黙示録講解

(第11回)


説教日:2010年12月26日
聖書箇所:ヨハネの黙示録1章1節ー8節
説教題:すぐに起こるはずの事を(9)


 ヨハネの黙示録1章1節には、

イエス・キリストの黙示。これは、すぐに起こるはずの事をそのしもべたちに示すため、神がキリストにお与えになったものである。そしてキリストは、その御使いを遣わして、これをしもべヨハネにお告げになった。

と記されています。
 ここでは、ヨハネが記した黙示録には「すぐに起こるはずの事」が示されていると言われています。しかし、この書記されていることの中には、これが記されてから2千年経った今でも、まだ起こっていないことがあります。それは、この書の22章7節、12節、20節に記されています、

 見よ。わたしはすぐに来る。

というイエス・キリストのみことばが約束している、イエス・キリストの再臨です。
 これまで、この問題についてどのように考えたらいいかということを、いくつかお話ししてきました。きょうも、この問題を取り上げたいと思います。
 まず、私たちがわきまえておかなければならないことは、黙示録に記されていることが「黙示」であると同時に「預言」でもあるということです。黙示録に記されていることが「預言」であるということは、1章3節に、

この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。時が近づいているからである。

と記されていることから分かります。
 それで、黙示録を理解するためには、聖書に記されている預言について、基本的ないくつかのことを理解している必要があります。
 そのうちの最も基本的なことは、聖書に記されている預言は、契約の神である主が遂行される贖いの御業の歴史の中で与えられたものであり、主の贖いの御業と、その意味を説明するものであるということです。
 その主が遂行される贖いの御業には目的があります。主の贖いの御業の目的は、神さまが創造の御業によって示されたみこころを実現し、完成に至らせてくださることにあります。前回はこの主の贖いの御業の目的についてお話ししましたが、きょうは、それを補足する意味で、もう少し別な観点からお話ししたいと思います。


 繰り返しの引用になりますが、創世記1章1節には、

 初めに、神が天と地を創造した。

と記されています。
 このみことばは、およそ存在するすべてのもの、すなわち、この大宇宙のすべてのものは神さまがお造りになったものであるということを示しています。それとともに、この世界のすべてのものには「初め」があり、それは神さまがこの世界のすべてのものを創造されたことによっているということを示しています。これを言い換えますと、神さまがこの世界を歴史的な世界としてお造りになったということを意味しています。実際、神さまの創造の御業そのものが、創造の御業の6つの日にわたって展開された歴史的な御業でした。
 この歴史的な御業として展開された創造の御業には目的があります。それは、創造の御業によってこの世界が整えられるというだけのことではなく、創造の御業の第7日における神さまの安息がまったきものとなるということです。
 創世記2章1節ー3節においては、

こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。それで神は、第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち、第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。神はその第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。

と記されています。

 ここで注目すべきことは、神さまは第6日に完成したこの世界、すなわち、1章31節で、

そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。

と言われているこの世界を祝福し、聖別されたのではなく、創造の御業の第7日をご自身の安息の時として祝福し、聖別してくださいました。そして、この第7日はいまだ閉じてはいません。これが、天地創造の御業以来、今日まで続いているこの世界の歴史となっています。
 そして、神さまは人を神のかたちにお造りになって、ご自身の安息の時として祝福し、聖別してくださった第7日において、歴史と文化を造る使命をお委ねになりました。1章26節ー28節に、

そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

と記されているとおりです。

 これを別の側面から見てみましょう。これまでは創造の御業を時間的な側面、すなわち、歴史的な側面から見ましたが、空間的な側面から見てみましょう。
 神さまはこの世界をご自身のご臨在される世界としてお造りになりました。イザヤ書66章1節、2節に、

 主はこう仰せられる。
 「天はわたしの王座、地はわたしの足台。
 わたしのために、あなたがたの建てる家は、
 いったいどこにあるのか。
 わたしのいこいの場は、いったいどこにあるのか。
 これらすべては、わたしの手が造ったもの、
 これらすべてはわたしのものだ。」

