黙示録講解

(第10回)


説教日:2010年12月12日
聖書箇所:ヨハネの黙示録1章1節ー8節
説教題:すぐに起こるはずの事を(8)


 ヨハネの黙示録1章1節には、

イエス・キリストの黙示。これは、すぐに起こるはずの事をそのしもべたちに示すため、神がキリストにお与えになったものである。そしてキリストは、その御使いを遣わして、これをしもべヨハネにお告げになった。

と記されています。
 ここでは、ヨハネの黙示録に記されていることは「イエス・キリストの黙示」であり、それは「すぐに起こるはずの事」を示すものであると言われています。しかし、この書にはこれが記されてから2千年経った今でも、まだ起こっていないことがあります。特に、この書の22章7節、12節、20節には、

 見よ。わたしはすぐに来る。

というイエス・キリストのみことばが記されているのに、2千年経った今も、まだイエス・キリストの再臨はありません。
 これまで、この問題についてどのように考えたらいいのかということで、基本的なこととしてわきまえておくべきことを、いくつかお話ししてきました。今日はそれらのことをまとめておきたいと思います。


 これまで繰り返しお話ししたことですが、1章3節には、

この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。時が近づいているからである。

と記されています。これは、黙示録に記されていることが「黙示」であると同時に「預言」でもあるということを示しています。それで、私たちは黙示録を理解するために、聖書に記されている預言について、基本的なことを理解している必要があります。
 聖書に記されている預言は、契約の神である主の贖いの御業の歴史の中で与えられたものであり、主が遂行される贖いの御業がどのようなものであるかをあかしし、その意味を説明するものです。また、主の預言の一つ一つは、主の贖いの御業の歴史の中の特定の時代に与えられていますので、基本的には、その預言が与えられた時代の主の契約の民に対する、主のみこころを示すものです。
 けれども、そのようにして与えられた主の預言のみことばは、それぞれ関連性のない、ばらばらなものではありません。主が遂行される贖いの御業には目的があり、その目的を中心とした全体的なまとまりがあります。それで、主が遂行される贖いの御業がどのようなものであるかをあかしし、その意味を説明する預言には、全体的なまとまりがあります。
 さらに、主の贖いの御業にはその目的の実現に至るまでの歴史があります。それが贖いの御業の歴史です。それで、主の預言のみことばには、主が贖いの御業をとおして最終的に実現しようとしておられることを指し示すという面があります。これが約束としての預言のみことばとなります。
 これまで、契約の神である主が遂行される贖いの御業には目的があるということをお話ししました。しかし、その目的が何であるかについては、少し前にお話ししましたので、ここで改めてお話ししておきたいと思います。
 ひとことで言いますと、神さまが創造の御業において始められたことが、神のかたちに造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられた人が神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったために、台なしになってしまいました。贖いの御業は、それを回復し、完成させてくださるための御業です。
 神さまの創造の御業から見ていきますと、創世記1章1節には、

 初めに、神が天と地を創造した。

と記されています。これは、1章1節ー2章3節に記されている、神さまの創造の御業の記事全体の見出しに当たります。
 「天と地」ということばは、秩序と調和の中にあるこの世界のすべてのものを表しています。今日の宇宙論に照らして言いますと、137億光年の彼方に広がっている大宇宙のすべてを表しています。
 また、「初めに」ということばは、そのように秩序と調和のうちにあるこの世界のすべてのものには「初め」があることを示しています。そして、「神が・・・創造した」ということばは、その「初め」は神さまの創造の御業によっているということを示しています。それで、

 初めに、神が天と地を創造した。

ということばは、実質的に、神さまがこの世界のすべてのものを「無から」創造されたということを示しています。
 このように、創造の御業の記事は、1章1節において、宇宙大の視野において、このように壮大なこの世界のうちにある一つ一つのものすべても、それらが全体としての秩序と調和のうちにあることも、すべて造り主である神さまがお造りになったものであるということを宣言しています。
 これに続く、2節において、

 さて、地は、

と語り出して、その視点は「」に据えられています。もちろん、同時進行的に、この大宇宙において創造の御業は進められているのですが、創造の御業の記事の関心は、いま私たちが住んでいる「」に向けられています。しかも、この記事は、「」に住んでいるものの視点から見た、神さまの創造の御業を記しています。それは、私たち人間が神さまの創造の御業に照らして、この世界がどのようなものであるかを理解するために必要なことです。
 2節には、

