(第13回)


説教日:2005年4月17日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 私は先主日、中会から派遣されて日本長老教会の姉妹教会の一つで行われた長老任職式の司式に当たらせていただきました。そのために一週空いてしまいましたが、今日も、マタイの福音書6章9節〜13節に記されている「主の祈り」についてのお話を続けます。これまで、主の祈りそのものについてお話しする前のこととして、私たちの祈りについていくつかのことをお話ししてきました。
 前回は、私たちが祈るときには神さまご自身がどのような方であるかをわきまえることが大切であるということから、神さまが存在と知恵と力において無限、永遠、不変の方であるということについてお話ししました。
 その時に引用した御言葉の一つに詩篇139篇1節〜16節があります。もう一度それを振り返ってみますと、7節〜10節には、

  私はあなたの御霊から離れて、どこへ行けましょう。
  私はあなたの御前を離れて、どこへのがれましょう。
  たとい、私が天に上っても、そこにあなたはおられ、
  私がよみに床を設けても、
  そこにあなたはおられます。
  私が暁の翼をかって、海の果てに住んでも、
  そこでも、あなたの御手が私を導き、
  あなたの右の手が私を捕えます。

と記されています。
 これは前回お話ししましたように、主がこの世界のどこにでもおられるということ、すなわち、神さまの「遍在」を告白するものです。この神さまの遍在は、神さまが存在において無限、永遠、不変の方であり、この世界の時間と空間を越えた方であられることによっています。
 神さまが存在において無限、永遠、不変の方であり、この世界の時間と空間を越えた方であられるということがどのようなことであるかは、私たちの理解力をはるかに越えたことで、私たちはそれをある程度しか知ることができません。普通は、神さまがこの世界の時間と空間を越えた方であるといいますと、神さまがこの世界から遠く隔たった方であるというように理解します。それにも無理からぬものがあります。別の機会にお話ししましたが、神さまの聖さの中心にあることは、神さまが、ご自身がお造りになったこの世界と絶対的に区別される方であるということです。私たちとしては、そのことを、神さまとこの世界の間に隔たりがあるというような形でイメージしてしまいます。
 しかし、神さまが、ご自身がお造りになったこの世界と絶対的に区別される方であるということをそのような方向で理解しますと、神さまとこの世界は「互いに隔たって存在している二つのもの」というように、相対化されてしまう危険性があります。
 神さまの聖さは、神さまがあらゆる点において無限、永遠、不変の豊かさに満ちておられる方であるということ、したがって、無限、永遠、不変の栄光に満ちておられる方であられるということに基づいています。
 神さまは、ご自身のみこころにしたがって、また、ご自身の無限、永遠、不変の豊かさから、この世界のすべてのものをお造りになりました。そして、この世界のすべてのものを、それぞれの特性にしたがって支え、生かし、導いてくださっておられます。神さまはこの世界のすべてのものを満たしてくださっておられます。その意味では、神さまは造られたすべてのものの一つ一つに最も近くあられる方です。私たちについて言えば、神さまは私たち一人一人に最も近くあられ、私たち以上に私たち一人一人のことをご存知であられます。
 この詩篇139篇においても、1節〜6節には、

  主よ。あなたは私を探り、
  私を知っておられます。
  あなたこそは私のすわるのも、
  立つのも知っておられ、
  私の思いを遠くから読み取られます。
  あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り、
  私の道をことごとく知っておられます。
  ことばが私の舌にのぼる前に、
  なんと主よ、
  あなたはそれをことごとく知っておられます。
  あなたは前からうしろから私を取り囲み、
  御手を私の上に置かれました。
  そのような知識は私にとって
  あまりにも不思議、
  あまりにも高くて、及びもつきません。

と告白されています。
 1節には、

  主よ。あなたは私を探り、
  私を知っておられます。

と記されています。この詩人が呼びかけている「」は契約の神である主、ヤハウェです。後ほどもう少し触れますが、この「ヤハウェ」という言葉は固有名詞です。「神」という言葉は、私たちが人間であるというときの「人間」という言葉と同じように固有名詞ではありません。これに対しまして、「彼はヨハネです」というときの「ヨハネ」は固有名詞ですが、「ヤハウェ」はそれと同じように固有名詞です。
 ですから、この詩人が、

  主よ。(ヤハウェよ。)

