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説教日:2011年1月16日 |
先主日は、このこととのかかわりで、古い契約のもとにあった時代において執行された終末的なさばきであるノアの時代の大洪水によるさばきについてお話ししました。それを簡単に復習してから、さらにお話を進めます。 神さまは人類の歴史において一度だけ、人の罪がその本性をそのまま現して、腐敗を極まらせてしまうに任せられました。それによって、人類は個人においても、全体としても罪を極まらせてしまいました。それが、創世記6章5節に、 主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。 と記されている人類の状況です。「その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに」ということばは、その悪の徹底した状態を示しています。それ以上このような状態を放置するなら、「神さまの聖さはどうなっているのか」というように、神さまの聖さが問われることになるというほどに悪が極まってしまったのです。それは罪の升目が満たされてしまったということです。 これに続いて、6節、7節には、 それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。そして主は仰せられた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。」 と記されています。そのようにして、神さまは、 人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで を大洪水によるさばきによって滅ぼされました。 これはこのノアの時代だけの問題ではなく、そのように人の悪が極まってしまうに至るさまざまな原因を造り出してきた人類の歴史全体に対するさばきとしての意味をもっています。その意味で、これは、地上的な「ひな型」としての限界がありますが、終末的なさばきであったのです。 このさばきにおいては、罪の腐敗を極まらせてしまった人だけでなく、すべての生き物が人とともにさばきを受けて滅ぼされてしまいました。それは、1章28節に、 神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」 と記されている歴史と文化を造る使命によって、生き物たちが神のかたちに造られた人と一体にあるものとされていることによっています。これと対応して、神さまはノアとその家族を大洪水によるさばきから救ってくださっただけでなく、ノアと一体にされたあらゆる種類の生き物たちをも救ってくださいました。これも、神のかたちに造られた人に委ねられている歴史と文化を造る使命に基づいています。 このことは、ローマ人への手紙8章19節ー21節に、 被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。 と記されていることにつながっています。神のかたちに造られた人が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったときに、創造の御業において、神のかたちに造られた人と一体にあるものとされた全被造物も「虚無」に服してしまいました。ちょうど、生き物たちがノアとの一体において救われて、洪水後の新しい時代に生きるようになったのと同じように、「虚無に服した」被造物は、神の子どもたちとの一体において、「神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます」。私たちがイエス・キリストの十字架の死にあずかって罪を贖われ、イエス・キリストの死者の中からのよみがえりにあずかって復活のいのちに生きるようになったことは、全被造物が「虚無」から解放され、「神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられ」るようになることの出発点としての意味をもっています。 大洪水によるさばきをとおって救われたノアとその家族と、ノアとともに救われた生き物たちによって、洪水後の新しい歴史と文化が造られました。その出発点において、神さまはノアとその家族と生き物たちにご自身の契約を与えてくださいました。創世記9章8節ー11節には、 神はノアと、彼といっしょにいる息子たちに告げて仰せられた。「さあ、わたしはわたしの契約を立てよう。あなたがたと、そしてあなたがたの後の子孫と。また、あなたがたといっしょにいるすべての生き物と。鳥、家畜、それにあなたがたといっしょにいるすべての野の獣、箱舟から出て来たすべてのもの、地のすべての生き物と。わたしはあなたがたと契約を立てる。すべて肉なるものは、もはや大洪水の水では断ち切られない。もはや大洪水が地を滅ぼすようなことはない。」 と記されています。 今日に至るまでの人類の歴史は、この神さまの契約に基づいて、再び「大洪水の水では断ち切られ」ることがないように守られ、支えられてきました。それは、洪水前の時代のように人類の罪が極まってしまっても、神さまがさばきを執行されないという意味ではありません。