(第10回)


説教日:2005年3月13日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 マタイの福音書6章9節〜13節に記されている主の祈りについてのお話しするための前置きとして、私たちの祈りについていくつかのことをお話ししています。
 まずお話ししたことは、人はなぜ祈るのかという意味での祈りの起源についてです。
 祈りの起源を突き詰めていきますと、神さまが三位一体の神であられることと、神さまが人をご自身のかたちにお造りになったことに行き着きます。
 三位一体の御父と御子の間には、御霊による無限、永遠、不変の愛の交わりがあります。このことはヨハネの福音書1章1節、2節に、

初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。

と記されていることに示されています。神さまはこの愛にある交わりのうち永遠にに充足しておられます。
 これに続く3節には、

すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

と記されています。私たちも含めてこの世界の「すべてのもの」は、父なる神さまとの無限、永遠、不変の愛の交わりのうちにまったく充足しておられる御子によって造られました。天地創造の御業は、無限、永遠、不変の愛にある交わりのうちに充足しておられる神さまが、ご自身の愛をご自身の外に向けて表された御業です。
 ですから、神さまによって造られたこの世界の「すべてのもの」は、神さまのまったき愛と充足に包まれています。けれども、この世界の「すべてのもの」がその神さまの愛を自覚的に受け止めて、それに人格的に応答することができるわけではありません。ただ、神のかたちに造られているものだけが、神さまの愛を受け止めて、愛をもって応答することができます。神さまは、人がご自身の愛を受け止めて、それに愛をもって応答するようになるために、人をご自身のかたちにお造りになりました。それで、神のかたちに造られている人間は、神さまとの愛の交わりのうちに生きる者として造られています。
 そのように、神さまとの愛の交わりのうちに生きるために神のかたちに造られている人間の本性には「神への思い」が植え付けられています。この「神への思い」によって、人は、その本来の姿においては、自然と自らの造り主である神さまを求め、神さまに向き、神さまとの愛にある交わりに生きるようになります。その意味で、神さまとの交わりの一つである祈りは、私たちにとって最も自然なものです。
 このことは、人が造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまったことによって、歪められてしまっています。人は神のかたちに造られてます。そして、人の本性には「神への思い」が植え付けられています。このことは、神さまが人をそのようにお造りになったことによっています。それで、人が人であるかぎり、神のかたちに造られているということと、その本性に「神への思い」が植え付けられているということは変わりません。人は造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまった後にも、神のかたちに造られているものであり、そのその本性に「神への思い」が植え付けられているものであり続けます。
 人が造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまった後には、神のかたちとしての人の本性が罪によって腐敗してしまいました。それで、その本性に植え付けられている「神への思い」も罪によって腐敗してしまっています。その結果、人は造り主である神さまを神としてあがめることをしなくなりました。それは「神への思い」がなくなってしまったということではありません。「神への思い」は人が人であるかぎりなくなることはありません。その「神への思い」は本来、人が造り主である神さまに向くために与えられているものですが、それが罪によって歪められているために、人は造り主である神さまに向くことはなくなってしまったのです。そのようにして、人は造り主である神さまを求めることも、神としてあがめることもしなくなりましたが、自らのうちに植え付けられている「神への思い」を満たすために、自らの考えにしたがってさまざまな神を作って、これを「神」として拝んだり仕えたりするようになりました。
 ですから、人は造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまった後にも祈ります。ただ、それは造り主である神さまに対する祈りではありません。造り主である神さまをあがめて感謝する祈りでもありませんし、神さまのみこころを求める祈りでもありません。


 このように、神さまは人をご自身のかたちにお造りになり、その本性のうちに「神への思い」、すなわち。ご自身に向かう思いを与えてくださいました。それによって、人をご自身に向き、ご自身との愛にある交わりのうちに生きる者としてくださいました。この「神への思い」は、神のかたちに造られている人の内に備えられているものです。
 神さまは神のかたちにお造りになった人の内にそのような備えをしてくださっているだけではありません。その人が住まうこの世界をも、人が神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きるためにふさわしい世界として整えてくださっています。このことは、この世界の時間的な面である歴史についても当てはまりますし、この世界の空間的な面である地理的環境についても当てはまります。
 先週は、この世界が何よりもまず、造り主である神さまがご臨在される神さまの御住まいとしての意味をもつものとして造られているということをお話ししました。まずその復習をして、さらにお話を続けます。
 イザヤ書45章18節においては、神である主のことが、

