(第8回)


説教日:2005年2月27日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 今日もマタイの福音書6章9節〜13節に記されている主の祈りについてのお話を続けます。今は、主の祈りそのものについてお話しする前のこととして、私たちの祈りについてお話ししています。
 その第一のこととして、人はなぜ祈るのかという意味での祈りの起源についてお話ししてきました。祈りの起源を突き詰めていきますと、神さまが三位一体の神であられることと、神さまが人をご自身のかたちにお造りになったことに行き着きます。今日も、このことを復習することからお話を始めたいと思います。
 神さまが三位一体の神であられるということには三つの要素があります。第一に、神さまは唯一の神であられるということです。第二に、この唯一の神さまが、御父、御子、御霊の三つの位格において在られるということです。そして、第三に、御父、御子、御霊は、お互いに区別される方であられるということです。
 ヨハネの福音書1章1節、2節では、

初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。

と言われていて、永遠の「ことば」と呼ばれている御子が父なる神さまとの永遠の愛にある交わりのうちにいますことが示されています。そして、3節には、

すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

と記されていて、父なる神さまとの愛のうちにあってまったく充足しておられる御子が、この世界のすべてのものをお造りになったことが示されています。天地創造の御業は、神さまの愛におけるまったき充足のうちに遂行されました。愛のうちに充足しておられる神さまは、ご自身の愛をご自身のお造りになったものに注いでくださっているのです。
 このように神さまは、ご自身の愛を造られたものに注いでくださっています。そして、その神さまの愛を受け止め、神さまとの愛にある交わりのうちに生きるものとして、神さまは人をご自身のかたちにお造りになりました。ですから、神のかたちに造られている人間のいのちの本質は、造り主である神さまとの愛にある交わりのうちに生きることにあります。私たちの祈りは、神さまとのこの愛にあるいのちの交わりの現れの一つです。
 また、神のかたちに造られている人間の使命は、造り主である神さまの愛を受け止めることにあります。創世記1章28節には、神のかたちに造られている人間に委ねられた使命のことが、

神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

と記されています。一見すると、ここに記されていることは神さまの愛を受け止めることとは関係がないように見えます。しかし、2章18節〜25節に記されている「ふさわしい助け手」の創造の記事において、この使命が実際にどのように遂行されるようになったかが記されています。すでに(1月30日に)お話ししましたので説明を省いて、結論だけ言いますと、その記事から分かることは、人が生き物たちを支配することは、神さまとの愛にあるいのちお交わりのうちに充足しつつ、お互いに愛し合っている者として、自分たちの愛を生き物たちに注いでいくことであるということです。それは、造り主である神さまの愛を受け止め、造り主である神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに充足している人が、その愛をお互いの間に映し出し、さらには、自分に委ねられた生き物たちに注いでいくことを意味しています。
 ですから、神のかたちに造られている人間に委ねられている使命の根本には、造り主である神さまの愛を受け止め、神さまご自身との愛にあるいのちの交わりに生きることを中心として、その愛をこの造られた世界において、具体的に表現していくことにあります。私たちのささげる礼拝も、今お話ししている私たちの祈りも、また、どのような奉仕も、私たちがこのような神さまの愛を受け止め、その愛に応答するものとしてなされなければ、そのもっとも大切な意味を失ったものとなります。それはまた、日ごとに私たちが家庭、学校、会社などでなす、どのような務めにも当てはまります。
 ですから、神さまの戒めの全体は、マタイの福音書22章37節〜40節に、

そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」

と記されていますように、契約の神である主を愛することと隣人を愛することにまとめられます。また、コリント人への手紙第一・13章1節〜3節には、

たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。

と記されています。


 これまで、神さまが、お造りになったものにご自身の愛を注いでくださっておられることを、創世記1章1節〜2章3節に記されている天地創造の御業の記事に基づいてお話ししました。神さまは創造の御業の流れの中で、七回にわたって、いわば、しばしその御手をお休めになり、ご自身がお造りになったものを改めてご覧になって「よし」とされました。それは、ご自身がお造りになったものに深く心を注いでくださったことを意味しており、そこにそれらのものがあるようになったことをお喜びになったということを意味しています。
 さらに、このこととの関連で、2章1節〜3節において、天地創造の第七日をご自身の安息の日として、祝福して聖別されたことについてお話ししました。この天地創造の第七日は、この造られた世界の歴史に当たり、今日に至るまで続いています。その中心に、神のかたちに造られていてこの世界のすべてのものを治める使命を委ねられている人間が造る歴史があります。
 これが歴史であるということは、この世界が造り主である神さまが定めておられる目的に向かって進展していくものであるということを意味しています。言い換えますと、この世界は造り主である神さまのみこころにしたがって世の終りにおける完成に至る歴史的な世界なのです。
 神さまは一瞬のうちに完成した世界をお造りになることができます。けれども、実際には、創造の御業を六つの日に分けて進められ、最後にこの世界が完成するようにされました。つまり、神さまの創造の御業自体が歴史的な性格をもったものであったのです。このことは、この世界が基本的に歴史的な世界として造られているということを意味しています。そして、このことに基づいて、神さまは天地創造の第七日をご自身の安息の日として祝福してくださり聖別してくださったのです。
 天地創造の第七日が神さまの安息の日として祝福されて聖別されているということは、この世界の歴史全体が神さまの安息にあずかるものとして祝福されており聖別されているということを意味しています。言い換えますと、この世界の歴史の目的は、この神さまの安息が完成することにあります。それは、天地創造の第七日が造り主である神さまの安息の日として祝福されており聖別されているということからしますと、基本的に造り主である神さまご自身が安息されることを意味しています。それと同時に、この天地創造の第七日はこの世界の歴史としての意味をもっています。それは、特に、神のかたちに造られて、この世界のすべてのものを治めるようにという使命を委ねられている人間が造る歴史です。この意味では、この世界が神さまの安息とそこからあふれ出る祝福にさらに豊かにあずかるようになることによって完成する歴史でもあるのです。
 私たちは神さまの愛を受け止め、礼拝、祈り、讃美、さらには、さまざまな奉仕や働きなどをとおして、神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きることにおいて、神さまの安息にあずかっています。そして、この意味での安息が完成するということは、私たちの神さまとの愛にあるいのちの交わりが、被造物である私たちに許される限りでのことですが、充満な栄光に満ちたものとなり、もっとも深く豊かなものとなるということを意味しています。
 主の祈り、特に、最初の三つの祈りには、この主の安息の完成としての歴史の完成を待ち望みつつ祈り求めるという特質があります。
 私たちは神さまの御言葉を通して、この世界がこのような意味をもっている歴史的な世界であることを教えられています。この世界の時間は、無性格なもの、ただ流れていくだけのものなのではなく、造り主である神さまの安息の時という特質を持っており、神さまの安息の完成に至るという確かな目的をもっているのです。私たちの存在と人生の目的もこのことに関わっています。
 私たちはこのことをわきまえているものとしてこの世界に生きています。このことを踏まえますと、十戒の第四戒の戒めの意味が理解できます。出エジプト記20章8節〜11節には、

安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。―― あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も。―― それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。

と記されています。
 造り主である神さまはご自身の創造の御業において、しばしその御手を休めて、ご自身がお造りになったものを「よし」とご覧になられました。そこに、お造りになったものに対するご自身の喜びが表されていました。そして、第七日においては、すべての御業から休まれて、その日を祝福して聖別してくださいました。このことに沿って、人も主がご自身の安息の日として祝福して聖別してくださった日を主の安息の日として聖別するのです。この世界は主がお造りになった世界として主のものです。この世界の時間も主のものです。そのことは、この世界の中にあるものにとっては特別な祝福なのです。というのは、この世界の時間は天地創造の第七日として、造り主である神さまの安息の日であり、そのような日として祝福されており聖別されているからです。
 私たちは、私たちの生涯の全体が、このように神さまがご自身の安息の日として祝福して聖別された日のうちにあることを、私たちの安息の日を聖別することによって告白します。
 十戒の第四戒の中心は、冒頭の、

安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。

という戒めにあります。
 ここで、「安息日を覚えて」と言われているときの「覚える」という言葉(ザーカル)は、神である主の契約に関わる言葉です。ここでは、私たちが「覚える」ように命じられていますが、それに先だって、神である主がご自身の契約を「覚え」ていてくださるという事実があります。安息日に関しても、このことははっきりしています。というのは、これは、神さまが天地創造の第七日をご自身の安息の日として祝福して聖別してくださったことを「覚え」ていてくださるからこそ成り立つことだからです。
 また、

