(第3回)


説教日:2005年1月23日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 今日も、マタイの福音書6章9節〜13節に記されています「主の祈り」についてのお話を続けます。主の祈りそのものについてお話しする前に、私たちの祈りについていくつかのことをお話ししています。
 今は、祈りの起源、すなわち、私たちの祈りがどこから生まれているかということについてお話ししています。私たちの祈りは私たちが祈るものであるという意味では、祈りは私たちから生まれてきます。今お話ししているのは、そのことの奥にあることで、そもそも人はなぜ祈るものであるかということです。
 繰り返しになりますが、祈りの起源を突き詰めていきますと、二つのことに行き着きます。一つは、神さまが三位一体の神であられるということです。もう一つは、人が神のかたちに造られているということです。
 神さまが三位一体の神さまであられるということは、人間が考えついたことではなく、神さまが御言葉によって啓示してくださったことです。そのことを御言葉から論証するためには、かなりの時間がかかります。それは、それをひねり出すのが大変であるからではなく、そのことを示している御言葉の教えがたくさんあるからです。実際、木曜集会の「信仰入門講座」において、私に分かる限りにおいてのことですが、そのことについてすでに、半年ほどお話ししています。それは月に一度のことですから、これを続けていきますと、数年かかってしまいそうだという感じです。
 この主の祈りについてのお話では、それを祈りと関係があると思われることに限って取り上げています。そのような観点から、これまで、ヨハネの福音書1章1節〜3節に記されていることを取り上げてお話ししてきました。そこには、

初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

と記されています。
 すでにお話ししたことの結論ですが、1節冒頭の、

初めに、ことばがあった。

ということは、天地創造の初めにすでに「ことば」が存在しておられたことを意味しています。つまり、この「ことば」は、造られたこの世界に属しておられない方であり、この世界の時間の流れや空間の広がりを超越しておられる方であるのです。事実、3節では、この「ことば」について、

すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

と言われています。永遠の「ことば」は創造の御業を遂行された方です。この点につきましては、すでにいろいろな機会にお話ししてきましたが、後ほどもう少しお話しします。
 1節では、さらに、

ことばは神とともにあった。

と言われています。これは、この永遠の「ことば」が父なる神さまとの交わりのうちにあられることを示しています。そして、2節では、

この方は、初めに神とともにおられた。

と言われていて、それが永遠の交わりであることが示されています。このことから、御父と御子の間には永遠に変わらない愛の交わりがあるということが分かります。それは、教会の歴史の中で、御言葉全体の教えに基づいて、御父と御子の間には、御霊による、無限、永遠、不変の愛の交わりがあると告白されてきたことです。
 ヨハネの手紙第一・4章16節において、

神は愛です。

と言われていることは、このような神さまご自身における事実を土台としています。
 もし、神さまが一位一体で、ある人々が言うように、御子が被造物でしかなかったとしたら、神さまの愛は被造物に対してしか表現できないということになります。その場合、父なる神さまと御子の間には、創造者と被造物の間にある絶対的な区別があるということになります。父なる神さまは無限、永遠、不変の栄光の主であられ、御子は単なる被造物で、あらゆる点において限りのある存在であるということになります。そうしますと、どのような被造物も、神さまの無限、永遠、不変の愛をそのまま受け止めることはできませんから、神さまは、ご自身の愛を充満な形で表現することはできなくなってしまいます。
 先週お話ししましたように、神さまの愛そのものは無限、永遠、不変の栄光に満ちています。その愛がそのまま現されるとするなら、どのような被造物もその前に存在することはできません。私たちは太陽の光と熱がこの世界の植物や動物の成長をもたらしていることを知っています。その意味で、比喩的な言い方をしますと、太陽の光と熱は「いつくしみ深い」働きをします。けれども、それは、大洋と地球の間に一定の距離があって、適度な光と熱が地球に注がれるからです。もし地球が太陽の光と熱をまともに受けるとしたら、地球はその光と熱によって焼け溶けてなくなってしまいます。それと同じように、無限、永遠、不変の栄光に満ちた神さまの愛がそのまま私たちに示されるとしたら、被造物である私たちは、神さまの無限、永遠、不変の栄光に撃たれて滅び去ってしまいます。
 もし神さまがご自身の愛を充満な形で表現することができないのであれば、いくら神さまの愛が無限、永遠、不変で完全な愛であるといっても、その愛の完全な表現はあり得ないことになってしまいます。決して完全な形で表現されることのない愛というのであれば、それは、もはや、無限、永遠、不変な方であられる神さまにふさわしい完全な愛ではありません。ですから、神さまが愛であり、神さまが愛において完全な方であるということは、無限、永遠、不変の愛なる人格が、少なくとも二つ存在していて、充満な形での愛の通わしがあるということを意味しています。


 いずれにしましても、ヨハネの福音書1章1節、2節において、

初めに・・・ことばは神とともにあった。

と言われているのは、二つの永遠の人格があることを示しています。また、その二つの永遠の人格が、それぞれ孤立してあるのではなく、愛にある交わりのうちにあったということを示しています。そして、論理的に、その交わりは完全な愛における交わりであると言うことができます。私たちは三位一体の教理を、「一人の神であられることの統一性のうちに御父、御子、御霊の三つの位格がある」という形で表現しています。その神であられることの統一性は御父、御子、御霊の間の無限、永遠、不変の愛によって特徴づけられているのです。それは、ただ単に、神さまのうちに無限、永遠、不変の愛の性質があるということではなく、永遠の人格である御父と御子の間に、御霊による無限、永遠、不変の愛の通わしがある、愛における交わりがあるということです。この御父と御子の間の、御霊による永遠の交わりにおいてこそ、神さまの無限の愛が、無限に豊かに現されているのです。
 このように、

