(第6回)


説教日:2005年2月13日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 今日も、マタイの福音書6章9節〜13節に記されています主の祈りについてのお話を続けます。
 これまで、主の祈りそのものについてお話しする前に、私たちの祈りについていくつかのことをお話ししてきました。その一つは祈りの起源についてです。私たちの祈りはどこから生れてきているかということです。そして、祈りの起源を突き詰めていくと、神さまが三位一体の神であられるということと、神さまが人を神のかたちにお造りになったということに行き着くということをお話ししました。
 神さまが三位一体の神であられるということにはいくつかの面があります。第一のことは、神さまの実体と本質は一つであり、神さまは唯一の神であられるということです。第二のことは、その唯一の神さまに御父、御子、御霊の三つの位格があるということです。御父、御子、御霊はその実体と本質と栄光において等しい神です。つまり、御父は神であり、御子は神であり、御霊は神です。第三のことは、御父、御子、御霊はお互いに区別されるということです。
 このような三位一体の神さまの御父と御子の間には、御霊による、無限、永遠、不変の愛の通わしがあり、御父、御子、御霊はその完全な愛の交わりのうちに充足しておられます。そして、この世界は、御父とのまったき愛の交わりのうちに充足しておられる御子によって造られました。そのことが、ヨハネの福音書1章1節〜3節に、

初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

と記されています。天地創造の御業は、愛におけるまったき充足のうちにおられる神さまによって遂行されました。それは、造り主である神さまの愛を、この造られた世界に表現するための御業でした。


 人間はこの造り主である神さまの愛を受け止め、造り主である神さまとの愛にある交わりのうちに生きるものとして、神のかたちに造られています。それで、神さまとの愛にある交わりに生きることが、人間のいのちの本質です。そして、それが御言葉が示している永遠のいのちです。
 詩篇36篇9節には、

  いのちの泉はあなたにあり、
  私たちは、あなたの光のうちに光を見るからです。

という、契約の神である主に対する告白が記されています。また、ヨハネの福音書17章3節には、

その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。

という、イエス・キリストの父なる神さまへの祈りの言葉が記されています。ここでは「永遠のいのちとは」私たちが父なる神さまと父なる神さまがお遣わしになったイエス・キリストとを「知ること」であると言われています。
 この「知ること」はヘブル的な発想における「知ること」であって、愛による親しい交わりにあって「知ること」を意味しています。
 いろいろな機会にお話ししたことがありますが、マタイの福音書7章21節〜23節には、

わたしに向かって、「主よ、主よ。」と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。「主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。」しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。「わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。」

というイエス・キリストの教えが記されています。
 ここでは、栄光のキリストが終りの日に再臨されて、さばきを執行される時のことが預言的に語られています。そして、栄光のキリストの御前において、多くの人々が、

主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。

という訴えをすると言われています。イエス・キリストを主と呼び、その御名によって、際立った働きをなしたということが、自分たちがイエス・キリストのものであることのしるしであると言うのです。けれども、イエス・キリストは、この人々に、

わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。

と宣言されると言われています。もちろん、栄光のキリストはこの人々の存在も、この人々がご自身の御名によってそこで言われている際立った働きをなしたことも知っておられます。けれども、その人々はイエス・キリストの民ではありませんでした。言い換えますと、イエス・キリストは、この人々をご自身との愛にあるいのちの交わりのうちにあって知っておられたわけではないということです。
 それでは、その人々はどうしてイエス・キリストの民ではなかったのでしょうか。それは、その人々が、自分たちのなした際立った働きを根拠にして、自分たちが主のものであるということを主張しているからです。私たちが主のものであることの根拠は、私たちが主の御名によってなしたことにあるのではなく、主が私たちのためになしてくださったことにあります。神さまは、永遠の聖定において、私たちがご自身の子どもとなるように定めてくださいました。そして、天地創造の御業においては、人を神のかたちにお造りくださり、ご自身との愛にある交わりのうちに生きるものとしてくださいました。また、人類の罪による堕落の後には、ご自身の御子を贖い主としてお遣わしになり、御子の十字架の死と死者の中からのよみがえりによって、私たちの罪を贖い、ご自身の子どもとしてくださいました。このようにして、再びご自身との愛にあるいのちの交わりに生きるものとして回復してくださいました。このような、父なる神さまが御子イエス・キリストによってなしてくださった御業だけが、そして、それを信じる信仰だけが、私たちが御子イエス・キリストの民であることの根拠です。
 イエス・キリストは、