安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。

ということの「これを聖なる日と」することも、神さまが天地創造の第七日をご自身の安息の日として祝福して聖別されたことを受け、それに応答するという意味があります。この「聖なる日と」するということが示していますように、安息日は特別な意味で、主に属しています。この世界の歴史の全体が、したがって、私たちの生涯のすべての日が、造り主である神さまがご自身の安息の日として祝福して聖別された天地創造の第七日のうちにあります。
 私たちは、そのことを、週ごとの安息日を特別な意味において主に属している日として聖別することによって告白し、あかししています。もちろん、この日を主の安息の日として聖別することによって、私たちは真の意味において主の安息にあずかるようになります。主はご自身の安息をもって私たちを包んでくださり、私たちをご自身との愛にあるいのちの交わりのうちに住まわせてくださいます。この日に私たちが礼拝をささげ、讃美と感謝をもって主を讚え、主に祈りをささげるのは、そのように、主が私たちの間にご臨在してくださって、御顔を私たちに向けてくださるからです。イザヤ書66章22節、23節には、

  わたしの造る新しい天と新しい地が、
  わたしの前にいつまでも続くように、
  ―― 主の御告げ。――
  あなたがたの子孫と、あなたがたの名も
  いつまでも続く。
  毎月の新月の祭りに、毎週の安息日に、
  すべての人が、わたしの前に礼拝に来る。

という主の預言的な御言葉が記されています。
 私たちが週の第七日ではなく、週の最初の日を「主の日」として聖別して安息の日としている理由は、前にお話ししたことがありますが、後ほど簡単にお話しします。
 十戒の第四戒は、先ほどの出エジプト記20章8節〜11節とともに、申命記5章12節〜15節にも記されています。そこには、

安息日を守って、これを聖なる日とせよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。―― あなたも、あなたの息子、娘も、あなたの男奴隷や女奴隷も、あなたの牛、ろばも、あなたのどんな家畜も、またあなたの町囲みのうちにいる在留異国人も。―― そうすれば、あなたの男奴隷も、女奴隷も、あなたと同じように休むことができる。あなたは、自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そして、あなたの神、主が力強い御手と伸べられた腕とをもって、あなたをそこから連れ出されたことを覚えていなければならない。それゆえ、あなたの神、主は、安息日を守るよう、あなたに命じられたのである。

と記されています。
 エジプトの奴隷であったイスラエルの民が主の贖いの御業によってその奴隷の身分から贖い出されて、主の契約の民とされました。その時に、出エジプト記20章に記されている十戒の戒めが与えられました。そのイスラエルの民、すなわち、荒野のイスラエルの民の第一世代は荒野において繰り返し主を試み、主に逆らったために、約束の地に入ることができず、荒野で滅んでしまいました。申命記は荒野で生れた次の世代が、主の恵みによって約束の地に入るに当たって、改めて与えられた戒めを記しています。その時、十戒もあたらめて与えられたわけです。
 第四戒の冒頭の言葉を記す12節には、

安息日を守って、これを聖なる日とせよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。

と記されています。これは、第四戒の中心となる戒めです。ここでは、

あなたの神、主が命じられたとおりに。

と言われています。これは、すでに出エジプト記に記されている主の同じ戒めがあって、それを再確認していることを示しています。そのことは、この十戒についての記事がモーセの回想の形で記されていることからも分かります。5章2節〜5節には、

私たちの神、主は、ホレブで私たちと契約を結ばれた。主が、この契約を結ばれたのは、私たちの先祖たちとではなく、きょう、ここに生きている私たちひとりひとりと、結ばれたのである。主はあの山で、火の中からあなたがたに顔と顔とを合わせて語られた。そのとき、私は主とあなたがたとの間に立ち、主のことばをあなたがたに告げた。あなたがたが火を恐れて、山に登らなかったからである。主は仰せられた。

と記されています。そして、この後に、十戒の戒めが記されています。つまり、十戒の戒め自体も、回想の形で語られているのです。
 これらのことを念頭に置きますと、この第四戒の最後、つまり15節の後半において、

