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説教日:2011年1月23日 |
神さまは創造の御業においてこの世界を歴史的な世界としてお造りになり、愛を本質的な特性とする神のかたちに造られた人に、その歴史と文化を造る使命をお委ねになりました。神のかたちに造られた人が造る歴史と文化は、造り主である神さまとお互いに対する愛によって特徴づけられます。それによって、愛を本質的な特性とする神さまご自身の栄光が現されるのです。 具体的には、神さまがお造りになったすべてのものに現れている神さまの知恵と力、愛といつくしみなどの聖なる属性を汲み取りつつ、いっさいの栄光を神さまに帰して、神さまを造り主として礼拝することに、神さまへの愛が表されます。ですから、神のかたちに造られた人が造る歴史と文化は神さまを礼拝することを中心とした歴史と文化です。それは、いわば、神のかたちに造られた人が造る歴史と文化の縦糸に当たるものですが、横糸に当たるものは、神のかたちの本質的な特性である愛をお互いの間において表すことであり、委ねられた生き物たちに向けて表すことでもあります。このすべてにおいて、愛を本質的な特性とする神さまの栄光が現されます。 このように、神さまの創造の御業にかかわるご計画は、神のかたちに造られた人が愛によって特徴づけられる歴史と文化を造ることを中心として実現していきます。暗やみの主権者であるサタンは、このような、神さまのご計画の実現の鍵を握っている人を神さまに背かせて、創造の御業にかかわる神さまのご計画がとん挫してしまうようにと画策しました。 そして、そのサタンの画策は成功したかに見えました。神のかたちに造られた人は神さまの戒めに背いて罪を犯し、御前に堕落してしまいました。それによって、神のかたちに造られた人が造る歴史と文化は造り主である神さまを神としてあがめ、礼拝することを中心とし、目的とするものではなくなってしまいました。愛によって特徴づけられる歴史と文化ではなくなってしまいました。 このような事態になったときに、神さまは創世記3章15節に記されているサタンへのさばきの宣告の中で、 わたしは、おまえと女との間に、 また、おまえの子孫と女の子孫との間に、 敵意を置く。 彼は、おまえの頭を踏み砕き、 おまえは、彼のかかとにかみつく。 という「最初の福音」を与えてくださいました。 これによって神さまは、ご自身に対して敵対しているサタンと罪によってサタンと一体になってしまている人を直ちにはおさばきにならないで、まず、「女」と「女の子孫」が、「おまえ」と呼ばれているサタンとその子孫に敵対するように、両者の間に「敵意」を置いてくださることを示されました。「女」と「女の子孫」がサタンとその子孫に敵対するようになるということは、「女」と「女の子孫」が神さまの側に立つようになることを意味しています。これは「女」と「女の子孫」の救いを意味しています。さらに、神さまは「女の子孫」のかしらとして来られる方によって、最終的なさばきを執行されるということを明らかにされました。 これによって、一方に「女」と「女の子孫」があり、他方にサタンとその子孫があって、歴史を通して最後まで敵対するようになりました。大切なことは、これは私たちが普通に考えるような血肉の戦いではなく、「女の子孫」のかしらとして来られる方についての福音のみことばをめぐる霊的な戦いであるということです。サタンとその子孫は武力や財力や数の力など、血肉の力をもって戦いますが、「女」と「女の子孫」は福音のみことばに立ち続けることによって戦います。「女」と「女の子孫」が血肉の力によって戦いを始めたとたんに、霊的な戦いにおいては敗北の道を進むことになってしまいます。 福音のみことばは、古い契約の下では「女の子孫」のかしらとして来られる贖い主についての約束の形で与えられています。そして、新しい契約の下では、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによってすべての約束が成就しており、主の契約の民の贖いが実現していることをあかししています。黙示録12章11節には、天における霊的な戦いにおいてサタンが敗北したときに、天からの声が、 兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。 とあかししたことが記されています。これは、霊的な戦いにおける「兄弟たち」の勝利のことを述べています。しかし、 彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。 と記されていますように、決して血肉の戦いの勝利ではありません。 ノアの時代のことを述べている創世記6章11節、12節に、 地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである。 と記されていることは、暴力による支配が地を満たしてしまっていた状況を示しています。それは、霊的な戦いにおいては暗やみの主権者が勝利したと思われる事態になってしまったことを意味しています。 このことには、目に見える歴史の現実としては、二つのことが背景としてかかわっています。 