地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。

と記されています。神さまが最初に造り出された「」の状態については、

地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、

と言われています。「」そのものには、積極的なものは何もありません。しかし、

 神の霊は水の上を動いていた。

というように、そこに御霊による神さまの御臨在があったとあかしされています。いまだ積極的なものは何もない状態にあった「」を、神さまはご自身がご臨在される所として聖別しておられます。
 そして、神さまはその御臨在の御許から、

 光よ。あれ。

というみことばを初めとする、一連の「創造のみことば」によって、「」をイザヤ書45章18節のみことばに沿って言いますと「人の住みか」として整えてくださいました。神さまが、初めから、ご自身の御臨在の場として聖別してくださっているこの「」を、「人の住みか」としてくださったのです。このことは、神のかたちに造られた人が神さまの御臨在の御前にあって生きるもの、神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きるものとして造られていることを示しています。
 神さまはこの創造の御業を、天地創造の御業の6つの日にわたって遂行されました。ですから、神さまが遂行された創造の御業そのものが歴史的なものでした。その歴史的に展開された創造の御業の目的は、まず、「」を「人の住みか」として整えてくださることにありました。実際に、神さまは「」を「人の住みか」として整えてくださってから、人を神のかたちにお造りになり、人に歴史と文化を造る使命を委ねてくださいました。創世記1章26節ー28節には、

そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

と記されています。神のかたちに造られた人は、ただ神さまが創造の御業によって造り出されたこの世界に住まうだけではなく、この歴史的な世界の歴史と文化を造る使命を委ねられています。
 しかし、それで神さまの創造の御業が終わったのではありません。言い換えますと、それが神さまの創造の御業の最終的な目的ではありません。最終的な目的は天地創造の御業の第7日をご自身の安息の時として祝福し、聖別してくださったことにあります。2章3節には、

こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。それで神は、第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち、第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。神はその第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。

と記されています。
 このようにして、神さまがご自身の安息の時として祝福し、聖別してくださった天地創造の御業の第7日は、いまだ閉じてはいません。つまり、天地創造の御業の第7日が、天地創造の御業によって始まっているこの世界の歴史となっています。言い換えますと、神のかたちに造られた人が歴史と文化を造る使命を果たすための期間であるのです。
 このように、神さまは神のかたちに造られた人を、ご自身の安息の時として祝福し、聖別してくださった天地創造の御業の第7日にあずからせてくださっています。ご自身の安息にあずからせてくださっているのです。それで、神のかたちに造られた人は、神さまを礼拝することを中心として、歴史と文化を造る使命を遂行することができるのです。
 これらのことを合わせてみますと、空間的、地理的には、神さまはこの「」をご自身がご臨在される所として聖別しておられます。そして、時間的、歴史的には、神さまは天地創造の御業の第7日を、ご自身の安息の時として祝福し、聖別しておられます。そして、そのどちらも、神のかたちに造られた人をそれにあずからせてくださり、ご自身の御臨在の御前において、愛にあるいのちの交わりのうちに生きるものとしてくださるためのことでした。

 このことの意味をより具体的に理解するために、ローマ人への手紙8章28節ー30節に記されているみことばを見てみたいと思います。そこには、

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。

と記されています。
 いろいろなことが示されていますが、いまお話ししていることと関係あることだけを取り上げます。
 ここでは、神さまが永遠の聖定において、私たちを、

