黙示録講解

(第12回)


説教日:2011年1月2日
聖書箇所:すぐに起こるはずの事を(10)
説教題:ヨハネの黙示録1章1節ー8節


 ヨハネの黙示録1章1節には、

イエス・キリストの黙示。これは、すぐに起こるはずの事をそのしもべたちに示すため、神がキリストにお与えになったものである。そしてキリストは、その御使いを遣わして、これをしもべヨハネにお告げになった。

と記されています。
 ここでは、黙示録に記されていることは「すぐに起こるはずの事」を示すものであると言われています。しかし、黙示録にはこれが記されてから2千年経った今でも、まだ起こっていないことがあります。特に、この書の22章7節、12節、20節には、

 見よ。わたしはすぐに来る。

というイエス・キリストのみことばが記されているのに、2千年経った今も、まだイエス・キリストの再臨はありません。それで、これまで、この問題についてどのように考えたらいいのかということについて、いくつかお話ししてきました。
 先週は、イエス・キリストの再臨は、神さまの創造の御業と贖いの御業と切り離すことができないということをお話しいたしました。きょうは、そのことを補足するお話をいたします。
 神さまは創造の御業において、この世界を歴史的な世界としてお造りになりました。創世記1章1節には、

 初めに、神が天と地を創造した。

と記されています。この「天と地」ということばはヘブル語の慣用句で、およそこの世界に存在するすべてのもの、今日の私たちのことばでいえば137億光年の彼方に広がっていると言われている「大宇宙」を表しています。このみことばは、そのすべてを、神さまがお造りになったということを宣言しています。
 しかも、「初めに」ということばに示されていますように、この世界、この大宇宙には「初め」があることが示されています。そして、それは神さまの創造の御業によって始まっているということを示しています。この世界に「初め」があるということは、この世界が歴史的な世界であるということを意味しています。実際、神さまは知恵と力において無限の方です。それで神さまは、一瞬で、この世界のすべてのものをお造りになることがおできになります。しかし、神さまは創造の御業の6つの日にわたって創造の御業を遂行されました。それは、この世界が歴史的な世界として造られていることを意味しています。
 この世界が歴史的な世界であるということは、ただ単に、この世界が時間とともに変化していく世界であるということを意味しているのではありません。確かに、この世界は時間とともに変化していく世界です。しかし、それだけでは「歴史的」と言うことはできません。この世界が歴史的な世界であるということは、この世界には目的があり、その目的の実現に向かっている世界であるということを意味しています。
 この世界の目的は、もちろん、この世界をお造りになった神さまが与えてくださったものです。ものを造る人はわけの分からないものを造るのではなく、よく考えて意味のあるものを造ります。そして、そのようにして造られたものは、造った人の考えや才能や知恵などを映し出しています。神さまもこの世界を無意味なものとしてお造りになったのではなく、ご自身のみこころに沿ったよいものとしてお造りになりました。それで、この世界は神さまの知恵と力と、愛といつくしみを映し出しています。ローマ人への手紙1章20節に、

神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められる

と記されているとおりです。


 この世界が造り主である神さまとの関係で目的を持っていることは、神さまが生きておられる方で、明確なご意志をもっておられ、そのみこころにしたがってこの世界をお造りになったことから十分に推測できます。
 実際に、神さまは創造の御業の過程の中で、繰り返し、ご自身がお造りになったものをご覧になって、それを「よし」とされました。そのことが創造の御業の記事では7回記されています。「7」は聖書の中では完全数です。これによって、神さまが創造の御業によって造られたこの世界があらゆる点において、神さまのみこころにかなった「よい」世界であること、そして、神さまがお喜びになる世界であることを意味しています。ここで「よし」と訳されたことば(トーブ)には「喜ばしい」という意味もあります。そして、ここでは、神さまがお造りになったものがあることをお喜びになったことを表していると考えられます。もちろん、そのことの根底には、神さまがお造りになったものが「よい」ものであるということがあります。
 具体的に見てみましょう。1章3節、4節では、

そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。神はその光をよしと見られた。

と記されています。これが最初の事例です。その後は、10節、12節、18節、21節、25節に、

 神は見て、それをよしとされた。

と記されています。
 10節では、それに先だって記されている、大気圏の形成と海と陸の形成を受けて、

 神は見て、それをよしとされた。

と記されています。これは後に造られる植物や生き物たち、特に、神のかたちに造られた人の最も基本的な環境が形造られたことを意味しています。もちろん、その前に地にあるようにされた光も、植物や生き物たち、特に、神のかたちに造られた人の最も基本的な環境となっています。
 12節では、その前に記されている、地に植物が芽生えるようになったことを受けて、

