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説教日:2005年4月3日 |
イザヤ書45章18節に、 天を創造した方、すなわち神、 地を形造り、これを仕上げた方、 すなわちこれを堅く立てられた方、 これを形のないものに創造せず、 人の住みかに、これを形造られた方、 まことに、この主がこう仰せられる。 「わたしが主である。ほかにはいない。」 と記されていますように、神さまはこの世界を「人の住みか」にお造りになりました。 また、同じイザヤ書66章1節、2節には、 主はこう仰せられる。 「天はわたしの王座、地はわたしの足台。 わたしのために、あなたがたの建てる家は、 いったいどこにあるのか。 わたしのいこいの場は、いったいどこにあるのか。 これらすべては、わたしの手が造ったもの、 これらすべてはわたしのものだ。 わたしが目を留める者は、 へりくだって心砕かれ、 わたしのことばにおののく者だ。」 と記されています。 ここでは、神さまはこの世界をご自身がご臨在される「神殿」としての意味をもつ世界としてお造りになったということが示されています。それは、私たちが住んでいるこの地球だけではなく、 天はわたしの王座、地はわたしの足台。 という御言葉に示されていますように、神さまがお造りになった壮大な宇宙全体が、ご自身がご臨在される「神殿」としての意味をもっているということです。 これは、私たちには途方もないことのように感じられるかもしれません。しかし、それは、そのように感じる私たちの神さまについてのわきまえが不十分なことによっています。この点につきまして、前に引用したいくつかの御言葉を改めて引用しておきたいと思います。 その知恵の賜物によって神さまのことをわきまえていたときのソロモンは、地上の神殿の奉献に際して、歴代誌第二・6章18節に記されている、 それにしても、神ははたして人間とともに地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして、私の建てたこの宮など、なおさらのことです。 という告白をしています。また、エレミヤ書23章24節に記されていますように、神である主は預言者エレミヤを通して、 天にも地にも、わたしは満ちているではないか。 と語っておられます。 神さまがお造りになった宇宙が神さまのご臨在される「神殿」としての意味をもっているということは決して途方もないことではありません。そして、以前お話ししたことがありますし、引用しますと長いことになりますので引用しませんが、使徒の働き7章に記されていますように、ステパノは、このことをわきまえていました。それで、先ほど引用しました、イザヤ書66章1節、2節の御言葉に触れて、エルサレム神殿の現実を批判しています。その当時のユダヤ社会の人々にとってエルサレム神殿は主の神殿でした。これを批判することは主を冒涜することとも思えました。けれども、イザヤのような預言者たちもステパノも、人間の手によって建てられた地上の神殿が、本物のひな型でしかないことを見抜いて、その現実を批判する(超越論的な)視点を持っていたのです。それは、まことの主の神殿は、神さまご自身がお造りになったこの天と地であることを啓示されて知っていたからです。 ちなみに、このことも、神さまがどのような方であるかを知ることが大切であることの一例です。 このように、神さまがお造りになった天と地は神さまがご臨在される「神殿」としての意味をもっていて、神さまはこの世界のどこにでもご臨在しておられます。このことは、神さまが存在においても、知恵と知識においても、無限、永遠、不変の方であられることと関連しています。 この宇宙は1秒間に地球を7回り半する速度で走る光が、150億年かけて走る距離の彼方に広がっていると言われています。それは私たちの想像を絶する広がりです。そうではあっても、無限、永遠、不変の存在であられ、造り主である神さまにとっては、150億光年の彼方も、今私たちがある所も同じで、ともにご自身の御前にあります。 イザヤ書41章4節には、 わたし、主こそ初めであり、 また終わりとともにある。わたしがそれだ。 という主の御言葉が記されています。 いろいろ議論がありますが、この世界が150億光年の彼方に広がっていて、さらに広がり続けているとすれば、それを逆算しますと、この宇宙は150億年前に誕生したということになります。そして、栄光のキリストの再臨の日に終末を迎えます。