  天を創造した方、すなわち神、
  地を形造り、これを仕上げた方、
  すなわちこれを堅く立てられた方、
  これを形のないものに創造せず、
  人の住みかに、これを形造られた方、

と記されています。ここでは、神さまはこの「」を「人の住みかに」「形造られた」と言われています。ここでは、この「人の住みか」は、その前の「形のないもの」と対比されています。
 創世記1章2節には、

地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。

と記されています。これは、神さまがお造りになった「」の最初の状態について記すものです。神さまは最初からこの「」を「人の住みか」として完成した状態にお造りになることができましたが、まず「形がなく、何もなかった」という状態にある「」をお造りになりました。ここで「地は形がなく」と言われているときの「形がなく」という言葉(トーフー)は、イザヤ書45章8節で「形のないもの」と訳されている言葉と同じ言葉です。ですから、この「」は、イザヤ書45章18節の言葉に照しますと、「人の住みか」と対比される状態、つまり、とても「人の住みか」とは言えない状態にあることを示しています。
 最初に造り出された「」がそのような状態にあった時に、

神の霊は水の上を動いていた。

と言われています。「」がいまだ「人の住みか」とは言えない状態にあった時に、すでに、神さまの御霊はこの「」にご臨在しておられたのです。
 言うまでもなく、この時、神さまは創造の御業を進めておられました。その創造の御業において神さまは、ただ単に私たちが住んでいるこの「」、すなわち、地球を形造っておられただけではありません。創世記1章1節に記されている、

初めに、神が天と地を創造した。

という御言葉は、1章1節〜2章3節に記されている天地創造の御業の記事全体の見出しに当たるものです。この場合の「天と地」という言葉は、ヘブル語の慣用表現で、「すべてのもの」を表しています。つまり、

初めに、神が天と地を創造した。

という言葉は、今日の言葉で言いますと、神さまがこの宇宙のすべてのものをお造りになったということを宣言しているのです。このように、1節の見出しに当たる言葉では、その視野が全宇宙に広げられていて、この宇宙のすべてのものが神さまによって創造されたことを示しています。
 創造の御業の具体的な記事は2節から始まります。その2節の初めには、「さて」という意味の接続詞があります。それを生かして訳しますと、2節は、

さて、地は形がなく、何もなかった。また、やみが大いなる水の上にあった。そして、神の霊は水の上を動いていた。

となります。このことは、天地創造の御業の記事は2節から視点を狭めて、その関心をこの「」に移しているということを意味しています。このように、1章2節〜2章3節に記されている記事においては、関心がこの「」に向けられています。そればかりでなく、その視点もこの「」に据えられています。つまり、この「」に住んでいる人の視点で、この「」がどのように「人の住みか」として整えられていったのかを記しているのです。その理由は、言うまでもなく、この「」に住んでいる私たちが、自分たちの住んでいるこの「」がどのようなものであるかを、ここに記されている御言葉をとおして理解することができるようになるためのことです。
 このように、神さまは、この「」を「人の住みか」として整えてくださる御業をなさったのですが、同時進行的に、この大宇宙のすべてを、それぞれの在り方にしたがって形造っておられました。その御業がどのように進められていったのかということは、この創造の御業の記事の関心の外にありますので、直接的には記されていません。
 いずれにしましても、天地創造の御業は全宇宙に及ぶ神さまの御業です。それで、創世記2章1節には、

こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。

と記されています。そのように全宇宙に及ぶ創造の御業がなされている中で、神さまは御霊によってこの「」にご臨在されて、この「」を「人の住みか」として整える御業を遂行されたのです。
 このことは、私たちには少し分かりにくいかもしれません。私たちの感覚では、神さまが全宇宙に及ぶ創造の御業を遂行しておられるのであれば、神さまは宇宙の外におられて宇宙を造っておられるという気がします。ところが、その神さまが、宇宙の中のほんの一点でしかないこの地球にご臨在しておられるというのです。「それって一体どういうこと」という思いにならないでしょうか。
 実は、これは、神さまがその存在と一つ一つの属性において無限、永遠、不変の方であられるということによっています。そして、このことには私たちの祈りを考えるうえでも大切なことが関わっています。ただこのとをお話ししますと、話がそれていってしまいますので、このことについては日を改めてお話しすることにいたします。今はそのような問題があるということを指摘するだけに留めて、お話を進めます。
 全宇宙に及ぶ創造の御業を遂行しておられる神さまは、この宇宙の一点にしか過ぎないこの「」にご臨在されて、この「」を「人の住みか」として整えてくださる御業を遂行されました。このことから、この「」が造り主である神さまにとって特別な意味をもった所であるということが分かります。その理由は、これまでお話ししてきたことから十分にお分かりになることと思います。
 この「」が造り主である神さまにとって特別な意味をもった所であるのは、この「」が広大な所であるからではありません。この「」すなわち地球は宇宙の中のほんの一点でしかありません。
 現在分かっている宇宙は、百五十億光年の彼方に広がっていると言われています。百五十億光年というのは、私たちの想像を絶する距離です。1秒間に地球を7回り半する光が、その速度で1年進む距離が1光年です。これだけでもどれくらいの距離になるのか、私たちの感覚が追いつきません。それがさらに百五十億倍になる距離というのです。そのような宇宙の広がりの中に、これまた想像を絶する数の天体があります。それらも銀河としてまとまっているのですが、その銀河も何千億、あるいはそれ以上あり、それぞれの銀河には1千億ほどの恒星があると言われています。私たちの住んでいる地球は太陽系の惑星の一つです。その中心にある太陽も、私たちの銀河の中にある1千億ほどの恒星のうちのごく普通の星です。
 これらのことを考えますと、私たちの住んでいる地球は、この広大な宇宙の中に埋もれているほんの小さな点でしかありません。しかし、この広大な宇宙をお造りになる御業を遂行しておられる神さまは、確かに、御霊によって私たちの住んでいる地球にご臨在しておられたのです。そして、先週お話ししましたように、創造の御業が終って、天と地、すなわちこの宇宙の「すべてのもの」がまったき調和のうちに完成した後にも、神さまはこの「」にご臨在し続けておられます。それは、ひとえに、神さまが、この「」を神のかたちに造られた人間が住まう所としてお造りになったからです。そして、実際に、神のかたちに造られている人間が、ここに住んでいるからです。
 その昔、大空を眺めて自らの存在の小ささを痛感した詩人は、驚きをもって、自らに向けられている神である主のいつくしみを告白しました。詩篇8篇1節〜9節には、

  私たちの主、主よ。
  あなたの御名は全地にわたり、
  なんと力強いことでしょう。
  あなたはご威光を天に置かれました。
  あなたは幼子と乳飲み子たちの口によって、
  力を打ち建てられました。
  それは、あなたに敵対する者のため、
  敵と復讐する者とをしずめるためでした。
  あなたの指のわざである天を見、
  あなたが整えられた月や星を見ますのに、
  人とは、何者なのでしょう。
  あなたがこれを心に留められるとは。
  人の子とは、何者なのでしょう。
  あなたがこれを顧みられるとは。
  あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、
  これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。
  あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、
  万物を彼の足の下に置かれました。
  すべて、羊も牛も、また、野の獣も、
  空の鳥、海の魚、海路を通うものも。
  私たちの主、主よ。
  あなたの御名は全地にわたり、
  なんと力強いことでしょう。

と記されています。
 今日の天文学の知識は持ち合わせていない古代の詩人にとっても、宇宙の広大さは驚きに値するものでした。そのことから、それをお造りになって支えておられる神さまの偉大さを感じ取っていました。この宇宙の広大さに対する人間の小ささを痛感する詩人にとって、造り主である神さまが自分たちに目を留めてくださることのへの驚きは、さらに大きなものであったのです。それはひとえに神さまの愛と恵みとあわれみによることであると言うほかはありません。
 その一方で、神さまの御前に高ぶり神さまに敵対するものに対しては、