それゆえ、あなたの神、主は、安息日を守るよう、あなたに命じられたのである。

と言われているのも、すでに出エジプト記に記されている戒めに触れるものであると考えられます。
 このこととの関連で一つの問題を見ておきたいと思います。それは、この15節後半に記されている言葉の前に、安息日に関する戒めを守る理由として示されていることが出エジプト記に記されている戒めのものと違っているということです。
 出エジプト記20章11節では、

それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。

と言われています。主の民が安息日を覚えて、これを聖なる日とするように命じられている、ことの根拠は、神さまが天地創造の第七日をご自身の安息の日として祝福して聖別してくださっているからであると言われています。
 これに対して、ここ申命記では、

あなたは、自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そして、あなたの神、主が力強い御手と伸べられた腕とをもって、あなたをそこから連れ出されたことを覚えていなければならない。それゆえ、あなたの神、主は、安息日を守るよう、あなたに命じられたのである。

と言われています。ここでは、主が安息日を守るように命じられたのは、イスラエルの民がエジプトの奴隷の身分から解放されて主の民とされたからであると言われています。
 そうしますと、申命記に記されている第四戒の最後の、

それゆえ、あなたの神、主は、安息日を守るよう、あなたに命じられたのである。

という言葉は、すでに出エジプト記に記されている戒めに触れるものであると考えることはできないのではないかという気がします。
 けれども、この言葉は、やはり、出エジプト記に記されている第四戒の戒めが命じられていることに触れていると考えられます。
 出エジプト記に記されている十戒の戒めは、「主が力強い御手と伸べられた腕とをもって」イスラエルの民をエジプトの奴隷の身分から贖い出されて間もない時期に、与えられました。出エジプト記19章4節〜6節に記されていますように、十戒の戒めを含む、主の契約の戒めが与えられるに先だって主は、

あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたをわしの翼に載せ、わたしのもとに連れて来たことを見た。今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエル人にあなたの語るべきことばである。

と宣言されました。ですから、荒野の第一世代にとっては、出エジプトの贖いの御業はリアルなものであり、これらの戒めの大前提となっています。それで、最初に与えられた第四戒においては、主の安息の日を聖別すべき戒めは、神さまが天地創造の第七日をご自身の安息の日として祝福して聖別されたことに基づいているという、主の安息の本来の意味を明らかにしているわけです。
 これに対して、荒野の第二世代に十戒の戒めが与えられるときには、必ずしも、すでに第一世代に与えられているものがそのままコピーされる形ではなく、必要な解説も加えられて与えられています。特に、第四戒ではそのことが見られます。もともと、つまり、出エジプト記に記されている十戒においても、第四戒はその戒めの根拠について説明されているものです。その本来の根拠は、神さまが天地創造の第七日をご自身の安息の日として祝福して聖別してくださっていることにあります。これは、歴史をとおして一貫して変わりません。それが、出エジプト記に記されている十戒において示されているわけです。
 先ほどお話ししましたように、申命記5章2節〜5節に記されている、十戒のことを語るモーセの言葉は回想の形で語られています。そして、12節の、

安息日を守って、これを聖なる日とせよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。

という第四戒の中心となる戒め自体が、

あなたの神、主が命じられたとおりに。

という言葉が示すように、第一世代に与えられている戒めを踏まえていることを示しています。その意味では、主の民が安息日を守るべき根拠が、神さまが天地創造の第七日をご自身の安息の日として祝福して聖別されたことにあるということは、ここで確認されているわけです。
 その上で、ここでは、第一世代に安息日に関する戒めが与えられたのは、主が贖いの御業によってイスラエルの民をエジプトの奴隷の身分から贖い出してくださり、ご自身の契約の民としてくださって、神さまとの本来の関係を回復してくださったからであるということが示されているわけです。それが、この第四戒の最後につけられた、

あなたは、自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そして、あなたの神、主が力強い御手と伸べられた腕とをもって、あなたをそこから連れ出されたことを覚えていなければならない。それゆえ、あなたの神、主は、安息日を守るよう、あなたに命じられたのである。