と呼びかけているのは、いわば、個人名で呼びかけているわけです。
 そして、2節には、

  あなたこそは私のすわるのも、
  立つのも知っておられ、
  私の思いを遠くから読み取られます。

と記されています。ここで新改訳が「あなたこそは」と訳しているのは、この「あなた」が強調されているからです。
 これらのことは、ここには主とのきわめて個人的で深い交わりがあることを示しています。
 さらに、3節と4節では、

  あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り、
  私の道をことごとく知っておられます。
  ことばが私の舌にのぼる前に、
  なんと主よ、
  あなたはそれをことごとく知っておられます。

と告白されていて、3節でも4節でも「ことごとく知っておられます」と言われています。主は、個人的に私とかかわってくださって、私の歩みのすべてを知ってくださっておられ、私の思いのすべてを知ってくださっておられるのです。
 ここで、「知っておられます」と訳されている言葉は、3節と4節では違っています。4節で、

  ことばが私の舌にのぼる前に、
  なんと主よ、
  あなたはそれをことごとく知っておられます。

と言われているときの「知っておられます」は、知ることを表す一般的な言葉(ヤダァ)です。これに対して、3節の、

  あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り、
  私の道をことごとく知っておられます。

というときの「知っておられます」は、それを「丁寧に扱ってくださって」知るようになってくださったというような言葉遣いがなされています。私の歩む道を大切にご覧になってくださって知ってくださっている、あるいは、私とともに歩んでくださるかのように知ってくださっているというような感じでしょうか・・・。
 このように、主は私たち一人一人のすべてのことを、きわめて個人的に親しく、しかも、私たち以上に深く知っていてくださいます。
          *
 その一方で、神さまは、人がご自身に対して罪を犯して御前に堕落してしまったときに、人をご自身の御前から退けられました。それは、罪ある者がそのまま神さまの御前にあるなら、神さまの聖さを冒してしまうからです。そして、人は神さまの聖さを冒すものとしてさばきを受けて、たちどころにさばかれることになるからです。
 そのように御前から退けられたからといって、神さまはご自身に対して罪を犯した人を支えてくださらなくなったわけではありません。マタイの福音書5章45節には、

天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。

というイエス・キリストの教えが記されています。また、神さまは日を上らせ雨を降らせてくださるというように、その人の住んでいる環境を整えてくださっているだけではありません。その人の呼吸を支えてくださることから始まって、いのちの営みのすべてを支えてくださっています。
 さらに言いますと、もっぱら神さまに逆らっているサタンでさえも、神さまによって造られたものとして、神さまの御手の支えによって存在することができているのです。もちろん、サタンはそのことをよく知っています。けれども、そのことから神さまに感謝することはありませんし、神さまを神としてあがめ、礼拝することもありません。そのことを知っているのにどうして、という気がしますが、それが、罪の暗やみの最も深い現れです。罪の下にある人間のうちにも、これと同じ暗やみがあります。
 いずれにしましても、神さまは造られたすべてのものに対して最も近くあられる方です。そして、すべてのものの、すべてのことを完全に知っておられます。それとともに、神さまはご自身に対して罪を犯して、御前に堕落してしまっている者たちを、御前から退けておられます。
 どうして、このようなことが可能なのでしょうか。それは、言うまでもなく、神さまが生きておられる人格的な方であられるからです。それは人間についても当てはまります。同じ職場で机を並べて働いている人がいがみ合っているとしたらどうでしょうか。物理的にはすぐそばにいても、その心は遠く離れてしまっています。神さまは生きておられる人格的な方ですので、それと同じような意味で、罪ある者に対して距離を取られるわけです。
 すでに何回か引用しましたイザヤ書66章1節、2節には、

  主はこう仰せられる。
  「天はわたしの王座、地はわたしの足台。
  わたしのために、あなたがたの建てる家は、
  いったいどこにあるのか。
  わたしのいこいの場は、いったいどこにあるのか。
  これらすべては、わたしの手が造ったもの、
  これらすべてはわたしのものだ。
  ―― 主の御告げ。――
  わたしが目を留める者は、
  へりくだって心砕かれ、
  わたしのことばにおののく者だ。」