それで宇宙がなくなってしまうのではなく、御子イエス・キリストの贖いに基づいて再創造され新しい天と新しい地になります。その時はまだ来ていません。このような時の流れも、私たちの想像を越えるものですが、イザヤは、神さまがこの時間的な世界を造り出された方であり、同時に、終りとともにあられる方であることをあかししています。この世界の初めも終りも、同時に神さまの御前にあるのです。また、ペテロの手紙第二・3章8節には、 しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。 と記されています。 これらは時間的に見た、造り主である神さまと造り主である神さまがお造りになったこの世界との関係ですが、それは、空間的な距離についてもそのまま当てはまります。150億光年という私たちの想像を絶する距離の彼方にあるものも、今ここにある私たちも、神さまにとっては隔たりとはなりません。ともに神さまの御前にあります。 これらのことは、私たちの信仰に関係がないということはできません。詩篇139篇1節〜16節には、 主よ。あなたは私を探り、 私を知っておられます。 あなたこそは私のすわるのも、 立つのも知っておられ、 私の思いを遠くから読み取られます。 あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り、 私の道をことごとく知っておられます。 ことばが私の舌にのぼる前に、 なんと主よ、 あなたはそれをことごとく知っておられます。 あなたは前からうしろから私を取り囲み、 御手を私の上に置かれました。 そのような知識は私にとって あまりにも不思議、 あまりにも高くて、及びもつきません。 私はあなたの御霊から離れて、どこへ行けましょう。 私はあなたの御前を離れて、どこへのがれましょう。 たとい、私が天に上っても、そこにあなたはおられ、 私がよみに床を設けても、 そこにあなたはおられます。 私が暁の翼をかって、海の果てに住んでも、 そこでも、あなたの御手が私を導き、 あなたの右の手が私を捕えます。 たとい私が 「おお、やみよ。私をおおえ。 私の回りの光よ。夜となれ。」と言っても、 あなたにとっては、やみも暗くなく 夜は昼のように明るいのです。 暗やみも光も同じことです。 それはあなたが私の内臓を造り、 母の胎のうちで私を組み立てられたからです。 私は感謝します。 あなたは私に、奇しいことをなさって 恐ろしいほどです。 私のたましいは、それをよく知っています。 私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、 私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。 あなたの目は胎児の私を見られ、 あなたの書物にすべてが、書きしるされました。 私のために作られた日々が、 しかも、その一日もないうちに。 と記されています。 人工衛星で大気圏の外に出た人々は地球を外から見たわけですが、そこからは地上に住む人々は見えません。そこまで行かなくても、高い山に登って下の景色を見るだけで、人々の姿は見えなくなります。そのようなことから、私たちの想像を絶する広がりをもつ宇宙を創造された神さまにとって、その宇宙の点でしかない地球のさらに表面に当たる地上に住んでいる私たちはどう写るのであろうかという思いになります。しかし、この詩篇139篇の7節〜9節には、 私はあなたの御霊から離れて、どこへ行けましょう。 私はあなたの御前を離れて、どこへのがれましょう。 たとい、私が天に上っても、そこにあなたはおられ、 私がよみに床を設けても、 そこにあなたはおられます。 私が暁の翼をかって、海の果てに住んでも、 そこでも、あなたの御手が私を導き、 あなたの右の手が私を捕えます。 と告白されています。今日の私たちの言葉で言いますと、たとえ私たちが150億光年の彼方に行ったとしても、そこに主はおられるということです。ただおられるだけでなく、主はその御手をもって私たちを支えていてくださるということです。 ここに告白されていることは、神である主はご自身がお造りになったこの世界のどこにでもおられるということです。それを、神さまの「遍在」と呼びます。150億光年の彼方に広がっているこの大宇宙のどこにでも神さまはおられます。そして、ご自身がお造りになったすべてのものを、真実な御手をもって支えておられます。 