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説教日:2010年12月5日 |
すでに繰り返しお話ししてきましたが、このことを理解するためには、3節に、 この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。時が近づいているからである。 と記されていることから分かりますように、この書に記されていることが「黙示」であると同時に「預言」でもあるということをわきまえていなければなりません。 聖書に記されている預言には、二つの特質があります。 第一に、聖書に記されている預言は、基本的に、その預言が語られた時代の人々に対する、契約の神である主のみこころを示すものであるということです。 第二に、聖書に記されている預言は、契約の神である主の贖いの御業の歴史の中で与えられたものであり、主が遂行される贖いの御業をあかしし、その意味を説明するものであるということです。 契約の神である主が遂行される贖いの御業には目的があります。それで、主が遂行される贖いの御業には、その目的が実現するに至るまでの歴史があります。それが贖いの御業の歴史です。預言のことばは、その贖いの御業の歴史の中でなされた御業をあかしし、その意味を説明するものです。それで、預言のみことばには、主が贖いの御業をとおして最終的に実現しようとしておられることを指し示すという特質があります。そして、主は約束の贖い主をとおして、贖いの御業を実現し、さらに完成されるので、預言のみことばは約束の贖い主であられる御子イエス・キリストとその御業をあかしすることになります。 その御子イエス・キリストによる贖いの御業についてのあかしは、歴史の中では、預言と成就の形であかしされています。旧約聖書に記されている預言のみことばによるあかしと、新約聖書に記されている福音のみことばによるあかしです。 今日は、このこととの関連で、ペテロの手紙第一・1章10節ー12節に記されているみことばを取り上げたいと思います。そこには、 この救いについては、あなたがたに対する恵みについて預言した預言者たちも、熱心に尋ね、細かく調べました。彼らは、自分たちのうちにおられるキリストの御霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光を前もってあかしされたとき、だれを、また、どのような時をさして言われたのかを調べたのです。彼らは、それらのことが、自分たちのためではなく、あなたがたのための奉仕であるとの啓示を受けました。そして今や、それらのことは、天から送られた聖霊によってあなたがたに福音を語った人々を通して、あなたがたに告げ知らされたのです。それは御使いたちもはっきり見たいと願っていることなのです。 と記されています。 ここで「あなたがたに対する恵みについて預言した預言者たち」と言われているのは、旧約の時代の預言者たちのことです。旧約の預言者たちは、 自分たちのうちにおられるキリストの御霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光を前もってあかしされたとき そのあかしを受けて預言をしたことが示されています。旧約の預言者たちに働きかけて、預言のみことばを語らせ、記させたのは「キリストの御霊」であり、その「キリストの御霊」は「キリストの苦難とそれに続く栄光を前もってあかしされた」と言われています。この「キリストの御霊」につきましては、後ほどお話しします。 このこととの関連で思い出されるのは、栄光を受けて死者の中からよみがえられたイエス・キリストが、旧約聖書全体にわたって、ご自身について記されていることを弟子たちに教えられたということです。ルカの福音書24章44節ー49節には、 さて、そこでイエスは言われた。「わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。」そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、こう言われた。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。あなたがたは、これらのことの証人です。さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」 と記されています。 イエス・キリストは「モーセの律法と預言者と詩篇」と述べておられます。これは、旧約聖書のヘブル語本文の区分を反映しています。今私たちがもっている旧約聖書の区分は七十人訳の区分にしたがっていますが、ヘブル語聖書の区分は、「律法」、「預言者たち」、「諸文書」の三つに区分されています。「律法」とは、いわゆる「モーセ5書」のことです。「預言者たち」は「前の預言者たち」と「後の預言者たち」に分けられます。「前の預言者たち」は「ヨシュア記」、「士師記」、「サムエル記」、「列王記」で、「後の預言者たち」は「ダニエル書」を除く、「イザヤ書」から「マラキ書」までの預言者たちの書です。それ以外は「諸文書」に入ります。このような区分を受けて、イエス・キリストは、 わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。 と述べておられます。イエス・キリストは最後に「詩篇」を挙げておられます。