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説教日:2010年10月3日 |
先ほどは、黙示録の序論に当たる1章1節ー8節をお読みいたしました。この1節ー8節に記されていることは、黙示録全体の理解にとって鍵となることです。それで、これにつきましては、限界がありますが、できるだけ詳しく見ていきたいと思います。 1節ー3節には、 イエス・キリストの黙示。これは、すぐに起こるはずの事をそのしもべたちに示すため、神がキリストにお与えになったものである。そしてキリストは、その御使いを遣わして、これをしもべヨハネにお告げになった。ヨハネは、神のことばとイエス・キリストのあかし、すなわち、彼の見たすべての事をあかしした。この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。時が近づいているからである。 と記されています。 黙示録は「イエス・キリストの黙示」ということばで始まっています。原文のギリシャ語では、そのいちばん初めのことばは「黙示」ということば(アポカリュプシス)です。この「イエス・キリストの黙示」ということばは、黙示録のタイトルに当たるものです。黙示録の書名は「ヨハネの黙示録」となっていますが、その奥には「イエス・キリストの黙示」があります。この「イエス・キリストの黙示」は、文法の上からは、「イエス・キリストによる黙示」[「イエス・キリストの」という属格を主格的属格と理解するもの]とも「イエス・キリストについての黙示」[「イエス・キリストの」という属格を目的格的属格と理解するもの]とも訳すことができます。「イエス・キリストによる黙示」というのは、この「黙示」を与えてくださった方がイエス・キリストであるということです。「イエス・キリストについての黙示」というのは、この「黙示」の内容がイエス・キリストであるということです。 これは「イエス・キリストによる黙示」という意味であると考えられます。これには理由があります。それは、1節で、この「イエス・キリストの黙示」のことが、 これは、すぐに起こるはずの事をそのしもべたちに示すため、神がキリストにお与えになったものである。そしてキリストは、その御使いを遣わして、これをしもべヨハネにお告げになった。 と説明されているからです。ここでは、「イエス・キリストの黙示」の内容が「すぐに起こるはずの事」であると言われています。それで、この場合の「黙示」はイエス・キリストについての黙示ではないということになります。ただし、後でお話ししますが、この「黙示」の内容である「すぐに起こるはずの事」はイエス・キリストご自身と深くかかわっています。 また、 そしてキリストは、その御使いを遣わして、これをしもべヨハネにお告げになった。 という説明は、これが「イエス・キリストによる黙示」であるということを示しています。そして、この書の最後の部分である22章16節には、 わたし、イエスは御使いを遣わして、諸教会について、これらのことをあなたがたにあかしした。わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。 と記されています。このこともイエス・キリストがこの書に記されていることを啓示してくださった方であるということをあかししています。 このように、この「イエス・キリストの黙示」ということばは、この「黙示」がイエス・キリストから与えられたものであることを意味しています。 これとともに、1章1節には、 イエス・キリストの黙示。これは、すぐに起こるはずの事をそのしもべたちに示すため、神がキリストにお与えになったものである。 と記されています。今お話ししましたように、「イエス・キリストの黙示」はイエス・キリストから与えられたものです。しかし、 これは・・・神がキリストにお与えになったものである というみことばが示していますように、この「黙示」の究極の起源は父なる神さまご自身にあります。 それでは、この「黙示」とは、どのようなものなのでしょうか。これはギリシャ語のアポカリュプシスの訳です。このことばは名詞ですが、その動詞の形も含めて、新約聖書では44回出てきます。その基本的な意味は、すでに存在しているのに、それまで隠されていたもの、確かにあるのに隠されていることを明らかにすることです。 マタイの福音書11章25節ー27節には、 天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません。 というイエス・キリストのみことばが記されています。ここには「隠すこと」と「現すこと」が出てきます。そのどちらも父なる神さまがなさったことであると言われています。 ここで、イエス・キリストは、 すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。 と言っておられます。この「すべてのもの」は前後の文脈から、父なる神さまと父なる神さまのみこころを知る知識のことです。イエス・キリストがそのすべてを知らされているので、イエス・キリストは、 それで、父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません。 と言われるのです。このことは、黙示録1章1節に、 イエス・キリストの黙示。これは、すぐに起こるはずの事をそのしもべたちに示すため、神がキリストにお与えになったものである。 と記されていることを思い起こさせます。 マタイの福音書11章25節で、 これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。 と言われているときの、「現わしてくださいました」と訳されていることばが、黙示録1章1節で「黙示」と訳されていることばの動詞の形です。 ここに出てくる「これらのこと」は複数ですが、それに先立つ部分とのつながりで判断しますと、それには中心があります。