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説教日:2010年11月21日 |
繰り返しのことになりますが、3節に、 この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。時が近づいているからである。 と記されていますように、黙示録に記されているみことばは、主イエス・キリストがヨハネに与えてくださった預言としての意味をもっています。 聖書の預言、すなわち、契約の神である主が預言者たちをとおしてお語りになった預言は、予告としての予言とは違います。予告としての予言は、いつどのようなことが起こるということを告げることを主旨としています。そのような予告としての予言のイメージをもって新約聖書に記されている預言を見ますと、すでに定まっている運命的な破局のことを記しているかのような印象になってしまうことでしょう。 しかし、聖書に記されている、神である主の預言はそのようなものではありません。聖書に記されている主の預言については、二つのことをしっかりと心に留めておく必要があります。第一に、神である主の預言は、基本的に、その預言が語られた当時の時代の人々に対する、主のみこころを示すものであるということです。第二に、神である主の預言は主の贖いの御業の歴史の中で与えられたものであり、主が遂行される贖いの御業に深くかかわっているということです。世界史の中でどんなに大きな出来事であるとされていても、それが神である主が遂行される贖いの御業にかかわることでなければ、聖書はそれを預言として取り上げることはありませんでした。 神である主の預言の中に将来にかかわることがあるのは、主の贖いの御業についての約束の中には、将来において成就することがあるからです。 このこととの関連で注目されるのは、アモス書3章7節に記されているみことばです。そこでは、 まことに、神である主は、そのはかりごとを、ご自分のしもべ、預言者たちに示さないでは、何事もなさらない。 と記されています。神である主は贖いの御業をご自身の契約のみことばのうちに前もって約束してくださり、それを実現してくださいます。このような意味で、聖書の預言の中には、将来のことについての啓示があるのです。それも、単なる予告ではなく、あくまでも、神である主の贖いの御業の遂行にかかわるみこころを示すものです。 このことは、新約聖書に記されている終わりの日に関する預言の理解にとって大切なことです。 今、問題となっているのは、主が与えてくださっている終わりの日にかかわる新約聖書の預言のことですが、まず、新約聖書に記されている終わりの日に関する預言に限らないで、聖書全体に記されている将来にかかわる預言について、お話ししたいと思います。もちろん、そのすべてのことではなく、今お話ししていることとかかわっていることだけをお話しします。 改めて確認しておきたいことは、神である主の預言は、それが古い契約の下で与えられた預言、すなわち、旧約聖書に記されている預言であれ、新しい契約の下で与えられた預言、すなわち、新約聖書に記されている預言であれ、すべて、神である主が遂行される贖いの御業にかかわっているということです。それが、将来のことにかかわる預言であっても、あくまでも、神である主が遂行される贖いの御業の歴史における将来のことにかかわる預言であるのです。ですから、聖書には、贖いの御業の歴史から離れて、天変地異を予告するというような意味での預言は与えられてはいません。 神である主の贖いの御業は、最終的には、永遠の神の御子イエス・キリストが人となって来られて、十字架にかかってご自身の民の罪を贖い、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださったことによって成就しました。このようにして神さまが御子イエス・キリストをとおして成し遂げてくださった贖いの御業には、豊かな意味があります。これに対して、古い契約の下において契約の神である主が遂行された贖いの御業は、地上的な「ひな型」としての意味をもっています。 「ひな型」は、模型や視聴覚教材のように、本物を分かりやすく示すものです。しかし、古い契約の下での「ひな型」には「ひな型」としての限界があり、一度に、神である主の贖いの御業の豊かな意味を示すことができません。それで、主は古い契約の時代には、ご自身の民を導きつつ、いくつかの契約によって、さまざまな約束を与えてくださる形で、やがて来たるべき贖い主による贖いの御業の意味を明らかにしてくださいました。 しかも、それはばらばらな形で与えられたのではなく、先に与えられた契約の約束にしたがって、ある形の贖いの御業が遂行されます。