そのようなことになって神さまの聖さが問われるほどになっても、神さまがそれを見逃されるということではないのです。そういうことではなく、人類の罪が洪水前の時代のようにならないように、罪の腐敗が極まることがないように、神さまが一般恩恵に基づく御霊のお働きによって守ってくださるということです。 これはあくまでも暫定的な措置です。というのは、神さまが目指しておられたのは、人類の歴史をこのまま、すなわち、神のかたちに造られた人が罪によって腐敗した状態にあるまま存続させることにあるのではないからです。神さまが目指しておられたのは、やがて御子イエス・キリストが「最初の福音」において約束されていた「女の子孫」のかしらであられる方として来られて、その十字架の死と死者の中からのよみがえりによって贖いの御業を成し遂げてくださることにありました。そして、ご自身の民をその罪の贖いにあずからせてくださって、罪とその結果である死と滅びから解放し、復活のいのちによって新しく生まれさせてくださって、ご自身との栄光に満ちた愛にあるいのちの交わりのうちに生きる神の子どもとしてくださることにありした。それは、そのようにして神の子どもとされた私たち主の契約の民をとおして、新しい時代の歴史と文化を造り出してくださるためでした。神さまはこれらのことが成し遂げられるまで人類の歴史が存続するように、「暫定的な措置」を講じてくださったのです。 御子イエス・キリストは、「最初の福音」に示されているサタンと罪によってサタンと一つになってしまっている者たちを最終的におさばきになって、すべての罪を清算されます。そればかりでなく、私たち神の子どもたちが造り出す新しい時代の歴史と文化を完成に至らせてくださいます。それが黙示録の最後に示されている新しい天と新しい地の創造です。その日には、主に贖われて神の子どもとされている私たちは、新しい天と新しい地の歴史と文化を造るようになります。 このような目的のために、神さまは洪水後の世界の歴史が存続するように、一般恩恵に基づく御霊のお働きによって、人類がその罪の腐敗を極まらせてしまうことがないように守ってくださるようになりました。その一般恩恵に基づく御霊のお働きには、消極的な面と積極的な面があります。 消極的な面は、人の心を腐敗させている罪がその腐敗を極まらせてしまうことを抑止してくださるお働きです。創造の御業において神さまは、神のかたちに造られた人の心にご自身の律法を記してくださっています。神さまは御霊によって、心に記された律法をお用いになって、人のうちにある良心が働くようにしてくださっています。ローマ人への手紙2章14節、15節に、 律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行いをする場合は、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。彼らはこのようにして、律法の命じる行いが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。 と記されているとおりです。このようにして、人が一般的な意味での善と悪をわきまえ、悪を良くないこととして自覚して、それを避けるように良心の働きを啓発してくださっています。 より積極的な面としては、人が自らの心に記されている律法にょって、社会に法的な秩序を確立し、それを保つように、一般恩恵に基づいてお働きになる御霊によって啓発してくださっています。このようにして、法治国家が成立しています。また、御霊は、このように法的なことだけでなく、芸術や学問の諸分野など、さまざまな文化的な活動を啓発してくださっています。 神さまはこのように、一般恩恵に基づいてお働きになる御霊によって、神のかたちに造られた人の内側に働きかけてくださっているだけではありません。この世界の体制のあり方にも働きかけてくださっています。 洪水後の世界において、再び、ノアの時代のような状況が生み出されるような兆しが現れてきました。創世記10章8節ー12節には、 クシュはニムロデを生んだ。ニムロデは地上で最初の権力者となった。彼は主のおかげで、力ある猟師になったので、「主のおかげで、力ある猟師ニムロデのようだ」と言われるようになった。彼の王国の初めは、バベル、エレク、アカデであって、みな、シヌアルの地にあった。その地から彼は、アシュルに進出し、ニネベ、レホボテ・イル、ケラフ、およびニネベとケラフとの間のレセンを建てた。それは大きな町であった。 と記されています。 大ざっぱなことしかお話しすることができませんが、ここでは、 ニムロデは地上で最初の権力者となった。 と言われています。これは洪水後の歴史におけることです。その帝国の範囲は、「バベル、エレク、アカデ」によって示されているメソポタミアから、「ニネベ、レホボテ・イル、ケラフ」などに示されているアッシリヤに及んでいます。その権力がきわめて強大なものであったことがうかがわれます。ここで注意しておきたいのは、11章1節ー9節に記されているバベルでの出来事、そこで人類のことばが乱され、人々が全地に散らされたことは、ここで、 彼の王国の初めは、バベル と語り出されているバベルで起こったということです。