(第9回)


説教日:2005年3月6日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 今日も、マタイの福音書6章9節〜13節に記されている主の祈りについてのお話を続けます。今は、主の祈りそのものについてお話しする前に、私たちの祈りについていくつかのことをお話ししています。その第一のこととして、人はなぜ祈るのかという意味での、祈りの起源についてお話ししてきました。祈りの起源を突き詰めていきますと、神さまが三位一体の神であられることと、神さまが人をご自身のかたちにお造りになったことに行き着きます。
 三位一体の神さまの御父と御子の間には、御霊による無限、永遠、不変の愛の交わりがあります。それで、神さまは永遠に愛にあってまったく充足しておられます。ヨハネの福音書1章1節、2節には、このことが、

初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。

と記されています。そして、続く3節に、

すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

と記されていますように、この世界の「すべてのもの」は、御霊による父なる神さまとの無限、永遠、不変の愛の交わりのうちに充足しておられる御子によって造られました。
 ですから、天地創造の御業は、無限、永遠、不変の愛の交わりのうちに充足しておられる神さまが、ご自身の愛をご自身の外に向けて表現された御業です。神さまはご自身の愛におけるまったき充足のうちにこの世界をお造りになり、ご自身の愛をお造りになった世界に向けて表してくださっています。この世界の「すべてのもの」は造り主である神さまの愛に包まれています。
 その中にあって、人は神のかたちに造られています。人は造り主である神さまの愛を受け止め、神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きるために神のかたちに造られました。私たちの祈りは、この神さまとの愛にあるいのちの交わりの現れの一つです。


 これまで、このこととの関わりで、神さまが天地創造の第七日をご自身の安息の日として祝福して聖別されたということについてお話ししてきました。創世記2章1節〜3節には、

こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。それで神は、第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち、第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。神はその第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。

と記されています。天地創造の第七日は、神さまがお造りになったこの世界の歴史の全体、特に、神のかたちに造られている人間が造り出す歴史の全体に当たります。神さまはその歴史の全体を、ご自身の安息の日として、祝福して聖別してくださっています。
 三位一体の神さまご自身は無限、永遠、不変の愛の交わりのうちに全く充足しておられます。ですから、天地創造の第七日をご自身の安息の日として祝福して聖別されたのは、ご自身のうちに安息を必要とするような状態があるからではありません。これは、あくまでも、天地創造の御業との関わりで考えられる安息です。天地創造の御業によって造り出されたこの世界との関わりで考えられる安息です。
 神さまはこの世界をお造りになって、その後に放置されたのではありません。いわゆる「理神論」と呼ばれる考え方においては、神さまが精密機械のようによく仕組まれた世界をお造りになったので、この世界は、神さまがお造りになった後は、この世界のうちにある法則にしたがって、秩序と調和のうちに動いていくというように考えられていますが、そのようなことではないのです。神さまは、ご自身がお造りになったこの世界に御目を留めてくださり、ご自身が深く関わっておられます。神さまが真実な御手をもってこの世界を支えてくださっていますので、この世界は秩序ある世界として保たれています。人はそれを実験や観察をとおして見つけ出して、法則として理解しています。マタイの福音書10章29節、30節には、

