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説教日:2005年2月20日 |
すでにお話ししましたように、天地創造の御業について記している創世記1章1節~2章3節においては、神さまがご自身がお造りになったものを改めてご覧になって、「よし」とされたことが、7回繰り返し記されています。このように神さまが改めてそこに在るものに御目を留められることは、その御目に留められたものにご自身を深くかかわらせてくださることを意味しています。そして、それを「よし」とご覧になったということは、そこにそれが在ること自体を「よし」とされたということ、それが在ること自体をお喜びになったということを意味しています。創世記1章31節には、 そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。 と記されています。 そのように、神さまはご自身がお造りになった「すべてのもの」がそこに在ること自体をお喜びになり、ご自身の愛とまったき充足をもって満たしてくださっているのです。そのことは、さらに、2章1節~3節に、 こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。それで神は、第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち、第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。神はその第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。 と記されていますように、天地創造の第7日において神さまが、この日に創造の御業を休まれ、この日を祝福して聖別してくださったことにつながっています。 先ほど引用しましたように、1章31節には、 そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。 と記されています。この段階で、創造の御業は完成しています。この後には、造られた世界の歴史が続きます。それが、創造の御業の第7日となっています。神さまは、1章31節に記されている、創造の御業によって造り出された状態にある世界を、祝福して聖別してくださったのではなく、その世界の歴史の全体を、ご自身の安息の日として、祝福して聖別してくださっています。 この違いは分かりにくいかもしれません。神さまが1章31節に記されている、創造の御業によって造り出された状態にある世界を祝福して聖別してくださっていたとすれば、それは、この世界の歴史の「出発点」において、この世界を祝福して聖別してくださったということになります。いわば、この世界の「門出」を祝福して聖別してくださったということです。しかし、実際には、この世界の歴史となる天地創造の第7日全体を、ご自身の安息の日として、祝福して聖別してくださったのです。 天地創造の御業の記事において祝福はいのちの豊かさにかかわっています。そして、神さまがあるものを聖別されることは、それを特別なものとしてご自身にかかわらせてくださることを意味しています。もし、1章31節に記されている、 そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。 という段階の世界を祝福して聖別してくださっていたとしても、その後の世界の歴史も聖別され、神さまの祝福がそれを覆うことになっていたと言うことができます。神さまが天地創造の第7日をご自身の安息の日として、祝福して聖別されたということは、この祝福と聖別が、特に、この世界の歴史全体をご自身の安息にあずからせてくださることにおいてなされているということです。 このように、神さまが天地創造の第7日をご自身の安息の日として祝福して聖別されたことは、この世界、特に神のかたちに造られている人間の歴史全体が、最後には神さまの安息にまったくあずかるようになるという形で完成に至るべきものとして、神さまによって祝福され聖別されているということを意味しています。その完成は、世の終りにおいて完成する新しい天と新しい地のことを記している黙示録21章1節~4節や、天地創造の初めに神さまが設けられたエデンの園が発展的に完成している形で示されている22章1節~5節において、預言的にあかしされています。21章1節~4節はこれまで何度も引用していますので、22章1節~5節を見てみましょう。そこには、 御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。 と記されています。 エデンの園においては、そこにご臨在される神である主との愛にあるいのちの交わりをあかしし、保証している「いのちの木」は、その中央に一本ありました。それが、この完成においては、「いのちの水の川」の両岸にあって「十二種の実」をならせるというように、さらに豊かなものとなっていることが示されています。それは「いのちの木」によって表示され、保証されている神である主との愛にあるいのちの交わりが、この上なく豊かなものとなり、天地創造の御業において人が神のかたちに造られた目的が実現し、神さまの安息がまったきものとなることにおいて、完成するということを意味しています。 このように、天地創造の御業とともに始まったこの世界の歴史は、終りの日においてまったき完成に至ります。それは、神さまが天地創造の第7日をご自身の安息の日として祝福して聖別してくださったことに支えられています。そして、その神さまの安息は、神さまが、神のかたちに造られている人間にエデンの園において与えてくださったご自身との愛にあるいのちの交わりを充満な栄光に満ちたものとして完成してくださることによって、まったきものとなります。ですから、創造の御業において神さまが人を神のかたちにお造りになったことによって始まった、神さまと神のかたちに造られている人間の愛にあるいのちの交わりは、終りの日においてまったきものとして完成すべきものであるのです。これを、難しい言葉で言いますと、神である主とご自身の民との愛におけるいのちの交わりには、終末論的な意味があるということです。 