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説教日:2010年11月7日 |
神さまは創造の御業において、この世界を歴史的な世界としてお造りになりました。全知全能の神さま、その知恵と力において無限、永遠、不変の神さまは、この137億光年の彼方に広がっていると言われている大宇宙を一瞬のうちにお造りになることができます。しかし、神さまはこれを6つの日にわたる創造の御業によってお造りになりました。この神さまの創造の御業の6つの日についてはいろいろな見方があります。これは地球の自転による24時間の日であるとする見方もあれば、そうではないという見方もあります。私はいくつかの理由によって、24時間の日とは区別されると考えていますが、ここではその議論に立ち入ることはいたしません。 さて、歴史的な世界というときの歴史的ということですが、それはただ単に時間の経過があるということで終わるものではありません。時間が経過して、物事が変化していけば歴史となるということではないのです。たとえば、砂漠に風が吹いて、砂ぼこりが立って、それが次第におさまったということには時間の経過による物事の変化があります。しかし、それで、歴史が造られたということにはなりません。神さまがこの世界を歴史的な世界としてお造りになったということは、神さまがこの世界を意味があり、価値があり、さらに目的がある世界としてお造りになった、ということを意味しています。その意味と価値は、この世界が造り主である神さまの御手の作品であるということに基づいています。この世界は造り主である神さまの御手の作品であるので、造り主である神さまの栄光を現す世界なのです。 実際には、神のかたちに造られた人が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったために、この世界には虚無が入り込んできてしまっています。それでも、この世界が造り主である神さまの栄光を映し出しているということは、たとえば、ローマ人への手紙1章20節には、 神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められる と記されています。そうであれば、神さまが最初に創造された状態の世界は、どんなに豊かに神さまの栄光を映し出していたことでしょうか。 しかし、この世界が神さまの栄光をどんなに豊かに映し出していたとしても、そのことを受け止める存在がいなければ、ある意味で、むなしいことになってしまいます。もちろん、造り主である神さまは、この世界が神さまの御手の作品であり、神さまの栄光を豊かに映し出す世界であることを受け止め、神さまを造り主として礼拝し、いっさいの栄光を神さまに帰する存在をお造りになりました。それが神のかたちに造られた人です。 神のかたちに造られた人がそのような務めを担うためには、当然、造り主である神さまご自身を知らなければなりません。それで、神のかたちに造られた人は、初めから、造り主である神さまを知っているものとして造られています。ただ単に、神さまがこの世界のすべてをお造りになったということを知っているだけではありません。神さまは愛を本質的な特性とする人格的な方です。その神さまのかたちに造られた人も、愛を本質的な特性とする人格的な存在です。そのように、神のかたちに造られた人は、神ご自身との愛による交わりのうちに生きるものとして、生きておられる神さまを親しく知っているものとして造られているのです。 とはいえ、造り主である神さまと神さまによって造られた人との間には、「絶対的な区別」があります。神さまはその愛も含めて、すべての点において、無限、永遠、不変です。それに対して、神のかたちに造られた人は、すべての点において、有限なものです。 そのこと、神のかたちに造られた人が神である主との愛による交わりのうちに生きるものとして造られていることは、創世記2章7節、8節に、 その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。神である主は、東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。 と記されていることに暗示されています。神である主が、親しく人と向き合うようにして、人を形造ってくださり、「いのちの息」を吹き込んでくださいました。 神である主はエデンの園にご臨在され、そこで神のかたちに造られた人をご自身との愛にある親しい交わりに生きるようにしてくださいました。 そのように、神さまは人を神のかたちにお造りになり、これに歴史と文化を造る使命をお委ねになりました。そのことが、同じ創世記の1章27節、28節に、 神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」 と記されています。 神のかたちに造られた人は、神さまを造り主として礼拝して、いっさいの栄光を神さまに帰することを中心として、歴史と文化を造るものでした。それによって、神さまがこの世界にさまざまな可能性の形で備えてくださっているもの、私たちが「資源」と呼んでいるものを見出し、それを、造り主である神さまのみこころにしたがって、また、自らの本質的な特性である愛にしたがって活かして、造り主である神さまの栄光をさらに豊かに現す歴史を造る使命を委ねられていました。 