(第11回)


説教日:2005年3月20日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 マタイの福音書6章9節〜13節には、私たちの主イエス・キリストが教えてくださった祈りである「主の祈り」が記されています。今は、この主の祈りそのものについてお話しする前に、私たちの祈りについていくつかのことをお話ししています。
 まずお話ししたのは、私たちの祈りの起源です。
 私たちの祈りは、私たちも含めてこの世界のすべてのものをお造りになった神さまが三位一体であられることから出ています。三位一体の御父と御子の間には、御霊による無限、永遠、不変の愛の交わりがあります。そのことは、繰り返しの引用になりますが、ヨハネの福音書1章1節、2節に、

初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。

と記されている御言葉に示されています。神さまは永遠にこの愛の交わりのうちにあって全く充足しておられます。
 これまで、神さまのうちにまったき充足があるということを繰り返しお話ししてきました。それはそのとおりですが、これについては、二つほどの補足を加えておくべきであるということを感じています。これは、ひどく難しいことで、私たちの限界をかいま見るようなことがらに首を突っ込むようなことですが、大切なことでもありますので、あえてお話ししたいと思います。
 一つ目のことですが、私たちの感覚ですと、充足しているとか、安息しているということは、「ああ、これで満足である。」というように、そこで止まってしまっている状態であるという気がします。けれども、そのように考えることは、神さまの充足や安息をごく一面的にしか捉えていないと言わなければならないと思われます。
 神さまの充足や安息は、御父と御子の、御霊にある無限、永遠、不変の愛の交わりから生れてきています。神さまは、愛の交わりにあってまったく充足しておられます。その、神さまの愛は、ご自身にとって、常に新鮮なものであり、その愛による交わりも常に新鮮なものであるはずです。というのは、神さまの愛が褪せてしまうというようなことは考えられないからです。それは、私たちに対する神さまの愛が褪せてしまうことがないというだけのことではありません。確かに、私たちに対する神さまの愛は、決して褪せることがありません。そうであれば、三位一体の御父、御子、御霊の間に通わされている無限、永遠、不変の愛は、なおのこと、決して褪せてしまうことはありません。御父の愛が、御子にとって、当たり前のもの、惰性的なものとなってしまうというようなことは考えられませんし、御子の愛が御父にとって当たり前のもの、惰性的なものとなってしまうというようなことも考えられません。ですから、そのような愛の交わりから生み出される神さまの充足や安息は、神さまにとっても、常に新鮮なものであるはずです。
 そうしますと、私たちは、神さまの愛は不変ではないのではないかというような気がします。それは、あるものが常に新鮮であるということは、それが常に変化しているからではないかという思いがあるからです。しかし、それは、私たちにとって新鮮であるものには、それまでになかった何かが加わって、新鮮な感じがするというだけのことです。
 神さまの愛が不変であるということは、それが無限であり永遠であるからです。神さまの存在も、その一つ一つの属性も無限であり永遠であるので不変なのです。あるいは無限であり永遠であるという点において不変であるのです。もちろん、神さまの存在と一つ一つの属性が無限であり永遠であるということは、それが実際にどのようなことであるかは、有限なものである私たちにはとても理解することができないことです。それをあえて私たちの言葉で「無限である」とか「永遠である」と言っているわけです。そこにはどうしても無理があります。
 神さまの存在や一つ一つの属性が無限であるというとき、私たちには、それらが「無限」ということで固定してしまっているような気がします。しかし、それは、私たちの理解の限界によることです。「無限」ということで固定してしまっているということは、すでに、それに「そこまで」という限界があるということであって、無限ではなくなってしまいます。無限であるということは、どこかで固定してしまうことはないのです。そのようなわけで、私たちが限りある私たちの言葉で、神さまの愛は無限、永遠、不変であるというとき、その愛は、いかなる意味においても固定しているものではありません。それで、神さまの無限、永遠、不変の愛は神さまご自身にとっても常に新鮮であると言うことになります。そして、御父と御子が、御霊によって、無限、永遠、不変の愛の交わりのうちにあるというとき、その交わりは、永遠に新鮮な愛の交わりであるのです。ですから、その愛の交わりから生み出される神さまの充足と安息も、永遠に新鮮なものであるわけです。