それは、詩篇が「諸文書」のうちの最大の書ですので、それによって「諸文書」全体を代表的に表しておられるのです。 ここで、イエス・キリストは、旧約聖書全体が、 キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。 ということを前もってあかししている、と教えておられます。 ここで、二つのことに注意したいと思います。 一つは、イエス・キリストが「福音」のことを「罪の赦しを得させる悔い改め」と呼んでおられるということです。このことは、今日では忘れられがちです。 もう一つは、後でお話しすることとかかわってきますが、イエス・キリストは、その、 罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる ことが、旧約全体にわたって記されているとあかししておられるということです。 そして、それに続いて、 あなたがたは、これらのことの証人です。さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。 と言われました。言うまでもなく、「わたしの父の約束してくださったもの」とは、御霊のことです。イエス・キリストは、 罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる ことが、イエス・キリストご自身がお遣わしになる御霊の力によってなされるということを示しておられます。 ペテロの手紙第一・1章に戻りますが、11節において、ペテロは、旧約の預言者たちは、 自分たちのうちにおられるキリストの御霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光を前もってあかしされたとき、だれを、また、どのような時をさして言われたのかを調べたのです。 と述べていました。 確かに、イエス・キリストが教えられたように、旧約聖書全体が、 キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。 ことを前もってあかししているのです。 ここでペテロは旧約の預言者たちに預言のみことばを与えられたのは「キリストの御霊」であることを示しています。この「キリストの御霊」ということばは、このほかには、ローマ人への手紙8章9節に、 キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。 と記されている中に出てくるだけです。そのほか類似の表現としては、使徒の働き16章7節に、パウロが、 こうしてムシヤに面した所に来たとき、ビテニヤのほうに行こうとしたが、イエスの御霊がそれをお許しにならなかった。 と記されている中に、「イエスの御霊」が出てきます。また、引用はしませんが、ピリピ人への手紙1章19節には「イエス・キリストの御霊」が出てきます。さらに、ガラテヤ人への手紙4章6節で、 そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。 と言われている中に、「御子の御霊」が出てきます。 これらのことからわかりますように、「キリストの御霊」は、イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業に基づいてお働きになる御霊のことです。つまり、最初の聖霊降臨節(ペンテコステ)の日に、栄光のキリストが父なる神さまの右の座から注いでくださった御霊で、今も私たちの間で働いてくださっている御霊のことです。ペテロが最初の聖霊降臨節に日になした説教の結論部分を記している、使徒の働き2章33節には、 ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。 と記されています。 ペテロの手紙第一・1章10節、11節で、ペテロは、旧約の預言者たちに預言のみことばをお与えになった御霊のことを「キリストの御霊」と呼ぶことによって、今も私たちの間で働いておられるのと同じ御霊が、旧約の預言者たちに預言のみことばをお与えになったということを示そうとしていると考えられます。もちろん、旧約の時代には、まだ、イエス・キリストによる贖いの御業は成し遂げられていませんでしたから、御霊は息が成し遂げられた贖いの御業に基づいてお働きになることはありませんでした。それで、人々を内側から新しく造り変えることはありませんでした。しかし、お働きになる御霊は同じ御霊です。ペテロは、これによって、旧約の時代に啓示されたことと、新約の時代に啓示されていることとの間につながり、「連続性」があることと、その力点が新約の時代に啓示されていることの方にあることを示していると考えられます。 ここで、注目したいのは、私もこのお話の準備をしながら、自らの姿勢を深く反省しないではいられなかったのですが、旧約の預言者たちの姿勢です。改めて、10節、11節を見てみましょう。そこには、 この救いについては、あなたがたに対する恵みについて預言した預言者たちも、熱心に尋ね、細かく調べました。彼らは、自分たちのうちにおられるキリストの御霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光を前もってあかしされたとき、だれを、また、どのような時をさして言われたのかを調べたのです。 と記されています。 ここでは、預言者たちは「キリストの御霊」のあかしにあずかっていると言われています。