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説教日:2011年1月9日 |
神さまは創造の御業によって、この世界を歴史的な世界としてお造りになりました。その御業を記している創世記1章1節ー2章3節の見出しに当たる1章1節には、 初めに、神が天と地を創造した。 と記されていて、この世界のすべてのものが神さまの創造の御業によって造られたと言われています。私たちのことばで言いますと、137億光年の彼方に広がっていて、全体がみごとな調和のうちに存在している、壮大な宇宙のすべてのものは神さまがお造りになったということです。 また、この見出しに当たるみことばでは、ただ、 神が天と地を創造した。 と言われているのではなく、 初めに、神が天と地を創造した。 と言われていていて、この世界のすべてのものには「初め」があることと、その「初め」は神さまの創造の御業によっているということが示されています。 このことが宣言されてから、2節以下では、私たちが住んでいるこの「地」に焦点が合わされています。2節ではこの「地」の最初の状態が、 地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。 と記されています。このような状態にあった「地」が、創造の御業の6つの日にわたる御業によって、イザヤ書45節18節のことばで言いますと、「人の住みか」に形造られました。その意味で、創造の御業そのものが歴史的に進展する御業でした。創造の御業の最後において、神さまは人をご自身のかたち、神のかたちにお造りになり、これに歴史と文化を造る使命をお委ねになりました。27節、28節に、 神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」 と記されているとおりです。 この神のかたちに造られた人に委ねられている歴史と文化を造る使命は、ただ自分たちが住んでいるこの「地」にかかわっているだけではなく、神さまがお造りになったすべてのもの、壮大な宇宙のすべてにかかわっています。そのことは、詩篇8篇3節ー6節に記されている、 あなたの指のわざである天を見、 あなたが整えられた月や星を見ますのに、 人とは、何者なのでしょう。 あなたがこれを心に留められるとは。 人の子とは、何者なのでしょう。 あなたがこれを顧みられるとは。 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、 これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、 万物を彼の足の下に置かれました。 というみことばにおいて明確に示されています。 神のかたちに造られた人に委ねられた歴史と文化を造る使命は、神さまが人にこの壮大な宇宙のすべてのものを治めることを託されたものでした。もちろん、人は宇宙の果てにまで行くことはできません。ですから、これは物理的な支配のことではありません。そのような支配は造り主である神さまご自身がしてくださっていることです。厳密には、父なる神さまが御子イエス・キリストを通して、お造りになったすべてのものを真実に支えてくださっているということです。ヘブル人への手紙1章3節に、 御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。 と記されていますように、「力あるみことばによって万物を保っておられ」るのは御子イエス・キリストです。神のかたちに造られた人が「万物」を治めるということは、この事実の上に立ってのことです。言い換えますと、御子イエス・キリストによって、すべてのものをお造りになり、お造りになったすべてのものを保ってくださっている神さまのしもべとして、神さまから委ねられた使命を果たすのです。 先ほど引用しました詩篇8篇の3節には、 あなたの指のわざである天を見、 あなたが整えられた月や星を見ますのに、 と記されていました。より直訳調には、 私があなたの指のわざであるあなたの天と、 あなたが整えられた月や星を見るときに、 となります。 ここでは神のかたちに造られた人が神さまがお造りになった「天」を見上げることが記されています。しかし、ただ見上げるのではありません。その「天」を神さまの「指のわざである」と見ますし、「あなたの天」、すなわち、神さまの「天」として見ています。ですから、その「天」を見ること自体が造り主である神さまへの信仰告白としての行為であり、讃美を伴うものとなっています。ほかの生き物たちの中にも「天」を見上げる存在はいることでしょう。しかし、それが造り主である神さまの「天」であり、神さまの「指のわざである」との認識と告白のもとに見上げる存在は神のかたちに造られた人しかいません。これが造り主にして契約の神である主のしもべとして、委ねられたすべてのものを治めることの根本にあることです。 造り主である神さまがお造りになったものを神さまの「御手のわざ」、「指のわざである」として認めて、その御手の作品に表されている神さまの知恵と力の具体的な現れを見出しながら、いっさいの栄光を神さまに帰して、神さまを礼拝することが、神さまから委ねられた歴史と文化を造る使命を果たすことの中心にあります。この歴史と文化を造る使命の中心にあることは、地にあって人の手に届く所にあるものに対しても、天にあって人の手が届かない所にあるものに対しても、変わることなく果たすことができます。 