 補足したい二つ目のことも、今お話ししたことと関連しています。どうしても人間的な言い方は避けられませんが、今お話ししましたように、三位一体の御父と御子の間に、御霊によって通わされている無限、永遠、不変の愛は、神さまご自身にとっても、常に新鮮な愛であり、その交わりも常に新鮮な交わりです。そのような、愛の交わりのうちにある御父と御子のうちには、御霊による喜びが満ちているはずです。御父は御子をお喜びになり、御子は御父をお喜びになる。そして、その喜びは、無限、永遠、不変の喜びである、神さまにとって常に新鮮な喜びである、ということになります。
 このようなことを言いますと、これは無益な思弁ではないかという苦情が出てきそうです。しかし、このように言うことには、御言葉の根拠がないわけではありません。
 箴言8章22節〜31節には、

  主は、その働きを始める前から、
  そのみわざの初めから、わたしを得ておられた。
  大昔から、初めから、大地の始まりから、
  わたしは立てられた。
  深淵もまだなく、水のみなぎる源もなかったとき、
  わたしはすでに生まれていた。
  山が立てられる前に、丘より先に、
  わたしはすでに生まれていた。
  神がまだ地も野原も、
  この世の最初のちりも造られなかったときに。
  神が天を堅く立て、
  深淵の面に円を描かれたとき、
  わたしはそこにいた。
  神が上のほうに大空を固め、
  深淵の源を堅く定め、
  海にその境界を置き、
  水がその境を越えないようにし、
  地の基を定められたとき、
  わたしは神のかたわらで、
  これを組み立てる者であった。
  わたしは毎日喜び、いつも御前で楽しみ、
  神の地、この世界で楽しみ、
  人の子らを喜んだ。

と記されています。
 ここでは、神さまの知恵が擬人化された形で、しかも、神さまとは別の人格であるように表されています。これが、すでに引用しましたヨハネの福音書1章1節、2節に記されている永遠の「ことば」の背景となっていると考えられます。ここでは、「擬人化された知恵」が創造の御業に参加しつつ、神さまの御前で喜び楽しんでいることが示されています。それは、そのまま、永遠の「ことば」に当てはまることであると考えられます。
 また、イエス・キリストが公生涯の初めに、ヨルダン川においてバプテスマのヨハネから洗礼をお受けになったときのことを記しているマタイの福音書3章16節、17節には、

こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」

と記されています。同じ時のことを記しているマルコの福音書1章9節〜11節には、

そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来られ、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった。そして、水の中から上がられると、すぐそのとき、天が裂けて御霊が鳩のように自分の上に下られるのを、ご覧になった。そして天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」

と記されています。
 これは、イエス・キリストが、公生涯の初め、すなわちメシヤとしてのお働きを始められるに当たって、自らの罪を告白してバプテスマのヨハネから洗礼を受けようとしている人々と一つになられたことを受けて、父なる神さまが語りかけてくださったことの記録です。
 「天が開け」という言葉は、それが神さまの幻による啓示であることを示しています。父なる神さまは、それを、

あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。

というように、イエス・キリストご自身に語りかけてくださっただけでなく、

これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。

というように、人々にも語りかけてくださったと考えられます。その意味では、これは、イエス・キリストがこのように罪人たちと一つとなられる形で公生涯を始められたことを、よしとしてくださった父なる神さまのお言葉です。
 また、

神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。

と言われていることも、父なる神さまが、このような形で公生涯を始められたイエス・キリストをよしとしてくださったことの現れです。その意味で、これは、父なる神さまがこのような形で公生涯を始められたイエス・キリストに御霊を注いでくださったことです。ここでは、それが、

神の御霊が鳩のように下って

というように、御霊の主体的なお働きとして記されています。
 このことには、三位一体の御父、御子、御霊が関わっていることが見て取れます。御父、御子、御霊が、私たちを罪と死と暗やみの力から贖い出してくださることにおいて一致しておられます。そればかりでなく、

あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。

という言葉や、

これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。

ということばに示されていますように、父なる神さまが贖い主としての御業を始められた御子をお喜びくださっていることに、私たちが罪と死と暗やみの力から贖い出されることをお喜びくださっていることが表されています。
 いずれにしましても、

これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。

という言葉と、

あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。

という言葉は、父なる神さまが罪人たちと一つとなられる形でメシヤとしてのお働きを始められたイエス・キリストを、受け入れてくださったことの現れです。
 それと同時に、この、