 御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められた

と言われています。この「御子のかたちと同じ姿」になることは、30節の最後に、

 義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。

と言われていますように、御子イエス・キリストの復活の栄光にあずかることを意味しています。私たちが栄光のキリストに似た者に造り変えられるということです。
 これは、創造の御業において人が神のかたちに造られたときの状態になることではありません。最初に造られた状態の人も、神のかたちとしての栄光を与えられていました。しかし、ここで言われている「御子のかたちと同じ姿」になることは、神のかたちに造られた人が歴史と文化を造る使命を遂行する中で、最後まで神さまに従い通すことによって、その報いとして与えられる栄光に満ちた状態になることです。
 神のかたちに造られた人が歴史と文化を造る使命を遂行する中で、最後まで神さまに従い通すことによって、その報いとして与えられる栄光に満ちた状態になるということは、神さまが創造の御業において神のかたちにお造りになった人に与えてくださった契約によっています。その契約は神さまの一方的で主権的な愛と恵みによって与えられたものであって、神さまと神のかたちに造られた人が合意して結ばれたものではありません。神さまは初めから、人をご自身との契約のうちにあるものとして、ご自身のかたちにお造りになり、その心のうちにご自身の律法を記してくださいました。この、創造の御業とともに与えられた契約を、「創造の契約」と呼びます。伝統的には「わざの契約」と呼ばれています。
 まことの人となって来てくださった御子イエス・キリストは、創造の御業において神のかたちに造られたときの状態の人としての性質を取って来てくださいました。それは、「創造の契約」の下にある方として来てくださったということでもあります。
 私たち人間は、最初の人アダムにあって「創造の契約」の違反者となってしまい、実際に、神さまの御前に罪を犯しており、神さまの聖なる御怒りによる刑罰を受けなければならないものでした。イエス・キリストは十字架にかかって、そのような私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによる刑罰をすべて、私たちの身代わりとなって受けてくださったのです。これによって、私たちを死と滅びから救い出してくださいました。
 さらに、イエス・キリストは、その生涯を通して、十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従い通されました。それで、「創造の契約」に基づき、そのことへの報いとして栄光を受けて、死者の中からよみがえられました。ピリピ人への手紙2章8節、9節に、

キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。

と記されているとおりです。
 このすべては、私たちご自身の契約の民のためのことです。私たちは御子イエス・キリストの十字架の死にあずかって罪を赦していただいているだけではありません。イエス・キリストのよみがえりにあずかって新しく生まれ、復活のいのちで生きるものとしていただいています。その意味で、イエス・キリストの栄光にあずかっているのです。それが、ローマ人への手紙8章30節の最後で、

 義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。

と言われていることです。
 ローマ人への手紙8章29節に記されていること、すなわち、神さまが私たちを、

 御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められた

ということと同じことが、エペソ人への手紙1章3節ー5節に、

私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。

と記されています。
 私たちが「御子のかたちと同じ姿」になること、すなわち、御子イエス・キリストの復活の栄光にあずかって栄光あるものとなることは、エペソ人への手紙1章3節ー5節のことばで言いますと、父なる神さまが私たちを「聖く、傷のない者」としてくださるとともに、「ご自分の子」として、御前に立たせてくださるということです。それは、愛を本質的な特性とする神さまのご栄光をより豊かに映し出すものとなることです。それによって、私たちは御子イエス・キリストにあって、父なる神さまの栄光の御臨在の御前にさらに近づき、より豊かで栄光に満ちた愛にあるいのちの交わりにあずかるようになります。創造の御業によって神のかたちに造られたときの人よりも、さらに近く神さまの御臨在の御前に近づき、より豊かな栄光に満ちた愛にあるいのちの交わりに生きるようになるということです。この、より豊かで栄光に満ちた愛にあるいのちの交わりが「永遠のいのち」です。
 このことに照らして見ますと、神さまが天地創造の御業の第7日をご自身の安息の時として祝福し、聖別されたこと、そして、その第7日が、神のかたちに造られた人が歴史と文化を造る使命を果たす期間であることの意味が見えてきます。
 神さまが天地創造の御業の第7日をご自身の安息の時として祝福し、聖別してくださって、その安息に神のかたちに造られた人をあずからせてくださっているので、神のかたちに造られた人は、この第7日において、神さまを礼拝することを中心として、歴史と文化を造る使命を遂行することができました。
 しかし、それだけでは、この第7日が神のかたちに造られた人が歴史と文化を造る使命を遂行する「歴史的な時」であることの十分な意味を示してはいません。神のかたちに造られた人が神さまの安息にあずかることには、歴史的な意味があります。つまり、人が神さまの安息にあずかることは、さらに豊かで栄光に満ちたものとなるべきものであるということです。それが神さまが創造の御業とともに与えてくださった「創造の契約」が示していることです。それは、私たちご自身の契約の民がさらに豊かな栄光を受けて、ご自身の子となるほどにご自身の御臨在の御前に近づき、より豊かで栄光に満ちた愛にあるいのちの交わりのうちに生きるようになることによって完全に実現するのです。