と記されているとおりです。また、エレミヤ書23章24節にも、

 天にも地にも、わたしは満ちているではないか。
    主の御告げ。  

と記されています。このように、神さまがお造りになったこの世界、この大宇宙全体が、神さまのご臨在される世界として造られています。その意味で、この世界全体が神さまのご臨在される「神殿」としての意味をもっています。
そして、先ほどの創世記1章1節に記されている、

 初めに、神が天と地を創造した。

というみことばは、神さまがおよそこの世界に存在するすべてのものをお造りになったということ、この大宇宙のすべてのものは神さまがお造りになったということを示していました。そして、このイザヤ書66章1節、2節は、この神さまがお造りになった大宇宙全体が、神さまがご臨在される「神殿」としての意味をもっているということを示しているのです。
 神さまはご自身がお造りになったこの世界にご臨在され、この世界のすべてのものを真実に支え、導いておられます。それを神さまの摂理のお働きと呼びます。それで、この世界のすべてのものは、造り主である神さまの御手の作品として神さまの栄光を現していますが、そればかりでなく、この歴史的な世界に起こり来るすべてのことに、それを支え導いておられる摂理の神さまの栄光が現されています。詩篇19篇1節ー4節には、

 天は神の栄光を語り告げ、
 大空は御手のわざを告げ知らせる。
 昼は昼へ、話を伝え、
 夜は夜へ、知識を示す。
 話もなく、ことばもなく、
 その声も聞かれない。
 しかし、その呼び声は全地に響き渡り、
 そのことばは、地の果てまで届いた。

と記されています。ここには、

 天は神の栄光を語り告げ、
 大空は御手のわざを告げ知らせる。

という空間的なことだけでなく、

 昼は昼へ、話を伝え、
 夜は夜へ、知識を示す。

という時間的、歴史的なことも示されています。この昼から昼へ、夜から夜へという流れは、無機的な時間の流れではなく、ノアの時代の大洪水によるさばきの後に語られた神さまのみことばを記している創世記8章22節に記されています、

地の続くかぎり、種蒔きと刈り入れ、寒さと暑さ、夏と冬、昼と夜とは、やむことはない。

という神さまのみことばに示されているように、私たち人間の「種蒔きと刈り入れ」という基本的な営みを、真実に支え続けてくださる神さまの恵みとまことに満ちた御手の支えとかかわっています。

 昼は昼へ、話を伝え、
 夜は夜へ、知識を示す。

ということは、そのように恵みとまことに満ちた神さまのお働きが、神さまの知恵と力をあかししているということを意味しています。
 このように、神さまはこの世界をご自身がご臨在される世界としてお造りになりました。この世界全体が、造り主である神さまがご臨在される「神殿」としての意味をもっているのです。

 同時に神さまは、この私たちが住んでいる「」を「人の住みか」としてお造りになりました。イザヤ書45章18節に、

 天を創造した方、すなわち神、
 地を形造り、これを仕上げた方、
 すなわちこれを堅く立てられた方、
 これを形のないものに創造せず、
 人の住みかに、これを形造られた方、
 まことに、この主がこう仰せられる。
 「わたしが主である。ほかにはいない。」

と記されているとおりです。
 神さまはこの「」を「人の住みか」として整えてくださるに当たって、まず、ご自身が、この「」にご臨在されました。創世記1章1節、2節に、

