(第14回)


説教日:2005年4月24日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 今日もマタイの福音書6章9節〜13節に記されている主の祈りについてのお話を続けます。これまで、主の祈りそのものを取り上げてお話しする前のこととして、私たちの祈りそのものについてお話ししてきました。
 これまで、祈りにおいて大切なことは、私たちが祈っている神さまがどのような方であるかをわきまえることであるということから、いくつかのことをお話ししました。その一つのことですが、神さまはあらゆる点において無限、永遠、不変の豊かさに満ちた方です。神さまは存在において無限、永遠、不変の方ですから、ご自身がお造りになったこの世界のどこにでもおられます。同時に、神さまは生きておられる人格的な方ですから、みこころにしたがって、ご自身の民の間にご臨在してくださり、ご自身の民をご自身との愛にあるいのちの交わりに生かしてくださいます。
 今日は、このこととのかかわりで、旧約聖書の二つの御言葉を取り上げてお話ししたいと思います。


 イザヤ書57章15節には、

  いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、
  その名を聖ととなえられる方が、
  こう仰せられる。
  「わたしは、高く聖なる所に住み、
  心砕かれて、へりくだった人とともに住む。
  へりくだった人の霊を生かし、
  砕かれた人の心を生かすためである。」

と記されています。
 新改訳で、

  いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、

と訳されている部分は苦心の訳です。これを直訳調に訳しますと、

  高くあり、上げられ、永遠に住まわれ、

となります。この、直訳で「高くあり、上げられ」という言葉は二つの言葉[ルーム、ナーサー(受動態)]の組み合わせです。この二つの言葉の組み合わせは、イザヤが栄光の主の顕現に触れたことを記している、6章1節において、

ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。

と記されている中に出てきます。その「高くあげられた王座」の「高くあげられた」がこの二つの言葉で表されています。そして、この二つの言葉の組み合わせは、さらに、主のしもべの苦難と栄光を預言的に記している52章13節において、

  見よ。わたしのしもべは栄える。
  彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。

と記されている中でも用いられています。

  彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。

と言われているときの、「高められ、上げられ」が、この二つの言葉で表されています。
 ですから、これら三つの箇所においてあかしされていることは互いにつながっていると考えられます。栄光の主の顕現においてイザヤにご自身を啓示された主は、ご自身の民の贖いのために苦難を負って死なれて、栄光をお受けになる「主のしもべ」です。そして、そのようにして栄光をお受けになった主のことが、この57章15節において、

  いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、
  その名を聖ととなえられる方が、
  こう仰せられる。
  「わたしは、高く聖なる所に住み、
  心砕かれて、へりくだった人とともに住む。
  へりくだった人の霊を生かし、
  砕かれた人の心を生かすためである。」

とあかしされているのです。
 さらにここでは、主のことが、

  その名を聖ととなえられる方

と言われています。この部分は、直訳では、

  その名は「聖なる」である方

となります。ここには「となえられる」という言葉はありません。ここでは「聖なる」という言葉(カードーシュ)、実はこれは形容詞なのですが、これがそのまま主の御名とされていると考えられます。
 先ほど、6章1節とのつながりに注目しましたが、6章1節〜4節には、

ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、互いに呼びかわして言っていた。
  「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。
  その栄光は全地に満つ。」
その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。

と記されています。このセラフィムたちが互いに呼び交わして叫んでいた、

  聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。

の「聖なる」が、57章14節で、

  その名は「聖なる」である方

と言われているときの「聖なる」という言葉です。
 この、新改訳で、

  その名を聖ととなえられる方

と訳されている部分は、

  その名は聖なる方

というように、「聖なる」は主の御名ではなく、主の御名が聖いことを表していると理解することもできます。けれども、これより前の40章25節に、

  「それなのに、わたしを、だれになぞらえ、
  だれと比べようとするのか。」と
  聖なる方は仰せられる。

と記されている中では、「聖なる方が」この「聖なる」という言葉(形容詞・カードーシュ)で表されています。普通ですと、このような場合には、形容詞に定冠詞を付けて実体化して「聖なる方」という意味にします。けれども、ここでは、定冠詞をつけないままに「聖なる」という形容詞が用いられています。いわば固有名詞のように用いられているのです。主が聖なる方であられることを、その御名としているということです。このこととのつながりを考えますと、ここでも、この「聖なる」という言葉(形容詞・カードーシュ)が主の御名として用いられている可能性があります。新改訳はこの解釈を採用しているので「となえられる」を補って、