  あなたは幼子と乳飲み子たちの口によって、
  力を打ち建てられました。
  それは、あなたに敵対する者のため、
  敵と復讐する者とをしずめるためでした。

と告白されています。この「」と訳されている言葉(オーズ)は「砦」を表す言葉です。神さまの御前に高ぶって神さまに敵対するものに対して神さまが設けられた「砦」は「幼子と乳飲み子たちの口」であるというのです。
 それでは、創造の御業を遂行された時、神さまはこの「」にご臨在されただけだったのでしょうか。決してそのようなことはありません。というのは、神さまがお造りになった「天と地」、すなわち、この宇宙全体が神さまがご臨在される場所としての意味をもっているからです。
 イザヤ書66章1節、2節には、

  主はこう仰せられる。
  「天はわたしの王座、地はわたしの足台。
  わたしのために、あなたがたの建てる家は、
  いったいどこにあるのか。
  わたしのいこいの場は、いったいどこにあるのか。
  これらすべては、わたしの手が造ったもの、
  これらすべてはわたしのものだ。
  ―― 主の御告げ。――
  わたしが目を留める者は、
  へりくだって心砕かれ、
  わたしのことばにおののく者だ。」

と記されています。
 この、

  天はわたしの王座、地はわたしの足台。

という言葉に、神さまが天と地にご臨在しておられることが示されています。
 この時代はソロモンが建設したエルサレム神殿があった時代です。この神殿はユダの罪が極まったときに、主のさばきを受け、バビロンの手によって破壊されてしまいました。後にバビロンから帰還した民が神殿を再建しました。その第二神殿の基礎が据えられた時に、最初のソロモンによって建てられた神殿の壮大さを知っている人々は、失望のあまり泣いたと言われています(エズラ記3章12節)。そのような壮大な神殿は、ユダの民の誇りでもありました。しかし、ユダの民が神殿の壮大さを誇りとし、壮大な神殿を頼みとして、その神殿のゆえに神である主が自分たちを受け入れてくださっていると考えていた時には、神さまは、

  天はわたしの王座、地はわたしの足台。
  わたしのために、あなたがたの建てる家は、
  いったいどこにあるのか。
  わたしのいこいの場は、いったいどこにあるのか。

と言われて、ご自身は人の手によって建てられた神殿にはお住みにならないということを明らかにされました。
 これに対しまして、先ほど引用しました詩篇8篇にありましたように、人が神さまの御住まいとしての意味をもっている大宇宙の広がりの前に、己の存在の小ささを痛感する時には、大宇宙をお造りになった神さまが、その小さな人に御目を留めてくださっていることを明らかにしておられます。
 神である主は、また、ご自身が天と地にご臨在しておられることと関わらせて、偽預言者たちを糾弾しておられます。エレミヤ書23章23節、24節には、

  わたしは近くにいれば、神なのか。
  ―― 主の御告げ。――
  遠くにいれば、神ではないのか。
  人が隠れた所に身を隠したら、
  わたしは彼を見ることができないのか。
  ―― 主の御告げ。――
  天にも地にも、わたしは満ちているではないか。
  ―― 主の御告げ。――

と記されています。
 列王記第一・8章27節には、エルサレム神殿の奉献に際して、ソロモンが、

それにしても、神ははたして地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして、私の建てたこの宮など、なおさらのことです。

と告白したことが記されています。
 新約聖書の時代になって、キリストのからだである教会の殉教者として最初に記録されているステパノは、先ほどの預言者イザヤのことばを引用して、エルサレム神殿が地上的なひな型であって、まことの主の神殿ではないことを論証しています。使徒の働き7章46節〜50節には、

ダビデは神の前に恵みをいただき、ヤコブの神のために御住まいを得たいと願い求めました。けれども、神のために家を建てたのはソロモンでした。しかし、いと高き方は、手で造った家にはお住みになりません。預言者が語っているとおりです。
  「主は言われる。
  天はわたしの王座、
  地はわたしの足の足台である。
  あなたがたは、どのような家を
  わたしのために建てようとするのか。
  わたしの休む所とは、どこか。
  わたしの手が、これらのものを
  みな、造ったのではないか。」