初めに、神が天と地を創造した。地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。

と記されているとおりです。
 神さまはいまだ「形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり」と言われている状態にあった「」に特別な意味でご臨在されて、この「」をご自身の御臨在の場として聖別されました。そして、ご自身の御臨在の場として聖別されたこの「」を「人の住みか」として形造られたのです。
 このことを、地上の神殿にたとえますと、地上の神殿には、神殿全体としての建物がありました。それには神殿の庭も含まれています。いわゆる「境内」です。これはギリシャ語では「ヒエロン」ということばで表わされています。これに対して、神殿の中心には、そこに契約の神である主がご臨在される所としての聖所がありました。これはギリシャ語では「ナオス」ということばで表されています。
 これをたとえとして用いますと、神さまがお造りになったこの世界全体は神殿全体にたとえられます。そして、私たちが住んでいますこの「」は、その中心にある「聖所」にたとえられます。そして、エデンの園はその「聖所」の奥の「至聖所」にたとえられます。
 神さまはこの「」を「人の住みか」として形造られた後で、人を愛を本質的な特性とするご自身のかたちにお造りになられました。このようにして神さまは、神のかたちに造られた人をご自身の御臨在の御許に生きるもの、ご自身との愛にあるいのちの交わりのうちに生きるものとしてくださったのです。
 そればかりではありません。神さまは、先ほどお話ししましたように、人にご自身がお造りになったこの世界の歴史と文化を造る使命を委ねてくださいました。
 後に示されている神さまのみことばの光のもとで言いますと、人がこの地上において歴史と文化を造る使命を果たすことは、神さまがお造りになったこの世界全体、全被造物に深くかかわっているということを意味しています。そのことは、詩篇8篇5節、6節に、

 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、
 これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。
 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、
 万物を彼の足の下に置かれました。
と記されていることから分かります。ここで、主が、
 万物を彼の足の下に置かれました。

と言われているときの「」は、その前で、

 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、
 これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。

と言われている「」です。神さまは創造の御業において人を神のかたちにお造りになって、いわば「万物」の「かしら」としてお立てになったのです。それが、神さまが神のかたちに造られた人に歴史と文化を造る使命を委ねてくださったということです。
 神のかたちに造られた人は、神さまが特別な意味でご臨在されるこの地において、神さまの御臨在の御前に生きるもの、神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きる特権を与えられていました。神のかたちに造られた人はこのような特権を与えられているものとして、歴史と文化を造る使命を果たしていくべきものでした。そのようにして神のかたちに造られた人が造る歴史と文化は、神さまを造り主として愛しあがめることにおいて神さまを礼拝し、神さまがお造りになったこの世界に現されている神さまの栄光を讚え、神さまにいっさいの栄光を帰することを中心として造られる歴史と文化です。
 当然、そのようにして造られる歴史と文化においては、神さまの御臨在の御許にともに住まい、ともに神さまを造り主として愛し、礼拝する者たちの間にも、愛の交わりが広がっていきます。それは、さらに、自分たちに委ねられた生き物たちへのいつくしみとなって現れてきたはずです。
 このようにして、神のかたちに造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられた人がその使命を果たすことによって、造り主である神さまの栄光がより豊かに現され、讚えられるようになります。神のかたちに造られた人もそのように愛のうちを生きることによって、より深い愛をもつものとして成長していったはずです。それによって、まずまず豊かに造り主である神さまの栄光を現すようになったはずです。

           * * *
 しかし、実際には、神のかたちに造られ歴史と文化を造る使命を委ねられた人は、暗やみの主権者であるサタンの誘惑に屈し、神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまいました。そのために、人はその罪の刑罰を受けて死ぬべきものとなってしまいました。そればかりではありません、それによって、人を神のかたちにお造りになって、これに、神さまのご栄光をより豊かに現す歴史と文化を造る使命をお委ねになった神さまの創造の御業の目的は実現することなく、くじかれてしまいました。いわば、霊的な戦いにおいて、サタンが勝利した形になってしまったのです。
 そればかりではありません。神さまはこの世界全体をご自身の御臨在される世界としてお造りになりました。そのために、この世界には造り主である神さまのご栄光が豊かに現されていました。ところが、神のかたちに造られ、歴史と文化を造る使命を委ねられている人、すなわち、全被造物、神さまがお造りになったすべてのものの「かしら」として立てられている人が造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまったことにより、全被造物が虚無に服してしまったのです。ローマ人への手紙8章19節ー22節には、