神のかたちに造られた人は神さまがお造りになったすべてのものを、神さまの御手の作品であり、それゆえに神さまのものであると告白しつつ、神さまにすべての栄光を帰していきます。そのような人が、 生めよ。ふえよ。地を満たせ。 という、歴史と文化を造る使命の最初の戒めにしたがって、「地を満た」していくとしますと、「地」は造り主である神さまへの礼拝者で満たされ、神さまへの感謝と讃美で満たされていったはずです。また、神のかたちに造られた人がお互いの間に交わす愛と、委ねられた生き物たちへの愛といつくしみが至る所に満ちていたはずです。 しかし、実際には、神のかたちに造られた人は暗やみの主権者であるサタンの誘惑に屈して、神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまいました。これによって、神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人は、神さまの御手の作品であるこの世界を見ても、神さまを造り主として認めることはなくなりました。まして、感謝と讃美をもって神さまを礼拝することはなくなりました。神のかたちに造られた人が造り主である神さまから委ねられた歴史と文化を造る使命を果たすことは、なくなってしまいました。 人がそのような状態になってしまったからといって、神のかたちに造られ、歴史と文化を造る使命を委ねられているという事実が変わってしまったのではありません。人はそのように造られているものとして、歴史を造りますし文化的な活動をします。しかし、その働きを通して、造り主である神さまに栄光を帰し、神さまを礼拝することはしないものとなってしまったのです。 神さまはそのような人がどのような歴史と文化を造り出すかということを、歴史の中で一度だけ、示されたことがあります。それがノアの時代の歴史的な状況です。創世記6章5節には、 主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。 と記されています。人の「心に計ることが」、範囲において「みな」、時間的に「いつも」、質的に「悪いことだけ」というように、悪が人のうちに徹底化してしまっていることが示されています。この場合の「悪いこと」と訳されていることば(ラア)は、人の内的な性質としての「悪」を表していますし、それが人の「心の思いの傾向」(直訳)ですので、人の内側の腐敗が徹底化していることを表しています。ここでは、それを主が「ご覧になった」と言われているように、この「悪」は、人にとって都合が悪いことというのではなく、神さまとの関係における悪のことです。 神さまは人類の歴史の中で一度だけ、人がその罪による腐敗を極まらせてしまうに至ることをお許しになりました。それによって、もし人がその罪による腐敗を極まらせてしまうことを、神さまが一般恩恵による御霊のお働きによって止めてくださらないなら、どのような事態になってしまうことを、実際の歴史の中でお示しになったのです。 そのような状態になってしまっている人が、 生めよ。ふえよ。地を満たせ。 という、歴史と文化を造る使命の最初の戒めのとおりに、「地を満た」していきました。もちろん、その使命を自覚して、それに従っているのではありません。その結果、先ほどの6章5節前半において、 主は、地上に人の悪が増大したのをご覧になった。 と言われており、11節、12節において、 地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである。 と言われている事態になってしまったのです。この11節、12節においては、「堕落していた」ということば(シャーハト)が2回出てきます(「乱していた」も同じことばですが、語幹が違います)。新改訳がこのことばを「堕落していた」と訳しているのは、この「地」が「地に住むもの」としての「人」を指しているという理解によっています。しかし、ここでは「地」(ハー・アレツ)ということばが、代名詞を用いないで、3回繰り返されています(「地上で」は「地の上で」)。これは、ここで「地」そのものに関心が注がれていることを示しています。それで、ここでは「地」は「地」そのものを表していると考えられますし、「堕落していた」と訳されていることばは「荒廃していた」ということを述べていると考えられます。そうしますと、これは、 地は、神の前に荒廃し、地は、暴虐で満ちていた。神が地をご覧になると、実に、それは、荒廃していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである。 となります。 いずれにしましても、創造の御業において、神のかたちに造られ、 生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。 という歴史と文化を造る使命を委ねられ、「地」を神さまへの感謝と讃美によって満たすはずの人が、また、委ねられた生き物たちへの愛といつくしみを至る所で注いでいたはずの人が、造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまった結果、「地」を荒廃させ、「暴虐」で満たしてしまったのです。