わたしに向かって、「主よ、主よ。」と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。

と言われました。そうしますと、私たちのうちには、天におられるイエス・キリストの父なる神さまのみこころを行うことは、神さまのために奉仕することではないのかという疑問が出てきます。しかし、すでに繰り返しお話ししてきましたように、神さまは私たちに奉仕をさせるために私たちをお造りになったのではありません。その奉仕を根拠として、その奉仕と交換に、私たちをご自身との愛にあるいのちの交わりのうちに保ってくださるのではありません。確かに、私たちは栄光のキリストから使命を委ねられています。それは、ただ恵みによって、イエス・キリストの民とされていて、イエス・キリストとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きることを中心として果たされる使命です。その使命は、そのイエス・キリストとの愛にあるいのちの交わりを広げてゆく使命です。ですから、私たちの間に父なる神さまと御子イエス・キリストとの交わりが常に現実となっていなければ、その使命を果たすことはできません。
 イエス・キリストが、

わたしに向かって、「主よ、主よ。」と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。

と言われているときの「わたしの父のみこころ」は単数形で、すべてを包む一つのみこころです。
 ヨハネの福音書6章39節、40節には、

わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。

というイエス・キリストの教えが記されています。ここでも、父なる神さまの「みこころ」が2回出てきますが、どちらも同じ単数形が用いられています。
 イエス・キリストは、

事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。

と言われました。この「永遠のいのちを持つこと」とは、私たちがイエス・キリストにあって、父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きることに他なりません。そして、私たちの祈りは、この父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりの現れの一つです。
 そのような、父なる神さまと御子イエス・キリストとの愛にあるいのちの交わりについて、二つのことをお話ししたいと思います。
 イエス・キリストは、

その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。

と言われました。
 そのように、私たちが父なる神さまと父なる神さまが遣わしてくださったイエス・キリストを知るようになることは、父なる神さまが私たちの贖い主として遣わしてくださったイエス・キリストを知ることから始まります。私たちがイエス・キリストを知ることは、私たちの罪を贖うために十字架にかかって死んでくださり、私たちを復活のいのちに生かしてくださるために死者の中からよみがえってくださったイエス・キリストを、福音の御言葉のあかしに基づいて、私たちの贖い主として信じ、主として告白することを意味しています。そのようにイエス・キリストを信じることは、イエス・キリストの愛を受け入れることを意味しています。私たちはイエス・キリストの愛を信じ、イエス・キリストに従っていきます。そのイエス・キリストは、私たちをいのちの道へと導いてくださり、その道のうちを歩ませてくださいます。イエス・キリストを自らの贖い主であり、主であると告白して、その愛を信じ、信頼して従うことがないのに、イエス・キリストを知っているということはできません。
 また、そのように、イエス・キリストを信じ、イエス・キリストを信じて、その愛を受け入れることは、イエス・キリストをお遣わしになった父なる神さまを信じて、その愛を受け入れることを意味しています。イエス・キリストを信じて、その愛を受け入れている人は、イエス・キリストとの愛の交わりのうちに生きるようになります。そして、イエス・キリストとの愛にある交わりのうちに生きている人は、父なる神さまとの愛にある交わりのうちに生きています。なぜなら、イエス・キリストは父なる神さまと一つであり、父なる神さまを、その愛において、私たちに表してくださっておられるからです。ヨハネの福音書14章9節、10節には、

イエスは彼に言われた。「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください。』と言うのですか。わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。」