これは、わたしの愛する子である。

という言葉と、

あなたは、わたしの愛する子である。

という言葉は強調の現在形で表されています。このことから、父なる神さまが御子をお喜びになることは、この時だけのことではないことをくみ取ることができます。父なる神さまは御子イエス・キリストを、ご自身の御子として常にお喜びになっておられるのですが、そのことが、特に、この公生涯の始めに、このような形でメシヤとしてのお働きを始められたことに、具体的に表されるようになったということです。それは、人間の親子関係においても、見られることです。両親は常に自分の子の存在を喜んでいるのですが、その子が特に人として大切なことをなしたときには、その喜びがより強く表されるようになります。
 今週は、2005年の受難週に当たります。御父との無限、永遠、不変の愛の交わりのうちにあって充足し、深い喜びのうちにあられる御子が、人の性質をお取りになって来てくださいました。それは、ご自身の十字架の死をもって私たちの罪を贖ってくださるためのことでした。公生涯の初めに、そのことへの第一歩を罪人たちと一つであられることを具体的に表わす形で始められた御子に対して、父なる神さまは、特別な思いを込めて、

あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。

と語りかけられました。しかし、それは、やがて御子イエス・キリストが私たちの罪の咎を負って十字架におかかりになったときに、その御子の上に私たちの罪に対する聖なる御怒りを余すところなく注がれることへとつながっています。無限、永遠、不変の愛をもって御子を愛しておられ、常に御子をお喜びになっておられる御父が、その御子に聖なる御怒りのすべてをお注ぎになるということは、私たちの思いをはるかに越えたことです。すべては、私たちを罪と死と暗やみの力から贖い出して、ご自身との愛にあるいのちの交わりのうちに生かしてくださり、私たちの喜びをまったきものとしてくださるためのことです。
 これらのことから、三位一体の神さまは、ご自身の無限、永遠、不変の愛にある交わりのうちにまったく充足しておられるのですが、それは、無限、永遠、不変の喜びをともなう充足であり、安息であると言うことができます。もちろん、その喜びは、御父、御子、御霊がお互いを喜びとしておられるということです。
 神さまは、ご自身の無限、永遠、不変の愛にある交わりによるまったき充足と喜びのうちに、今私たちが住んでいるこの世界をお造りになりました。それは、ご自身の愛をご自身の外に向けて表現されることでした。この世界は、父なる神さまが御子を通して、また御子にあって、御霊のお働きによって造り出された世界です。ヨハネの福音書1章3節には、

すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

と記されており、コロサイ人への手紙1章15節〜17節には、

御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。

と記されています。
 この世界全体が、そして、その中の一つ一つのものが、父なる神さまとの無限、永遠、不変の愛の交わりのうちにあり、まったき喜びのうちに充足しておられる御子によって造られ、御子のうちにあって保たれています。御子は、父なる神さまのみこころにしたがい、御霊のお働きによって、この世界をお造りになった方であり、この世界のすべてのものを保っておられ、この世界のすべてのものの存在の目的であられる方です。すべてのものは、御子にあって、父なる神さまのまったき充足と喜びのうちに造られており、その充足と喜びのうちに保たれています。
 そのように三位一体の神さまによって造られたこの世界にあって、私たちは神のかたちに造られています。それは、私たちが神さまの愛を受け止め、神さまの愛のうちに生きることによって、私たちもまったき充足と喜びのうちに生きるようになるためです。
 これらのことについては、すでに詳しくお話ししたことですが、今日補足的にお話ししてきました、交わりにある喜びについて触れている御言葉をいくつか見ておきたいと思います。
 ヨハネの福音書15章9節〜12節には、

父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。

というイエス・キリストの教えが記されています。
 私たちは、イエス・キリストが私たちを愛してくださったように、互いに愛し合うという戒めを守ることによって、イエス・キリストの愛の中にとどまるようにと戒められています。そして、それは、イエス・キリストの喜びが私たちのうちに満ちあふれて、私たちの「喜びが満たされる」ためであると言われています。この「満たされる」と訳されている言葉[プレーロオー(ここでは受動態)]は、また「まったきものとなる」ということをも表します。
 ヨハネの手紙第一・1章1節〜4節には、

初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、   このいのちが現われ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現わされた永遠のいのちです。   私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。私たちがこれらのことを書き送るのは、私たちの喜びが全きものとなるためです。