二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。

というイエス・キリストの教えが記されています。「アサリオン」というのは、ローマ社会に流通していた、価値の低い銅貨でした。「一羽、一アサリオン」という値もつけられなくて、「二羽で一アサリオン」というような売り方がされている「」さえも、父なる神さまの御手のうちあります。
 神さまはご自身がお造りになったこの世界に目を留めて、深く関わってくださり、心を注いでくださっておられるので、天地創造の第七日をご自身の安息の日として祝福して聖別してくださったのです。この日においては、もっぱら、ご自身がお造りになったものに目を留め、心を注いでくださり、ご自身の安息をもって包んでくださるのです。そのような意味で、この日は神さまの安息の日であるのです。
 天地創造の第七日はこの世界の歴史全体に当たります。それは今日まで続いているだけでなく、世の終わりの新しい天と新しい地の出現にまで至ります。その新しい天と新しい地の出現をもって、いわば、第八日が始まるわけです。そして、それは永遠に続くと考えられます。
 そのように、天地創造の第七日は神さまご自身の安息の日ですが、それには二つの面があります。
 一つは、神さまが創造の御業を終えられて休まれ、ひたすら、ご自身がお造りになったこの世界に目を留めてくださり、この世界の存在をお喜びくださり、これを支え育んでくださるということです。そのことの中心に、神のかたちに造られている人間をご自身の愛をもって包んでくださり、ご自身との愛にあるいのちの交わりのうちに生きるようにしてくださっていることがあります。つまり、神さまの安息は、天地創造以来この歴史の現実となっているということです。
 これは、人が神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまったことによって損なわれてしまいましたが、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによる罪の贖いを通して回復されています。
 もう一つは、このような神さまの安息は一定のところで止まった状態で保たれるのではなく、さらに豊かなものとなって完成するようになっているということです。それは、神のかたちに造られて、神さまがお造りになったすべてのものを治める使命を委ねられている人間が、栄光あるものとされて、被造物として許されるかぎりにおいてのことですが、神さまのご臨在の御許に限りなく近づけられることを中心として実現します。これによって、神さまとご自身の民との交わりが栄光に満ちたものとして完成し、神さまの安息も全うされます。
 この意味において人が栄光あるものとなるということは、ご自身の民の贖いのために十字架にかかって死なれた後、栄光をお受けになってよみがえられたイエス・キリストにおいて歴史の現実となっています。
 これらのことは、神さまの安息を歴史的な面、すなわち、時間的な面から見たものです。私たちが生きている時間は、天地創造の第七日の枠の中にあります。それで、時間は無性格なものではなく、神さまの安息の時として神さまから祝福されており聖別されています。このことは、この世界の空間的な面についても当てはまります。この世界の時間的な面を歴史と言うなら、この世界の空間的な面は地理と言えるでしょう。この地理的な世界も無性格なものとして私たちの前に横たわっているのではなく、造り主である神さまの安息の実現の場としての意味をもっているのです。
 このことも、すでにいろいろな機会にお話ししてきましたことを、今お話ししていることとの関わりで取り上げることになります。天地創造の御業において神さまが最初に造り出されたこの地の状況を記している、創世記1章2節には、

地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。

と記されています。新改訳第3版では、

地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。

となっていますが、今は訳語のことはおいておいて、私たちのほとんどがもっています第2版に基づいてお話を進めていきます。ここで、

地は形がなく、何もなかった。

と言われていることとの関連で、広く考えられているのは、イザヤ書45章18節において、

  天を創造した方、すなわち神、
  地を形造り、これを仕上げた方、
  すなわちこれを堅く立てられた方、
  これを形のないものに創造せず、
  人の住みかに、これを形造られた方、

と記されていることです。このイザヤ書45章18節においては、神さまがお造りになった「」について、「形のないもの」と「人の住みか」が対比されています。「形のないもの」という言葉(トーフー)は創世記1章2節に出てくる「形がなく」と同じ言葉です。この「人の住みか」の「人の」は補足で、原文には「住みか」だけしかありませんが、創世記1章28節に記されている、神さまの人への祝福の言葉において、

生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。

と言われていることや、詩篇115篇16節に記されている、

  天は、主の天である。
  しかし、地は、人の子らに与えられた。

という御言葉などから、これを「人の住みか」と理解して差し支えないと思われます。もちろん、これはそのほかの生き物たちの「住みか」であることを否定するものではありません。むしろ、神のかたちに造られて、すべての生き物を治める使命を与えられている人との一体に置かれている生き物たちの「住みか」であることは当然のことです。
 このように、神さまは、天地創造の初めに、

地は形がなく、何もなかった。

と言われている状態の「」を造り出され、さらに、これを「人の住みか」に形造られました。そして、天地創造の第六日において神さまは人を神のかたちにお造りになって、この世界に住まわせてくださり、

生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。

という祝福の言葉をもって、その営みを祝福してくださいました。
 このようにして、この地理的な世界は「人の住みか」として形造られ、「人の住みか」としての意味をもっています。ところが、創世記1章2節において、この「」について、