次に、その先の契約の上に立って、次の契約の約束が与えられ、それにしたがってある形の贖いの御業が遂行されます。そのように、神さまの契約とその約束が積み上げられていきました。そして、そのようにして積み上げられた全体が、やがて来られる約束の贖い主とその贖い主が遂行される贖いの御業について説明しています。 そのようにして与えられた神である主の契約のみことばの記録が旧約聖書として保存されています。ヨハネの福音書5章39節に、 あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。 と記されているとおりです。イエス・キリストの時代において「聖書」と言いますと、それは旧約聖書を指していましたから、イエス・キリストが、 その聖書が、わたしについて証言しているのです。 と言われているときの「聖書」は旧約聖書を指しています。このように、旧約聖書は、約束の贖い主がどのようなお方であるかということと、その方によって遂行される贖いの御業がどのようなものであるかをあかししつつ、約束しています。そして、新約聖書はその約束がどのように成就したかをあかししています。その意味で、聖書全体はイエス・キリストをあかししています。 このように、神である主が古い契約の下で与えてくださった預言と約束は、約束の贖い主と、その贖い主の贖いの御業にかかわるものです。しかし、その主の契約の約束は神である主のみことばだけで成り立っているのではありません。 たとえば、出エジプトの時代に、神である主の一方的な愛と恵みによって、イスラエルの民がエジプトの奴隷の身分から贖い出されたことは、主がアブラハムに与えてくださり、イサク、ヤコブに受け継がせてくださった契約に基づいています。申命記7章7節、8節に、 主があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった。しかし、主があなたがたを愛されたから、また、あなたがたの先祖たちに誓われた誓いを守られたから、主は、力強い御手をもってあなたがたを連れ出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手からあなたを贖い出された。 と記されているとおりです。ここで、 主があなたがたを愛されたから、また、あなたがたの先祖たちに誓われた誓いを守られたから と言われているときの「あなたがたの先祖たちに誓われた誓い」は、主が一方的な愛と恵みによってアブラハムに与えられ、イサク、ヤコブに受け継がせてくださった契約を指しています。 このように、神である主はアブラハム、イサク、ヤコブに与えてくださった契約に基づいて、イスラエルの民をエジプトの奴隷の身分から贖い出してくださいました。すると、今度は、この出エジプトの贖いの御業が、主の贖いの御業の歴史の中で、約束として、いわば預言的な意味をもつようになりました。どういうことかと言いますと、出エジプトの贖いの御業は、古い契約の下における「ひな型」として、やがて、約束の贖い主によって遂行される贖いの御業をあかししつつ、約束しているということです。また、出エジプトの御業に伴って備えられた「過越の小羊」も、古い契約の下での「ひな型」として、やがて来たるべき贖い主によってなされる贖いの御業をあかししつつ、約束しています。さらに、実際になされた出エジプトの贖いの御業だけでなく、それを覚えるために制度化された過越の祭りも、また、エジプトを出たイスラエルの民に与えられた幕屋やそれに伴ういけにえの制度なども、古い契約の下での「ひな型」として、やがて来たるべき贖い主によってなされる贖いの御業をあかししつつ、約束しています。 このように、古い契約の下での約束は、ただ単にことばによってだけ与えられているのではありません。契約の神である主が遂行なさった贖いの御業そのものが、地上的な「ひな型」として、やがて来たるべき約束の贖い主によって遂行される最終的な贖いの御業をあかしし、約束するようになっているのです。ですから、古い契約の下での贖い主とその贖い主による贖いの御業についての約束は、ただことばだけによって与えられているのではありません。 しかし、私たちは旧約聖書に記されているみことばをとおして、その約束を受け止めています。それには理由があります。私たちは、たとえば先ほど取り上げました、出エジプトの時代に主がイスラエルの民をエジプトの奴隷の状態から贖い出してくださったことをみことばをとおして知らされていますので、それが神である主が遂行された贖いの御業であったということが分かります。