それは、貧しくなって来られたイエス・キリスト、やがてご自身の民のために十字架にかかって罪の贖いを成し遂げてくださるようになるほど貧しくなられたイエス・キリストにおいて、神の国があるということです。イエス・キリストの教えや御業が、イエス・キリストにおいて神の国がそこに来ていることを現しているのに、「賢い者や知恵のある者」はそれを悟ることができず、「幼子たち」がそれを悟るように導かれているということです。 貧しくなって来られたイエス・キリストにおいて、神の国が来ているということは、私たちには少し分かりにくい気がします。私たちの感覚では「国」といいますと、まず領土を思い浮かべます。しかし、聖書においては、「神の国」の「国」ということばは、ヘブル語(マルクート)でも、ギリシャ語(バシレイア)でも、基本的に、王が統治すること、王がその主権を行使することを意味しています。たとえば、マルコの福音書1章14節、15節には、 ヨハネが捕えられて後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べて言われた。「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」 と記されています。これは、イエス・キリストがメシヤとしてのお働きを開始されたときに、神の国はそこに到来したということを意味しています。決して、イエス・キリストとは別に神の国か来ていて、そのことをイエス・キリストが教えているということではありません。 神の国を知ること、神の国に入ることは、約束のメシヤとして来られ、神の国の主権を行使しておられるイエス・キリストを知り、イエス・キリストを信じることです。マタイの福音書11章25節でイエス・キリストは、 これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。 と言われて、イエス・キリストを知り、イエス・キリストを信じることは人の力・能力によることではなく、父なる神さまが人に明らかにしてくださることによっていることをお示しになりました。 そのことは、ペテロがイエス・キリストのことを、 あなたは、生ける神の御子キリストです。 と告白したときのことを記しているマタイの福音書16章17節に、 するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。」 と記されていることに明確に示されています。ここで「このことをあなたに明らかに示した」と言われているときの「明らかに示した」と訳されていることばが、黙示録1章1節で「黙示」と訳されていることばの動詞の形で、先ほどの11章25節で「現わしてくださいました」と訳されていることばとまったく同じことばです。ちなみに、ここ16章17節で「人間ではなく」と訳されていることばは、直訳では新改訳欄外にありますように「肉と血ではなく」です。これは、ペテロ自身をも含めて、いかなる人間でもないという意味です。ペテロは他の人から教えられて分かったのでもなく、自分自身の力によって分かったのでもないのです。 貧しくなって来られて、やがて十字架におかかりになってご自身の民の罪のために贖いの御業を成し遂げられるイエス・キリストこそが「生ける神の御子キリスト」であられ、父なる神さまがお遣わしになった約束のメシヤであられるということ、そして、そのイエス・キリストにおいて、神の国があるということは、血肉の目には隠されています。血肉の目には、十字架につけられて殺されてしまうような者が「生ける神の御子キリスト」であるわけがないとしか思えないのです。それは父なる神さまが啓示してくださって初めて分かることです。父なる神さまは、このことを、御霊によって私たちに啓示し、悟らせてくださいます。コリント人への手紙第一・2章7節ー10節には、 私たちの語るのは、隠された奥義としての神の知恵であって、それは、神が、私たちの栄光のために、世界の始まる前から、あらかじめ定められたものです。この知恵を、この世の支配者たちは、だれひとりとして悟りませんでした。もし悟っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮んだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。 と記されています。7節で、 私たちの語るのは、隠された奥義としての神の知恵であって、それは、神が、私たちの栄光のために、世界の始まる前から、あらかじめ定められたものです。 と言われているときの「隠された奥義としての神の知恵」とは、これに先立つ2節で、 なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。 と言われており、この後の8節で、 この知恵を、この世の支配者たちは、だれひとりとして悟りませんでした。もし悟っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。 と言われていることから分かりますように、「栄光の主」であられるイエス・キリストが「十字架につけられた」ということにある「神の知恵」です。あるいは、「十字架につけられた」イエス・キリストこそは「栄光の主」であられるということにある「神の知恵」です。この「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮んだことのないもの」である、永遠の神の御子であられるイエス・キリストの十字架の死こそが、私たちの罪を完全に贖い、私たちを罪の結果である死と滅びから贖い出してくださる「隠された奥義としての神の知恵」です。そして、神さまはこのことを御霊によって私たちに明らかにしてくださり、悟らせてくださいました。10節に、 神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。 と記されているとおりです。ここで「啓示されたのです」と訳されていることばが、やはり、黙示録1章1節で「黙示」と訳されていることばの動詞の形です。 