というステパノのあかしが記されています。
 このように、神さまはご自身がお造りになった天と地、すなわち、この宇宙にご臨在しておられます。その意味で、この天と地は、神さまがご臨在される神殿としての意味をもっています。ですから、この宇宙空間もただ広がっていて、その中に、無数とも思える天体が存在しているだけのものではありません。この宇宙全体が造り主である神さまの御手の作品であり、造り主である神さまご自身がご臨在される所、神さまの御住まいとしての意味をもっています。神さまはこの宇宙の全体にご臨在されて、お造りになったすべてのものを真実に支えておられます。神さまがお造りになったこの宇宙全体に神さまのいつくしみに満ちたご栄光が満ちています。
 そうであるとしますと、先ほどお話ししました、天地創造の御業の初めに神さまの御霊が、最初に造られた状態の「」にご臨在しておられたことは、神さまがこの宇宙全体にご臨在しておられることの一部であるのでしょうか。決して、そうではありません。神さまのご臨在は均一な広がりのようなものではありません。神さまは存在において無限、永遠、不変の方です。その神さまは生きておられ、何ものにも拘束されないまったき自由なご意志を働かせておられます。神さまのご臨在は人格的なご臨在であり、神さまのご意志によるものです。神さまは、宇宙全体にご臨在されつつ、宇宙を無限に超越しておられる方です。また、宇宙全体にご臨在されて、そのすべてを御手をもってお支えになりつつ、特別な意味で、この「」にご臨在されて、神のかたちに造られている人間に御目を留めてくださっておられます。
 神のかたちに造られている人間が神さまの愛を受け止めて、神さまを礼拝しあがめる時に、それを御目に留めてくださる神さまのご臨在、また、私たちが祈りをもって神さまに語りかけるときに、その祈りをお聞きくださる神さまのご臨在は、この宇宙全体にご臨在されて、人格的なものではない天体を支えてくださるご臨在とは区別されます。私たちが、御子イエス・キリストの御名によって、神さまに向かって祈るときに、神さまはそれを確かにお聞きくださいます。それは、神さまは特別な意味で私たちの間にご臨在してくださって、私たちに心を注いでくださっているということを意味しています。
 この「」は、何よりも、神さまご自身がご臨在してくださる御住まいとして造られています。神さまは、ご自身の御住まいであるこの「」を「人の住みか」としてくださったのです。それは、神のかたちに造られた人が、ご自身との愛にあるいのちの交わりに生きるようになるためのことでした。この交わりは、人が神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまったことによって、損なわれてしまいました。しかし、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによる贖いの御業にあずかっている主の民は、神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きるものとして回復していただいています。
 言うまでもなく、そのことは、私たちにとって、とても大切な意味をもっています。私たちにとって永遠のいのちは、神さまとの愛にあるいのちの交わりにあるからです。しかし、私たちが神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きるものとして回復されているということは、この「」にとっても意味あることです。私たちが造り主である神さまを礼拝し、祈りにおいて神さまに語りかけることは、私たちが神の子どもとしての特権にあずかっていることの現れです。それは、また、私たちが住んでいるこの「」が神さまがご臨在されるところとして造られているという、この「」の存在の本来の意味がイエス・キリストの贖いの御業を通して回復していることの現れです。
 このことは、ローマ人への手紙8章19節〜21節に、

被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。

と記されていることにつながっています。
 このように、私たちの祈りには、神さまがこの「」を「人の住みか」としてお造りになったことに関わるみこころが、イエス・キリストの贖いの御業を通して回復していることの現れとしての意味があります。そして、このことは、世の終わりの栄光のキリストの再臨の時になされる再創造の御業によって造り出される新しい天と新しい地において完成します。実際に、私たちは、

天にいます私たちの父よ。
御名があがめられますように。
御国が来ますように。
みこころが天で行なわれるように
  地でも行なわれますように。

と祈って、その完成を待ち望んでいます。

 


【メッセージ】のリストに戻る

「主の祈り」
(第9回)へ戻る

「主の祈り」
(第11回)へ進む

(c) Tamagawa Josui Christ Church