一つは、4章23節、24節に、 さて、レメクはその妻たちに言った。 「アダとツィラよ。私の声を聞け。 レメクの妻たちよ。私の言うことに耳を傾けよ。 私の受けた傷のためには、ひとりの人を、 私の受けた打ち傷のためには、 ひとりの若者を殺した。 カインに七倍の復讐があれば、 レメクには七十七倍。」 と記されている、アダムからカインを経て7代目に記されているレメクのことばです。レメクは自分に傷を与えた者に復讐して、その人を殺したということを豪語しています。彼の父祖カインは主から、 だれでもカインを殺す者は、七倍の復讐を受ける。 という「お墨付き」をもらって、主の御前を去って行きました。その保証さえもらえば、後は主には用はないと言わんばかりのことですが、それでも、どこかで主を当てにしているところがあります。いわば、今日にも見られる御利益宗教のようなものです。しかし、レメクは公然と主を否定しています。自分には主の復讐以上のことができるし、実際に、そうしたと豪語しているのです。 地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである。 と記されていることは、このレメクに典型的に示されている思想と価値観が全人類を汚染していたということを意味しています。このレメクの子の一人はトバル・カインでしたが、4章22節では、 彼は青銅と鉄のあらゆる用具の鍛冶屋であった。 と言われています。これは彼が農具ばかりではなく武器を造る能力でも秀でていたことを思わせます。その意味では、レメクがその武力によって、全世界を席巻していた可能性があります。その場合には、先週お話ししました、ニムロデについて、10章8節で、 ニムロデは地上で最初の権力者となった。 と言われていること(直訳「地上で権力者となることを始めた」)は、ニムロデが洪水後の歴史における「最初の権力者」ということになります。 ノアの時代において、人類の罪の腐敗が極まってしまうに至るもう一つの歴史的な背景があります。 先ほどのレメクの高ぶりのことばを記している4章23節、24節のすぐ後の25節、26節には、 アダムは、さらに、その妻を知った。彼女は男の子を産み、その子をセツと名づけて言った。「カインがアベルを殺したので、彼の代わりに、神は私にもうひとりの子を授けられたから。」セツにもまた男の子が生まれた。彼は、その子をエノシュと名づけた。そのとき、人々は主の御名によって祈ることを始めた。 と記されています。 ここでエバは、 カインがアベルを殺したので、彼の代わりに、神は私にもうひとりの子を授けられたから。 と述べています。この「もうひとりの子」と訳されたことばは、文字通りには「もうひとりの子孫」で、「女の子孫」についての約束への信仰告白です。 そして、これに続いて、アダムから3代目のエノシュが生まれたころには、 人々は主の御名によって祈ることを始めた。 と記されていますように、主ヤハウェを礼拝する人々が増え広がっていることが示されています。これは、直訳では、 主の御名によって呼び求めることが始められた。 となりますが、それは、人々がそのようにし始めたことを意味しています。「主の御名によって祈ること」と訳されていることばは、祈りやささげ物などによって、主ヤハウェを礼拝することを意味しています。 また「始めた」と訳されていることばは、1章ー11章の記事においてはそこに記されていることが新しい段階に入ったことを示しています(この4章26節のほかは、6章1節、9章20節、11章6節)。それは、しばしば、新しい時代状況が生み出されていることを意味しています。実際に、ヤハウェ礼拝はエノシュが生まれたころに始まったのではありません。というのは、4章1節に、 人は、その妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み、「私は、主によってひとりの男子を得た」と言った。 と記されていますように、エバは「ヤハウェ」という御名を告白していますし、カインとアベルはささげ物をもって主ヤハウェを礼拝しています。それで、この場合は、 人々は主の御名によって祈ることを始めた。 ということばは、それがどれほどの規模になっていたかは分かりませんが、主ヤハウェを礼拝することが新たな流れとなっていたことを示していると考えられます。 しかし、アダムから10代目に記されているノアの時代においては、主ヤハウェを礼拝するのは、ノアとその家族だけになってしまいました。ですから、エノシュからノアに至る歴史は、エノシュからノアに至るまでヤハウェを礼拝することが継続した歴史であるとともに、ヤハウェを礼拝する人々が失われてノアとその家族だけになってしまったという、いわば、背教の歴史でもあったことを示しています。 このことは、終わりの日のことについて記している、テサロニケ人への手紙第二・2章3節に記されている、 だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないからです。 というみことばを思い起こさせます。ここでは、「主の日」すなわち終わりの日が来る前に、「まず背教が起こる」と言われています。