黙示録の中でも、御霊が啓示にかかわっていることが、いろいろな形で示されています。この「イエス・キリストの黙示」は、基本的に、1章ー3章に出てくる「七つの教会」に宛てて示されたものです。1章10節、11節に、 私は、主の日に御霊に感じ、私のうしろにラッパの音のような大きな声を聞いた。その声はこう言った。「あなたの見ることを巻き物にしるして、七つの教会、すなわち、エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤに送りなさい。」 と記されているとおりです。そして、2章、3章において、それぞれの教会に対して語られた栄光のキリストのみことばが記されています。たとえば、最初に上げられているエペソの教会に対するみことばを記している、2章1節には、 エペソにある教会の御使いに書き送れ。「右手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方が言われる。」 と記されています。この「右手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方」とは、栄光のキリストのことです。ですから、それぞれの教会に対して語っておられるのは栄光のキリストです。そして、そのそれぞれの教会に対する栄光のキリストのみことばは、それが必ずしも、常に、いちばん最後に来るわけではなく、これに祝福のことばが続く場合がありますが、 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。 ということばをもって結ばれています(2章7節、11節、17節、29節、3章6節、13節、22節)。栄光のキリストが御霊によって語っておられるのです。その意味で、御霊も「黙示」に深くかかわっておられます。 このように、「イエス・キリストの黙示」には、父なる神さまと御子イエス・キリストと御霊がかかわっています。 「黙示」ということばの基本的な意味は、すでにそこにあるのに、それまで隠されていたもの、確かにそこにあるのに隠されていることを明らかにすることです。そして、聖書の中では、その隠されていることとは、契約の神である主がその福音のみことばによってあかししてくださっている、約束のメシヤとメシヤによって遂行される贖いの御業にかかわることです。ご自身の民のために十字架にかかっていのちを注ぎだされるほどに貧しくなられたイエス・キリストにおいて、神の国がそこにあるということにかかわっています。 しかし、すでにお話ししましたように、黙示録1章1節に、 イエス・キリストの黙示。これは、すぐに起こるはずの事をそのしもべたちに示すため、神がキリストにお与えになったものである。 と記されているときの「イエス・キリストの黙示」は「イエス・キリストによる黙示」であり、その「黙示」の内容は「すぐに起こるはずの事」です。そうであるとしますと、これは、これまでお話ししてきました、聖書に出てくる「黙示」が意味していることとは違うのではないかという疑問がわいてきます。 けれどもそういうことではありません。むしろ、イエス・キリストが与えてくださった「黙示」に示されている「すぐに起こるはずの事」においてこそ、これまでお話ししてきました、聖書における「黙示」の意味があるのです。 この「すぐに起こるはずの事」ということばがどのようなことを意味しているかにつきましては、いろいろなことがかかわっていますので、改めてお話しします。ここでは、今お話ししていることと関連することだけをお話しします。 私たちは「すぐに起こるはずの事」ということを聞きますと、この世の歴史において、これからどのようなことが起こるかということを考えます。しかし、それは、ほとんどの場合、血肉の目が見ているこの世の歴史の流れの動向です。ここで「すぐに起こるはずの事」と言われているのは、そのようなことではありません。 黙示録が全体として伝えていることは、「すぐに起こるはずの事」です。栄光のキリストはこれを伝えてくださることによって、厳しい試練の中に置かれている、ご自身のからだである教会に光を与え、真の慰めと励ましを与えてくださるだけでなく、確かな希望を与えてくださるのです。イエス・キリストが与えてくださった「黙示」は、5節後半と6節前半のことばを再び用いますと、 私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である 栄光のキリストが、この「すぐに起こるはずの事」のすべてを、歴史の主として治めてくださっているということを、私たちに示してくださるものなのです。そして、栄光のキリストはそのことを御霊によって悟らせてくださるのです。 最初に言いましたことばを繰り返しますが、この書、すなわち、イエス・キリストが与えてくださった「黙示」は降りかかってきている試練の激しさを決してごまかすことなくしっかりと見つめています。決して、現実から逃避することはありません。しかし、夜空の暗さの中でこそ星は鮮やかに輝きます。そのように、厳しい試練に中にあってこそ一段と輝きを増すものがあります。それこそが、5節後半と6節前半において、 私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である と言われているイエス・キリストとイエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業であり、そこに現れたイエス・キリストの愛と恵みです。 イエス・キリストは「すぐに起こるはずの事」をとおして、あるいは、「すぐに起こるはずの事」の中で、ご自身の民にご自身を現してくださいます。そして、私たちをますます贖いの御業にあずからせてくださって、私たちをご自身の栄光のかたちに造り変えてくださり、ご自身に近づけてくださり、ご自身の愛と恵みのうちに住まわせてくださいます。 |
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