  その名を聖ととなえられる方

と訳しているわけです。
 いずれにしましても、これは主が聖なる方であられることを表しています。
 主が聖なる方であられるということは、いろいろな機会にお話ししてきたことからお分かりのことと思いますが、神さまがこの世界とその中のすべてのものをお造りになった方として、造られたすべてのものと絶対的に区別される方であることを表しています。
 このように、ここでは、主のことを、

  高くあり、上げられ、永遠に住まわれ、
  その名は聖なるである方

と表すことによって、主がこの世界のすべてのものとは絶対的に区別される方であられるという意味で、主が聖なる方であられることが強調されています。そして、その主が、

  わたしは、高く聖なる所に住み、
  心砕かれて、へりくだった人とともに住む。
  へりくだった人の霊を生かし、
  砕かれた人の心を生かすためである。

と語っておられます。

  わたしは、高く聖なる所に住み、

という御言葉は、その前の、

  高くあり、上げられ、永遠に住まわれ、
  その名は聖なるである方

という御言葉に示されている、主が聖なる方であられることを要約的に表しています。そのように聖なる主ご自身が、

  心砕かれて、へりくだった人とともに住む。

と言われます。この場合の「心砕かれて」という言葉には「」という言葉はありませんので、「砕かれて」となります。これは名詞ですので「砕かれた人」としてもいいわけです。もちろん、それは心が砕かれている人のことを述べています。また、「へりくだった人」には「霊において」を意味する言葉がありますので、「霊においてへりくだった人」です。ここで言われている「砕かれて、霊においてへりくだった人」は、自らの罪を自覚して、主の御前に心が砕かれ、霊においてへりくだっている人のことです。主はそのような人とともに住んでくださいます。そして、それは、主が、

  へりくだった人の霊を生かし、
  砕かれた人の心を生かすためである。

というのです。
 ですから、

  いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、
  その名を聖ととなえられる方が、
  こう仰せられる。
  「わたしは、高く聖なる所に住み、
  心砕かれて、へりくだった人とともに住む。
  へりくだった人の霊を生かし、
  砕かれた人の心を生かすためである。」

という御言葉は、主が、自らの罪を自覚して、主の御前に心が砕かれ、霊においてへりくだっている人とともに住んでくださり、そのような人々の心と霊を生かしてくださることに、主が聖なる方であられることが現れてくるということを示しています。これを逆に見ますと、私たちが自らの罪を自覚して、主の御前に心が砕かれ、霊においてへりくだり、ひたすら主の贖いの恵みに信頼して、主とともに歩むことによって、主が聖なる方であられることを映し出し、あかしするようになるということです。
 このことを念頭において、もう一つ取り上げたい箇所である詩篇50篇7節〜15節を見てみましょう。そこには、

  聞け。わが民よ。わたしは語ろう。
  イスラエルよ。わたしはあなたを戒めよう。
  わたしは神、あなたの神である。
  いけにえのことで、あなたを責めるのではない。
  あなたの全焼のいけにえは、
  いつも、わたしの前にある。
  わたしは、あなたの家から、
  若い雄牛を取り上げはしない。
  あなたの囲いから、雄やぎをも。
  森のすべての獣は、わたしのもの、
  千の丘の家畜らも。
  わたしは、山の鳥も残らず知っている。
  野に群がるものもわたしのものだ。
  わたしは、山の鳥も残らず知っている。
  野に群がるものもわたしのものだ。
  わたしはたとい飢えても、あなたに告げない。
  世界とそれに満ちるものはわたしのものだから。
  わたしが雄牛の肉を食べ、
  雄やぎの血を飲むだろうか。
  感謝のいけにえを神にささげよ。
  あなたの誓いをいと高き方に果たせ。
  苦難の日にはわたしを呼び求めよ。
  わたしはあなたを助け出そう。
  あなたはわたしをあがめよう。

という主の御言葉が記されています。
 こでは、主を礼拝するときのイスラエルの民の問題が糾弾されています。
 8節に、

  いけにえのことで、あなたを責めるのではない。
  あなたの全焼のいけにえは、
  いつも、わたしの前にある。

と記されていますように、主の戒めに規定されているとおりにいけにえはささげられていました。マラキ書1章8節では、主が禁じておられる傷のある動物がささげられていることが責められていますが、ここではそのようなことはありません。
 ここで主が問題としておられるのは、イスラエルの民の人々のいけにえをささげることに対する考え方です。主の神殿においてささげられるいけにえは、主の必要のためではなく、主の民のためです。主がご自身の民のために贖いを備えてくださり、ご自身との愛にあるいのちの交わりへの道を開いてくださることを約束してくださっているものです。けれども、12節、13節に、