地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、

と言われている時、すなわち、この「」がいまだ「人の住みか」として整えられていない時に、

神の霊は水の上を動いていた。

と言われています。この世界が「人の住みか」として形造られていく前に、すでに、「神の霊」がこの世界にご臨在してくださっておられたのです。そして、この神さまの御霊のご臨在の御許から発せられる、

光よ。あれ。

という御言葉によって、この世界に光があるようにされていきます。そのようにして、ご臨在の御許から発せられる御言葉によって、この世界は「人の住みか」として形造られていきました。
 そして、このように、天地創造の初めに、御霊によってこの「」にご臨在された神さまは、天地創造の御業を終えられて、この「」にご臨在されることを止められたわけではありません。
 そのことは、まず、創世記2章4節〜25節に記されている記事から知ることができます。そこには、神さまがどのようにして人をお造りになったかが記されていますが、神さまのことが擬人化された表現で記されています。それで、ある人々は、ここに記されている記事は、第二の創造の記事で、1章1節〜2章3節に記されている第一の創造の記事より原始的なものであるというようなことを言います。けれども、これは、この「」にご臨在される神である主が、ご自身がお造りになった人に親しく向き合ってくださっておられることを示すために適切な表現方法です。決して、ここに記されている神さまの描写が原始的な神観念を示しているわけではありません。
 そこに記されているエデンの園においては、神である主がその中央にいのちの木を生えさせられました。このいのちの木は、神である主がご臨在してくださることを[礼典的(サクラメンタル)に]表示し、人をご自身との愛にあるいのちの交わりにあずからせてくださることを保証していました。ですから、神のかたちに造られている人が住んでいたエデンの園には、神さまが特別な意味でご臨在してくださって、人をご自身との愛にあるいのちの交わりにあずからせてくださっていました。
 この神である主との愛にあるいのちの交わりが、いのちの木によって[礼典的(サクラメンタル)に]表示され保証されていたということから、神である主のご臨在は人にとって見えるものではなかったと考えることができます。このことは、人は罪を犯して堕落する前から、信仰によって神である主との交わりにあずかっていたということを意味しています。それとともに、16節、17節には、

神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」

と記されています。神である主のご臨在は人にとって見えるものではなかったと考えることができますが、人は神である主の語りかけを聞いていたわけです。主の御言葉を聞くことは信仰の第一歩です。ローマ人への手紙10章17節には、

そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。

と記されています。このような、神である主の語りかけを聞き、それに答えることは祈りに他なりません。人は初めから、信仰による祈りをとおして神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きていました。
 神である主がエデンの園にご臨在してくださっていたことは、最初の人が神である主に対して罪を犯して御前に堕落してしまったことを記している3章の記事からもうかがうことができます。人とその妻が罪を犯してしまった直後のことを記している8節、9節には、

そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」

と記されています。もちろん、神である主はいっさいのことをご存知でした。それでも、エデンの園にご臨在され、人に問いかけておられます。これは、言うまでもなく、ご臨在の御前における裁判が執行されたことを記すものです。それでも、まずは、人とその妻に罪を認めて悔い改める機会を与えてくださっています。しかし、実際には、人とその妻は罪を犯したことを認めはしますが、それを自らの意志によることとして告白して悔い改めることはしませんでした。
 9節〜13節には、

神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」すると、仰せになった。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」人は言った。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」そこで、神である主は女に仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。」女は答えた。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」

と記されています。
 これは神である主の語りかけとそれに対する人とその妻の応答です。先ほどお話ししましたように、これは、人とその妻の祈りです。いわば、聖書に記されている最初の祈りの言葉です。(もちろん、これが最初の祈りではありません。)私たちの祈りには罪の告白もあるのですが、ここでの人とその妻の祈りは罪の告白ではありませんでした。かえって、自分の罪を他の存在になすりつけて、それを糾弾する言葉でした。
 それを受けて神である主は、人を罪に誘った「」の背後にいる存在(サタン)に対するさばきの宣告されました。それは、15節に記されている、

  わたしは、おまえと女との間に、
  また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
  敵意を置く。
  彼は、おまえの頭を踏み砕き、
  おまえは、彼のかかとにかみつく。