 このように、神のかたちに造られた人は、「創造の契約」の下で、歴史と文化を造る使命を遂行し、その完全な従順に対する報いとして栄光を受け、神の子どもとしての近さにおいて神さまの御臨在の御前に近づき、神さまとのより豊かで栄光に満ちた愛の交わりのうちに生きるべきものでした。そのようにして、神さまが創造の御業の第7日をご自身の安息の時として祝福し、聖別されて、その安息に私たちをあずからせてくださったみこころが実現するはずでした。
 けれども実際には、サタンの働きによって誘惑されたエバが契約の神である主に対して罪を犯し、さらに、エバの声にしたがったアダムが罪を犯して、御前に堕落してしまいました。これによって、人は自らの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきを受けて滅びるべきものとなってしまいました。
 それは、霊的な戦いという観点から見ますと、神さまが創造の御業によって始められたことを、サタンが台なしにしてしまったということです。神さまが創造の御業において明らかにされたみこころが実現することを、サタンが阻止してしまったということです。もし、この段階で、神さまに対して罪を犯した人が、サタンとともにさばかれるなら、神のかたちに造られた人をご自身の安息にあずからせてくださり、より豊かで栄光に満ちた愛の交わりのうちに生きるものとしてくださるという、神さまのみこころは踏みにじられてしまったということになります。
 まさにそのような事態になったときに、神である主は「最初の福音」を与えてくださいました。それは創世記3章15節に、

 わたしは、おまえと女との間に、
 また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
 敵意を置く。
 彼は、おまえの頭を踏み砕き、
 おまえは、彼のかかとにかみつく。

と記されています。
 この「最初の福音」については、繰り返しお話ししてきたことですので、要点だけをお話しします。神である主はこの時ご自身が直接的にサタンに対するさばきを執行しないで、「女の子孫」がサタンとその子孫に敵対して立つようになることを宣言されました。「女の子孫」がサタンとその子孫に敵対して立つようになるということは、「女の子孫」が神である主の側に立つようになるということで、「女の子孫」の救いを意味しています。
 さらに神である主は、「女の子孫」のかしらであられる方を通して、サタンに対する最終的なさばき、終末的なさばきを執行されるというみこころを示されました。この「女の子孫」のかしらであられる方こそが約束の贖い主です。
 これを受けて、サタンとその子孫は、「女の子孫」を迫害し、特に、「女の子孫」のかしらであられる方を亡き者としようとして、さまざまな形で働きました。それは、カインがアベルを殺したことから始まって、ノアの時代に人類の罪が極まって終末的なさばきを招いてしまったことや、地上のすべての民の祝福のために召されたアブラハムの子孫であるイスラエルの民を誘惑して、不従順に陥らせたことなどを経て、ついには、「女の子孫」のかしらとして来られた御子イエス・キリストを十字架につけて殺してしまうに至りました。
 けれども、神である主の贖いの御業はサタンの思いをはるかに越えたものでした。サタンは「女の子孫」のかしらとして来られた方を抹殺してしまったことによって、完全に神である主のみこころが実現することを阻止できたと思ったはずです。しかし、神さまは御子イエス・キリストの十字架の死によって、私たちご自身の契約の民の罪を贖なってくださり、その従順に対する報いとして「女の子孫」のかしらであられるイエス・キリストに栄光をお与えになって死者の中からよみがえらせてくださいました。これによって、この方をかしらとしていただく、私たち主の契約の民が死と滅びの中から贖い出され、復活のいのちにあずかって新しく生まれ、神の子どもとしての身分を受けて、父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きるものとしていただいています。
 これを、「最初の福音」に照らして見ますと、「女の子孫」のかしらであられる方によって執行されるべき、サタンに対する最終的なさばき、終末的なさばきを執行するための条件は、整っているということになります。それは、また、「女の子孫」の共同体としての教会が、キリストのからだである教会として神である主の聖なる御臨在の御前に集められる条件が整えられ、実際に、それが実現しているということでもあります。
 このことは、いまから2千年前に、御子イエス・キリストが十字架にかかってご自身の民の罪の贖いを成し遂げてくださり、栄光を受けてくださって死者の中からよみがえってくださったことによって、現実のこととなっています。それが、神である主の贖いの御業の歴史においては、栄光のキリストが父なる神さまの右の座に着座されてから、今日に至るまでの時代状況です。
 ヨハネの黙示録1章1節において、この書に記されていることが、「すぐに起こるはずの事」であると言われているのは、この書に記されていることが、契約の神である主の贖いの御業の歴史においては、すでに、このような時代状況にあるということを踏まえているからです。そして、贖いの御業の歴史における時代状況は、今日においても変わっていませんので、黙示録に記されていることは、この時代に生きている私たち主の契約の民にも当てはまることであるのです。
 主の再臨についてのみことばも、贖いの御業の歴史の、このような時代状況に照らして理解しなければなりません。そのことについては、改めてお話しします。


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