  わたしはたとい飢えても、あなたに告げない。
  世界とそれに満ちるものはわたしのものだから。
  わたしが雄牛の肉を食べ、
  雄やぎの血を飲むだろうか。

と記されていますように、人々は動物のいけにえをささげることで、主の必要を満たしていると考えていたのです。いけにえをささげることによって、主に奉仕をしていると考えていたのです。それで、いけにえをささげて主を礼拝し、主に祈ることによって、主はそれに報いて、その礼拝を受け入れて下さり、祈りに答えて下さるというような考え方をしてしまうわけです。
 なぜこのような考え方をしてしまうのでしょうか。それは、イスラエルの民にとっては、造り主である神さまを知らず、自分たちの手で偶像を作り出し、それを礼拝し、それに祈る周囲の国々の民の考え方と同じ考え方をしていたからです。言い換えますと、神さまがどのような方であるかをわきまえていなかったからです。
 このような、考え方は、神さまがあらゆる点において無限、永遠、不変の豊かさに満ちておられ、ご自身がお造りになったすべてのものと絶対的に区別される方であるということを否定することです。その意味において、実質的に神さまの聖さを冒すものです。主の戒めに規定されているとおりに申し分のない家畜をいけにえとしてささげて、主を礼拝し、祈っているのに、それが主の聖さを冒すものとなってしまうということがあるのです。それは、礼拝し、祈るその人が神さまがどのような方であるかをわきまえていないことによっています。神さまがあらゆる点において無限、永遠、不変の豊かさに満ちておられ、ご自身がお造りになったすべてのものと絶対的に区別される方であるということを、礼拝と祈りにおいて映し出していないことによっています。
 このこととのかかわりで、さらに注意しておかなければならないことがあります。それは、このように言いますと、「大切なことは形式ではなく、それを真心からするかどうかだ。」というように、私たちの心の姿勢の問題であるとしてしまう傾向があります。確かに、それはそのとおりです。けれども、これには落とし穴があります。この詩篇50篇において、主によって責められている人々がいい加減な気持ちでいけにえをささげて、主を礼拝し、主に祈っていたと言うことはできません。その人々の心の姿勢には問題がなかったというか、主はそのことを問題にしてはおられないのです。これは、あくまでも、主がどのような方であられるかをわきまえていないことから生れてきた問題です。繰り返しになりますが、神さまがあらゆる点において無限、永遠、不変の豊かさに満ちておられ、ご自身がお造りになったすべてのものと絶対的に区別される方であるということが礼拝と祈りに映し出されていないという問題です。
 このように言いますと、何か難しいことのような気がします。けれども、そうではありません。最初に取り上げましたイザヤ書57章15節に記されている御言葉においては、主が、自らの罪を自覚して、主の御前に心が砕かれ、霊においてへりくだっている人とともに住んでくださり、そのような人々の心と霊を生かしてくださることに、主が聖なる方であられることが現れてくるということが示されていました。それは、私たちが自らの罪を自覚して、主の御前に心が砕かれ、霊においてへりくだり、ひたすら主の贖いの恵みに信頼して、主とともに歩むことによって、主が聖なる方であられることを映し出し、あかしするようになるということでした。
 そのことは、この詩篇50篇7節〜15節においても見て取ることができます。14節、15節には、

  感謝のいけにえを神にささげよ。
  あなたの誓いをいと高き方に果たせ。
  苦難の日にはわたしを呼び求めよ。
  わたしはあなたを助け出そう。
  あなたはわたしをあがめよう。

と記されています。
 この主の御言葉の根底にあるのは、いけにえをささげて主の必要を満たすというような考え方と真っ向から対立するものです。神である主は、私たちの助けを必要としておられる方ではなく、私たちの必要を満たしてくださる方です。私たちを助け、私たちを救い出して下さる方です。そのことは、

  苦難の日にはわたしを呼び求めよ。
  わたしはあなたを助け出そう。
  あなたはわたしをあがめよう。

という御言葉においてはっきりとしています。
 主の方から、

  苦難の日にはわたしを呼び求めよ。

と言って、私たちの祈りを求めてくださっています。それは「困ったときの神頼み」だとして非難すべきことではありません。これは普段から主を礼拝し祈っている人々への語りかけです。ただ、その人々の主に対するわきまえに問題があったのです。この主の呼びかけには、