と記されています。
 このように、イエス・キリストを信じて、その愛を受け入れている人は、イエス・キリストとの愛の交わりのうちに生きるようになります。そして、イエス・キリストとの愛にある交わりのうちに生きている人は、父なる神さまとの愛にある交わりのうちに生きています。この、神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きるということについて、もう一つのことを考えてみましょう。
 ある人が、聖書を読み、説教を聞き、さまざまな本を読んで、神さまのことは聞いているとします。神さまが唯一の神であられることは知っているし、神さまが天地の造り主であられることも知っています。また、父なる神さまが御子イエス・キリストを贖い主として遣わしてくださり、御子イエス・キリストが十字架にかかって死んでくださり、死者の中からよみがえってくださったことを知っています。そして、それがご自身の民の罪を贖うためのことであることも知っていますし、そのイエス・キリストを信じるなら救われることも知っているとします。けれども、その人が実際に父なる神さまに向き合うことがないとしたら、どうでしょうか。父なる神さまに向かって「アバ。父。」と親しく呼びかけることがないとしたら、どうでしょうか。また、ヨハネの福音書20章28節には、復活の主の御手の傷とわき腹の傷に触れたトマスが、

私の主。私の神。

と告白したことが記されていますが、その人が、実際に、イエス・キリストに向き合ってこのトマスのような告白をしたことがないとしたら、どうでしょうか。その人は、父なる神さまと父なる神さまがお遣わしになった御子イエス・キリストを、愛にある親しい交わりにあって知っていると言えるでしょうか。イエス・キリストが、

その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。

と言われたことは、その人の現実となっているでしょうか。
 ヤコブの手紙2章19節には、

あなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じて、身震いしています。

と記されています。神さまがお一人であり、天地の造り主であられ、栄光の主であられるということは、悪霊たちも信じています。そうであっても、悪霊たちは、神さまの愛に包まれて、神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きることはありません。神さまを愛し、神さまご自身を目的とし、喜びとして祈ることはありません。
 とは言え、悪霊たちも祈ることはあります。少し長い引用になりますが、マルコの福音書5章1節〜17節には、

こうして彼らは湖の向こう岸、ゲラサ人の地に着いた。イエスが舟から上がられると、すぐに、汚れた霊につかれた人が墓場から出て来て、イエスを迎えた。この人は墓場に住みついており、もはやだれも、鎖をもってしても、彼をつないでおくことができなかった。彼はたびたび足かせや鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり、足かせも砕いてしまったからで、だれにも彼を押えるだけの力がなかったのである。それで彼は、夜昼となく、墓場や山で叫び続け、石で自分のからだを傷つけていた。彼はイエスを遠くから見つけ、駆け寄って来てイエスを拝し、大声で叫んで言った。「いと高き神の子、イエスさま。いったい私に何をしようというのですか。神の御名によってお願いします。どうか私を苦しめないでください。」それは、イエスが、「汚れた霊よ。この人から出て行け。」と言われたからである。それで、「おまえの名は何か。」とお尋ねになると、「私の名はレギオンです。私たちは大ぜいですから。」と言った。そして、自分たちをこの地方から追い出さないでくださいと懇願した。ところで、そこの山腹に、豚の大群が飼ってあった。彼らはイエスに願って言った。「私たちを豚の中に送って、彼らに乗り移らせてください。」イエスがそれを許されたので、汚れた霊どもは出て行って、豚に乗り移った。すると、二千匹ほどの豚の群れが、険しいがけを駆け降り、湖へなだれ落ちて、湖におぼれてしまった。豚を飼っていた者たちは逃げ出して、町や村々でこの事を告げ知らせた。人々は何事が起こったのかと見にやって来た。そして、イエスのところに来て、悪霊につかれていた人、すなわちレギオンを宿していた人が、着物を着て、正気に返ってすわっているのを見て、恐ろしくなった。見ていた人たちが、悪霊につかれていた人に起こったことや、豚のことを、つぶさに彼らに話して聞かせた。すると、彼らはイエスに、この地方から離れてくださるよう願った。