実際には、人は神である主に対して罪を犯して御前に堕落してしまいました。それによって、神さまとのいのちの交わりを失い、死の力捕えられてしまいました。それでも、神さまは創造の御業において実現されたみこころを変えたもうことなく、ご自身の民のために御子を贖い主として立ててくださり、御子の十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業によって、私たちを再びご自身との愛にあるいのちの交わりのうちに回復してくださいました。そして、このようにして回復してくださった交わりを、世の終りには、充満な栄光に満ちたものとして完成してくださいます。この完成に至る道筋は人類の罪による堕落によって変わりましたが、私たちの神さまとの愛にあるいのちの交わりが充満な栄光に満ちたものとなり、神さまの安息が完成するということには変わりがありません。 このように、御子イエス・キリストの贖いによって回復された父なる神さまと私たちの愛にあるいのちの交わりには、終りの日における完成があります。そして、その交わりの具体的な現れが私たちの祈りです。それで、私たちの祈りには終末における完成を望み見るという特徴があります。私たちの主イエス・キリストは、主の祈りにおいて、 天にいます私たちの父よ。 御名があがめられますように。 御国が来ますように。 みこころが天で行なわれるように 地でも行なわれますように。 と祈るようにと教えてくださいました。この祈りには、終りの日の神さまの安息の完成を待ち望む望みが溢れています。その意味で、この祈りには終末論的な意味があります。 これらのことを念頭に置きながら、一つのことをお話ししたいと思います。天地創造の第7日が神さまの創造の御業によって造られたこの世界の歴史であるということは、その第7日が今日まで続いているということでもあります。そのことはいくつかのことから推論することができます。その一つとして、少し長い引用になりますが、ヘブル人への手紙4章1節~11節を見てみましょう。そこには、 こういうわけで、神の安息にはいるための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれにはいれないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。信じた私たちは安息にはいるのです。「わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」と神が言われたとおりです。みわざは創世の初めから、もう終わっているのです。というのは、神は七日目について、ある個所で、「そして、神は、すべてのみわざを終えて七日目に休まれた。」と言われました。そして、ここでは、「決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」と言われたのです。こういうわけで、その安息にはいる人々がまだ残っており、前に福音を説き聞かされた人々は、不従順のゆえにはいれなかったのですから、神は再びある日を「きょう。」と定めて、長い年月の後に、前に言われたと同じように、ダビデを通して、「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」と語られたのです。もしヨシュアが彼らに安息を与えたのであったら、神はそのあとで別の日のことを話されることはなかったでしょう。したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。神の安息にはいった者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。ですから、私たちは、この安息にはいるよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。 と記されています。 ここでは、古い契約の下にあったイスラエルの民が、その不信仰による不従順のために神さまの安息に入れなかったということと、私たちがそれを教訓として、神さまの安息に入るべきことが記されています。そして、3節後半、4節においては、 みわざは創世の初めから、もう終わっているのです。というのは、神は七日目について、ある個所で、「そして、神は、すべてのみわざを終えて七日目に休まれた。」と言われました。 と言われています。これは、先ほど引用しました、創世記2章1節~3節に記されていることを受けています。神さまが天地創造の第7日に御業を終えられ、その日を祝福して聖別してくださったということです。 しかし、これに続く5節においては、 そして、ここでは、「決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」と言われたのです。 と言われて、イスラエルの民が不信仰による不従順のために神さまの安息に入れなかったことが記されています。古い契約の下にあった地上的なひな型であるイスラエルの民の歴史の中では、神さまの安息はまったきものとして実現していないのです。それは、古い契約の下でささげられていた動物の血によっては、神のかたちに造られている人間の罪を贖って、人を内側からきよめることができないからです。 これを受けて、9節、10節においては、 したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。神の安息にはいった者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。 と言われています。また、1節において、 こういうわけで、神の安息にはいるための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれにはいれないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。 と勧められており、11節でも、 ですから、私たちは、この安息にはいるよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。 と勧められています。 これらのことから、神さまがご自身の安息の日として祝福して聖別された天地創造の第7日は、まだ閉じてはいないで、今も続いているということが分かります。