黙示録講解

(第8回)


説教日:2010年11月28日
聖書箇所:ヨハネの黙示録1章1節ー8節
説教題:すぐに起こるはずの事を(6)


 黙示録1章1節には、

イエス・キリストの黙示。これは、すぐに起こるはずの事をそのしもべたちに示すため、神がキリストにお与えになったものである。そしてキリストは、その御使いを遣わして、これをしもべヨハネにお告げになった。

と記されています。
 ここでは、「イエス・キリストの黙示」を記している黙示録には「すぐに起こるはずの事」が記されていると言われています。ところが、これが記されてから2千年経った今でも、まだ起こっていないことがあります。特にこの書の22章7節、12節、20節には、

 見よ。わたしはすぐに来る。

というイエス・キリストのみことばが記されているのに、2千年経った今も、まだイエス・キリストの再臨はありません。
 今は、このことをどのように考えたらいいのかということをお話ししています。
 このことを考えるための鍵は、この書に記されていることが「黙示」であると同時に「預言」でもあるということです。この書に記されていることが「預言」でもあるということは、3節に、

この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。

と記されていることから分かります。
 聖書に記されている預言について理解するためには、二つのことをわきまえておく必要があります。
 すでにお話ししたことと順序が違いますが、第一のことは、聖書に記されている預言は、契約の神である主の贖いの御業の歴史の中で与えられたものであり、主が遂行される贖いの御業に深くかかわっているということです。
 私たちが一般に学ぶ世界史の中でどんなに大きな出来事であるとされていても、それが神である主が遂行される贖いの御業にかかわることでなければ、聖書はそれを預言として取り上げ、記録することはありませんでした。また、その逆に、私たちが一般に学ぶ世界史の中にはまったく取り上げられていないことであっても、たとえば、アブラハムの生涯において、アブラハムが主から召命を受けて、約束の地に向かって旅立ち、約束の地のどこかに定住しないで、その地のあちこちで生活したことのように、神である主が遂行される贖いの御業にとって大切なことは、かなり詳しく取り上げられています。
 第二のことは、聖書に記されている預言は、基本的に、その預言が語られた時代の人々に対する、契約の神である主のみこころを示すものであるということです。
 しかし、ある時代において示された主のみこころは、行き当たりばったりなものではありません。もしそれが場当たり的なものであったとしたら、そのみこころはその時代にしか当てはまらないかもしれません。けれども、神である主が遂行される贖いの御業には一貫した目的がありますので、贖いの御業の歴史は全体としてのまとまりと調和をもっています。ある時代の時代状況の中で語られた主の預言のみことばも、基本的には、その時代において主が遂行された主の贖いの御業にかかわっていますが、それは主が遂行される贖いの御業の歴史の全体との調和の中で語られています。それで、その預言のみことばがどの時代において語られたとしても、すべての時代の主の民にとっても適用される面をもっています。
 さらに、神である主の預言は、主が遂行される贖いの御業の歴史の中で与えられています。それで、ある時代に与えられた預言のみことばには、たとえば、今お話ししました、アブラハムに与えられた約束の地についての約束のように、主の贖いの御業の歴史の将来において実現する約束が含まれています。その将来実現する約束が、一見すると、いわゆる予告としての「予言」のように見えるのです。しかし、主の預言のみことばに示されている約束は、主の贖いの御業の歴史において、将来実現する御業のこと、あるいはそれに関連することを約束しているのであって、それ以外のことは取り扱ってはいません。
 今日は、このこととのかかわりで、主の預言のみことばが、主が遂行される贖いの御業の歴史の全体との調和の中で語られているということを、もう少し考えてみたいと思います。


 このことについてお話しするためには、具体的な例を取り上げるといいかと思います。それで、先週お話ししました、ダビデ契約の約束を取り上げたいと思います。
 その約束は、サムエル記第二・7章12節、13節に、

あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。

と記されています。
 ここでは、主が「ダビデの子」の王座を確立してくださり、「ダビデの子」が主の御名のために神殿を建てるようになると約束してくださっっています。
 先週お話ししましたように、この約束には「当面の成就」がありました。ダビデの血肉の子らのうちのソロモンがダビデの王位を継承し、その王国はイスラエルの王国の歴史の中で最も栄えたものとなりました。マタイの福音書6章29節に記されていますが、イエス・キリストはソロモンのことを「栄華を窮めたソロモン」と呼ばれました。ただし、それは、

栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。

ということを教えてくださる中でのことです。そして、その「栄華を窮めたソロモン」が、エルサレムのシオンの丘に主の神殿を建設しました。
 しかし、ソロモンは「ダビデの子」の「当面の成就」であり、真の「ダビデの子」ではありませんでした。ソロモンは晩年に偶像礼拝の罪を犯し、その王国は彼の次の世代に北王国イスラエルと南王国ユダに分裂してしまいました。そして、北王国イスラエルの首都サマリヤは紀元前722年にアッシリヤの手によって陥落し、北王国イスラエルは滅亡してしまいました。
 けれども、ダビデの血肉の子孫は南王国ユダの王位を継承していきました。しかし、ユダにおいても偶像礼拝が極まり、主の神殿の中にも偶像の神々が置かれて礼拝されているほどになってしまいました。そのことは、エゼキエル書8章に記されています。そのために、主のさばきを招いて、紀元前587年にバビロンの手によってエルサレムは陥落し、王国は滅亡してしまいます。
 ダビデが王となったのが前1010年(数え方によっては1011年)ですから、その王朝は424年ほど続いたことになります。それは「徳川300年」と言われる江戸幕府(1603年ー1867年)の264年間よりも、160年ほど長いものです。江戸幕府は早い時期に鎖国政策を採り、外からの影響を最小限に抑えましたし、外国からの侵略のない状態においてのことでした。しかし、ユダ王国はエジプトとメソポタミアの間にあって、戦略的に重要な地域であったために、しばしば外国からの侵略を受けました。そのことは列王記や歴代誌などに記されています。そのような中で、ダビデ王朝は424年ほど存続したのです。
 それ以上長く続いた帝国はありますが、ずっと一つの王朝が支配していたわけではありません。謀反や革命が起こって、王朝が代わることが繰り返されています。しかし、ユダ王国では424年間ダビデの子孫が王として治めました。それは、主がダビデに与えてくださった契約の約束の「当面の成就」としての意味をもち、地上的な「ひな型」としての意味をもっています。
 このことを如実に物語る出来事があります。
 722年に北王国イスラエルを滅亡に追いやり、周辺の国々を征服したアッシリヤが圧倒的な軍事力をもってエルサレムを包囲するに至ったことがありました。それでも、列王記第二・19章に記されていますように、ユダの王ヒゼキヤは預言者イザヤのことばに励まされて、契約の神である主を信頼し続けました。主がイザヤをとおして語られた預言のみことばが列王記第二・19章20節ー34節に記されていますが、その最後の34節には、

わたしはこの町を守って、これを救おう。わたしのために、わたしのしもべダビデのために。

という主のみことばが記されています。そして、続く35節、36節には、

その夜、主の使いが出て行って、アッシリヤの陣営で、十八万五千人を打ち殺した。人々が翌朝早く起きて見ると、なんと、彼らはみな、死体となっていた。アッシリヤの王セナケリブは立ち去り、帰ってニネベに住んだ。

