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説教日:2005年2月6日 |
繰り返しの引用になりますが、ヨハネの福音書1章1節、2節には、 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。 と記されています。1節の、 ことばは神とともにあった。 ということと、2節の、 この方は、初めに神とともにおられた。 ということは、父なる神さまと「ことば」と言われている御子との間に、永遠の愛の交わりがあることを意味しています。これは、御父と御子の間に、御霊による、無限、永遠、不変の愛の交わりがあるということです。神さまは永遠に愛のうちにあってまったく充足しておられます。 そして、これを受けて3節には、 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。 と記されています。「すべてのもの」とは、見えるものも見えないものも含めたこの世界の「すべてのもの」です。それが「この方」、すなわち、父なる神さまとの無限、永遠、不変の愛の交わりのうちにまったく充足しておられる御子によって造られたと言われています。 このように、この世界は神さまのまったき充足のうちに造り出されています。この世界は、造り主である神さまのまったき充足に包まれている世界であるのです。 このことは、創世記1章1節〜2章3節に記されています天地創造の御業の記事からもくみ取ることができます。その記事を見てみますと、神さまはそれぞれの御業に区切りをつけられるに当たって、お造りになったものをよしとご覧になっておられます。1章4節には、 神はその光をよしと見られた。 と記されており、それ以後、10節、12節、18節、21節、25節において、 神は見て、それをよしとされた。 と記されています。そして、31節には、 そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。 と記されています。このように、神さまが、ご自身がお造りになったものをご覧になったということが7回繰り返し記されています。 前にお話ししたことがありますが、これは、ある意味において不思議なことです。永遠に全知全能であられる神さまは、永遠の前からいっさいのことをご存知です。そのことはともかく、創造の御業においても、神さまはすべてのことを支配しておられますから、神さまが気がつかないところで何かが起こるというようなことはあり得ませんでした。当然、神さまはご自身が造り出されるすべてのものを、そして、一つ一つが造り出されるに至る一部始終をご存知であり、ご覧になっておられたはずです。それなのに、神さまはご自身がお造りになったものを改めて「よし」とご覧になっておられます。これは、神さまが、ご自身がお造りになったものがちゃんとできているかどうか調べるために、それらのものをご覧になったということではありません。というのは、神さまの御業に失敗というものはあり得ないからです。そうしますと、これをどのように考えるかということになります。 聖書の中で、すべての物事を完全に見通しておられる神さまが、改めて何かに目を留めてご覧になるということは、神さまがそれに特別な注意を払われ、深くそれにかかわってくださることを意味しています。それがさばきの執行のためということもあるのですが、救いとさばきの御業において、神さまは、その対象となるものに目を留められて、深くかかわっていかれます。 創造の御業において神さまが造り出されたものを改めてご覧になったことも、これと同じように考えられます。先ほどお話ししましたように、これは、それらがうまくできたかどうかを確かめるためのことではありません。それらはすべて、神さまご自身が、御言葉をもって、また御霊によってお造りになったものとして、みこころにかなったものとして造り出されています。そうしますと、神さまが「よし」とご覧になったというときの「よし」ということは、それらがうまくできているという意味での「よし」ということというより、神さまが、それらがそこに「あること」自体を「よし」とご覧になったということであると考えられます。もちろん、それらは神さまがお造りになったものとして「よく」できています。それは、当然の前提になっています。その上で、さらに、神さまはそれらが「あること」を、それらの存在自体を「よし」とご覧になったということです。その意味で、この「よし」と訳されている言葉(トーブ)に「喜ばしい」という意味があることは注目に値します。神さまは、それらのものがそこにあること自体を「喜ばしい」こととしてご覧になってくださっているのであると考えられます。そのようにして、神さまはお造りになったものに対してご自身を特別な意味で関わらせてくださいます。そして、それがあること自体をお喜びくださり、それらを真実な御手をもって支え続けてくださっています。このようにして、この世界は今日に至るまで、神さまの御手によって保たれてきています。 このように理解しますと、創造の御業がが終った時のことを記す1章31節に、 そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。 と記されていることから、お造りになったすべてのものがそこにあることに対する神さまご自身の深い喜びを感じ取ることができます。 このことを受けて、2章1節〜3節には、 こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。