そして、そのような事態を引き起こした人自身が、「その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾く」ようになり、「地上でその道を乱していた」のです。 そのすべてをご覧になった神さまのことが、6節、7節に、 それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。そして主は仰せられた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。」 と記されています。このみことばは、このような事態は、神さまによって創造の御業そのものが無に帰してしまったものと見なされていることを示しています。 ここで注目すべきことは、ここで神である主は、ただ、 地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた だけでなく、 わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。 という決心をされたということです。 造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落を極まらせたのは神のかたちに造られた人です。それによって「地」を荒廃させ、「暴虐」で満たしたのも、神のかたちに造られた人です。「家畜やはうもの、空の鳥」には倫理性や道徳性はありません。それで、これらの生き物は造り主である神さまに対して倫理的・道徳的な責任を負ってはいません。それなのに、神である主は、 わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。 と言われました。これは、創造の御業において神さまが、人を神のかたちにお造りになって、これに歴史と文化を造る使命を委ねてくださったことによって、「家畜やはうもの、空の鳥」が、神のかたちに造られた人との一体にあるものとされたことによっています。 ですから、ノアの時代の大洪水によるさばきは、その時代において、神のかたちに造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられた人の罪が腐敗を極まらせてしまったために執行された、終末的なさばきでした。先ほどお話ししましたように、もし神さまが一般恩恵による御霊のお働きによって止めてくださらないなら、人はたちまちのうちに、自らの罪による腐敗を極まらせてしまい、神さまの終末的なさばきを招くようになってしまいます。 しかし、このような終末的なさばきが執行されたときに、神さまは「残りの者」として、ノアを残してくださいました。この場合も、ノアとその家族だけでなく、ノアとともに、あらゆる種類の生き物たちを残してくださいました。14節ー16節には、神さまがノアにどのように箱舟を造るかを示してくださったことが記されています。そして、18節、19節には、 しかし、わたしは、あなたと契約を結ぼう。あなたは、あなたの息子たち、あなたの妻、それにあなたの息子たちの妻といっしょに箱舟にはいりなさい。またすべての生き物、すべての肉なるものの中から、それぞれ二匹ずつ箱舟に連れてはいり、あなたといっしょに生き残るようにしなさい。それらは、雄と雌でなければならない。 と記されています。 ノアとその家族とともに、生き物たちが残されることは、先ほど引用しました、 わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。 という神である主のみことばに示されていることの根底にあることと同じ理由によっています。つまり、創造の御業において神さまが人を神のかたちにお造りになって、歴史と文化を造る使命を委ねてくださったことによっているのです。 このことを、3章15節に記されている「最初の福音」とのかかわりで見ることができます。「最初の福音」は、 わたしは、おまえと女との間に、 また、おまえの子孫と女の子孫との間に、 敵意を置く。 彼は、おまえの頭を踏み砕き、 おまえは、彼のかかとにかみつく。 という神である主の、「蛇」の背後にあって働いていたサタンに対するさばきの宣言です。 いまお話ししていることとかかわることだけをお話ししますが、これは、神である主がこの時に直接的にサタンに対する最終的なさばきを執行しないで、やがて来たるべき「女の子孫」のかしらによって、最終的なさばきを執行されるということを示しています。これ以後、サタンは、その「女の子孫」を亡き者にしようとして働きます。それが成功したように見えたときが、ノアの時代に至るまでの人類の歴史であり、その結果もたらされた大洪水による終末的なさばきの執行です。ノアの時代に至るまでの人類の歴史においては、最後には「女の子孫」はノアとその家族だけになってしまっていました。もはや、「女の子孫」の歴史も風前のともしびでした。 全世界が造り主である神さまを神として礼拝することがない状況の中で、たった一家族だけが「女の子孫」にかかわる契約の神である主の約束を信じ、主を神として礼拝していたのです。人の目から見ますと、ノアとその家族は、まさに「孤立無援」の状態にありました。しかし、大洪水によるさばきの執行の7日前に、主はノアに、 あなたとあなたの全家族とは、箱舟にはいりなさい。あなたがこの時代にあって、わたしの前に正しいのを、わたしが見たからである。 と言われました。