と記されています。セナケリブはそこで二人の息子に暗殺されます。
 アッシリヤの記録にはセナケリブがニネベに帰った記録はありますが、その「敗北」の記録はありません。しかし、それは勝利のことしか記録しない習慣からすれば当然のことです。ヘロドトスの記録にこれを示唆する記述があるようですが、それがこの出来事を指しているのかは定かではありません。いずれにしましても、圧倒的な軍事力を誇ったアッシリヤ軍がその地域の町々をことごとく征服し、エルサレムを包囲したけれども、エルサレムは陥落しないでヒゼキヤはその王位に留まったという事実があります。
 また、ある学者たちは、このようなことから、そのとき何か奇跡的なことが起こったことを認めても、その時に死んだ「十八万五千人」という数字は架空の数字であると考えています。確かに、これだけの数の兵士がエルサレムを包囲していたということは現実的ではないような気がします。しかし、これは、エルサレムを包囲していた兵士たちの数だけではなく、彼らも含めて、その他の地域に展開していた兵士たちの数を含んでいるということでしょう。もしエルサレムを包囲していた兵士たちだけが死んだのであれば、セナケリブは他の地域で展開していた兵士たちをエルサレムに回すこともできたでしょう。主はセナケリブにそのような余地を与えないようなさばきを下され、エルサレムを守られたのではないかと考えられます。
 いずれにしましても、先ほど引用しました、

わたしはこの町を守って、これを救おう。わたしのために、わたしのしもべダビデのために。

という主のみことばは、このユダの民の救いとアッシリヤへのさばきの御業が、ダビデへの契約の約束に基づいていることを示しています。
 このように、ユダ王国はしばしば外国からの侵略を受けましたが、ダビデ王朝は424年ほど続きました。とはいえ、それは「ダビデの子」が着くべき永遠の王座ではありません。それも、主がダビデに与えてくださった契約の約束の「当面の成就」として、主の約束の確かさをあかししています。

 先主日には、ダビデへの契約に約束された真の「ダビデの子」が、血肉のダビデの子ではなく、人となって来てくださった永遠の神の御子イエス・キリストであるということをお話ししました。それも補足しながら、まとめておきましょう。
 神さまが確立してくださったダビデの永遠の王座は地上にあるのではなく、天にご臨在される父なる神さまの右の座のことです。先主日は、このことが最初の聖霊降臨節におけるペテロの説教に示されていることをお話ししました。
 そのことは、すでに旧約聖書の中でも預言的に示されていたことです。詩篇110篇の1節には、

 主は、私の主に仰せられる。
 「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、
 わたしの右の座に着いていよ。」

と記されています。この詩篇の作者はダビデであり、ダビデは約束のメシヤのことを「私の主」と呼んでおり、その方が神さまの「右の座」に着座され、敵をその「足台とする」ようになると述べています。その当時の文化において、王の「右の座」に着座することは、その王の名によって、また、その王のために主権を行使して治めることを意味していました。また、敵を足台とするということは、敵を打ち破って完全に従わせることを意味しています。
 また、栄光のキリストが父なる神さまの右の座に着座されたことは、黙示録においても取り上げられています。たとえば、7つの教会に宛てて語られた栄光のキリストの最後のことばを記している3章21節には、

勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。

と記されています。また、12章5節に、

女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖をもって、すべての国々の民を牧するはずである。その子は神のみもと、その御座に引き上げられた。

と記されていることに反映しています。
 注意しておきたいことですが、このどちらにおいても、霊的な戦いにおいて栄光のキリストが勝利されていることを示しています。
 また、真の「ダビデの子」が建てる神殿は、人の手によって建てられた地上にある建物としての神殿ではありません。先主日に取り上げましたヨハネの福音書2章19節ー22節に記されているイエス・キリストの教えのとおり、イエス・キリストの復活のからだこそが、真の「ダビデの子」が建てる神殿でした。
 もう一個所取り上げますと、使徒の働き7章2節ー53節には、ステパノの最後のあかしが記されています。その終わりの部分の47節ー50節には、

けれども、神のために家を建てたのはソロモンでした。しかし、いと高き方は、手で造った家にはお住みになりません。預言者が語っているとおりです。
 「主は言われる。
 天はわたしの王座、
 地はわたしの足の足台である。
 あなたがたは、どのような家を
 わたしのために建てようとするのか。
 わたしの休む所とは、どこか。
 わたしの手が、これらのものを
 みな、造ったのではないか。」