しかし、みことばの光がないままに、その出来事だけを見たとしますと、その出来事にどのような意味があるのか理解することができません。や、それで、その御業を遂行してくださった神である主が、ご自身のみことばによって、その意味を明らかにしてくださっています。同じように神である主は、出エジプトの贖いの御業を記念し覚えるための過越の祭りや、幕屋やいけにえの制度などがどのような意味をもっているかを、みことばによって私たちに示してくださっています。それが、古い契約のみことばとしての旧約聖書となっています。その意味で、私たちは旧約聖書に記されているみことばをとおして、古い契約の下で与えられた預言と約束を受け止めています。そして、その旧約聖書に記されているみことばが、出エジプトの時代に主が遂行された贖いの御業が地上的な「ひな型」として、広い意味での預言と約束としての意味をもっているということを示しているのです。 そればかりではありません。神である主は、ご自身の預言と約束のみことばが実際に歴史の中で実現することを示してくださるために、その預言と約束のみことばが、いわば「当面の成就」として、贖いの御業の歴史の中で実現するようにしてくださっています。 たとえば、アブラハムに与えられた契約は、相続人である「アブラハムの子」にかかわる約束を伴っています。神である主は、「アブラハムの子」がご自身のまったくの恵みと約束による子であることを示してくださるために、すぐにはアブラハムに子をお与えにならず、アブラハムが百歳、その妻サラが9十歳になって、ようやく、彼らにイサクをお与えになりました。このイサクは相続人としての「アブラハムの子」の「当面の成就」です。イサクは約束の子ですが、やはり、古い契約の「ひな型」でした。ガラテヤ人への手紙4章28節には、 兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。 と記されています。また、3章7節には、 ですから、信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい。 と記されており、3章29節には、 もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。 と記されています。 また、神である主はダビデに、ダビデの子の王座を確立してくださり、ダビデの子が主の御名のために神殿を建てると約束してくださいました。サムエル記第二・7章12節、13節には、 あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。 と記されています。 この預言と約束にも「当面の成就」があります。神である主はダビデの子ソロモンを祝福してくださり、ソロモンの王国は、王国としてのイスラエルの歴史上、最も栄えた王国となりました。また、ソロモンは契約の神である主の御名のために、壮大な神殿を建設しました。 しかし、そのソロモンも晩年には偶像礼拝の罪を犯し、その王国は彼の次の世代に南北に分裂することになります。そして、北王国イスラエルも、南王国ユダも、やがて契約の神である主への罪を極まらせてしまい、主のさばきを招き、北王国イスラエルはアッシリヤにより、南王国ユダはバビロンによって滅ぼされてしまい、それぞれの民は捕囚となってしまいました。これによって、ソロモンは真の「ダビデの子」ではなく、古い契約の下での「ひな型」でしかないことが示されています。 また、真の主の神殿は、人の手によって造られた地上の建物としての神殿ではありません。真の神殿は人となって来てくださった神の御子イエス・キリストの復活のからだです。ヨハネの福音書2章13節ー22節には、イエス・キリストが公生涯の初めに、エルサレム神殿をきよめられたことが記されています。そのときなされた、イエス・キリストとユダヤ人とのやり取りを記している18節ー22節には、 イエスは彼らに答えて言われた。「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」そこで、ユダヤ人たちは言った。「この神殿は建てるのに四十六年かかりました。あなたはそれを、三日で建てるのですか。」しかし、イエスはご自分のからだの神殿のことを言われたのである。それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばとを信じた。 と記されています。 さらに、ダビデに約束された永遠の王座は地上にはなく、天にある父なる神さまの右の座のことでした。そのことは、使徒の働き2章14節ー36節に記されている、最初の聖霊降臨節(ペンテコステ)の日になされたペテロの説教に示されています。