と記されています。
 1節で、

  天はわたしの王座、地はわたしの足台。

と言われていますように、天と地とその中のすべてのものをお造りになった神さまは、お造りになったこの世界のどこにでもご臨在しておられます。けれども、そのどこかに、ご自身の「いこいの場」とされる所があるのです。主が特別な意味をもってそこにご臨在される場所があるのです。それは、ご自身との愛にあるいのちの交わりに生きるものとして神のかたちに造られた人間との交わりの場所です。
 この祈りについてのお話の初めの方で繰り返しお話ししましたが、三位一体の神さまの御父と御子の間には御霊による無限、永遠、不変の愛の交わりがあります。そして、この世界は、父なる神さまとの無限、永遠、不変の愛の交わりのうちにまったく充足しておられる御子によって造られました。ヨハネの福音書1章1節〜3節に、

初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

と記されているとおりです。それで、天地創造の御業は、神さまがご自身の愛をご自身の外に向けて表される御業であるのです。
 神さまはこの目的を実現されるために、人を神のかたちにお造りになって、ご自身との愛にあるいのちの交わりに生きるものとされました。神さまの「いこいの場」とは神のかたちに造られている人間が神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きる所です。その意味で、それは、天地創造の初めに神さまがお造りになり、神のかたちに造られている人間との愛にあるいのちの交わりの場とされた「エデンの園」がそのような意味をもった場所でした。
 けれども、神である主の「いこいの場」の本質は場所そのものにあるのではありません。たとえ「エデンの園」であっても、そこに神のかたちに造られている人間が存在していなくては、そして、神さまとの愛にあるいのちの交わりがなければ、そこは主の「いこいの場」とはなりません。神さまは場所に限定される方ではなく、そこがどこであっても、ご自身の民の在る所にご臨在されるのです。
 このイザヤ書66章2節では、

  わたしが目を留める者は、
  へりくだって心砕かれ、
  わたしのことばにおののく者だ。

と言われています。ここに述べられてる人は、先ほど触れましたサタンと正反対のところにいる人です。自らの罪を認めて心が砕かれ、主の御言葉を主の御言葉として恐れ敬いつつ信じて、それによってあかしされている恵みに頼り、それに従う者です。
 この「わたしが目を留める者」と、「へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者」は単数形で表されています。おそらく、これはそのような種類の人を表す意味での単数形ということでしょう。しかし、そうであっても、これは、もし一人でもそのような者がいれば、その人は確かに主の御目に留まるということをも含んでいるはずです。
 このイザヤの時代には、ユダの人々にとっては壮大な主の神殿が誇りでしたし、それがあることが頼みともなっていました。けれども、それは、人間が建てたものの壮大さを誇りとし、頼みとすることです。これと同じことは、私たちの間においても起こります。自分が欠かすことなく礼拝に出席してきたという「実績」が頼みとなってしまうというようなことです。あるいは、祈り続けてきた結果、願っていたとおりになったという「実績」が頼みとなってしまうということです。もちろん、私たちは私たちの造り主である神さまをあがめ、感謝をもって礼拝いたします。また、神さまの愛に包まれての交わりの中でいつも祈ります。それは私たちの幸いであり喜びです。けれども、それは、決して私たちの頼るべき「実績」にはならないのです。
 確かに、主の神殿は主の御言葉にしたがって建設されたものです。その意味では、その存在はみこころにかなっています。そうではあっても、主の神殿において大切なことは、その建物としての壮大さではなく、また、建物そのものでもありません。大切なことは、その神殿を通して主が示してくださっていることです。主は神殿を通して、ご自身がご自身の民の間にご臨在されることを示してくださっています。それとともに、そこには、主がご臨在される聖所、特にその奥の至聖所への道が閉ざされているということと、年に一度だけ、大贖罪の日に、大祭司がいけにえの血を携えて至聖所に入ることが許されるということがありました。これによって、罪ある人間は聖なる主のご臨在の御前から退けられていることが示されていました。心砕かれた人は、このことがまさに自らの現実であることを痛感している人です。
 同時に、主の神殿においては、動物のいけにえの本体である贖い主の血によって、神さまのご臨在の御前に至る道が開かれるということが約束のように示されていました。このことと合致して、自らの罪の現実を認めて、心砕かれ、自らを頼みとすることを捨て、主の恵みの御言葉を恐れつつ受け入れ、それに信頼し、それに従う人に、神である主は御目を留めてくださいます。そして、その贖い主を通して与えられる恵みによって、ご自身との愛にあるいのちの交わりのうちに生かしてくださるのです。
          *
 1節の冒頭で、