「キリストの御霊」が働いてくださっているということから、私たちは何となく、預言者たちは何もしないで、ただ主からの啓示を受けていたというようなイメージをもってしまいます。しかし、実際は、そうではありませんでした。預言者たち自身も熱心に探究したのです。10節では、「熱心に尋ね、細かく調べました」と言われています。これは、「熱心に尋ねる」[エクゼーテオー、「見つけ出そうと努力する」、「何かを学ぼうと努力する」(BDAG)]と「細かく調べる」[エクスエラウナオー、「注意深く調査する」、「探し出そうとする」(BDAG)]という、それ自体が熱心に、また徹底的に探究することを表す動詞を、二つ重ねて強調するものです。これによって、旧約の預言者たちが、熱心に、また、徹底的に探究したことが示されています。さらに、11節では、新改訳の訳では最後に出てくる「調べたのです」という動詞(現在分詞)が最初に出てきて強調されています。この動詞(エラウナオー)は、10節の「細かく調べる」(エクスエラウナオー)と関連するものです。 旧約の預言者たちは「だれを、また、どのような時をさして言われたのか」を「熱心に尋ね、細かく調べ」たと言われています。「だれを」ということは贖い主が「どなた」であるかを知ろうとして調べたということです。ご存知のように、イザヤ書の預言の中には贖い主が栄光の主であられるということが示されています。そのことを悟ったときには、主が備えてくださった贖いがどれほど豊かなものであるか、また、どんなに深い意味をもっているかが分かるようになったはずです。 これは、旧約の預言者たちが「キリストの御霊」のお働きにあずかって、預言のみことばを受け取ったことがどのようなことであるかを示しています。「キリストの御霊」は、預言者たちがご自身のあかしを「熱心に尋ね、細かく調べ」ること、熱心に、また徹底的に探究することを生かしてくださって、そのあかしを理解し悟らせてくださったのです。このことは、「キリストの御霊」が私たちにみことばを理解し、悟らせてくださることにも当てはまります。このことにつきましては、後ほどさらに取り上げます。 「どのような時をさして」ということと関連して、12節初めには、 彼らは、それらのことが、自分たちのためではなく、あなたがたのための奉仕であるとの啓示を受けました。 と記されています。 ここで「それらのこと」と言われているのは、「キリストの御霊」が旧約の預言者たちに示してくださったことです。それは、「キリストの苦難とそれに続く栄光」に関することです。旧約聖書には、その事実だけでなく、それがどのような意味をもっているかも示されています。しかし、預言者たちは、それが「自分たちのためではなく」、御子イエス・キリストの血による新しい契約の民である私たちのためのことであるという啓示を受けていた、と言われています。 これに続いて、 そして今や、それらのことは、天から送られた聖霊によってあなたがたに福音を語った人々を通して、あなたがたに告げ知らされたのです。 と記されています。 ここでは、「キリストの御霊」が旧約の預言者たちに示してくださった「キリストの苦難とそれに続く栄光」に関することが、この手紙の読者たちに「告げ知らされた」ということが示されています。そして、それを告げ知らせた人々は、「天から送られた聖霊によってあなたがたに福音を語った人々」であると言われています。 ここには「天から送られた聖霊」が出てきます。これは、先ほど引用しました、最初の聖霊降臨節の日にペテロが、 ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。 とあかしした「聖霊」のことです。言うまでもなく、これは、ペテロの手紙第一・1章では、その前の11節に出てくる「キリストの御霊」のことです。 新約聖書全体の教えから言いますと、この聖霊をお遣わしになったのは父なる神さまであると言うこともできますし、栄光のキリストであると言うこともできます。ヨハネの福音書14章16節には、 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。 というイエス・キリストの教えが記されています。その一方で、ペテロは、 神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて・・・お注ぎになった。 とあかししていました。いずれの場合にも、父なる神さまと御子イエス・キリストがともにかかわっておられることが示されています。 これらのこととのかかわりで思い起こしたいのは、先ほど引用しましたルカの福音書24章47節ー49節に記されている、 罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。あなたがたは、これらのことの証人です。さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。 というイエス・キリストの教えです。 ペテロの手紙第一・1章12節では、まさにこのイエス・キリストの教えのとおり、聖霊の力によって福音が異邦人の地にまで宣べ伝えられていることが示されています。 ペテロの手紙第一の読者は、1章1節にありますように「ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤ、ビテニヤに散って寄留している、選ばれた人々」です。