 神は見て、それをよしとされた。

と記されています。それも、神さまがこの後に造られる生き物たちと神のかたちに造られた人の食べ物を備えてくださったことです。
 18節では、天体が「昼と夜とを区別」し、「しるしのため、季節のため、日のため、年のために、役立」つようになったことを受けて、

 神は見て、それをよしとされた。

と記されています。これも、人間の種まきや収穫のような、時間的な営みにとって基本的に大切な環境が整えられたことを受けています。
 これらのことは、イザヤ書45章18節に、神さまが「」を「人の住みか」としてお造りになったと言われていることにかかわっています。確かに、この「」には造り主である神さまのいつくしみが満ちています。詩篇33篇5節には、

 地は主の恵みに満ちている。

と記されています。ここで「恵み」と訳されていることば(ヘセド)は、豊かな意味をもっていて、愛とあわれみなどをも含んでいます。
 さらに、21節では、海に生息する生き物や鳥を初めとして飛ぶ生き物が造られたことを受けて、

 神は見て、それをよしとされた。

と記されています。そして、25節では、野の獣や家畜を初めとして、地の上に生息する生き物たちが造られたことを受けて、

 神は見て、それをよしとされた。

と記されています。
 そして、7回目となりますが、31節に、

そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。

と記されています。

 ここには一つの疑問があります。1章26節に、

そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。

と記されていることにしたがって、人が神のかたちに造られ、歴史と文化を造る使命が委ねられました。そして、そのことが、27節、28節に、

神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

と記されています。それなのに、そのことを受けて、

 神は見て、それをよしとされた。

と記されてはいないのです。
 神のかたちに造られた人のために必要な基本的な環境が整えられたことについては、4回繰り返して、

 神は見て、それをよしとされた。

と記されていますし、生き物たちが造られたときにも、2度にわたって、

 神は見て、それをよしとされた。

と記されています。それなのに、肝心な、人が神のかたちに造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられたときには、

 神は見て、それをよしとされた。

と記されてはいないのです。これはいったい、どういうことでしょうか。
 この問題を解決するための鍵は、この31節の、

そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。

というみことばの理解の仕方にあります。
 この場合の、神さまが「お造りになったすべてのもの」とは、1節で、

 初めに、神が天と地を創造した。

と言われているときの「天と地」、すなわち、この大宇宙のすべてのもののことです。ただし、2節冒頭において、直訳ですが、「さて、地は」と記されていますように、2節以下においては、創造の御業の記事の関心が「」に移されており、神さまの創造の御業も「」からの視点で見たものとして記されています。つまり、あたかもそこに人間がいて神さまの創造の御業を見ているかのように記されているのです。それによって、この創造の御業の記事を通して、私たち人間が神さまの創造の御業を見ているかのように知ることができるのです。
 31節に記されている、

そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。

ということばも、2節以下に記されている「」からの視点から見た神さまの創造の御業の記事の一部です。ですから、ここに出てくる神さまが「お造りになったすべてのもの」とは、「」からの視点から見た、神さまが「お造りになったすべてのもの」のことです。今日では、「」からの視点で宇宙を見ている人間でも、それが137億光年の彼方に広がっていることが見て取れるようになっています。
 このように見ますと、31節において、

そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。

と言われているときの、神さまが「お造りになったすべてのもの」の中心には、神のかたちに造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられている人がいることが分かります。言い換えますと、神さまは人を神のかたちにお造りになって、これに歴史と文化を造る使命をお委ねになって初めて、「お造りになったすべてのもの」を「非常によかった」とご覧になられたのです。

 このことは、神さまが神のかたちに造られた人に委ねてくださった歴史と文化を造る使命は、神さまが「お造りになったすべてのもの」にかかわっていることを意味しています。そのことは、先週も取り上げました、詩篇8篇5節、6節により明確に示されています。そこには、

 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、
 これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。
 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、
 万物を彼の足の下に置かれました。

と記されています。この最後に出てくる「万物」とは、まさに、創世記1章31節に述べられている、神さまが「お造りになったすべてのもの」のことです。
 先ほど引用しましたローマ人への手紙1章20節には、

神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められる

と記されていました。神さまが「お造りになったすべてのもの」において、神さまの「永遠の力と神性」が現されています。詩篇19篇1節には、

 天は神の栄光を語り告げ、
 大空は御手のわざを告げ知らせる。

と記されていますし、先ほど引用しました33篇5節には、

 地は主の恵みに満ちている。

と記されていました。神のかたちに造られた人は、神さまが「お造りになったすべてのもの」に現されている神さまの「永遠の力と神性」を受け止め、神さまを造り主として礼拝し、その愛と恵みといつくしみに感謝をささげていくことを中心として、委ねられた歴史と文化を造る使命を果たしていくように召されているのです。