詩篇139篇には、このような神さまの遍在のことが、生き生きとした言葉で告白されています。そして、お気づきのことと思いますが、この告白は、「私は」、「私が」、「私を」というように、神である主との関係がきわめて個人的なものとして告白されています。これが私たちの信仰の特質です。150億光年の彼方に広がっている壮大な宇宙のどこにでもおられて、ご自身がお造りになったすべてのものを、真実な御手をもって支えておられる神さまが、今ここにいるこの私を支えてくださっているという信仰です。 それで、私たちは、天と地をお造りになり、この宇宙のどこにでもおられて、すべてのものを支えておられる主に向かって、この詩篇の記者とともに、 あなたは前からうしろから私を取り囲み、 御手を私の上に置かれました。 そのような知識は私にとって あまりにも不思議、 あまりにも高くて、及びもつきません。 と告白することができます。 さらに、時間的にも、4節には、 ことばが私の舌にのぼる前に、 なんと主よ、 あなたはそれをことごとく知っておられます。 と告白されており、16節には、 あなたの目は胎児の私を見られ、 あなたの書物にすべてが、書きしるされました。 私のために作られた日々が、 しかも、その一日もないうちに。 と告白されています。 すでに主は、私たちそれぞれのの生涯のすべてをつぶさに知っておられるのです。 人間の場合には、一人の人に掛かり切りになっていれば、他の人にまで手が回りません。また、人間が考える偶像には、それが一つの地域であれ、国であれ、それぞれの持ち場があって、それを越えるとその手が届きません。もちろん、実際には、自ら動くこともできない偶像が手を伸ばすことはできません。これは、人間の考えの中でさえ、偶像の守備範囲は決まっているという意味です。しかし、存在と知恵と力において無限、永遠、不変の神さまは、私たちの一人に掛かり切りになるほどにつぶさに関わってくださっても、それで、他の人に関わることができなくなるのではありません。私たちのそれぞれに、掛かり切りになっていると思われるほどに深く関わってくださるのです。そうであるので、私たちすべてが、この詩篇の記者のきわめて個人的な告白をそのまま自分のこととして告白することができるのです。 このことは、私たちの祈りに当てはめて考えることができます。この世界には実に多くのことが起こります。私たちの一人一人の生涯に起こることだけでも、実に複雑なことが絡み合っています。それは、その経験をしている本人にさえも事の真相が分からないようなことばかりです。けれども、存在と知恵と力において無限、永遠、不変の神さまの御前には、一つ一つのことがつぶさに知られています。この世界、150億光年の彼方に広がっている壮大な宇宙の中に生起するあらゆることが、すでに起こったことも、これから起こるであろうことも、神さまの御前にあります。そして、神さまはすべてのことをつぶさに知っておられます。神さまは、そのすべてを知っておられるだけではありません。そのすべてを支えて、導いておられます。 そのような神さまが、私たちを知っていてくださるのです。そうであれば、私たちは、先ほどの詩篇の記者とともに、 主よ。あなたは私を探り、 私を知っておられます。 あなたこそは私のすわるのも、 立つのも知っておられ、 私の思いを遠くから読み取られます。 あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り、 私の道をことごとく知っておられます。 ことばが私の舌にのぼる前に、 なんと主よ、 あなたはそれをことごとく知っておられます。 あなたは前からうしろから私を取り囲み、 御手を私の上に置かれました。 と告白します。そして、そのように告白するときの信仰をもって、先ほど引用しました、イエス・キリストの、 また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。 という教えに耳を傾けたいと思います。そして、父なる神さまを信頼して、率直に祈りたいと思います。 また、神さまがそのように私たちのことをつぶさに知っていてくださるのであれば、人の目から見て、いや、そう言う自分自身の目から見ても、取るに足りない存在でしかない、私が祈るときにも、神さまはこの祈りに耳を傾けてくださいます。そして、人にたとえれば、この私に掛かり切りになっておられると言っていいくらいに、深くみこころを注いでくださいます。