29節ー35節には、 兄弟たち。先祖ダビデについては、私はあなたがたに、確信をもって言うことができます。彼は死んで葬られ、その墓は今日まで私たちのところにあります。彼は預言者でしたから、神が彼の子孫のひとりを彼の王位に着かせると誓って言われたことを知っていたのです。それで後のことを予見して、キリストの復活について、「彼はハデスに捨てて置かれず、その肉体は朽ち果てない。」と語ったのです。神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。ダビデは天に上ったわけではありません。彼は自分でこう言っています。 「主は私の主に言われた。 わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは わたしの右の座に着いていなさい。」 と記されています。 彼は預言者でしたから、神が彼の子孫のひとりを彼の王位に着かせると誓って言われたことを知っていたのです。 というペテロのことばは、ペテロがダビデの子の永遠の王座に関わることを語っていることを示しています。 もう一つの事例を取り上げます。すでにお話ししました、神である主の一方的な愛と恵みによる出エジプトの時代の贖いの御業は、古い契約の下での贖いの御業の典型です。それで、バビロンの捕囚となっていたユダの民が解放され、帰還することを預言した預言者イザヤの預言では、それが出エジプトの贖いの御業になぞらえられて預言されることがあります。たとえば、イザヤ書51章9節ー11節には、 さめよ。さめよ。力をまとえ。主の御腕よ。 さめよ。昔の日、いにしえの代のように。 ラハブを切り刻み、竜を刺し殺したのは、 あなたではないか。 海と大いなる淵の水を干上がらせ、 海の底に道を設けて、 贖われた人々を通らせたのは、 あなたではないか。 主に贖われた者たちは帰って来る。 彼らは喜び歌いながらシオンにはいり、 その頭にはとこしえの喜びをいただく。 楽しみと喜びがついて来、 悲しみと嘆きとは逃げ去る。 と記されています。 ここに出てくる「ラハブ」と「竜」は、古代オリエントの神話的な表象で、暗やみの力を表す海の怪獣です。特に、「ラハブ」はエジプトを表すものとして用いられています。 ラハブを切り刻み、竜を刺し殺したのは、 あなたではないか。 ということは、その次に、 海と大いなる淵の水を干上がらせ、 海の底に道を設けて、 贖われた人々を通らせたのは、 あなたではないか。 と言い換えられていることから分かりますように、エジプトへのさばきとイスラエルの民の解放をもたらした出エジプトの贖いの御業を指しています。ここでイザヤは、その出エジプトの贖いの御業を遂行された主の御腕が、バビロンからの帰還を実現してくださることを、預言しています。いわば、バビロンからの帰還は、第二の出エジプトとしての意味をもっているのです。そして、この最初の出エジプトと第二の出エジプトが「地上的なひな型」として、預言的にあかししているのが、最終的な出エジプトとしての意味をもっている、御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いと、死者の中からのよみがえりによる新しいいのちへの解放です。 このように、神である主の預言と約束は、ことばだけで示されないで、しばしば、それが主の贖いの御業の歴史の中で、いわば「当面の成就」として実現して、主の預言と約束のみことばが確かなものであることをあかししています。それによって、その預言と約束のみことばと、その主の贖いの御業の歴史における「当面の成就」としての意味をもっている出来事が、相まって、その最終的な成就をあかしし、約束しているのです。 このことは、黙示録やその他の新約聖書に記されている終わりの日についての預言と約束のみことばについても当てはまると考えられます。 プレタリストの立場を取る方々は、新約聖書が終わりの日について預言的に記していることは、ローマ軍によるエルサレム神殿の破壊、あるいはまた、ローマ帝国の滅亡のことであり、すでに成就しているとしておられます。しかし、それらの出来事は、終わりの日についての新約聖書の預言にとって、これまでお話ししてきました「当面の成就」としての意味をもっていると考えられます。そしてそれは、終わりの日に関する新約聖書の預言と約束のみことばの確かさをあかししていると考えられます。 主の預言と約束のみことばは歴史の中に具体的な形を取って実現します。私たちはそのみことばの上に立って、主の約束の実現を待ち望んでいます。 |
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