言い換えますと、その神さまの安息はまだまったきものとして完成していないということです。 しかし、これには、今お話ししていることとのかかわりで一つ問題があります。この神さまの安息とは、天地創造の第7日における安息で、まさに、神さまご自身の安息です。 これまで繰り返しお話ししてきましたように、神さまは三位一体の神であられ、御父、御子、御霊の間には無限、永遠、不変の愛の通わしがあり、神さまは永遠にまったき充足のうちにおられます。この意味では神さまは永遠にまったき安息のうちにおられます。それは、いかなるものによっても揺るがされることはありません。それなのに、神さまの安息が完成していないと言っていいのでしょうか。 確かに、神さまはご自身の完全な愛にあって充足しておられますから、まったき安息のうちにおられます。そして、その安息は永遠に揺るぐことはありません。しかし、いま私たちが問題にしているのは、その意味での安息ではありません。それは、ご自身の愛をご自身のお造りになったこの世界に表してくださり、特に、ご自身のかたちにお造りになった人間が、ご自身との愛にあるいのちの交わりのうちに生きるようになることとのかかわりで考えられる安息です。 アウグスティヌスは、その『告白』の冒頭において、神さまに向かって、 あなたは私たちを、ご自身に向けてお造りになりました。ですから私たちの心は、あなたのうちに憩うまで、安らぎを得ることはできないのです。 と告白しています。では、神さまの方はどうなのでしょうか。私たち神さまの民が、ご自身との愛にあるいのちの交わりのうちにまったく憩うようになるまでは、神さまもまったき安息のうちに憩うようにはなられないのでしょうか。それとも、神さまはご自身のうちなる完全な愛の交わりのうちにまったく充足しておられるから、ご自身の民との交わりが損なわれていても、ご自身の安息には揺るぎがないということなのでしょうか。 人間のことを考えてみても、家族の深い交わりをもって充足している人がいたとします。その人は、そうだからといって、自分の友人の苦しみに対して心が揺さぶられることがなくなるでしょうか。そのようなことはありません。もし自分がまったく充足しているからということで他の人の苦しみに心が揺さぶられることがないというのであれば、それは、その充足がきわめて自己中心的に歪んだものであるからでしょう。天地創造の第7日における神さまの安息はそのようなものではありません。 私たちは、神さまがどのようなお方であるかを、人の性質を取ってこられた御子イエス・キリストを通して示されています。御子イエス・キリストは、地上にある間、常に父なる神さまとの愛にある交わりのうちに歩まれました。父なる神さまと一つであられたイエス・キリストは安息日における主であられます。ご自身が安息そのものであられ、すべてのものの安息の源であられます。その意味において、イエス・キリストはまったき充足と安息のうちにおられたと言うことができます。けれども、そうだからといって、イエス・キリストは人々の痛みや苦しみに対して何も感じることがない、超然とした方であられたのではありません。先ほど引用しましたヘブル人への手紙4章1節~11節の少し後の14節~16節には、 さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。 と記されています。 父なる神さまとのまったき愛の交わりのうちに充足しておられたイエス・キリストは、人々の病を負い、その苦しみをご自身のものとして負ってくださいました。それによって、それらの痛みと苦しみの根本原因である私たちの罪を贖ってくださるために、十字架にお付きになるという思いをさらに深めていかれたと考えられます。すべては、私たちを、父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きるものとして回復してくださり、私たちの間に神さまの安息を完成してくださるためのことでした。言い換えますと、神さまはご自身の民である私たちを、ご自身との愛にある交わりのうちに回復してくださるだけでなく、この交わりを充満な栄光に満ちたものとして完成してくださるまでは、天地創造の第7日をご自身の安息の日とされたことに示された安息がまったきものとなったとはお考えにならないのです。 このこをを踏まえますと、先ほど触れた、ヘブル人への手紙4章1節に記されている、 こういうわけで、神の安息にはいるための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれにはいれないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。 という勧めや、11節に記されている、 ですから、私たちは、この安息にはいるよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。 という勧めが、神さまの私たちへの愛から出ている勧めであることが分かります。これは、私たちとご自身との愛にあるいのちの交わりを完成してくださり、私たちをご自身の安息にまったくあずかるものとしてくださる神さまのみこころの現れでもあります。 3節に、 信じた私たちは安息にはいるのです。 と記されているように、私たちは終りの日に神さまのまったき安息にあずかることになります。「信じた私たちは」と言われていますが、私たちが信じ続けることができるのは、ひとえに、あわれみ深い「私たちの大祭司」の「あわれみ」と「おりにかなった助け」によることです。私たちは、このあわれみ深い「私たちの大祭司」の御名によって、終りの日において神さまの安息が完成することへの希望をもって主の祈りを祈ります。また、主の祈りに表されている祈りの精神をもって自分たちの祈りを祈ります。その私たちの祈りは、終末論的な望みのうちに祈られる祈りです。目前に迫ってきている課題や困難に圧倒されて祈る祈りであっても、そのさらに先には終りの日における神さまの安息の完成があることを信じて、忍耐深くそれを待ち望む祈りです。 |
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