(第4回)


説教日:2005年1月30日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 今日も、マタイの福音書6章9節〜13節に記されています「主の祈り」についてのお話を続けます。主の祈りそのものについてお話しする前に、私たちの祈りについていくつかのことをお話ししています。
 これまで、私たちの祈りの起源を突き詰めていきますと、神さまが三位一体の神であられるということ、人が神のかたちに造られているということに行き着くということをお話ししてきました。
 神さまが三位一体の神であられるということは、人間が考え出したことではなく、神さまがご自身の御言葉をとおして啓示してくださったことです。これには三つの要素があります。一つは、神さまは唯一の神であられるということです。もう一つは、この唯一の神さまには、御父、御子、御霊の三つの位格があるということです。そして、もう一つのことは、御父、御子、御霊は、それぞれが自存にして自己充足の神であられ、お互いに区別される方であるということです。
 神さまが三位一体の神であられることには、いろいろな意味があります。今お話ししている私たちの祈りとの関連では、その存在と一つ一つの属性において無限、永遠、不変の栄光に満ちておられる御父と御子の間に、同じく無限、永遠、不変の栄光に満ちておられる御霊によって、無限の愛が永遠に通わされているということが大切なことです。このことは、これまでお話ししてきましたように、ヨハネの福音書1章1節、2節において、

初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。

と記されていることに示されています。
 神さまは永遠に、無限の愛のうちにあってまったく充足しておられます。そして、同じヨハネの福音書1章の3節に、

すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

と記されているとおり、父なる神さまとの愛のうちにあってまったく充足しておられる御子が、この世界のすべてのものをお造りになりました。ですから、天地創造の御業は、神さまの愛におけるまったき充足のうちに遂行され、愛のうちに充足しておられる神さまが、その愛をご自身の外に向けて表されるという意味をもっています。完全な愛のうちに充足しておられる神さまが、ご自身の愛をご自身の外に向けて表されたということは、人類が神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまった後に遂行された贖いの御業についても、そのまま当てはまります。
 このように、この世界の「すべてのもの」は造り主である神さまの愛のうちに造り出され、神さまの愛によって包まれています。このことは、造られた世界の中に神さまの愛を受けるだけでなく、その愛を自覚的に止める人格的な存在がいることを予想させます。言うまでもなく、それが神のかたちに造られている人間です。そのようなわけで、人は造り主である神さまとの愛にある交わりに生きるために必要なものを備えられたものとして造られました。人は自由な意志をもつ人格的な存在として造られ、神さまの御前に立つために必要な聖さを与えられていました。そして、人のいのちの本質は神さまとの愛にある交わりに生きることにあります。
 私たちはアダムにあって罪を犯して神さまの御前に堕落してしまったことによって、この聖さを失ってしまいました。しかし、神さまは御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた罪の贖いをとおして、この聖さを回復してくださっています。私たちの祈りは、この神さまとの愛にあるいのちの交わりの現れの一つに他なりません。


 このように、人は造り主である神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きるものとして、神のかたちに造られています。この愛の交わりにおいては、愛する相手が目的となります。先にお話ししましたように、具体的な愛があるところには「愛する者」と「愛されている者」、そして「愛そのもの」があります。それは、御父と御子の間に御霊による交わりがあるという三位一体の神さまのあり方から出ていることです。御父と御子はお互いに「愛する者」と「愛されている者」です、そして、御霊は「愛そのもの」です。そのようにして、御父と御子は、御霊によって、無限、永遠、不変の愛の交わりのうちにいます。その交わりにおいては、御父は御子を目的として、御子をお喜びになり、、御子は御父を目的として御父をお喜びになっておられます。
 具体的な愛があるところには「愛する者」と「愛されている者」と「愛そのもの」があるということは、また、私たち神のかたちに造られている人間と神さまとの交わり、そして、神のかたち造られている人間同士の交わりにおいても見られるものです。
 そのようなわけで、主の民にとっては、神である主ご自身が望みであり、拠り所であり、生きる目的であり、喜びとなります。そのような思いを表している御言葉の一つである詩篇73篇25節、26節には、

  天では、あなたのほかに、
  だれを持つことができましょう。
  地上では、あなたのほかに私はだれをも望みません。
  この身とこの心とは尽き果てましょう。
  しかし神はとこしえに私の心の岩、
  私の分の土地です。