  主はこう仰せられる。

と言われているときの「」は、契約の神である主、ヤハウェです。この契約の神である主、ヤハウェが、ご自身の民の間にご自身の「いこいの場」を建ててくださり、そこに、先ほどお話ししましたように、贖いの恵みをもってご臨在してくださるのです。そして、ご自身の民をご自身との愛にあるいのちの交わりに生きるものとしてくださるのです。
 そのことは、この「ヤハウェ」という御名にも示されています。このヤハウェという御名は、先ほどお話ししましたように、固有名詞です。
 古い契約のもとでの贖いの御業がなされた出エジプトの時代に、主はモーセにご自身を現してくださいました。そして、モーセを、エジプトの奴隷となっていたイスラエルの民を奴隷の身分から贖い出すために遣わしてくださいました。その時のことを記す出エジプト記3章13節〜15節には、

モーセは神に申し上げた。「今、私はイスラエル人のところに行きます。私が彼らに『あなたがたの父祖の神が、私をあなたがたのもとに遣わされました。』と言えば、彼らは、『その名は何ですか。』と私に聞くでしょう。私は、何と答えたらよいのでしょうか。」神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある。』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた。』と。」神はさらにモーセに仰せられた。「イスラエル人に言え。あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主が、私をあなたがたのところに遣わされた、と言え。これが永遠にわたしの名、これが代々にわたってわたしの呼び名である。

と記されています。
 ここで神さまが言われた、

わたしは、「わたしはある。」という者である。

という言葉全体が、契約の神である主の御名です。これが、神さまによってさらに「わたしはある」に短縮されています。この「わたしはある」は神さまがご自身のことを述べておられるものですので、一人称です。それを主の民の側から言いますと三人称になります。もし、私たちが「わたしはある」と一人称で言いますと、それは私たちのことになってしまいます。ですから、私たちとしては、それを三人称で表すことになります。それが、ヤハウェという固有名詞になったと考えられます。
 ここでは、このヤハウェという神さまの御名は、

あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主

というように、主が「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」であられるということと結びついています。
 モーセから見るとアブラハム、イサク、ヤコブは遠い昔の先祖です。けれども、主はモーセに、ご自身が、

あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神

である、と言われました。これはかつて主は「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」であられたということ(過去のこと)ではなく、モーセの時代においても、主は「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」であられるということ(現在のこと)を意味しています。それは、また私たちの時代においても同じです。主は今日においても「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」であられます。
 このことから分かりますように、

わたしは、「わたしはある。」という者である。

という主の御名は、人の歴史が流れてその見える形が変わっても、主はご自身の契約に対して真実であられ、とこしえにご自身の民の神であられるということを表しています。
 主はご自身の一方的な恵みによってアブラハムを祝福してくださり、アブラハムに契約を与えてくださり、アブラハムとその子孫の神となってくださいました。アブラハムへの祝福の中心は、主がアブラハムとその子孫の神となってくださることにあります。言い換えますと、アブラハムとその子孫が、主を神として礼拝し、主との愛にあるいのちの交わりのうちに生きるようになるということにあるのです。ですから、主が今日においても「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」であられるということは、アブラハム、イサク、ヤコブは、今日においても、主を神として礼拝し、主との愛にあるいのちの交わりのうちに生きる祝福にあずかっているということを意味しています。
 このことに基づいて、私たちの主イエス・キリストは死者のよみがえりを論証しておられます。ルカの福音書20章37節、38節には、

それに、死人がよみがえることについては、モーセも柴の個所で、主を、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神。」と呼んで、このことを示しました。神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。というのは、神に対しては、みなが生きているからです。

というイエス・キリストの教えが記されています。

神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。というのは、神に対しては、みなが生きているからです。