それで神は、第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち、第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。神はその第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。 と記されています。神さまはご自身がお造りになったすべてのものの存在に対する深い喜びをもって創造の御業を終えられました。そして、天地創造の第7日において、創造のすべての御業を休まれました。そして、この第7日を祝福し、聖別してくださいました。ですから、この天地創造の第7日には造り主である神さまの深い喜びと安息、充足が満ちているのです。そして、この天地創造の第7日が天地創造の初めから今日に至るまでの歴史の時となっています。 私たちは、時間というものは機械的に流れていく無機質のものであるというイメージをもっています。しかし、それは私たちのイメージで捉えた時間の一面です。確かに、時間は私たちにとって規則的に流れていきます。それは、神さまがこの世界を時間的な世界としてお造りになって、これに一定で確かな規則性を与えてくださっているからです。しかし、それがこの世界の時間のすべてではありません。この世界の時間は、神さまの創造の御業とともに始まり、神さまが創造の御業を遂行されるにしたがって流れていきました。神さまは一瞬のうちに、完成した世界をお造りになることがおできになります。しかし、実際には、天地創造の六つの日に分けて、しかも、この世界にふさわしい順序を踏んで、創造の御業を遂行されました。そのようにして、この世界は時間的な世界、時間の流れとともに進展する世界、時間の流れとともに完成に向かう世界として造られました。被造物としてこの世界にある私たちは時間の流れに縛られていますしかし、神さまは時間の主、歴史の主であられます。 神さまはご自身の創造の御業によってお造りになったこの時間的な世界の存在そのものを深くお喜びになり、そのようにして造られた世界の歴史全体を意味している天地創造の第7日を祝福し、聖別してくださっておられます。それで、この世界の歴史としての時間の流れには、ご自身がお造りになったこの世界に対する神さまの喜びが満ちており、神さまの安息と充足によって包まれているのです。これが、神さまがお造りになったこの世界の時間の性格であり、特に、神のかたちに造られている人間が造り出す歴史の最も深くにある特質です。 このような時の流れ中で、神のかたちに造られた人は造り主である神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きていました。そして、神さまから委ねられた使命を遂行することを通して自分たちの愛を、自分たちに委ねられたものに対して表していました。そのような中で、神さまとの愛の交わりの現れとしての祈りが絶えずささげられていました。それが神のかたちに造られている人間の本来のあり方です。そしてそのようにして、そのようにして、神のかたちに造られている人間の歴史と文化が造られていくはずでした。 しかし、人は神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまいました。それは、神さまの愛を踏みつけることであり、自分自身の神のかたちとしての栄光と尊厳性を損ない、腐敗させることでした。人は造り主である神さまを神とすることがなくなり、その祈りも、自分たちに都合のいい偶像に対する自己中心的な祈りに変質してしまいました。 これに対して、神さまはなおも、ご自身の私たちに対する愛を貫いてくださり、ご自身の御子を贖い主としてお遣わしになりました。そして、御子イエス・キリストの十字架の死によって、私たちの罪を贖ってくださり、イエス・キリストの死者の中からのよみがえりによって、私たちを新しく造り変えて、再びご自身との愛にあるいのちの交わりに生きるものとして回復してくださいました。それによって、私たちの祈りも、神さまとの愛にあるいのちの交わりの現れとして回復されました。私たちは、神さまの愛におけるまったき充足の時、安息の時として祝福され、聖別されたこの世界の歴史が、御子イエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業に基づいて、安息の時、充足の時として完成することを求めて、神さまの御名のあがめられること、御国が来ること、みこころが行われるようになることを祈り求めるようになりました。 創世記1章1節〜2章3節に記されていることは、神さまが遂行された天地創造の御業を中心として記されている創造の御業の記事の視点から見たことです。これに対しまして、ヨハネの福音書1章1節〜3節においては、同じことを、造り主である神さまご自身に焦点を合わせて記しています。そして、天地創造の御業は、父なる神さまとの、御霊による、無限、永遠、不変の愛の交わりのうちにいます御子によって遂行されたということを示しています。 天地創造の御業は無限、永遠、不変の愛においてまったく充足しておられる神さまの御業です。神さまはご自身のまったき充足のうちにこの世界をお造りになり、ご自身の愛をご自身のお造りになった世界に向けて表しておられます。そして、神さまは、ご自身の愛を受け止め、ご自身との愛の交わりに生きるものとして、人を神のかたちにお造りになりました。それで、神のかたちに造られている人間は造り主である神さまに向かって祈るのです。 このように、祈りは神さまが私たちを愛してくださって、ご自身の愛の交わりにおける充足のうちに、ご自身の愛を私たちにまで及ぼしてくださり、私たちをご自身との愛にある交わりのうちに充足させてくださるために与えられています。