と記されています。
 けれども、人間は造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落して以来、神さまとの関係をそのように理解することはなくなってしまいました。神さまとの愛にあるいのちの交わりにおいて、神さまご自身が目的であり、心の喜びであるということがなくなってしまったのです。
 その一つの例を、前にお話ししたことがありますが、聖書の文化的な背景となっている、古代オリエントの文化の中で記された神話の一つである、バビロニアの創造神話『エヌーマ エリシュ』に表されている、神と人間との関係についての基本的な考え方を見てみましょう。その中では、人間は神々への奉仕をするために造られたと言われています。
 バビロニアの神話における主神はマルドゥクで、そのマルドゥクがこの世界を造ったとされています。ただし、マルドゥクの創造の働き以前に、神々も含めたこの世界の素になる「原初の水」が存在しているとされています。それは「原初の大洋」であるアプスーと「波立つ海」であるティアマトです。この二つが混ざり合うところから、神々を初めとするあらゆるものが生まれてきます。マルドゥクもそこから生まれた神々の一人です。そして、波立つ海であるティアマトが、そのようにして生まれたすべてのものを滅ぼしてしまおうとしたときに、マルドゥクがティアマトと戦って勝利するのです。そして、このティアマトの屍を、魚を裂くときのように二つに裂いて天蓋と大地を造り上げます。ですから、そのマルドゥクの働きは「無からの創造」ではありません。
 人間が造られた状況については、『エヌーマ エリシュ』の、板の5行〜8行に、次のように記されています。

私は血を固まりとして集め、骨を造り出そう。私は野蛮なものを造り上げよう。その名は「人間」としよう。確かに、私は野蛮なものである人間を造ろう。人間には神々に奉仕するという務めを与えることにする。それによって、神々が安楽に過ごすようになるためである。
[J.B.Pritchard. ed., Ancient Near Eastern Texts. 3rd ed., 1969 (Princeton:Prenceton University Press), p.68]

 ここで人間を造る素材とされている「血」は、キングーの血です。キングーは、波立つ海であるティアマトの軍隊の最高指揮官です。人間は、反逆者の血から造られ、神々への奉仕の務めを負わされたと言われています。これによって、神々が楽になったというのです(33行〜36行参照)。
 このような神話は、堕落後の人間が抱いている、神と人間の関係についての考え方をよく表しています。それは、神と人間の関係は、基本的に、奉仕と働きの関係であるというのです。人間が神に仕えると、神はそれに応えて(報いて)、人間のために働いてくれるというのです。このように考えられている神は、決して自己充足している神ではありません。人間の奉仕を必要としている神です。
 罪によって堕落した後の人間の考え方では、神と人間の関係は基本的には奉仕と働きの関係です。これは、それぞれの働きが、互いにとって必要であるということの上に成り立っている関係です。
 これに対しまして、聖書の示すところでも、神さまは人間に奉仕を求めているではないか、という疑問が出されることでしょう。確かに、創世記1章26節には、

そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。

と記されています。ここでは、神さまが、奉仕をさせるために人を造ったと言われているのではないでしょうか。
 しかし、創世記1章全体の文脈を見ますと、次のことが明らかです。
 まず、人間に「海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させ」るようになったとしても、それによって神さまがそれらのものを支えてくださることから手を引いてしまわれる訳ではないということです。それらすべてのものを支えておられるのは神さまです。神さまがお造りになり、神さまが支えていてくださっているものを、人間は神のかたちに造られているものとして、支配する使命を授けられているのです。ですから、これは、人間に仕事をさせて神さまが楽をするということとはまったく違います。
 また、創世記1章に示されている創造者である神さまは、人間の奉仕を必要としている神ではありません。パウロが、使徒の働き17章24節、25節で、

この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、・・・人の手によって仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、いのちの息と万物をお与えになった方だからです。

と述べているとおりです。そこで人間の奉仕を必要としているものがあるとしたら、それは造り主である神さまではなく、「海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのもの」たちです。
 さらに、聖書は、人間にこのような使命が与えられたのは、神ご自身の必要のためではなく、むしろ人間の益のためであることを示しています。それは、神のかたちに造られた人間が、造り主である神さまの御業を引き継ぐものとしての栄光にあずかるようになるためです。
 詩篇8篇3節〜9節には、

  あなたの指のわざである天を見、
  あなたが整えられた月や星を見ますのに、
  人とは、何者なのでしょう。
  あなたがこれを心に留められるとは。
  人の子とは、何者なのでしょう。
  あなたがこれを顧みられるとは。
  あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、
  これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。
  あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、
  万物を彼の足の下に置かれました。
  すべて、羊も牛も、また、野の獣も、
  空の鳥、海の魚、海路を通うものも。
  私たちの主、主よ。
  あなたの御名は全地にわたり、
  なんと力強いことでしょう。