という言葉です。
 このように考えますと、

それゆえ、あなたの神、主は、安息日を守るよう、あなたに命じられたのである。

という言葉は、第一世代に与えられた安息日に関する戒めは、出エジプトの贖いの御業によって神である主との契約関係に入れていただいたイスラエルの民に与えられたものであるということを述べていると考えられます。
 これには創造の御業と贖いの御業の関係が関わっています。結論的に言いますと、創造の御業によって始められたものが、神のかたちに造られてすべてのものを治める使命を委ねられた人間の罪によって損なわれてしまいました。贖いの御業はそれを本来の状態に回復するとともに、創造の御業の目的も実現し完成に至らせるものです。それは主の安息についても当てはまります。
 主の安息は天地創造の第七日において、神のかたちに造られている人間が造る歴史の完成とともに実現するはずのものでした。しかし、人間が造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまったことによって、主の安息も「損なわれてしまった」わけです。人の性質を取って来てくださった御子イエス・キリストによる贖いの御業は、これを回復し、ご自身にあっては、その栄光を受けてのよみがえりによって完成しています。
 主の安息の中心にあるのが、主とご自身の民の愛にあるいのちの交わりにありますから、この交わりが回復していなければ、主の安息の回復もありません。また、この交わりが栄光あるものとして完成することによって、主の安息も完成します。その意味で、主の安息にあずかり、安息日を守ることは、主の贖いの御業によって回復されており、完成に至ります。申命記におけるモーセの「説明」は、主の安息が主の贖いの御業を通して回復しているという面を明らかにしています。
 ですから、出エジプト記に記されている安息日に関する戒めと、申命記に記されている安息に関する戒めは別の戒めで、どちらを取るべきかを問われるようなものではなく、全く調和しています。言い換えますと、十戒の第四戒に二つのヴァージョンがあるわけではないということです。
 このようにして、神である主の一方的な恵みによって罪と死の力から贖い出されて、主の契約の民とされているいる者たちは、神さまが天地創造の第七日をご自身の安息の日として祝福して聖別してくださったことに基づいて、主の安息を守るようになります。
 先週お話ししましたように、出エジプトの贖いの御業にあずかった荒野のイスラエルは、主の安息に入ることはできませんでした。先週は触れることができませんでしたが、ヘブル人への手紙4章7節、8節に、

神は再びある日を「きょう。」と定めて、長い年月の後に、前に言われたと同じように、ダビデを通して、「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」と語られたのです。もしヨシュアが彼らに安息を与えたのであったら、神はそのあとで別の日のことを話されることはなかったでしょう。

と記されているように、荒野のイスラエルの第二世代の人々で、モーセの後継者であるヨシュアに率いられてカナンの地に入った人々も、主の安息には入れませんでした。それは、古い契約の下での贖い自体が地上的なひな型としての限界のうちにあったからです。古い契約のひな型は、やがて来たるべき本体をあかししつつ待ち望んでいたのです。その意味で、古い契約の下では、主の安息の成就は先にあり、それを待ち望む状態にありましたので、第七日目を安息の日として聖別していました。
 主の安息は、人の性質を取ってきてくださった永遠の神の御子イエス・キリストにおいて成就しています。御子イエス・キリストは安息日の主であられます。そして、御子イエス・キリストの十字架の死によって主の民の罪は完全に贖われています。さらに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、世の終りに完成すべき、新しい天と新しい地における栄光が歴史の現実となっています。栄光をお受けになって死者の中からよみがえられたイエス・キリストにあっては、来たるべき時代の栄光、すなわち、新しい天と新しい地の栄光が現実であるのです。もちろん、イエス・キリストの外にあっては、新しい天と新しい地の栄光はありません。それで、イエス・キリストを信じている私たちは、イエス・キリストの復活のいのちによって新しく造られ、神さまとの愛の交わりのうちに生きるものとなっています。
 このように、十字架の死をもってご自身の民の贖いを成し遂げ、死者の中からのよみがえりによって来たるべき時代の充満な栄光をお受けになったイエス・キリストにあって、神さまの安息は成就しています。天地創造の第七日をご自身の安息の日として祝福して聖別してくださった神さまの安息は、栄光のキリストにおいて実現しているのです。私たちは、このことの上に立って、「主の日」を私たちの安息の日として守っています。それは、新約聖書の記録から、すでに使徒たちが治めていた時代の教会で行われていたことです。
 私たちは主の安息の実現を待ち望むものではなく、すでに、主の安息は私たちの現実となっていることを告白し、実際に、その祝福にあずかっているのです。そして、その主の安息の完成を待ち望みつつ、主の祈りの精神に沿って祈りつつ、主との愛にあるいのちの交わりを深めていきます。

 


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