この人々がユダヤ人でイエス・キリストを信じた人々なのか、異邦人でイエス・キリストを信じた人々であるのか、今なお議論されているところです。古代教会の理解はユダヤ人クリスチャンであるというものですが、近年の理解は、異邦人クリスチャンであるというのが一般的です。しかし、その決着はつけがたいものです。そうではあっても、ここに出てくる地名は小アジア、現在のトルコにあるものです。少なくとも、福音がエルサレムから始まって、異邦人の地にもたらされていることをあかししています。 ペテロの手紙第一・1章12節の最後には、 それは御使いたちもはっきり見たいと願っていることなのです。 と記されています。 ここでは、「キリストの御霊」が旧約の預言者たちに示してくださった「キリストの苦難とそれに続く栄光」に関することで、「天から送られた聖霊によって・・・福音を語った人々」がこの手紙の読者たちに宣べ伝えたことは、 御使いたちもはっきり見たいと願っていること だと言われています。 この場合の「御使いたち」には冠詞がついていません。それで、一般的には、特定の御使いではなく、広く御使いたちを表していると考えられていますが、質的な意味で「御使いのように優れた存在でさえ」というような意味合いを伝えている可能性もあります。 この「はっきり見る」と訳されていることば(パラキュプトー)は、「のぞき込む」、「見るために身をかがめる」、「見下ろす」というようなことを表します。これは知的な意味でも用いられて、「知ろうとする」ことをも表します。この場合は、御使いたちにかかわることですので、知的な意味合いがあると考えられます。新改訳は、よく見えないことを見ようとしている様子を表しています。聖書には、神さまが天から見下ろされることが記されています(詩篇14篇2節、53篇2節、102篇12節、参照・33篇13節)。それに合わせて、御使いたちが天から見下ろすことを表しているという理解もあります。いずれにしましても、何とかして見ようとしている様子、知的には、うかがい知ろうとしている様子を表しています。 また「はっきり見たいと願っている」と言われているときの「願っている」ということば(エピスメオー)は、「欲望」を表わすことば(エピスミア)の動詞形で「切に願うこと」を表します。これは、現在時制で表されていて、御使いたちが何とかして見たいと、強く願い続けていることであることを意味しています。ということは、実際には、御使いたちには、そのことがよく見えてはいないということ、十分に知りえていないということを意味しています。 このようにして、ペテロは、ここで、私たち、新しい契約の下にある主の民が、豊かな祝福と特権にあずかっていることを明らかにしています。特に、この手紙の読者である小アジアにいるクリスチャンたちは、4章12節で「あなたがたの間に燃えさかる火の試練」と言われている迫害を受けて苦しんでいました。そのような試練の中にあるクリスチャンたちに、新しい契約の下にある主の民がどんなに豊かな祝福と特権にあずかっているかを示しているのです。それによって、彼らが主の豊かな愛と恵みにあずかっていることを知ることができるようにと願ってのことでしょう。 今、福音のみことばをとおして私たちに啓示されていることは、旧約の預言者たちも熱心に、また、徹底的に探究したことでした。しかし、彼らが自分たちに示されたことを受け止めたのは、御子イエス・キリストの血による新しい契約の下にある私たち主の民のための「奉仕」であるとの啓示を受けました。 また、もちろん、旧約の時代のすべての主の民が預言者たちのように「キリストの御霊」のお働きにあずかったわけではありません。しかし、先ほどのローマ人への手紙8章9節に、 キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。 と記されていますように、私たちすべては「キリストの御霊」を受けています。 ルカの福音書10章23節、24節には、 それからイエスは、弟子たちのほうに向いて、ひそかに言われた。「あなたがたの見ていることを見る目は幸いです。あなたがたに言いますが、多くの預言者や王たちがあなたがたの見ていることを見たいと願ったのに、見られなかったのです。また、あなたがたの聞いていることを聞きたいと願ったのに、聞けなかったのです。」 と記されています。 そればかりではありません、今、福音のみことばをとおして私たちに啓示されていることは、御使いたちでさえ何とかして見たいと、強く願っていることです。 私たちは、御使いたちでさえ何とかして見たいと、強く願っていることを、福音のみことばによって知らされています。それだけでなく、御霊のお働きによって、それを理解し、悟ることができるようにしていただいています。私たちは旧約の預言者たちよりも、いや、御使いたちよりも、豊かな祝福と特権にあずかっているのです。 それで、私たちは旧約の預言者たちのように熱心に、また、徹底的にみことばを理解し悟ることに心を注いでいるかどうか、あるいは、御使いたちのように、それでも何とか見ようと強く願い続けているかどうか、問われていることでしょう。彼らには私たちに与えられている祝福と特権がとてもうらやましいことでしょうが、主の御目には、与えられた特権と祝福の上にあぐらをかいて眠ってしまっている私たちの姿が映っているかもしれません。 |
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