それは、神さまの主権的で一方的な愛から出たことで、私たちの求めに応じて与えられたことではありません。 私たちの祈りは、神さまご自身との愛にある交わりのためになされます。その交わりは、私たち神のかたちに造られているもののいのちの本質です。造り主である神さまとの愛にある交わりに生きるいのちが永遠のいのちです。祈りはその永遠のいのちの最も自然な現われです。 御父、御子、御霊にいます三位一体の神さまは、永遠に、完全な愛の交わりのうちにおられて、愛の交わりのうちに充足しておられます。完全な愛の交わりのうちに充足しておられる神さまが、その愛をご自身の外に向けて表わされたのが、天地創造の御業です。私たち人間は、その造り主である神さまの愛を受け止めることができるようにと神のかたちに造られています。ですから、私たちにとって、造り主である神さまとの愛の交わりに生きることは最も自然なことです。 けれども、私たちにとって最も自然なことは、決して、私たちにとって当然のことではありません。私たちが造り主である神さまとの交わりに生きることができるためには、神さまがご自身を無限に低くして私たちにご自身を示してくださらなければなりません。 そのことについても、いろいろな機会にお話ししてきましたが、再確認する意味で、まとめておきましょう。テモテへの手紙第一・6章15節、16節には、 神は祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です。誉れと、とこしえの主権は神のものです。アーメン。 と記されています。 地球の生き物にとって、太陽の熱と光はなくてはならないものです。しかし、もし太陽と地球の距離がなくなって、地球が太陽に直接触れるようになるとしたらどうなるでしょうか。地球は太陽の熱で焼かれて溶けてしまいます。この世界が無限の栄光の神さまに直接触れることは、地球が太陽に直接触れるどころのことではありません。最も聖い御使いであっても、また、この世界全体であっても、どのような被造物も神さまの無限の栄光に直接触れるようなことはできません。また、そのようなことはありえません。紙切れは太陽に触れるはるかに前に燃えてなくなってしまいますから、紙切れが太陽に直接触れることはありえません。それと同じように、造られたものが造り主である神さまに直接触れるというようなことはありえません。 そうしますと、私たちと造り主である神さまとの交わりはどうなるのでしょうか。無限、永遠、不変の栄光の神さまと私たちの交わりは成り立たないのではないでしょうか。 一つの考え方では、ちょうど太陽が地球から遠く離れているので、その光と熱が地球にあるものにとってちょうどよい明るさと暖かさとなっているというのと同じように考えます。つまり、「神」が自分たちから遠い存在であるので、自分たちと「神」の関係が程よく保たれているというような考え方です。このような場合には、「神」の栄光をより大いなるものと考えれば考えるほど、「神」のことをより遠くにあると考える傾向があります。もしその「神」が人間とあまり変わらないものであると考えられるなら、人間と同じ所に共存していると考えられるようになります。しかし、「神」の栄光を大いなるものと考える場合であっても、これは、その「神」を空間的な限界の中にあるものと考えることです。「神」が遠くにあるということは、その「神」が空間の中にあるということを意味していますし、「神」が遠くにあればその栄光の輝きもより弱くなるというのは、その栄光が無限の栄光ではないということを意味しています。ですから、そのような「神」は、存在においても、栄光においても無限、永遠、不変の神ではありません。 神さまは存在においても栄光においても無限、永遠、不変の方です。そのような神さまの御前には、もっとも聖い御使いを含めて、いかなる被造物も存在することはできません。しかし、実際には、この世界も、その中にある私たちも、造り主である神さまの御手によって造られ、御前に存在しています。それは、神さまが三位一体の神さまであることによっています。 すでに引用しましたヨハネの福音書1章3節においては、 すべてのものはこの方によって造られた。 と言われていました。この「この方によって」の「によって」という言葉(ディア)は、「この方」と呼ばれている御子が創造のお働きの遂行者であることを示しています。 三位一体の神さまは、存在においては一つの実体です。この意味で、神さまは唯一の神です。唯一の神さまがおられるだけであって他に神はありません。同時に、この神さまは、御父と御子と御霊の三つの位格においてあります。御父と御子と御霊は、その本質と栄光において等しい神です。このように、御父と御子と御霊を、その神としての本質から見て、等しい神であると理解することは、三位一体の教理の理解の出発点です。御父と御子と御霊を、その神としての本質において等しい神であると見ることから理解される三位一体は「本質的三位一体」あるいは「存在論的三位一体」と呼ばれます。 この三位一体の神さまが創造の御業を遂行されるのに、また、後には、救済の御業を遂行されるのに、御父は計画者となられ、御子は遂行者となられ、御霊は適用者となられました。そのようにして、御父と御子と御霊は、それぞれ別のお働き(職位)を担われました。その意味で、御子は、御父のみこころに従って、御霊の力によって、御業を遂行されます。ヨハネの福音書1章3節で、 すべてのものはこの方によって造られた。 と言われているのは、このことに当てはめて言いますと、御子が御父のみこころに従って、御霊の力によって、すべてのものをお造りになったということになります。 このように、御子は創造の御業を遂行されるために、ご自身の栄光をお隠しになって、この世界にかかわってくださいます。