と記されています。
 ここには、イエス・キリストが自らのことを「レギオン」と称する悪霊を追い出されたことが記されています。「レギオン」というのは、軍の部隊のことで、皇帝アウグストの時代には6000人の兵士から成るものであったと言われています。ですから多くの悪霊がこの人についていたわけです。そうであっても、この悪霊は最初のうちは、自らのことを「」と言い、イエス・キリストも「おまえ」と呼んでおられます。多くの悪霊たちが統率のとれた一つの部隊のように働いていたわけです。それで、ここに記されているように、この悪霊につかれた人は悲惨な状態になっていました。
 ここに記されていることにはいくつかの大切な意味がありますが、今お話ししていることと関連することに限ってお話ししますと、この悪霊は、イエス・キリストのことを、

いと高き神の子、イエスさま。

と呼んでいます。この「いと高き神」という呼び方は、旧約聖書において、異邦人がイスラエルの神を指して呼んだ呼び方でもあります。その場合には、「いと高き神」と呼んだからといって、その人々が契約の神である主を信じて、心から従っているわけではありません。その人々と「いと高き神」の間には距離があるわけです。自らのことを「レギオン」と称する悪霊たちは異邦人たち以上に「いと高き神」がどなたであるかを知っており、イエス・キリストがその方の御子であられることを知っています。
 この悪霊は、さらに、

いったい私に何をしようというのですか。

と言いました。これは、文字通りには、

私にとって、またあなたにとって、何がありますか。

というような言葉です。砕けた言い方をすれば、「私とあなたに何の関係がありますか。」とか、「私のことはほっといてください。」ということです。でも、これはイエス・キリストを「いと高き神」の御子であると認めたうえでのことですから、一種の祈りです。それに続く、

神の御名によってお願いします。どうか私を苦しめないでください。

という言葉も、一種の祈りです。また、10節に、

そして、自分たちをこの地方から追い出さないでくださいと懇願した。

と記されていることも、彼らの祈りですし、11節、12節に、

ところで、そこの山腹に、豚の大群が飼ってあった。彼らはイエスに願って言った。「私たちを豚の中に送って、彼らに乗り移らせてください。」

と記されていることも、彼らの祈りです。
 ですから、悪霊たちも祈るのです。もちろん、イエス・キリストを愛し、その愛のうちにイエス・キリストを主として告白してのことではありません。今お話ししましたように、イエス・キリストを「いと高き神の子」と呼ぶことによって、イエス・キリストと距離を置いています。さらに、「私とあなたに何の関係がありますか。」と言葉を続けて、イエス・キリストを避けようとしています。ですから、その祈りも、イエス・キリストから身を避けようとするための祈りです。
 そればかりではありません。

私たちを豚の中に送って、彼らに乗り移らせてください。

と願い出て、それが許されると、豚の群れに乗り移ってそれをおぼれ死にさせました。これによって、村人たちの恐怖を煽り、村人たちがイエス・キリストを遠ざけるようになるように仕向けています。自分たちが滅びることを直感しつつも、最後までイエス・キリストに抵抗しています。このような秘かな目的をもった祈りもあるのです。
 このような祈りのことを踏まえて、私たちの祈りを振り返って見てみますと、父なる神さまと御子イエス・キリストを知らなかったときの私たちの祈りも、本質的にはこれと変わらなかったことが分かります。祈りはするものの、決して、造り主である神さまに心を向け、造り主である神さまを愛して御顔を慕い求めるものではありませんでした。かえって、自分たちの思うように「神」を動かそうとするものでした。
 また、このような祈りと対比させますと、私たちの祈りがどのようなものであるかがより鮮明に見えてくるのではないでしょうか。私たちの祈りは、私たちが御霊によって、父なる神さまと御子イエス・キリストに近づくための祈りです。そして、父なる神さまと御子イエス・キリストの愛を信じ、父なる神さまと御子イエス・キリストを喜ぶための祈りです。私たちは、そのような祈りを重ねるたびに、イエス・キリストの民であり、父なる神さまの子どもであることの確信を深め、父なる神さまと御子イエス・キリストの愛に包まれていることの幸いを実感するようになります。

 


【メッセージ】のリストに戻る

「主の祈り」
(第5回)へ戻る

「主の祈り」
(第7回)へ進む

(c) Tamagawa Josui Christ Church