女の子孫」の「かしら」によってサタンに対する最終的なさばきを執行されると宣言されました。そして、これが、堕落後の人類の歴史が存続する条件となっていました。ですから、もし、女の子孫」の「かしら」が抹殺されてしまえば、神さまはサタンに対する最終的なさばきを執行することもできなくなってしまうのです。もしそのようなことになれば、それは、霊的な戦いにおけるサタンの完全な勝利を意味しています。 このようにして、サタンは、「女の子孫」特に、「女の子孫」の「かしら」を抹殺してしまうこと、少なくとも、再び彼らが神さまに対して罪を犯すようにと誘惑することに、すべてをかけるようになりました。 ここで先週お話ししたことを思い出していただきたいのですが、この「最初の福音」と呼ばれるサタンに対するさばきの宣言においても、「その日、そのとき」は示されてはいません。また、「女の子孫」の「かしら」が来ることは示されていますが、それが、具体的にどなたであるかは示されてはいません。それで、サタンは絶えず目を光らせて、「女の子孫」特に、「女の子孫」の「かしら」を抹殺しようとして、たゆむことなく働き続けてきました。 このことがカインがアベルを殺すに至るようになったことから始まって、ノアの時代に人類の罪の極まってしまうようになって、神さまの大洪水によるさばきを招くに至ったこと、さらには、祭司の国として召されたイスラエルの民が常に誘惑にさらされ、偶像礼拝の罪を犯し続けて、神である主のさばきを招く至ったことなどに現れています。そして、最終的には、「女の子孫」の「かしら」を十字架につけて殺してしまうに至ります。これらすべては、人間がしたことですが、その背後にあっては、サタンとその軍勢の絶えることがない働きかけがありました。 これらのことは、「イエス・キリストの黙示」として黙示録に記されていることの背景となっています。特に、黙示録12章では、明確にこれらのことが取り上げられています。これらのことにつきましては、また、何度か取り上げることになります。 このように、「前の時代」は最初の人アダムにある人類の堕落の直後から始まっています。 そして、「今」の時代あるいは「この時代」は、「女の子孫」の「かしら」として、御子イエス・キリストが来てくださって、十字架の死と死者の中からのよみがえりによって、贖いの御業を成し遂げてくださって、その預言と約束を成就してくださったことによって始まっている時代です。 先ほどお話ししましたように、サタンも「女の子孫」の「かしら」が「いつ」来られるかを知りませんでしたし、その方が、具体的にどなたであるかを知りませんでした。しかし、この「今」の時代において、それが実現し、明らかになりました。その意味でも、「今」の時代に「キリストの奥義」が啓示されています。 「今」の時代においては、十字架にかかって死んでくださって、私たちご自身の契約の民の罪を贖ってくださり、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださった、御子イエス・キリストが父なる神さまの右の座に着座しておられます。そして、ご自身が成し遂げられた贖いの御業に基づいてお働きになる御霊によって、私たち契約の民を救いの中へと導き入れてくださり、神の子どもとしての身分を与えてくださり、父なる神さまとの交わりのうちに歩むように導いてくださっています。 「今」の時代あるいは「この時代」と対比され、区別されるもう一つの時代は、私たちが待ち望んでいる「新しい時代」あるいは「来たるべき時代」です。これは、「終わりの日」に栄光のキリストが再臨されることによって始まる時代です。 終わりの日には、御子イエス・キリストが御父の栄光を帯びて再び来られて、ご自身が成し遂げられた贖いの御業に基づいて、私たちご自身の契約の民の救いを完成してくださいます。それとともに、罪の下にあるすべてのものを、人間だけでなく悪霊たちをも、おさばきになって、罪をまったく清算されます。そして、やはり、ご自身が成し遂げられた贖いの御業に基づいて、新しい天と新しい地を再創造してくださいます。これによって始まる時代が「新しい時代」あるいは「来たるべき時代です。 このように、人類の歴史は、贖い主である御子イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業と関連して、「前の時代」と、「今」の時代あるいは「この時代」と、「新しい時代」あるいは「来たるべき時代」が三つに分けられます。この区分はすべて、御子イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業に関連していますので、それぞれの間には共通性があります。 ですから、これらの時代が三つに区分されるとしても、それぞれが細切れにされるように区分されるのではありません。「前の時代」と、「今」の時代あるいは「この時代」は、御子イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業の預言と約束の時代と、その成就の時代という関係にあって、関連しています。また、「今」の時代あるいは「この時代」と、「新しい時代」あるいは「来たるべき時代」は、成就の時代と完成の時代という関係にあって、関連しています。 言うまでもなく、私たちは「今」の時代あるいは「この時代」に身を置いています。私たちは旧約の時代の主の契約の民が預言と約束の形で示されて、待ち望んでいた贖い主とその御業がすでに成就している時代に生きています。そして、終わりの日に栄光のキリストが再び来られて、私たちご自身の契約の民の救いを完成してくださるときを待ち望んでいます。黙示録も、このような歴史の理解に基づいて記されています。 |
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