という宣告をもって終るもので、これが「女の子孫」の勝利という「最初の福音」となっています。
 それに続く妻へのさばきの宣言は、

  わたしは、あなたのみごもりの苦しみを大いに増す。
  あなたは、苦しんで子を産まなければならない。
  しかも、あなたは夫を恋い慕うが、
  彼は、あなたを支配することになる。

というものです。これはさばきの宣言ですが、「女の子孫」の誕生を保証するという一面をもっています。神である主は、最後に人に対するさばきを宣告されました。それは、

  あなたが、妻の声に聞き従い、
  食べてはならないと
  わたしが命じておいた木から食べたので、
  土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。
  あなたは、一生、
  苦しんで食を得なければならない。
  土地は、あなたのために、
  いばらとあざみを生えさせ、
  あなたは、野の草を食べなければならない。
  あなたは、顔に汗を流して糧を得、
  ついに、あなたは土に帰る。
  あなたはそこから取られたのだから。
  あなたはちりだから、
  ちりに帰らなければならない。

というものです。これも、さばきの宣言ですが、人がなおも土地を耕し、そこから一定の収穫が得られること、そのようにして人間の歴史が造られていくことを前提にして語られています。そこに、「女の子孫」が生れてくる余地があるわけです。
 そして、23節、24節には、

そこで神である主は、人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこから取り出された土を耕すようになった。こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。

と記されています。これはエデンの園からの追放ですが、それには、人が罪あるままで聖なる神である主のご臨在の御前に近づくなら、主の聖さを犯すことになり、ただちに滅ぼされてしまうことになるという事情もあります。人がエデンの園から追放されたのは、人がなおも地上に存在して、その歴史を築いていくための備えでもあったのです。そして、これも「女の子孫」の出現を待つためのことです。
 人は神である主に対して罪を犯して御前に堕落してしまったことによって、神である主との愛にあるいのちの交わりを絶たれてしまいました。それは、人が神さまのご臨在のあるエデンの園から追放されたことに現れています。そうではあっても、神である主はエデンの園にご臨在されることを止められたわけではありません。エデンの園も、その中央にあったいのちの木も、またいのちの木に至る道も保存されていました。そして、エデンの園の東(ケデム)すなわち正面(ケデム)に「ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた」のです。このケルビムは、そこに神である主のご臨在があることを表示しつつ、そのご臨在の聖さを守っている生き物です。
 このことも、これに先立つ「蛇」の背後にいる存在に対するさばきの宣言に示されている救いを背景にしたときに意味をもっています。神である主が約束してくださった「女の子孫」のかしらなる方による贖いの御業を通して、この「」にご臨在される神である主との愛にあるいのちの交わりは回復されるようになるという希望を伝えていたのです。
 そのような福音を受け止めた最初の人アダムとその家族は、この「ケルビムと輪を描いて回る炎の剣」によって表示されている神である主のご臨在の御前で礼拝をしたと考えられます。4章に記されているカインとアベルの礼拝も、そこでなされたと考えられます。
 このように、天地創造の御業において、この「」は「人の住みか」に形造られたのですが、これがそのように形造られる前に、神さまが御霊によってご臨在してくださいました。そして、この「」を「人の住みか」に形造ってくださり、そこに、神のかたちにお造りになった人を住まわせてくださいました。それは、人をご自身との愛にあるいのちの交わりにあって生きるようにしてくださるためでした。人は、初めから、自分たちの間にご臨在してくださる神である主と、祈りによって、語り合う交わりのうちにありました。
 ですから、この「」は「人の住みか」であるより前に、神さまが御霊によってご臨在される「神さまの御住まい」であるのです。この世界は、空間的、地理的な面においても、無性格なものではなく、造り主である神さまがご臨在される場として聖別されています。神のかたちに造られている人は、このように、造り主である神さまがご臨在される場として聖別されている「」に住まうものとされており、ここにご臨在してくださる神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きる祝福にあずかっています。
 この神さまとの愛にあるいのちの交わりは人の罪による堕落によって損なわれてしまいましたが、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによる罪の贖いによって、私たちの間で回復されています。

 


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