人の目からは、また、ノア自身の実感からも、全人類が造り主である神さまに背を向けて歩む流れの中にノアが埋没してしまっていると見える状況の中で、主の御目がしっかりとノアに向けられていることが示されています。もちろん、「あなたがこの時代にあって、わたしの前に正しい」ということは、ノアに罪がなかったということではありません。ノアの正しさは、神である主が約束してくださった「最初の福音」を信じて、その恵みを信じて歩んでいたことにある正しさです。私たちにおける「信仰による義」に当たります。 このように、神さまはノアとその家族、そして、ノアとともに箱舟にはいった生き物たちを、大洪水による終末的なさばきから救い出してくださいました。ノアの時代の大洪水によるさばきは、地上的なひな型としての意味をもっています。それは地上的なひな型として、私たちに大切ないくつかのことを教えています。ここでは三つのことだけを取り上げておきます。 第一に、神さまは必ず終末的なさばきを執行されるということです。新約聖書はいろいろなところで、終わりの日のさばきをノアの時代の大洪水によるさばきをもって説明しています。たとえば、マタイの福音書24章37節、38節には、 洪水前の日々は、ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。 と記されています。 そして、ノアの時代の大洪水によるさばきによって、その時代の人々だけでなく、すべての生き物たちも滅ぼされました。それは、創造の御業において神のかたちに造られた人に委ねられた歴史と文化を造る使命によって、生き物たちが人との一体にあるものとされていることによっています。そして、このことは終末的なさばきが、創造の御業において神のかたちに造られた人に委ねられた歴史と文化を造る使命をめぐるさばきであるということを示しています。このことにおいても、人類の歴史の初めと終わり、創造と終末が対応しています。 第二に、神さまはその終末的なさばきからご自身の契約の民を救ってくださるために、一方的な恵みによる救いを備えてくださっているということです。ノアの時代は救いの手段としての箱舟です。私たちにとっては、御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いです。 神さまはノアとその家族だけでなく、ノアとともにいるようにしてくださった生き物たちをも救ってくださいました。それは、神さまが創造の御業において神のかたちに造られた人に歴史と文化を造る使命を委ねてくださったことに基づいていました。このことは、終末的な救いは、ただ単に、私たちを終わりの日のさばきから救ってくださるというだけでなく、神さまが創造の御業において神のかたちに造られた人に委ねてくださった生き物たちを初めとして、この世界を回復してくださるということを意味しています。そして、神さまは私たちを救ってくださって、歴史と文化を造る使命を果たすようにしてくださいます。 第三に、これと関連していますが、実際に、洪水後に箱舟から出てきたノアとその家族と、生き物たちによって、洪水後の新しい時代の歴史と文化が造られていくようになりました。このことは、地上的なひな型として、契約の神である主が備えてくださった贖いの恵みによって、終わりの日のさばきから救い出された主の契約の民によって、新しい時代、すなわち「新しい天と新しい地」の歴史と文化が造られるようになるということをあかししています。 これまでお話ししてきましたことを重ねますと、歴史と文化を造る使命は、神さまがお造りになった世界において、造り主である神さまを礼拝し、感謝と讃美をもって神さまにいっさいの栄光を帰することを中心として果たされます。それによって、神さまがお造りになった世界が神さまへの礼拝者によって満たされ、讃美と感謝に満ちあふれるようになり、お互いの間と、生き物たちに注がれる愛といつくしみにあふれるようになるのです。私たちはいま、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによる罪の贖いにあずかって、このような意味での歴史と文化を造る使命を果たすように召されています。そして、終わりの日にイエス・キリストは再臨されて、いま私たちの間に実現されている、新しい時代の歴史と文化を造る使命を完成へと至らせてくださいます。 私たちがいまここで造り主である神さまを礼拝していることは、人の目にも、また私たちの実感においても、この世の歴史の流れの中に埋没してしまっているように見えます。このような小さな群れが礼拝をしていることが、この時代の大きな流れの中で、どのような意味あるのかと自問したくなるかもしれません。しかし、私たちはみことばにあかしされている神さまの創造の御業と贖いの御業にかかわる壮大なご計画の中にあって、最も大切で、大きな意味をもっている、造り主である神さまへの礼拝をささげているのです。ノアの時代に神さまを礼拝する者がノアがひとりであっても、主はしっかりとノアに御目を留めてくださっていました。そして、ノアとその家族によって、新しい時代につながる歴史を造ってくださいました。私たちが主の贖いの恵みのうちにあって、造り主である神さまを礼拝するなら、主の御目は確かに私たちに注がれています。そして、御霊によって導かれて歩む歩みを、新しい天と新しい地につながる歴史として造り出してくださいます。 |
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