と記されています。
 すでに、いろいろな機会にお話ししてきたことでもありますので、結論的に言いますと、人はこの委ねられた使命を果たすことによって、神さまのお造りになった世界のすばらしさにより深く触れることによって、造り主である神さまのすばらしさを現実的に知ることができるようになります。また、それによって、自分が神のかたちの栄光を担うものとして造られていることの意味を、現実的に知ることができるようになるのです。
 詩篇の記者は、

  あなたの指のわざである天を見、
  あなたが整えられた月や星を見ますのに、
  人とは、何者なのでしょう。
  あなたがこれを心に留められるとは。
  人の子とは、何者なのでしょう。
  あなたがこれを顧みられるとは。

と歌っています。
 光は1秒間に地球を7回り半すると言われています。その光が1年かかって到達する距離というものを私たちは現実的に想像することができません。しかし、この宇宙は150億光年の彼方に広がっていると言われています。もうそれは、想像を絶する広がりです。そのような宇宙の広大さに比べたときの地球の小ささも想像することができません。私たちはその地球の中に住む小さな存在です。そのような私たち人間が広大な宇宙を観察する能力を与えられています。けれども、この宇宙は、次々と立ち現れてくる神秘に満ちています。それも、神さまがお造りになったものを治める使命を委ねられていることにともなうことです。
 このようにして、神のかたちに造られている人間に神さまがお造りになったこの世界のものを治める使命が委ねられていることには、神さまが創造の御業を遂行なさり、摂理の御業を遂行しておられることと類似しているところがあります。どういうことかと言いますと、三位一体の神さまの御父、御子、御霊の間には無限、永遠、不変の愛の交わりがあります。神さまは、その愛のうちに充足しておられます。そして、その愛をご自身の外に向けて表してくださるために、御子によってこの世界をお造りになりました。神のかたちに造られている人間は、この神さまの愛を受け止めて、神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きる者として造られました。このように、神さまの創造の御業には、神さまの無限、永遠、不変の愛の交わりを、さらに、私たちご自身のかたちに造られたものにまで広げてくださるという面があります。
 本来、神のかたちに造られている人間は、神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きている者としてお互いが出会います。そして、そのように出会った者同士が、愛にある交わりのうちに充足しています。神さまから委ねられた使命は、そのような愛の交わりのうちにあって充足している者が、その愛の充足を委ねられたものたちに向けて表わしていくというかたちで果たされていくのです。その点で、神さまの創造の御業の遂行と類似しています。
 そのことをうかがわせる御言葉を見てみましょう。創世記2章18節〜25節には、

その後、神である主は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」神である主が、土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造られたとき、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人が、生き物につける名は、みな、それが、その名となった。こうして人は、すべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけたが、人にはふさわしい助け手が、見あたらなかった。そこで神である主が、深い眠りをその人に下されたので彼は眠った。それで、彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれた。こうして神である主は、人から取ったあばら骨を、ひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。すると人は言った。
  「これこそ、今や、私の骨からの骨、
  私の肉からの肉。
  これを女と名づけよう。
  これは男から取られたのだから。」
それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。そのとき、人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった。

と記されています。
 ここで、神のかたちに造られている人は、生き物たちの名をつけています。それにはいくつかの意味があります。
 一つには、その当時の文化の中では、名をつける者が名をつけられたものに対して権威をもっていることの現れです。もう一つのことは、名はその存在の本質を表すものであるということです。人が生き物たちに名をつけたということは、生き物たちを十分に観察し、その本質を見抜いて、それにふさわしい名をつけたということです。これは、人が生き物たちのことを十分に理解して知るようになったということを意味しています。
 人が生き物たちのことを十分に理解して知るようになったということは、今日の社会では、それらの生き物たちをよく利用するためであるというようなことにもなります。しかし、実際には、それは「ふさわしい助け手」の創造に際して行われています。23節、24節に、

すると人は言った。
  「これこそ、今や、私の骨からの骨、
  私の肉からの肉。
  これを女と名づけよう。
  これは男から取られたのだから。」
それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。

と記されていることから分かりますように、この「ふさわしい助け手」とは、最初の人の愛を十分に受け止めて、愛をもって答えてくれる存在のことです。
 そうしますと、20節に、

こうして人は、すべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけたが、人にはふさわしい助け手が、見あたらなかった。