と記されています。
 ここでは、

私たちの喜びが全きものとなるためです。

と言われています。この「全きものとなる」という言葉は、先ほど触れましたヨハネの福音書15章11節で、

あなたがたの喜びが満たされるためです。

と言われているときの「満たされる」(受動態)と訳されている言葉(プレーロオー)です。言うまでもなく、その喜びは、御霊によって、「御父および御子イエス・キリストとの交わり」のうちに生きる喜びです。言い換えますと、神さまご自身が私たちの心の喜びとなってくださっているということです。
 そのように、神さまご自身を喜びとするということについて、詩篇の最初の方に記されている言葉をいくつか見ていましょう。
 4篇6節、7節には、

  主よ。どうか、あなたの御顔の光を、
  私たちの上に照らしてください。
  あなたは私の心に喜びを下さいました。
  それは穀物と新しいぶどう酒が
  豊かにあるときにもまさっています。

と記されています。
 5篇11節、12節には、

  こうして、あなたに身を避ける者がみな喜び、
  とこしえまでも喜び歌いますように。
  あなたが彼らをかばってくださり、
  御名を愛する者たちが
  あなたを誇りますように。
  主よ。まことに、あなたは正しい者を祝福し、
  大盾で囲むように愛で彼を囲まれます。

と記されています。ここで「」と訳されている言葉(ラーツォーン)は「好意」や「善意」などを表していますが、それは神さまの愛の現れです。
 9篇1節、2節には、

  私は心を尽くして主に感謝します。
  あなたの奇しいわざを余すことなく語り告げます。
  私は、あなたを喜び、誇ります。
  いと高き方よ。あなたの御名をほめ歌います。

と記されています。
 13篇5節、6節には、

  私はあなたの恵みに拠り頼みました。
  私の心はあなたの救いを喜びます。
  私は主に歌を歌います。
  主が私を豊かにあしらわれたゆえ。

と記されています。
 14篇7節には、

  ああ、イスラエルの救いがシオンから来るように。
  主が、とりこになった御民を返されるとき、
  ヤコブは楽しめ。
  イスラエルは喜べ。

と記されています。
 16篇8節〜11節には、

  私はいつも、私の前に主を置いた。
  主が私の右におられるので、
  私はゆるぐことがない。
  それゆえ、私の心は喜び、
  私のたましいは楽しんでいる。
  私の身もまた安らかに住まおう。
  まことに、あなたは、私のたましいを
  よみに捨ておかず、
  あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。
  あなたは私に、いのちの道を
  知らせてくださいます。
  あなたの御前には喜びが満ち、
  あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。

と記されています。
 ペテロは、使徒の働き2章に記されているペンテコステの日の説教の中の25節〜28節に記されている部分で、この16篇8節〜11節の言葉は、イエス・キリストの復活を預言的に語っている言葉であると述べています。また、パウロも、使徒の働き13章35節〜37節に記されていますように、この16篇10節の、

  まことに、あなたは、私のたましいを
  よみに捨ておかず、
  あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。

という言葉を引用して、イエス・キリストの死者の中からのよみがえりが、旧約聖書の御言葉に基づくものであると述べています。このように、詩篇16篇に述べられていることは、そのもっとも豊かな意味においては、イエス・キリストご自身に当てはまることです。けれども、それはまた、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりにあずかって罪を贖われ、復活のいのちに生かされている私たちにそのまま当てはまる祝福です。
 霊感された讃美と言われている、詩篇のごく最初の部分だけでも、このように、神である主ご自身と主の救いを喜ぶ言葉が満ちています。この後にも、神である主ご自身と主の救いの御業を喜ぶ言葉はたくさん出てきます。改めて、それらを見てきますと、詩篇には、これほど神さまに対する喜びの言葉が満ちていたのかと驚いてしまいます。
 これは、神さまとの愛にあるいのちの交わりの喜びです。その意味で、これは、神さまが私たちを愛してくださり、お喜びくださっていることから生れてくる喜びです。ローマ人への手紙5章8節〜11節には、

しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。

と記されています。
 私たちの祈りは、神さまが私たちをご自身の愛をもって包んでくださって、ご自身との愛にあるいのちの交わりのうちに生かしてくださっていることの中で祈られます。それは、まことに喜びに満ちた、神さまとの交わりの現れであるはずです。テサロニケ人への手紙第一・5章16節〜18節には、

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。

と記されています。

 


【メッセージ】のリストに戻る

「主の祈り」
(第10回)へ戻る

「主の祈り」
(第12回)へ進む

(c) Tamagawa Josui Christ Church