実際に、 地を従えよ。 と命じられた人は、エデンの園を耕していました。2章15節に、 神である主は、人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。 と記されているとおりです。 植物にとって理想的な環境であったエデンの園では、植物がどんどん生長したと考えられます。それらが生長するままに任せれば、いくらそこには有害な植物がなかったとしても、すべてがどんどん生長して、エデンの園もジャングルのようになってしまったことでしょう。神のかたちに造られた人は、神さまがお造りになった植物の特性を調べ、それらを活かして整理し、一つ一つの植物がそれぞれの実を豊かに結ぶことができるようにお世話をしたと考えられます。それによって、その実を食べる生き物たちのいのちが豊かに育まれることになったと考えられます。それが、最初の人が歴史と文化を造る使命を果たしていた姿です。つまり、すべての生き物を支配するということは、それらの生き物のために仕えていくことを意味していました。 サタンは、もともと、優れた御使いとして造られたものです。いくら優れていて、栄光があるといっても、それは神さまによって造られたものとしての、限られた栄光です。それも、造り主である神さまの栄光を映し出すだけのもの、いわば、派生的な栄光です。しかし、サタンは、自らの栄光に高ぶり、神さまに造られたものであるということを見失い、自らが神のようになろうとして、造り主である神さまに対して罪を犯し、御前に堕落してしまったと考えられます。 イザヤ書14章12節ー15節には、その当時、最強の帝国となったバビロンの王の高ぶりと滅びが預言的に描写されています。その高ぶりのことを記している13節、14節には、 私は天に上ろう。 神の星々のはるか上に私の王座を上げ、 北の果てにある会合の山にすわろう。 密雲の頂に上り、 いと高き方のようになろう。 と記されています。 ここにバビロンの王のことが預言的に描写されているのは、バビロンが大帝国であったからではありません。バビロンの王が主の贖いの御業の歴史にかかわっているからです。ここに引用しましたことばに示されているバビロンの王の高ぶりは、その奥にあるサタンの高ぶりを映し出していると考えられます。 そのようにして、サタンは、神さまに造られたものでありながら、自らを神としようとして、神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまいました。そのサタンは、神さまに逆らうことを動機とし、目的として活動するようになりました。サタンが何をするにしても、それが神さまに逆らうことになるかどうかを、自分の全ての能力を傾けて判断し、その判断に基づいて、全力を傾けてそれを実行に移しているのです。神学的には、そのようなサタンは「絶対的に堕落している」と言います。 そのように、神さまに逆らうことを動機とし、目的として働いているサタンは、直接的に神さまに逆らうことはできません。それで、神のかたちに造られて、神さまがお造りになったこの世界の歴史と文化を造る使命を委ねられた人が、神さまに対して罪を犯して、神さまの御前に堕落してしまうように、画策しました。 創世記3章には、サタンが「蛇」を用いて、最初の女性を誘惑したことが記されています。これは、最初の人が堕落した経緯を記す記事の中に出てきます。その意味で、サタンがエバを誘惑して成功したことを記しています。これにつきましては、いろいろなことが考えられますが、すでに繰り返しお話ししたことでもありますし、今お話ししようとしていることからそれてしまいますので、省略します。 神のかたちに造られて、神さまがお造りになっこの世界の歴史と文化を造る使命を委ねられた人が、神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことによって、創造の御業において現された神さまのみこころ、すなわち、神のかたちに造られた人をとおして、この歴史的な世界の歴史をお造りになるという神さまのみこころの実現が阻止されてしまいました。その意味では、サタンが、神さまのご計画をくじいてしまったのです。 そのようなサタンの仕業に対する神である主のさばきの宣言は、サタンが用いた「蛇」の生態を用いてなされました。3章14節には、神である主が、まず、 おまえが、こんな事をしたので、 おまえは、あらゆる家畜、 あらゆる野の獣よりものろわれる。 おまえは、一生、腹ばいで歩き、 ちりを食べなければならない。 と言われたことが記されています。 サタンは、最初に語られた、 おまえが、こんな事をしたので、 おまえは、あらゆる家畜、 あらゆる野の獣よりものろわれる。 という神である主のことばを聞いたとき、自分が首尾よく人を神である主に背かせて、主の創造の御業をとおして現されているみこころの実現を阻んでしまったことを実感して、ほくそ笑んでいたことでしょう。もしこの時に、サタンに対するさばきが執行されていたら、神である主に対して罪を犯して、サタンと一つに結ばれてしまっている人もその妻も、サタンと同じようにさばきを受けて滅ぼされてしまっていたことでしょう。