この「背教」と訳されたことば(アポスタスィア)は、宗教的な「背教」ばかりでなく、政治的な「反逆」をも表します。 ここでは宗教的な「背教」、すなわち主の民がその信仰を捨ててしまうことは述べられていないという主張があります。その場合には、このことばは「反逆」と訳されます。しかし、これに続く4節には「不法の人、すなわち滅びの子」のことが、 彼は、すべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。 と記されています。このことは、ここでは宗教的なことが問題となっていることを示しています。それで、この場合は、そのような、宗教的な色合いをもっている「不法の人、すなわち滅びの子」の出現の道を備える「背教」の方が前面にあると考えられます。おそらく、そのような意味での「背教」と反逆の両方がが世界大の規模で起こることが示されていると考えられます。もちろん、そのどちらも突き詰めていきますと、造り主である神さまの御前における「背教」であり、歴史を最終的に治めておられる主への反逆です。 これに相当することは、マタイの福音書24章に記されている、イエス・キリストの教えにも記されています。先週も一部引用しましたが、10節ー14節には、 また、そのときは、人々が大ぜいつまずき、互いに裏切り、憎み合います。また、にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。 と記されています。 ノアの時代には、このような歴史の流れの中で、人類全体が罪の腐敗を極まらせてしまいました。それは、その間に造られた歴史と文化が腐敗を極まらせてしまったということをも意味しています。このことに対して、神さまは罪の腐敗を極まらせてしまった人類と、それまで人類が造ってきた歴史と文化を、大洪水によるさばきによっておさばきになりました。その意味で、これは天地創造の御業から始まって今日に至るまでの歴史の中で、ただ一度だけ執行された終末的なさばきでした。 しかし、ノアの時代に起こったこととしては、その終末的なさばきがすべてであったのではありません。神さまの一方的な恵みによって、ノアとその家族がヤハウェ礼拝者として残されました。そして、神さまはノアに箱舟を造るように命じられ、ノアとともにあらゆる種類の生き物たちが生き残るようにしてくださるという救いのご計画を示してくださいました。 それで、ノアは神さまが命じられたとおりに箱舟を造り、神さまのみことばにしたがって、自分の家族と生き物たちとともに箱舟に入りました。そのようにして、ノアとノアの家族とノアとともにいたすべての生き物が大洪水によるさばきから救われました。 このことに関しては、少し想像を働かせて考える必要があろうかと思います。というのは、私たちは箱舟の中に入ればもう安心であるというように考えがちだからです。もちろん、神さまが備えてくださった箱舟に入れば、もう安心です。しかし、それは箱舟そのものがもたらす安心ではありません。 箱舟のサイズにつきましては6章15節に、 箱舟の長さは三百キュビト。その幅は五十キュビト。その高さは三十キュビト。 と記されています。1キュビトを45センチメートルとしますと、長さの300キュビトは135メートル、幅の50キュビトは22・5メートル、高さの30キュビトは13・5メートルとなります。確かに、この大きさと、縦、横、高さの比率を見ますと、海を航海する船として十分な実体を持っていたことが分かります。しかし、これは海に船を浮かせたのとはわけが違います。 私たちは何となく、大雨が降ってきて、静かに水位が上昇して、箱舟も浮かんだと考えてしまいます。しかし、実際には、そのようなことではなかったと考えられます。 箱舟の中には、あらゆる種類の生き物たちが入ることになっていましたし、洪水後の記事を見ますと、ノアは農夫であったようです。また、6章11節、12節に、 地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである。 と記されているような罪の腐敗が極まってしまっている時代の状況において、唯一のヤハウェ礼拝者として主のみこころにしたがって歩んでいたノアが、富を蓄えることができたとは思われません。おそらく、ノアとその家族は自分たちの生計を立てながら、箱舟の建設を進めていったと思われます。それで、自分たちの住んでいた所からそれほど離れていない所に箱舟を造ったと考えられます。このようなことから、ノアは海辺にではなく陸地に箱舟を建造したと考えられます。 7章11節には、 ノアの生涯の六百年目の第二の月の十七日、その日に、巨大な大いなる水の源が、ことごとく張り裂け、天の水門が開かれた。 と記されています。詳しい説明は省かなければなりませんが、これは「巨大な大いなる水の源が、ことごとく張り裂け」ということばによって示されている地殻変動による地下水の噴出とともに、「天の水門が開かれた」ということばによって示されている大量の雨が降り出したことを伝えています。私たちは数日間降り続ける大雨によってもたらされる大洪水の破壊的な力を知っています。しかしこれは、40日、40夜にわたって大雨を振り続けさせるという、かつてなかったし、この後も今日に至るまでなかった異常な規模の大嵐であり、それによってもたらされた大洪水であったのです。 