というステパノのあかしが記されています。
 ステパノはイザヤ書66章1節、2節に記されている預言者イザヤのことばを引用して、ソロモンが建てたのは、ダビデに約束された神殿建設の「当面の成就」である地上的な「ひな型」としての神殿であったことをあかししています。

 このダビデに与えられた契約の約束は、それ以前に与えられていた契約の約束にさかのぼることができます。
 そのことが明確に示されているのは、アブラハムに与えられてイサク、ヤコブに継承された契約において示された約束です。創世記17章には、主がアブラハムと契約を結ばれたことが記されています。その一部ですが、4節ー6節には、

 わたしは、この、わたしの契約を
 あなたと結ぶ。
 あなたは多くの国民の父となる。
 あなたの名は、
 もう、アブラムと呼んではならない。
 あなたの名はアブラハムとなる。
 わたしが、あなたを多くの国民の
 父とするからである。
わたしは、あなたの子孫をおびただしくふやし、あなたを幾つかの国民とする。あなたから、王たちが出て来よう。

という主のみことばが記されています。
 ここで、主はアブラハムの名を「アブラム」から「アブラハム」に変えてくださり、

 あなたから、王たちが出て来よう。

という預言的な約束を与えてくださっています。その当時の文化の中では、名をつけることは、その名をつけた者の上に主権を行使することを意味していました。主はそれまでもアブラハムの主であられましたが、特に、この約束を与えてくださるに当たって、特別な意味で主権を行使してくださり、この約束を実現してくださるのです。
 同じことは、15節、16節に記されているサラへの約束のうちにも見られます。そこには、

また、神はアブラハムに仰せられた。「あなたの妻サライのことだが、その名をサライと呼んではならない。その名はサラとなるからだ。わたしは彼女を祝福しよう。確かに、彼女によって、あなたにひとりの男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福する。彼女は国々の母となり、国々の民の王たちが、彼女から出て来る。」

と記されています。ここでも、

 国々の民の王たちが、彼女から出て来る。

と言われていますように、王たちが与えられることが預言的に約束されています。そして、それに先だって、サラの名が「サライ」から「サラ」に変えられています。
 さらに、35章10節ー12節には、

神は彼に仰せられた。
 「あなたの名はヤコブであるが、
 あなたの名は、もう、ヤコブと呼んではならない。
 あなたの名はイスラエルでなければならない。」
それで彼は自分の名をイスラエルと呼んだ。神はまた彼に仰せられた。
 「わたしは全能の神である。
 生めよ。ふえよ。
 一つの国民、諸国の民のつどいが、
 あなたから出て、
 王たちがあなたの腰から出る。
 わたしはアブラハムとイサクに与えた地を、
 あなたに与え、
 あなたの後の子孫にも
 その地を与えよう。」

と記されています。この神さまのみことばにおいても、ヤコブの名がイスラエルと変えられて、その後に、

 王たちがあなたの腰から出る。

という、預言的な約束が与えられています。
 そして、この約束を受けたヤコブは、その生涯の終わりに、後のイスラエルの12部族の父祖となる自分の子らの行く末について預言的に語っています。その中でヤコブの4男であるユダについてのことばを記している49章8節、9節には、

 ユダよ。兄弟たちはあなたをたたえ、
 あなたの手は敵のうなじの上にあり、
 あなたの父の子らはあなたを伏し拝む。
 ユダは獅子の子。
 わが子よ。あなたは獲物によって成長する。
 雄獅子のように、また雌獅子のように、
 彼はうずくまり、身を伏せる。
 だれがこれを起こすことができようか。