そうなれば、創造の御業に現されている神さまのみこころは実現しなくなります。先週お話ししましたように、神さまに逆らうことを動機とし、目的としているサタンは、神である主に背いてそれが成功するためなら、たとえ自分が神である主のさばきを受けて滅びてしまうこともいとわなかったのです。 しかし、神である主は続いて、 おまえは、一生、腹ばいで歩き、 ちりを食べなければならない。 と言われました。 もちろん、蛇は生きているものを食べるものであって、ちりを食べて生きるものではありません。「ちり」を食べるというのはヘブル語の慣用句で、敗北することを意味しています。また、神さまが這うものをお造りになったのですから、腹ばいで歩くこと自体はのろわしいことではありません。ここから、蛇はそれまで腹ばいで歩いていなかったというようなことを主張することはできません。ここでは、腹ばいで歩くことによって、ちりと接触してしまうという蛇の生態が用いられて、「ちりを食べる」という、蛇の敗北が宣言されているいると考えられます。このようにして、サタンとしては、思いもかけないことばを聞くことになったのです。 そして、そのことがどのように実現するかが、続く、15節に、 わたしは、おまえと女との間に、 また、おまえの子孫と女の子孫との間に、 敵意を置く。 彼は、おまえの頭を踏み砕き、 おまえは、彼のかかとにかみつく。 と記されています。 これにつきましては、先週詳しくお話ししましたので、ごく簡単にまとめます。神である主は、この時、直ちに、サタンに対する最終的なさばきを執行しないで、「女の子孫」をサタンから引き離して、主の側につくようにされ、その「女の子孫」のかしらとして来られる方によって、サタンに対する最終的なさばきを執行されると宣言されました。 「女の子孫」が神である主に敵対しているサタンに敵対して立つことは、「女の子孫」が神である主の側につくようになることです。このことは「女の子孫」の救いを意味しています。それで、これが「最初の福音」と呼ばれます。 これを聞いたサタンは、心のうちで小躍りしたはずです。もし「女の子孫」、特に、「女の子孫」のかしらを抹殺してしまえば、この神である主の救いのご計画と、その裏側にある自分への最終的なさばきの執行のご計画をくじいてしまうことができるからです。しかも、その「女の子孫」の共同体を形成している者たちは、罪によって堕落してしまっています。そのような者たちを誘惑することは、最初の人とその妻を誘惑するよりも、たやすいことであるはずです。さらに、「女の子孫」のかしらも人間であるはずですから、それを抹殺することは、たやすいことと思えたはずです。そのような意味で、これは、サタンにとっても、まさに「福音」、「うれしいお知らせ」と思えたことでしょう。 このようにして、「おまえ」と呼ばれているサタンとその子孫が、「女の子孫」、特に、「女の子孫」のかしらと思われる存在を迫害し、抹殺してしまおうとする働きが開始されました。それが、カインがアベルを殺したことから始まり、イエス・キリストが十字架につけられて殺されたことにまで至る、主の契約の民への迫害と誘惑の歴史の背景にあります。その典型的なことが、ノアの時代に全人類がその罪を極まらせてしまって、神さまの最終的なさばきに相当するさばきを招くに至ったことです。全人類が滅ぼされてしまうことは、サタンにとっては、「女の子孫」がいなくなることを意味しています。もはや、自分に対する最終的なさばきを執行する者はいなくなってしまうということです。そうなった後に、神である主が自分に対して最終的なさばきを執行されるとしても、それは、主の面目が丸つぶれになってしまってのことであり、サタンとしてはこれ以上の喜びはないということになったことでしょう。 もちろん、神さまは、その一方的な恵みによって、ノアを残してくださいました。そのことを記す記事には「残りの者」ということばは出てきませんが、神である主の一方的な恵みによって残りの者が残されるということの現れがあります。ただし、残りの者が残されることの出発点は、これより前にあると考えられます。それは、人類の罪による堕落にもかかわらず、神である主がその一方的な愛と恵みによって、「最初の福音」において「女の子孫」が残されることを宣言してくださったことです。 これらのことを念頭に置きまして、黙示録の記事を二つ見てみましょう。 黙示録12章1節ー4節には、 また、巨大なしるしが天に現われた。ひとりの女が太陽を着て、月を足の下に踏み、頭には十二の星の冠をかぶっていた。この女は、みごもっていたが、産みの苦しみと痛みのために、叫び声をあげた。また、別のしるしが天に現われた。見よ。大きな赤い竜である。七つの頭と十本の角とを持ち、その頭には七つの冠をかぶっていた。その尾は、天の星の三分の一を引き寄せると、それらを地上に投げた。また、竜は子を産もうとしている女の前に立っていた。彼女が子を産んだとき、その子を食い尽くすためであった。 と記されています。 1節に出てくる「ひとりの女」(「女」の単数形)は、その説明に用いられているさまざまな象徴から、旧約の主の契約の民としてのイスラエルの民を表しています。