 その歴史と文化を造る使命は、創世記1章28節に、

生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。

と記されています。これまで、後半の、

地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。

という使命についてお話ししてきました。この使命は、最初の人がその「」を耕していることに現れています。それは、神さまが「」に備えてくださっているさまざまな資源を生かして、委ねられた生き物たちのお世話をしていくことを意味していました。これは、愛を本質的な特性とする神のかたちに造られた人がその本質的な特性を、神さまから委ねられたこの地とすべての生き物たちに向かって現すことに他なりません。そのようにして愛のわざを行うとき、人はこの地と生き物たちにかかわっていきます。そして、この地とさまざまな生き物をお造りになった神さまの知恵と力と愛といつくしみに触れるようになります。それはまた、神さまへの礼拝と感謝につながっていきます。詩篇104篇13節には、

 主はその高殿から山々に水を注ぎ、
 地はあなたのみわざの実によって
 満ち足りています。

と記されており、24節にも、

 主よ。あなたのみわざはなんと多いことでしょう。
 あなたは、それらをみな、
 知恵をもって造っておられます。
 地はあなたの造られたもので満ちています。

という感謝と讃美の告白が記されています。
 ここで、注目したいのは、歴史と文化を造る使命の最初に示されている使命です。それは、

 生めよ。ふえよ。地を満たせ。

というものです。私たちは、人が生まれて増えていくことは当たり前のことであって、このようにわざわざ命じられるまでもないことであると感じてしまいます。しかし、これには意味があります。
 神のかたちに造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられている人が、地を満たすようになるとどうなることでしょうか。造り主である神さまを神として礼拝して、すべての栄光を神さまに帰する人々が地に満ちるようになっていたはずです。造り主である神さまへの感謝と讃美が地に満ちていたはずです。そして、神のかたちの本質的な特性である愛といつくしみが、地の至る所で、具体的な形で現されていたはずです。神のかたちに造られた人が委ねられている歴史と文化を造る使命を果たすとは、このようなことです。神のかたちに造られた人はこのような使命を委ねられていましたし、今も委ねられているのです。
 これまで繰り返し引用してきましたが、創世記2章1節〜3節には、

こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。それで神は、第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち、第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。神はその第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。

と記されています。
 造り主である神さまの安息の日として祝福されて聖別されている創造の御業の第7日が、この世界の歴史となっていて、今日までも続いています。つまり、神のかたちに造られた人は、この創造の御業の第7日において、神さまから委ねられた歴史と文化を造る使命を果たすように召されているのです。それで、歴史と文化を造る使命は神さまの安息がまっとうされることと深くかかわっています。

 神のかたちに造られた人が感謝と讃美をもって造り主である神さまを礼拝し、いっさいの栄光を神さまに帰することを中心として、歴史と文化を造る使命を果たしていくと、どうなっていたでしょうか。先ほどお話ししましたように、この地に神さまへの感謝と讃美が満ちあふれた歴史と文化が造られていったはずです。
 そればかりではありません。これは、聖書に示されているみことばの教えの全体から汲み取ることができることですが、詳しい説明は省いて、結論的なことだけをお話しします。
 神のかたちに造られた人は、そのようにして、神さまから委ねられた歴史と文化を造る使命を果たしますと、そのことへの報いとして、さらに豊かな栄光を受け、さらに豊かな神さまとの愛の交わりのうちに生きるものとされていたはずです。また、同じく神のかたちに造られている人の間の愛の交わりもより豊かなものになっていたはずです。そのような、より豊かな栄光にある神さまとの愛にある交わりを、聖書は「永遠のいのち」と呼んでいます。
 神のかたちに造られた人がこの永遠のいのちに入るとき、神さまと神のかたちに造られた人との交わりはまったきものとなります。当然、神のかたちに造られた人同士の交わりもまったきものとなります。
 そればかりではありません、神のかたちに造られた人に委ねられた、神さまが「お造りになったすべてのもの」が、人との一体において、栄光あるものとされます。
 このすべてのことが実現するときに、造り主である神さまの安息がまっとうされます。そのようにして、創造の御業の第7日が終わりますが、それですべてが終わってしまうのではありません。それは、より豊かな栄光に満ちたものとされた神のかたちに造られた人を中心とした、栄光ある世界の歴史が始まることを意味しています。いわば、それは、「第8日」が始まることを意味しています。
 どうして、このようなことが分かるのかといいますと、聖書のみことばが繰り返し、私たちご自身の契約の民の罪を贖うために十字架にかかって死んでくださり、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださったイエス・キリストが、神のかたちに造られた人に委ねられた歴史と文化を造る使命をまっとうされたと教えているからです。その一つの個所であるヘブル人への手紙2章5節ー9節には、