と記されています。

 あなたの手は敵のうなじの上にあり、

ということばは、敵に勝利し、従わせることを示しています。そして、続く10節には、

 王権はユダを離れず、
 統治者の杖はその足の間を離れることはない。
 ついにはシロが来て、
 国々の民は彼に従う。

と記されています。
 これに基づいて、ユダ部族から出たダビデが統一王国イスラエルの王となり、すでにお話ししました「ダビデの子」にかかわる約束を与えられました。そして、王国が分裂した後も、ユダ部族を中心とする南王国ユダがダビデの子を王として戴き、587年まで424年ほど存続したのです。
 先ほどお話ししましたように、これは「当面の成就」としての地上的な「ひな型」であり、御子イエス・キリストにおいて最終的に成就します。
 そのことは、黙示録にも反映しています。5章1節以下において、7つの封印で封をされた巻物の封印を解くものがいないということが記された後、5節には、

ユダ族から出たしし、ダビデの根が勝利を得たので、その巻き物を開いて、七つの封印を解くことができます。

と記されています。「ユダ族から出たしし」ということばは、先ほどのユダに関するヤコブのことばで、

 ユダは獅子の子。

と言われていることを受けています。
 ここでも「ダビデの根が勝利を得た」と言われていますように、霊的な戦いのことが踏まえられています。

 このように、ダビデに与えられた「ダビデの子」の永遠の王座の約束と神殿建設の約束は、アブラハムに与えられ、イサク、ヤコブに継承された契約の約束にまでさかのぼることができます。
 しかし、それはさらに創世記3章15節に記されている、

 わたしは、おまえと女との間に、
 また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
 敵意を置く。
 彼は、おまえの頭を踏み砕き、
 おまえは、彼のかかとにかみつく。

という「最初の福音」にまでさかのぼることができます。
 ちなみに、これはさらに、神さまが創造の御業において人を神のかたちにお造りになって、歴史と文化を造る使命を委ねられたことにまでさかのぼることができます。これはとても大切なことですが、今日は、そのことに触れる時間的な余裕がありません。
 「最初の福音」に戻りますが、すでに詳しくお話ししましたように、「最初の福音」は神のかたちに造られた人を罪へと誘った「蛇」の背後にあって働いていたサタンに対する神である主のさばきの宣言です。
 このこととの関連で思い出されるのは、今日これまでお話ししてきました中で繰り返し指摘してきましたが、「ダビデの子」に関する預言的な約束と、その成就を記しているみことばが、一貫して、その「ダビデの子」が霊的な戦いにおいて勝利するということ、また、勝利したということをあかししているということです。それは、ダビデへの約束が契約の神である主の贖いの御業の歴史の初めに与えられた「最初の福音」を土台として与えられているということを意味しています。そして、「最初の福音」から始まる神である主の贖いの御業の歴史に与えられた「王」についてのさまざまな約束が、「ダビデの子」としての王の支配の意味の豊かさをあかししています。
 このように、ダビデに与えられた契約の約束は、契約の神である主が遂行される贖いの御業の歴史の中で与えられていますし、贖いの御業の歴史全体との調和の中で与えられています。そして、そのすべてが、人となって来てくださり、十字架におかかりになってご自身の民の罪を贖ってくださり、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださり、父なる神さまの右の座に着座された永遠の神の御子イエス・キリストにおいて成就しているのです。
 栄光のキリストはダビデに約束された永遠の王座である父なる神さまの右の座に着座されて、敵である暗やみの主権者たちを従わせておられます。そして、終わりの日には、暗やみの主権者たちへの最終的なさばきを執行されるとともに、ご自身の民の救いを完成してくださり、創造の御業に現された神さまのみこころを回復し完成させてくださいます。
 これらのことから私たちは、自分たちが契約の神である主の贖いの御業の歴史の中のどのようなところに置かれているかを知ることができます。私たちは、すでに、永遠の神の御子イエス・キリストが私たち主の契約の民の贖い主として来てくださり、十字架にかかって私たちの罪を贖ってくださり、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださり、御霊によって、父なる神さまの右の座に着座されて、神さまが創造の御業において示されたみこころを回復し、完成へと至らせてくださるために働いておられる時代に生きています。このことが、黙示録に記されていることが「すぐに起こるはずの事」であることと深くかかわっています。これにつきましては、続いてお話しします。


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