被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。

と記されています。ここでは、

被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいる

と言われています。それは、

被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられ

るからであると言われています。
 これは、全被造物の「かしら」として立てられた人が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことによって、「被造物が虚無に服した」ということを踏まえています。そのことの一端は、創世記3章17節に記されていますが、最初の人アダムに対するさばきの宣言の中で、神である主が、

 あなたが、妻の声に聞き従い、
 食べてはならないと
 わたしが命じておいた木から食べたので、
 土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。

と言われたことに示されています。
 このように、神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落し、死の力に服したとき、被造物全体が神のかたちに造られた人との一体において「虚無に服した」のです。そうであれば、人が約束の贖い主のお働きによってその罪を贖われて、神の子どもとしての栄光を受けるようになるなら、被造物全体が神の子どもたちとの一体において、虚無から解放され、「神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられ」ることになるはずです。そして、これがローマ人への手紙8章19節ー22節でパウロが述べていることです。
 被造物全体が虚無から解放され、「神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられ」るということは、創造の御業においてこの世界全体が造り主である神さまがご臨在される「神殿」としての意味をもっているものとして造られたということが、その本来の意味で回復され、完成に至ることを意味しています。この世界は神さまがご臨在される世界として、神さまの栄光を映し出す世界として造られました。それの嫦娥が回復されるばかりでなく、さらに豊かに神さまの栄光を映し出す世界となるということです。
 先ほどはローマ人への手紙8章19節ー22節を引用しましたが、続く23節には、

そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。

と記されています。いまお話ししていることとかかわることだけを取り上げますが、全被造物が神の子どもたちとの一体において回復されるのは、私たち神の子どもが「からだの贖われる」時のことであることが示されています。それは、終わりの日に再臨されるイエス・キリストのお働きによって、私たちがイエス・キリストの復活の栄光にあずかってよみがえる時のことです。
 ヨハネの黙示録には、このことが「新しい天と新しい地」において実現すると記されています。21章1節ー4節には、

また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」

と記されています。
 黙示録に記されていることは、基本的に、これが記された時代に生きていた主の民、すなわち初代教会の主の民のためです。彼らはローマ帝国の圧制のために迫害を受けて苦しんでいます。黙示録は、そのような状態にある主の民が、なおも主を礼拝し、主のいっさいの栄光を帰することを中心として生きていくこと、あるいは生きていくべきことを取り上げています。実は、それこそが主の御前に歴史と文化を造る使命を果たすこととしての意味をもっています。黙示録は、それゆえに、神さまが栄光のキリストによって、主の民の歩みを完成してくださる形で、新しい天と新しい地を来たらせてくださることを示しています。
 その意味で、黙示録に記されていることが「すぐに起こるはずの事」であるということが理解できます。黙示録は、このような試練のうちにある主の民の歩みが主の創造の御業と贖いの御業の完成としての新しい天と新しい地の実現に至るまでの経緯を記すものです。それには、黙示録が記された時代にすでに始まっていて、今日までなおも続いている主の契約の民がイエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業に基づいてお働きになる御霊によって、主を礼拝し、主のいっさいの栄光を帰することを中心として「歴史と文化を造る使命」を果たす歩みが含まれています。
 ただ、これだけで、イエス・キリストの再臨が2千年後の今日にも、まだないことを説明しきることはできません。これにつきましては改めてお話ししますが、そのためにも、イエス・キリストが再臨されるのは、このような神さまの創造の御業と贖いの御業の目的を実現し完成してくださるためであることを視野に入れておく必要があります。神さまが創造の御業と贖いの御業の目的を実現し完成してくださるということとのつながりを離れて、終わりの日におけるイエス・キリストの再臨を考えると、再臨の日が、2千年たった今も、まだ来ていないということの意味は理解することができません。


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