神は、私たちがいま話している後の世を、御使いたちに従わせることはなさらなかったのです。むしろ、ある個所で、ある人がこうあかししています。
 「人間が何者だというので、
 これをみこころに留められるのでしょう。
 人の子が何者だというので、
 これを顧みられるのでしょう。
 あなたは、彼を、
 御使いよりも、しばらくの間、低いものとし、
 彼に栄光と誉れの冠を与え、
 万物をその足の下に従わせられました。」
万物を彼に従わせたとき、神は、彼に従わないものを何一つ残されなかったのです。それなのに、今でもなお、私たちはすべてのものが人間に従わせられているのを見てはいません。ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。

と記されています。
 ここでヘブル人への手紙の著者が引用しているのは、先ほど引用しました詩篇8篇5節、6節を含む、4節ー6節です。そして、9節に記されています、

ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。

ということばは、イエス・キリストが歴史と文化を造る使命を、原理的に、成就しておられるということを示しています。
 このことは、引用はしませんが、エペソ人への手紙1章22節とコリント人への手紙第一・15章27節で、より明確に示されています。このことがより明確に示されているこれらの個所ではなく、ヘブル人への手紙2章5節ー9節を取り上げたのには理由があります。それは、ヘブル人への手紙2章5節では「私たちがいま話している後の世」のことが取り上げられているからです。
 この「後の世」は終わりの日に完成する「新しい天と新しい地」に当たるものです。5節では、神さまはこの「後の世」を「御使いたちに従わせることはなさらなかった」と言われています。そして、これに続く6節ー8節においては、詩篇8篇4節ー6節を引用して、この「後の世」が、神のかたちに造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられている人に委ねられていることが示されています。
 創造の御業において神さまが神のかたちにお造りになった人に委ねられた歴史と文化を造る使命は、創造の御業から始まるこの世界の歴史と文化を造る使命です。しかし、ヘブル人への手紙2章5節ー9節にはそれ以上のことが記されています。歴史と文化を造る使命は「私たちがいま話している後の世」すなわち「新しい天と新しい地」の歴史と文化を造ることにもかかわっている使命であるということです。
 このことはとても大切なことを示しています。
 イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いの御業は、神さまが創造の御業において、人を神のかたちにお造りになって、これに歴史と文化を造る使命を委ねてくださったことにかかわるみこころのすべてを、成就し、完成に至らせてくださるものであるということです。イエス・キリストはすでに、その十字架の死によって私たちの罪を完全に贖ってくださっています。そして、その十字架の死に至るまでの従順に対する報いを受けて死者の中からよみがえってくださり、私たちをご自身の復活のいのち、より栄光に満ちたいのちによって新しく生まれさせてくださっています。その私たちは、すでに、原理的に歴史と文化を造る使命を成就しておられるイエス・キリストにあって、新しい時代の歴史と文化、ヘブル人への手紙2章5節のことばでは「私たちがいま話している後の世」につながっている歴史と文化を造るように召されているのです。
 この新しい時代の歴史と文化は、肉によらず、御霊によって導かれて歩むことによって造られる歴史と文化です。言い換えますと、栄光を受けて父なる神さまの右の座に着座されたイエス・キリストが、そこから注いでくださった御霊によって、私たちを導いてくださって造り出してくださる歴史と文化です。
 イエス・キリストは、御霊によって私たちのうちに始めてくださった、このすべてを完成してくださるために、終わりの日に再臨されるのです。ですから、イエス・キリストが再臨されるようになるまでには、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりにあずかって、罪を贖われ、復活のいのちによって新しく生かされている主の契約の民が、御霊によって導かれて、神さまを礼拝することを中心として、ヘブル人への手紙2章5節のことばでいう「私たちがいま話している後の世」につながっている歴史と文化を造る必要があります。しかし、もしイエス・キリストが黙示録が記されて間もなく再臨しておられたとしたら、主の契約の民がこの「後の世」につながっている歴史と文化を造る時間はほとんどなかったことになってしまいます。
 実際には、イエス・キリストは、今日に至るまで、御霊によってご自身の民を導いてくださって、この「後の世」につながっている、新しい時代の歴史と文化を造るようにしてくださっています。そして、終わりの日には再臨されて、このすべてを完成に至らせてくださいます。


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