つまり、それはニムロデの帝国において起こったことなのです。 ニムロデについては、さらに、 彼は主のおかげで、力ある猟師になった と言われています。 この「力ある猟師」ということばの背景は、古代オリエントの文化において王たちが獲物を狩る能力を誇ったということです。それは侵略と征服につながります。この点は、聖書において、イスラエルの王が羊飼いにたとえられており、「牧者」と呼ばれていることと対比されます。また「力ある」と訳されていることば(ギボール)は洪水前の時代状況を生み出す原因となったものを記している6章1節ー4節の4節に出てくる「勇士たち」(ギボーリーム、ギボールの複数形)との関連を思わせます。 彼は主のおかげで、力ある猟師になった と言われているときの「主のおかげで」と訳されていることばは、文字通りには「主の御前に」です。このことばは二通りに取ることができます。 一つは、新改訳の訳に表されている理解です。ニムロデの強大な権力は契約の神である主から委ねられたものであったということです。このニムロデの帝国において、バベルでの出来事が起こったことを視野に入れますと、これは、ニムロデが主から強大な権力を委ねられたのに、それを主に反抗するために用いてしまったということを示そうとしていると考えられます。 もう一つは、この「主の御前に」ということばは、単純に、「最上級」を表すというものです。つまり、ニムロデはこの上ない権力者となったということです。多くの学者がこの理解を取っていますが、「主のおかげで」という理解の可能性も十分あると思われます。 このようなニムロデの帝国において、11章1節ー9節に記されているバベルでの出来事が起こりました。これにつきましては、皆さんがよくご存知のことですので、いまお話ししていることと関連することだけを取り上げます。 4節には、 さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。 と記されています。これはバベルの塔を築くに当たって人々が何を考えていたかを示しています。 この場合の「頂が天に届く塔」はメソポタミアに見られた、都市の一部として建てられた、階段型の塔の形をした神殿のことで、「ジッグラト」と呼ばれます。それが天と地を繋ぐものであると考えられ、その頂上に小さな神殿があり、しばしば青く塗られていて神々の住まいであるとされる天に溶け込むようになっていました。これによって、神々が地上に降りてくることを助けるとともに、人が天に至ることをも可能にするとされていました。[注] [注]人が天に至ることをも可能にするということには、反論がありますが、カナンにおける類似した建造物の役割の理解に基づいていますので、それがそのまま子のバベルの事例には当てはまらないと考えられます。 ここではそのような人間の高ぶりが示されています。直訳ですが、 さあ、われわれはわれわれのために町と、頂が天に届く塔を建てよう ということばと、 われわれのために名をあげよう ということばは、「われわれのために」ということを繰り返して、罪のもとにある人間の高ぶりを示しています。 このようにして、天にまで届く塔を建てたと思っている人間の企てに対して、5節では、 そのとき主は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた。 と言われています。もちろん、神さまはすべてをご存知です。しかし、この場合には、そのようにして人間が天にまで届かせたと思って建てた物を見るためには、ご自身の御臨在される天から降りていかなければならないとされています。これは神さまの強烈な皮肉です。主は高ぶる者に対しては、ご自身がその者を無限に超越した方であられることをお示しになり、自らの罪を認め、へりくだる者に対しては、その恵みによって、その人の最も近くにいてくださることをお示しになります。詩篇138篇6節には、 まことに、主は高くあられるが、 低い者を顧みてくださいます。 しかし、高ぶる者を遠くから見抜かれます。 と記されています。 このようにして、1節で、 さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。 と言われている状態にあった人類は、そのことばが乱されました。そのために、お互いの間に、ものの見方や考え方の違いが生じ、さらに対立が生まれ、全地に散らされていきました。 これは全人類が一つとなって、罪による堕落が極まってしまったノアの時代の状況が再び造り出される前に、主がその芽を摘み取ってしまわれたことに当たります。その後は、強大な権力を持った帝国が興っても、やがてそれが爛熟して内部から腐敗して弱体化してしまう。しかし、それによって、全人類が腐敗するようになるのではなく、新しく興ってくる国がそれを倒して、新鮮な志をもって建国するようになります。けれども、それもやがて爛熟し腐敗の度を深めて弱体化してしまいます。地上の国々がこのように、いわば相互にチェックすることを繰り返す形になったのです。このように、人類が一つになって罪の腐敗を極めてしまうことがないように、神さまは摂理の御手をもって導かれ、歴史を存続させてくださっています。 そのように、神さまは一般恩恵に基づく御霊のお働きにより、人類の歴史を存続させてくださっています。