ということであれば、主が「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」であられるということは、アブラハム、イサク、ヤコブは主の御前にあって、主との愛にあるいのちの交わりのうちに生きているということです。
 もちろん、これだけでは死者のよみがえりの論証にはなりません。しかし、アブラハムに契約が与えられたことを主の贖いの御業の歴史の流れの中で理解しますと、アブラハムに与えられた契約の祝福は、アブラハムの子孫の中から約束の贖い主が生れてきて、すべての民がその贖いにあずかって、主との愛にあるいのちの交わりのうちに生きるようになるということにあります。それは、より広い視点から見ますと、神さまの創造の御業の目的が実現するようになるということを意味しています。そして、神さまの創造の御業の目的は、神のかたちに造られている人間が充満な栄光にあるいのちにおいて、主との愛にあるいのちの交わりのうちに生きるようになることにあります。それは、御子イエス・キリストが十字架の死に至るまでの従順によって獲得された充満な栄光に満ちたいのちにあずかって、主の民が栄光のうちによみがえるようになる時に完全な形で実現します。
 このことは、すでに、私たちの現実になっています。というのは、私たちは私たちの罪を贖うために十字架にかかって死んでくださり、私たちを栄光あるいのちに生かしてくださるために死者の中からよみがえられたイエス・キリストと一つに結ばれているからです。そのことを栄光の主であられるイエス・キリストは、ご自身の血による新しい契約の聖礼典の一つである洗礼においてあかしし、保証してくださっています。ローマ人への手紙6章3節〜5節には、

それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。

と記されています。
 そして、パウロは、ガラテヤ人への手紙3章26節〜39節において、このことがアブラハムに与えられている契約の祝福にあずかることであるということをあかししています。そこには、

あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。

と記されています。
 このように、イエス・キリストの血による新しい契約の礼典である洗礼が表示し保証していることは、私たちがアブラハムの子孫として来られて、ご自身の民の贖いのために十字架にかかって死んでくださり、栄光をお受けになって死者の中からよみがえられた御子イエス・キリストと一つに結ばれているということです。
 このことを踏まえて、先ほどお話ししました、主がモーセの時代にご自身のことを「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」として表されたということ、そして、そのことに基づいて、イエス・キリストが死者のよみがえりを論証されたということの意味を考えてみますと、一つのことが見えてきます。
 それは、アブラハム、イサク、ヤコブはご自身の契約に対して常に真実であられる神、ヤハウェとのいのちの交わりのうちに生きているということを意味していました。そして、そのことの完全な形での実現は、アブラハム、イサク、ヤコブがイエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業にあずかって、栄光のキリストと一つに結ばれて、栄光のうちによみがえることにあります。ということは、ご自身のことを「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」として表された契約の神である主、ヤハウェは、御子イエス・キリストにほかならないということです。アブラハムの子として来てくださった贖い主イエス・キリストは、実は、アブラハムの主であられるのです。
 ヨハネの福音書8章58節には、

まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。

という、イエス・キリストがユダヤ人に対してあかしされた御言葉が記されています。ここで、

わたしはいるのです

と訳されている言葉(エゴー・エイミ)は、強調の現在形です。これは、主がモーセに語られた「わたしはある」という御名に当たります。そして、ここでは、これが「アブラハムが生まれる前から」という言葉と組み合わされて、それがより鮮明に示されています。
 そのことは、このイエス・キリストの御言葉を聞いたユダヤ人たちにも分かりました。それで、59節には、彼らがイエス・キリストを石打ちの刑にしようとしたことが記されています。それは、彼らがイエス・キリストが主の御名をご自身に当てはめておられることを察知したからです。そして、それによって、イエス・キリストが主の御名を汚していると思ったからです。
 アブラハム、イサク、ヤコブはこの主、アブラハムの子として来てくださった贖い主と一つに結び合わされて、この主の御前に生きています。それは、そのまま、私たちに当てはまることです。
 そして、そのように、私たちをイエス・キリストと一つに結び合わせてくださっているのは御霊のお働きです。それで、ガラテヤ人への手紙3章13節、14節においては、

キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。

と記されています。
 イエス・キリストに対する信仰によって、アブラハムに与えられた契約の祝福にあずかることは、「約束の御霊を受ける」ことにあります。それがどのようなことであるかも、このガラテヤ人への手紙で説明されています。4章4節〜6節には、

しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。

と記されています。
 私たちが受けた「約束の御霊」は父なる神さまのことを「『アバ、父。』と呼ぶ、御子の御霊」です。これは、父なる神さまと私たちの間に、御子の御霊によって、父と子の間の、個人的で親しい交わりが生み出されていることを意味しています。この御霊によって、私たちは御子イエス・キリストの御名によって、父なる神さまとの祈りを中心とする愛にあるいのちの交わりのうちに生きるようになります。そして、これによって、神さまは、私たちの間にご自身の「いこいの場」を見出してくださるのです。

 


【メッセージ】のリストに戻る

「主の祈り」
(第12回)へ戻る

「主の祈り」
(第14回)へ進む

(c) Tamagawa Josui Christ Church