と記されているのは、人がそれらの生き物たちに向けて、自分の愛を投げ掛けたということを意味しています。人が生き物たちに自分の愛を投げかけた結果、生き物たちとの間にそれなりの親しい関係が築き上げられました。けれども、生き物たちからは、人の愛に対して十分に呼応する応答が得られなかったということです。
 このように、人は、真実に自分の愛を、それらの生き物たちに表しました。つまり、人がすべての生き物たちに名をつけたということは、愛をもってそれらの生き物たちに接して、それらの本質を理解したということです。このことから、神のかたちに造られている人間に委ねられている生き物たちを治める働きがどのようなものであったかを理解することができます。それは、具体的には、愛をもってその生き物たちを親しく知り、その生き物たちに仕えることを通して果たされる使命です。
 そして、そのことの中心に、人とその妻のまったき一体における愛の通わしがあるのです。言い換えますと、人とその妻の間に通わされている愛の交わりにおける充足を中心として、その愛の交わりが、生き物たちとの交わりへと拡大していくのです。そのことに、神さまの創造の御業に、神さまの無限、永遠、不変の愛の交わりを、私たちご自身のかたちに造られたものにまで広げてくださったという面があるということとの類似性があります。
 このように、造り主である神さまが神のかたちに造られている人間に委ねてくださった使命は、神さまがご自身の必要を満たすために人間に奉仕を要求されたことから出ているものではありませんし、人間が自らを肥やすために、自分に委ねられたものを利用することを目的としているのではありません。すべては、無限、永遠、不変の愛の交わりのうちにまったく充足しておられる三位一体の神さまの愛が、ご自身の外に向けて表されたこととしての意味をもっている創造の御業のうちにでのことです。
 このことは、天地創造の初めに造り主である神さまが神のかたちに造られている人間に委ねてくださった使命を理解するために決定的に大切なことです。その使命は、自分たちの間にある愛の交わりによる充足を、自分たちに委ねられているものたちに向けて広げていくという本質をもっています。この天地創造の初めに与えられた使命は、私たちには、栄光のキリストから一般に「大宣教命令」と呼ばれる形で委ねられています。それは、私たちの間に御霊による愛の交わりが確立され、私たちがその愛の交わりのうちに充足しているのでなければ、果たすことができないものです。
 しかし、今日の教会においてこのことが十分自覚されているでしょうか。教会がこの世の「事業」のスタイルにならって教勢の拡大を図っているために、奉仕がその「事業」の達成を目的としてなされていくというようなことはないでしょうか。それが、結果的に、神さまのご栄光を表わすことになる、という掛け声の下にです。実際に、神さまへの礼拝までもが、人を引きつけるのに役立つようにと工夫されるようになってしまっている、と嘆いておられる方々もおられます。主の民が、御霊による交わりのうちに、お互いを目的とし、お互いを喜び合う充足の中で、その愛を拡大することとしての「あかし」が立てられていきますように。
 私たちは、御子イエス・キリストの十字架の上での死によって罪を贖っていただいたことによって、生けるまことの神さまを知る者となりました。神さまは無限、永遠、不変の神であり、あらゆる点において欠けることがなく、完全に充足しておられる方であることを知っています。それで、私たちには、「人間の奉仕を必要としている神」というようなものは考えられません。
 では、人間はなぜ「人間の奉仕を必要としている神」を考えてしまうのでしょうか。
 その根本的な原因は、もちろん、人間が罪を犯して堕落して、その心が造り主である神さまから離れてしまっているからです。その結果、人間は造り主である神さまを見失ってしまいました。しかし、それによって、人間の中から「神への思い」がなくなってしまったのではありません。造り主である神さまとの交わりの中に生きるものとして、神のかたちに造られている人間の心の奥深くには、「神への思い」があります。それで、人間は神を考えないでは生きられません。堕落によって、「神への思い」そのものが失われたのではなく、「神への思い」が歪んでしまったのです。その「神への思い」によって造り主である神さまに向くのではなく、偶像を生み出して「神への思い」を満たそうとするようになってしまったのです。このようにして、人間は、神を考えるときには、自分たちのイメージに合う神を考えるようになってしまいました。
 罪を犯して堕落してしまった人間は、罪によって腐敗した本性の特徴である自己中心性によって動かされています。そこから、お互いの間に「利用し合う関係」が生まれてきます。相手が自分にとってどれだけ役に立つか、自分をどれだけ豊かにしてくれるか、より高尚には、自分を精神的にどれだけ高めてくれるかといったことから判断して、相手を評価するようなところがあります。人間同士の間でそのような思いが働いているだけではなく、それが、神との関係にまで投影してしまいます。そこから、神を利用して自分の幸福を刈り取ろうとするご利益宗教が生まれてきます。人間と神との関係が、そのような利用し合う関係であるためには、神も人間を必要としていなくてはならないことになってしまいます。このようにして、人間の考える神は、少なくとも、人間と関わって人間の願いに応えてくれると考えられている神は、何らかの意味で人間の奉仕を必要としている神であるということになってしまうのです。