同時に、17節には、 すると、竜は女に対して激しく怒り、女の子孫の残りの者、すなわち、神の戒めを守り、イエスのあかしを保っている者たちと戦おうとして出て行った。 と記されています。これによって、この「女」が新約の主の契約の民である教会をも表していることが分かります。それで、この「女」は歴史を通して契約の神である主が保存してくださった「女の子孫」の全体を表しています。彼女は「子を産もうとしている」と言われています。これは、「女の子孫」のかしらとして来られる方の誕生を意味しています。 これに対して「大きな赤い竜」は、9節で、 この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇 と説明されています。つまり、創世記3章に出てくる「蛇」の背後にあって働いていたサタンのことです。その「大きな赤い竜」は、 子を産もうとしている女の前に立っていた。彼女が子を産んだとき、その子を食い尽くすためであった。 と言われています。 しかし、続く5節には、 女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖をもって、すべての国々の民を牧するはずである。その子は神のみもと、その御座に引き上げられた。 と記されています。これは、メシヤ預言として知られている詩篇2篇を背景として、メシヤが栄光を受けて、諸国の民をおさばきになることを示しています。ここでは、イエス・キリストの生涯の描写はありませんが、十字架の死をもってご自身の民のための贖いの御業を成し遂げられたイエス・キリストが、栄光をお受けになって、父なる神さまの御許に「引き上げられ」、その右の座に着座されることが示されています。ただし、この方による最終的なさばきの執行は、20章11節ー15節に記されています。 このことは、これまでお話ししてきましたことに照らして見ますと、その背景にある贖いの御業の歴史の事情をよく理解することができると思います。 もう一つ見てみたいのは、黙示録22章1節ー5節に記されていることです。そこには、 御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。 と記されています。 言うまでもなく、これは、神さまが創造の御業において神のかたちに造られた人を、ご自身のご臨在するエデンの園に住まわせてくださったことを受けています。そのエデンの園には、その中央に「いのちの木」が一本あっただけでしたが、ここでは、 川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。 と記されています。「いのちの木」は、目で見ることができない神である主のご臨在がそこにあることを表示し、ご臨在される神である主との愛にあるいのちの交わりを保証するものであったと考えられます。その意味で、これは、「礼典」(サクラメント)としての意味をもっていたと考えられます。それで、この黙示録22章2節に記されている「いのちの木」の豊かさは、ただ単に、最初の創造の御業において造り出されたエデンの園における契約の神である主と神のかたちに造られた人との愛にあるいのちの交わりが回復されたということではなく、それがもっと豊かで、栄光に満ちた愛の交わりとして、完成することを表示しています。 このようにして、黙示録には、「女の子孫」のかしらであられる方が来られて、「最初の福音」に示されているサタンとその子孫への最終的なさばきを執行されることと、神さまが創造の御業において示されたみこころを実現し、完成に至らせてくださることが記されています。つまり、黙示録に記されていますことは、創世記の最初の数章に記されていることに対応しているのです。このことは、終わりの日に関する聖書のみことばの教えである終末論が、神さまの創造の御業に関するみことばの教えである創造論と対応していることを意味しています。 神さまが創造の御業において示されたみこころが、サタンの働きと人類の堕落によってくじかれてしまったようになったとき、神さまは「最初の福音」をお示しになって、贖いの御業を遂行されるみこころを示されました。それは、贖いの御業をとおして、創造の御業において示されたみこころを実現され、完成へと至らせてくださるというみこころが示されたということです。そのようにして、創造の御業と贖いの御業は密接にかかわっており、終わりの日には、神さまは栄光のキリストをとおして、創造の御業と贖いの御業は密接にかかわるすべてを完成させてくださるのです。その完成の実現は、私たちにとっても、なお、将来のことです。 黙示録は、さらに、その神である主のみこころをもくじこうとして働いているサタンとその軍勢の働きにもかかわらず、神さまが、確かに、贖いの御業をとおして、創造の御業において示されたみこころを実現され、完成へと至らせてくださるということを、預言的に約束してくださっています。そして、繰り返しになりますが、その完全な実現と完成は、私たちにとっても、将来のことです。その意味で、「プレタリスト」の見方では黙示録のすべてを理解することができないと考えられます。 |
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