その中で、着実に、「最初の福音」から始まる一連の契約の約束に基づいて、贖いの御業を遂行してこられました。そして、ついには、御子イエス・キリストを「女の子孫」のかしらなる贖い主として遣わしてくださり、その十字架の死と死者の中からのよみがえりによって贖いの御業を成就してくださったのです。 そこに至るまでの贖いの御業の歴史の中で重要な人物があります。それは、「信仰の父」と呼ばれるアブラハムです。創世記12章1節ー3節には、 主はアブラムに仰せられた。 「あなたは、 あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、 わたしが示す地へ行きなさい。 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、 あなたを祝福し、 あなたの名を大いなるものとしよう。 あなたの名は祝福となる。 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、 あなたをのろう者をわたしはのろう。 地上のすべての民族は、 あなたによって祝福される。」 と記されています。 アブラハムはすべての民族が祝福を受けるようになるために選ばれました。それは、その前の11章に記されている、バベルでの出来事において、全地に散らされてしまったすべての民族がアブラハムによって祝福を受け、神である主との愛にあるいのちの交わりのうちに生きるものとして回復されるようになるためのことです。アブラハムの選びと召命の背景にバベルでの出来事があることを見据えておく必要があります。 このアブラハムに与えられた約束は、人としての性質における血筋ではアブラハムの子孫として来られた、神の御子イエス・キリストにおいて成就しています。ガラテヤ人への手紙3章8節、9節には、 聖書は、神が異邦人をその信仰によって義と認めてくださることを、前から知っていたので、アブラハムに対し、「あなたによってすべての国民が祝福される」と前もって福音を告げたのです。そういうわけで、信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです。 と記されています。また、13節、14節には、 キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである」と書いてあるからです。このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。 と記されています。 このアブラハムに約束の形で与えられ、御子イエス・キリストによって成就した祝福は、すべての民族を視野に入れたものです。それで、いわば「地の果て」に当たる国に住んでいる私たちにも福音が伝えられ、私たちはこの祝福にあずかっています。そして、すべての民族がこのアブラハムに与えられた祝福にあずかるようになるまでは、人類の歴史が終わることはありません。言い換えますと、福音がすべての民族に宣べ伝えられるまでは、イエス・キリストの再臨はないということです。 マタイの福音書24章には、終わりの日に関するイエス・キリストの教えが記されています。その中では、まず4節ー14節にその全般的なことが記されています。その後の15節ー28節に、紀元70年のエルサレム神殿の崩壊にかかわる教えが記されており、さらに、29節ー44節には世の終わりとイエス・キリストの再臨に関する教えがあります。その全般的な教えの締めくくりに当たる14節には、 この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。 と記されています。 このイエス・キリストの教えに示されていますように、「御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ」ています。そのことは、今なお私たちの時代においても継続してなされています。このようにして宣べ伝えられた福音のみことばを信じて御子イエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業にあずかる者たちが、すべての民族から起こされて、新しい時代の歴史と文化を造る歩みを続けつつ、さらに福音をあかししているのです。御子イエス・キリストはこのすべてを完成に至らせてくださるために、終わりの日に再臨されます。 これらのことは、終わりの日におけるイエス・キリストの再臨を考えるうえで、どうしてもわきまえておかなければならないことです。しかし、これらのことは、イエス・キリストが再び来られるまでにどのようなことがなされなければならないかを示すものです。言い換えますと、イエス・キリストがその十字架の死と死者の中からのよみがえりによって贖いの御業を成し遂げてくださってから2千年経った今日に至るまでの間に再臨されていない理由を示すものです。それで、これによって、イエス・キリストが、 見よ。わたしはすぐに来る。 と言われたことの意味が明確になったわけではありません。これにつきましては、続いてお話しします。 |
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