 もし神と人間との関係が、そのようにお互いの必要のために利用し合う関係であるとしたら、そこに生まれる祈りは、人間が神を動かすための手段となってしまいます。そのような祈りによって、人間は神ご自身とその愛を求めるのではありません。神から何らかのご利益をもらおうとしています。
主の民の祈りは、これとはまったく違う本質をもっています。祈りは、すべての点においてまったく充足しておられる神さまが、その充満な愛のうちに私たち人間を神のかたちにお造りになり、ご自身との交わりのうちに生きるものとしてお造りになったことから出ています。この祈りは、神さまの愛に包まれた交わりの中で、神さまご自身を求めることを本質としています。
 このように、祈りは、あらゆる点において完全に充足しておられる三位一体の神さまが、その充満な愛において私たち人間をお造りになったことから始まっています。私たち人間をご自身のかたちにお造りになって、ご自身との交わりに生きるものとしてくださったことから生まれています。その意味で、私たち人間が祈りにおいて求めるものは、何よりもまず、神さまご自身とその愛です。私たちの祈りの目的は、神さまとのいのちの交わりの中で、神さまをより深く知るようになることです。
 私たちの祈りが神さまの愛にあるいのちの交わりであるとき、私たちはまず神さまご自身とその愛を求めます。神さまご自身を求めることに先立って、神さまが私たちのために何かをしてくださることを求めることはありません。そのような祈りの中でこそ、造り主である神さまが人間に委ねてくださった使命をめぐって、その実現を求める祈りや、神さまの支えと導きを求める祈りも意味あるものとなります。そこでは、神さまの支えと導きは、私たち人間対する神さまの愛の現れとしての意味を持つようになります。
 このことは、祈りにおいては、「存在が働きに優先する。」ということを意味しています。
 存在が働きに優先するということは、造り主である神さまとの交わりである祈りにおいてばかりでなく、私たちの間の交わりにおいても当てはまることです。それは、人格的な存在である神さまご自身と神のかたちに造られている人間においては、存在が働きに優先しているからです。たとえば、人格的な存在ではない機械について言いますと、それがどのような機械であるか(の評価)は、その機能(働き)によって決まります。それは機会が働きを目的として作られているからです。しかし、人格的な存在においては、それがどのような存在であるかは、その機能や働きによっては決まりません。その機能や働きの奥に人格としての存在があり、機能や働きはその人格の表現として初めて意味を持つようになります。それは、神さまが人格的な存在である私たちを、ご自身のために働かせることを目的としてお造りになったのではなく、私たちをご自身との愛にあるいのちの交わりのうちに生きるものとしてお造りになったからです。ですから、神さまは私たちを愛してくださっており、私たちの存在そのものを喜んでくださっているのです。
 神さまと私たちとの交わりは、このように、神さまが永遠に無限の愛における交わりのうちにおられるということから出ています。この意味では、私たちと神さまとの交わりの中心にある祈りは、永遠の神さまの、愛における交わりを反映しています。私たちの祈りは、造り主である神さまが、無限、永遠、不変の愛の交わりのうちにまったく充足しておられる方であるということから生まれています。
 そのようなものとして、本来、祈りは、何かの働きのためという前に、あるいは、神さまに何かをしていただくという前に、神さまご自身に向うものです。祈りは、神さまご自身が目的であり、神さまご自身を喜びとすることを本質としています。言い換えますと、神さまご自身との人格的な交わりを本質としています。このような本質がないのであれば、私たちがどのように熱心に祈ったとしても、三位一体の神さまの御前における祈りとはなりません。
 私たちが祈るとき、まず何よりも、神さまがご自身の無限、永遠、不変の愛をもって私たちを愛してくださっておられ、私たち自身に御目を向けてくださっておられることを覚えることができますように。また、そのことのゆえに、神さまをまったく信頼して祈ることができますように。そして、私たちも、祈りにおいて、神さまを愛し、神さまご自身を喜びとすることができますように。そして、私たちが日々携わる仕事や学びにおいても、そのために必要な賜物と機会を与えてくださり、手の業を祝福してくださっている、造り主である神さまご自身を喜ぶことができますように。

 


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