そのようにして、御子がこの世界をお造りになり、ご自身を神のかたちに造られている人間にお示しになりました。それが、天地創造の初めに神のかたちに造られた人の間にご臨在され、人をご自身との愛にあるいのちの交わりのうちに生かしてくださった神である主です。そして、後に人間が神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまった後には、ご自身の民の罪を贖ってくださるために、さらに身を低くして人の性質を取ってきてくださり、十字架におかかりになって私たちの罪を贖ってさり、死者の中からよみがえってくださって、私たちを新しく造り変えてくださったのです。 このように、創造の御業と救済の御業における、御父と御子と御霊のお働きの違い、すなわち、職位の上での違いから見られた三位一体のことを「経綸論的三位一体」あるいは「経綸上の三位一体」と呼びます。 御父と御子と御霊の神としての本質には、上下の関係はありません。しかし、「計画者」、「遂行者」、「適用者」という職位とその働きには上下関係に当たるものがあります。御子が創造と救済の御業を遂行されるのは、御父のご計画(みこころ)に従ってであり、御霊は、御子が成し遂げてくださった御業を、私たちとこの世界の現実に当てはめてくださいます。この、「計画」、「遂行」、「適用」の働きにおいては、「計画」は「遂行」と「適用」に先立ち、「遂行」は「適用」に先立っています。けれども、それぞれのお働きを担っておられる御父と御子と御霊ご自身の間には、後先や上下の関係はありません。 たとえて言いますと、工場において製品を造る場合、どのような製品をどれだけ造るかの計画を立てること、その計画に従って製品を造ることの間にはある種の上下関係があります。製品を造る人は、経営者の計画に従って造らなくてはなりません。その意味で、仕事(職位)上の関係から言いますと、計画することは製造することに先立ち、その上にあります。しかし、人間としての本質から言いますと、計画を立てる人も、その計画にしたがって製造する人も等しく人間です。その点における上下関係はありません。 このように、御父と御子と御霊の関係を、創造の御業と贖いの御業におけるそれぞれのお働き(職位)から見ますと、御子は御父に従い、御霊は御父と御子に従っています。しかし、それはあくまでも職位上の上下関係であって、神としての本質の違いではないということをしっかりとわきまえていなくてはなりません。 そのお働きにおいて、御子イエス・キリストが父なる神さまに従っておられることから、御子は神ではないと主張する人々がいます。それは、先程のたとえで言いますと、製造に従事している者が経営者に従って働いているから、製造に従事している者は人間ではないというようなものです。 このように、三位一体の神さまにおいて、神さまご自身の存在が、神さまが創造の御業や贖いの御業を遂行されることに先立ってあります。言い換えますと、「存在論的三位一体」が「経綸論的三位一体」の根底にあるということです。先週は、私たち神のかたちに造られていて人格的な存在においては、存在が働きに優先するということをお話ししましたが、それは、実は三位一体の神さまご自身に当てはまることであるのです。そして、そうであるから、神のかたちに造られている人間にも当てはまるという順序になっています。 神さまはただ存在しておられるというのではなく、永遠に無限の愛において完全に充足しておられます。そのように、永遠に存在しておられ、しかも、無限、永遠、不変の愛のうちにまったく充足しておられる三位一体の神さまが、創造の御業と贖いの御業を遂行されました。 三位一体の神さまは、天地創造の御業を遂行される前から、あるいは、天地創造の御業を遂行されなくても、永遠に、無限の愛の交わりのうちに充足しておられます。また、御父、御子、御霊は、それぞれ自存にして自己充足の神であられますから、そこには、相手を自分のために使うというような可能性もまったくあり得ません。御父、御子、御霊の間の交わりにおいては、お互いがお互いにとっての喜びの源であり、目的となっています。これは人間になぞらえたような言い方に聞こえるかもしれません。しかし、むしろ、これこそが三位一体の神さまご自身のあり方です。 神さまは、このような、お互いがお互いにとっての喜びの源であり、目的となっている交わりを、神のかたちに造られている私たちにも広げてくださるために、私たちを神のかたちにお造りになりました。そして、そのために、先ほどお話ししましたように、お互いの間で「役割分担」をされました。すべて、私たちをご自身との愛にあるいのちの交わりにあずからせてくださるためのことです。それだけでも驚くべきことですが、それ以上に、御子が人の性質を取ってきてくださり、十字架の死の苦しみをも味わってくださったのは、神さまの愛を踏みつけて御前を離れ去ってしまっていた私たちを、もう一度、その愛のうちに回復してくださり、ご自身とのいのちの交わりのうちに生きるものとしてくださるためでした。 どう見ても、神さまにとって私たちがどうしてもなくてはならない存在であるかのように見えてしまいます。もちろん、それは神さまに何らかの意味で欠けがあって、それを私たちが満たすことができるからではありません。そのように、神さまが私たちを利用しようとされることは決してありません。そうではなく、これは、神さまが私たち自身の存在そのものを愛してくださり、喜んでくださり、永遠にご自身のものとしてくださっているからに他なりません。 私たちの祈りは、そのような神さまの愛によって、神さまから与えられているものです。 |
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