その当時の文明は農耕を中心としていましたし、水の便がいい所が必要でしたので、川沿いに都市が建設されていました。その地方全域に降り続いた大量の雨水は、山地や高地に降り注いだ雨もそこを流れ下り、地形の低いところ、すなわち、シナルの平野の人々の住んでいる川沿いに集まっていくようにしてあちこちから押し寄せてきたと考えられます。そのような大水が箱舟に向かって押し寄せてきたとしたら、どうなるでしょうか。箱舟が転覆したり、押し流された箱舟が何かにぶつかって破壊されたりする可能性がありました。 箱舟が首尾よく浮き上がったとしても、その水は濁流のように流れている水であったでしょうし、異常な規模の大嵐の強風にもまれて沈没するという事態も十分に考えられました。 神さまはこれらの恐るべき事態の中で、箱舟を破壊から完全に守ってくださいました。 さらに、創世記の記述は太陽暦によってはいませんので、太陽暦に換算しますと、ノアたちは、365日の間、箱舟の中にいたことになります。その間、あらゆる種類の生き物たちが、箱舟の中に閉じ込められるような形で過ごすことになりました。普通ですと、その間に、ストレスや衛生状態の悪化が原因で弱って死んでしまう生き物がいてもおかしくなかったのです。そればかりでなく、ノアとその家族が生き物たちのお世話をしたと考えられますが、その中にはどう猛な野獣もいたはずです。それでも、ノアとその家族の誰かが襲われたというようなことはうかがわれません。また、いくら仕切りが設けられていたとしても、生き物たちがまったく触れ合うことがなかったということもなかったでしょう。普通であれば、生き物たちの間に争いが起こって、ある生き物が傷ついたり死んでしまうような事態が生じてもおかしくなかったのです。 しかし、主はノアとその家族とすべての生き物たちが損なわれることがないように守ってくださいました。 このようなことを考え合わせますと、箱舟には神さまの御霊の御臨在がともにあって、すべてのことを守り、支えてくださっていたと考えるほかはありません。7章16節には、 それから、主は、彼のうしろの戸を閉ざされた。 と記されています。これは、主の御臨在がそこにあって親しく御業をなしておられることを思わせます。また、8章1節に記されている、 神は、ノアと、箱舟の中に彼といっしょにいたすべての獣や、すべての家畜とを心に留めておられた。 というみことばも、この理解の方向を示しています。 神さまの御臨在が箱舟とともにあったことは、約束のメシヤのことを預言的にあかししているイザヤ書11章1節ー5節において、 エッサイの根株から新芽が生え、 その根から若枝が出て実を結ぶ。 その上に、主の霊がとどまる。 それは知恵と悟りの霊、 はかりごとと能力の霊、 主を知る知識と主を恐れる霊である。 この方は主を恐れることを喜び、 その目の見るところによってさばかず、 その耳の聞くところによって判決を下さず、 正義をもって寄るべのない者をさばき、 公正をもって国の貧しい者のために判決を下し、 口のむちで国を打ち、 くちびるの息で悪者を殺す。 正義はその腰の帯となり、 真実はその胴の帯となる。 と記された後に続く6節ー9節に記されている、 狼は子羊とともに宿り、 ひょうは子やぎとともに伏し、 子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、 小さい子どもがこれを追っていく。 雌牛と熊とは共に草をはみ、 その子らは共に伏し、 獅子も牛のようにわらを食う。 乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、 乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。 わたしの聖なる山のどこにおいても、 これらは害を加えず、そこなわない。 主を知ることが、 海をおおう水のように、地を満たすからである。 という状態が実現していたということです。 ノアの時代においては、大洪水によってすべての人とすべての生き物が滅ぼされてしまうという、まことに恐るべきさばきの執行によって、神さまの創造の御業によって始められたこの世界の歴史が無に帰してしまったかに見えました。それによって、霊的な戦いにおいて、暗やみの主権者であるサタンが勝利したかのように見えました。神のかたちに造られた人が造り出した歴史と文化から、いっさいの光が消え失せたかに見えました。 しかし、そのような状況の中に特別な光を放つ存在があったのです。それが、神さまが一方的な恵みによって備えてくださった箱舟です。大洪水の中にあっては木の葉のようなものと見えますが、主の御霊の御臨在に満たされた所として、特別な光を放っていたのです。それは、地上的な「ひな型」としての限界はありますが、終わりの日におけるメシヤの御臨在によってもたらされる完全な回復を指し示すものでした。 終わりの日に栄光のキリストは、この世界を、ご自身の栄光の御臨在にふさわしい新しい天と新しい地として再創造してくださるために再び来てくださいます。 |
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