  わたしはあなたを助け出そう。
  あなたはわたしをあがめよう。

という約束がともなっています。
 それでは、

  感謝のいけにえを神にささげよ。
  あなたの誓いをいと高き方に果たせ。

という御言葉はどうかといいますと、この御言葉についても同じことが表されています。なぜ、

  感謝のいけにえを神にささげよ。

と言われているのでしょうか。それは、神である主が私たちの必要を満たしてくださったし、試練の時に助けてくださり、苦難の中から救い出してくださったからです。これとのつながりで語られている、

  あなたの誓いをいと高き方に果たせ。

という語りかけも同じように考えられます。私たちは試練の中で自らのことを省みて、悔い改めるべきことに気がつくことがあります。それは主が試練の中で私たちの思いを導いてくださったことによっています。そのような時、私たちはそれを悔い改めて、生き方を変えるという思いを主にお伝えします。ここでは、このようなことに対して、

  あなたの誓いをいと高き方に果たせ。

と言われていると考えられます。
 ですから、

  感謝のいけにえを神にささげよ。
  あなたの誓いをいと高き方に果たせ。

と言われているのは、すでに主が私たちを支えていてくださり、私たちの必要を満たしてくださり、苦しみの中から助け出してくださったということを踏まえてのことです。決して、いけにえをささげるから、それに報いて、私たちを支えてください、私たちを助けてくださいというようなことではありませんん。
 このように見ますと、14節の、

  感謝のいけにえを神にささげよ。
  あなたの誓いをいと高き方に果たせ。

という主の御言葉は、すでに主が示してくださっている恵みと支えとお導きについて言われていることが分かります。そして、15節の、

  苦難の日にはわたしを呼び求めよ。
  わたしはあなたを助け出そう。
  あなたはわたしをあがめよう。

という御言葉は、この後も主が真実に私たちのことを省みてくださり、支えてくださり、導いてくださることを約束し、保証してくださっているものであることが分かります。
 ですから、ここでは、私たちが主に何かを差し出して、主がそれに報いて、私たちの必要を満たしてくださるという考え方はありません。主が一方的な愛と恵みによって私たちに御目を留めてくださり、私たちを省みてくださって、私たちの必要を満たしてくださるのです。
 それでは、どうして、主は私たちをそのように省みてくださるのでしょうか。それは、7節に、

  聞け。わが民よ。わたしは語ろう。
  イスラエルよ。わたしはあなたを戒めよう。
  わたしは神、あなたの神である。

と記されていることによっています。ここでは、主はイスラエルのことを「わが民」と呼んでくださっています。そして、ご自身のことを、

  わたしは神、あなたの神である。

と呼んでおられます。これは、主がご自身の一方的な愛と恵みによってイスラエルの民をご自身との契約関係に入れてくださったことを踏まえています。
 すでにいろいろな機会にお話ししてきましたが、主の契約は、レビ記26章11節、12節に記されている主の御言葉にまとめられています。そこには、

わたしはあなたがたの間にわたしの住まいを建てよう。わたしはあなたがたを忌みきらわない。わたしはあなたがたの間を歩もう。わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。

と記されています。
 主は、

わたしはあなたがたの間にわたしの住まいを建てよう。わたしはあなたがたを忌みきらわない。わたしはあなたがたの間を歩もう。

と言われるように、ご自身の契約の民の間にご臨在してくださり、ご自身の民をご自身との愛にあるいのちの交わりのうちに生かしてくださいます。それによって、

わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。

という主の契約の祝福が実現します。
 詩篇50篇7節において、主がイスラエルのことを「わが民」と呼んでくださり、ご自身のことを、

  わたしは神、あなたの神である。

と呼んでおられることは、

わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。

という主の契約の祝福を反映しています。
 このように、主は、ご自身の一方的な愛と恵みによって私たちのことを「わが民」と呼んでくださり、ご自身のことを、

  わたしは神、あなたの神である。

として表してくださいます。その上で、

  感謝のいけにえを神にささげよ。
  あなたの誓いをいと高き方に果たせ。
  苦難の日にはわたしを呼び求めよ。
  わたしはあなたを助け出そう。
  あなたはわたしをあがめよう。

と語ってくださっているのです。
 ヘブル人への手紙13章15節には、

ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。

と記されています。
 このように、このことのうちにも、先ほど取り上げましたイザヤ書57章15節に記されていることに通じることが見て取れます。私たちが自らの罪を自覚して、主の御前に心砕かれた者として、ひたすら主の愛と恵みに信頼して、主を呼び求めて生きるとき、また、主の愛と恵みに対する感謝と讃美をもって主を礼拝し、主に祈るとき、主はご自身の聖なる方であられることを現してくださいます。

 


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