そうであっても、神さまは、ご自身の民すべてに同じように深くみこころを注いでくださっています。 ですから、この神さまに祈ることが大切なのです。私たちはしばしば祈りにおいて神さまから目をそらせてしまうことがあります。それは、マタイの福音書6章5節、6節に記されていますように、イエス・キリストが また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。 と教えてくださっているところです。 祈りは大切なことです。それで、つい、人に見せるという動機で祈ろうとする誘惑が私たちを襲ってきます。 それにはいろいろなケースが考えられますが、当時のパリサイ人たちは、定められた祈りの時に祈るべきことを人々に教えるために、自らが祈っている姿勢を示して教えようとしていたと言われています。そうであっても、そのために人に見られている自分を意識し、心が神さまの方に向かなくなってしまうということ、それによって祈りが根本的に歪められてしまうということは十分考えられます。 このような、人に見せようとする誘惑に駆られてしまいますと、祈りが苦しくなってきます。人に見せる見せかけの自分と本当の自分の間の大きなずれを、神さまの御前で感じないではいられなくなるからです。そして、祈りを取り繕い続ける苦しみが増してきます。 しかし、私たちのすべてのことをすでに知っていてくださる神さまの御前に祈るのであれば、もはや私たちが自分を取り繕う必要もなければ、自分を取り繕うことは無駄なことです。私たちは家族の中でさえ、ある程度は自分を取り繕っています。しかし、私たちは、神さまの御前においては、そのままの自分であることができるのです。そして、自分は欠けだらけの者であっても、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からの復活によって成し遂げられた贖いの恵みに包んでいただいて、祈ることができることを信じます。そして、そのような私たちの祈りも欠けだらけのものですが、その祈りも、イエス・キリストの贖いの恵みに包んでいただいて、父なる神さまにお聞きいただくことができることを信じます。このように、私たちは、神さまの御前に祈るときには、御子イエス・キリストの贖いの恵みのみを頼みとして祈ります。それで、自分を取り繕う必要はなくなるのです。 もちろん、だからといって、私たちは好きなことを祈ればよいということではありません。(このような話は、しばしば、そういう方向に進んでいってしまいます。)何を祈るべきであるかはイエス・キリストが「主の祈り」をとおして教えてくださっています。主の祈りをとおして主が教えてくださっている祈りを祈ることは、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりにあずかって新しく生まれ、神の子どもとしていただいている者の特権です。私たちがまだ贖いの恵みにあずかっていなかったために、造り主である神さまを知らなかった頃のことを思い出してみてください。かつての私たちは、自己中心的な動機から祈りをしていました。それで、 天にいます私たちの父よ。 御名があがめられますように。 御国が来ますように。 みこころが天で行なわれるように 地でも行なわれますように。 というように、父なる神さまを深く信頼して、神さまを中心とした祈りを祈りませんでしたし、祈ることもできませんでした。主が教えてくださっているこのような祈りを心からの自分の願いとして祈ることができるとしたら、それは、神のかたちに造られた者の栄光と尊厳が、御子イエス・キリストの贖いの恵みによって回復されていることの現れです。 しかし、このような主が教えてくださった祈りを祈るときにも、私たちのうちには常に欠けがあります。この宇宙のどこにでもおられる父なる神さまが天におられるということがどのようなことなのか、御名があがめられるとはどのようなことなのか、御国が来るとはどのようなことなのか、みこころが点で行われるとはどのようなことなのか、それらのことについて十分なわきまえのないままに祈っているという現実があります。また、その意味を分かって祈っていても、その祈りには自己中心の陰があります。そうではあっても、私たちは自らの欠けを取り繕う必要はなく、イエス・キリストの贖いの恵みにすべてを包んでいただいて祈ることができるのです。 |
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