神は愛である。

ということは、三位一体の神さまご自身のうちに完全な愛の交わりがあり、完全な愛の充満があり、完全な愛による充足があるということを意味しています。
 この、御父、御子、御霊にいます、三位一体の神さまの人格間の、永遠にして完全な愛における交わりこそが、私たち神のかたちに造られているものと、造り主である神さまとの交わりの源ですし、私たち人間同士の交わりの源です。この意味で、私たちと造り主である神さまとの交わりである祈りは、三位一体の神さまから出ています。
 ヨハネの手紙第一の序論に当たる1章1節〜4節においては、交わりのことを語る文脈の中で、御子が御父とともにあったことが語られています。そこには、

初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、―― このいのちが現われ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現わされた永遠のいのちです。―― 私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。私たちがこれらのことを書き送るのは、私たちの喜びが全きものとなるためです。

と記されています。
 2節では、御子のことが、

御父とともにあって、私たちに現わされた永遠のいのち

と言われています。この場合の「永遠のいのち」は「私たちに現わされた」と言われていることから分かりますように、御子イエス・キリストのことを指しています。そして、

御父とともにあって

というときの「ともに」という言い方は、ヨハネの福音書1章1節、2節で、

神とともにあった

と言われているときの「ともに」という言い方と同じです。それで、このヨハネの手紙第一・1章1節〜4節でも「永遠のいのち」と言われている御子イエス・キリストと父なる神さまとの間に愛の交わりがあることが示されています。そして、ここでは、3節に、

私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。

と記されていますように、それが私たちと神さまとの交わりと、私たちお互いの愛の交わりの基礎となっているということが示されています。
 ヨハネの福音書に戻りますが、1章1節〜3節においては、永遠の神の御子が、御父との愛の交わりのうちにあることが示されています。けれども、そこでは、ただ、御子が永遠の神であられることや、御父との永遠の交わりのうちにあられることを、それとして伝えることが目的ではないようです。
 これにはいくつかのことが考えられますが、1章1節〜3節に限って見てみますと、その目的は、3節の、

すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

という御言葉から汲み取ることができます。
 この御言葉は、

すべてのものは、この方によって造られた。

と言うだけでなく、続いて、

造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

と言うことによって、「すべてのもの」が例外なく「この方によって造られた」ことを示しています。
 この場合、「この方」は、1節、2節が示していまように、無限、永遠、不変の愛において、父なる神さまとの交わりのうちにおられる御子です。ですから、3節は、父なる神さまとの御霊による愛の交わりにおいて、まったき充足のうちにおられる御子が「すべてのもの」をお造りになったということを示しています。
 このことに関連して、二つのことを考えておきたいと思います。
 まず第一に、この世界は無機的なものの連なりと作用の中から、たまたま偶然に生じた世界ではないということです。この世界を突き詰めて行くと、最後には、冷たくて意志のない力や原理のようなものに突き当たってしまうのではありません。創世記1章1節に言われているように、

初めに、神が天と地を創造した。

のです。この世界は、人格的な神さまが、ご自身の意志の発動である御言葉をもってお造りになったものです。この世界には、造り主である神さまという人格的な背景と人格的な土台があるのです。
 もし、この世界を突き詰めて行くと、最後には、冷徹な力や原理に突き当たるというのであれば、私たち人間に祈りはなかったことでしょう。祈りは人格的なものです。私たちが祈るのは、私たちを含めてこの世界をお造りになった神さまが、生きた人格的な神さまであるからです。かりに(本当はそのようなことはあり得ないのですが、かりに)この世界を突き詰めて行くと、最後には、冷徹な力や原理に突き当たるというのであれば、そして、それでも宗教というものがあったとしますと、そこにあるのは、せいぜい、その冷徹な力を操作して動かそうとするおまじないや呪術の類いであったでしょう。おまじないや呪術は人格的な存在である人間がするものですが、その対象は人格的な存在ではありません。それで、その対象の意志は問題ではありません。あくまでも、おまじないや呪術をする者が自分の思いを通そうとするものです。
 第二に、すでに詳しくお話ししましたように、この世界をお造りになった神さまは無限、永遠、不変の愛の神です。しかも、完全な愛の性質と愛への飢え渇きはあるけれども、永遠の次元においてその愛に応えてくれる存在がいないというような、欠乏感のある神ではありません。三位一体の神さまのうちには、完全な愛が、永遠にまた無限に表現されています。神さまのうちには完全な愛の現実があり、神さまは完全な愛のうちに充足しておられます。
 この、完全な愛のうちに充足しておられる神さまが、この世界と私たち人間をお造りになりました。永遠に「孤独な神」が、その淋しさの中で、その愛への飢え渇きを満たすために、この世界と私たちを造ったのではありません。神さまは愛においてばかりでなく、その他のあらゆる点においても欠けるところのない方です。というより、神さまはあらゆる点において無限、永遠、不変の豊かさに満ちておられる方です。ですから、この世界と私たちは神さまに何らかの欠けるところがあって、それを満たすために造られたのではありません。
 ヨハネの福音書1章1節では、

初めに・・・ことばは神とともにあった。

と言われて御父と御子の交わりが示されており、さらに、2節でも、

この方は、初めに神とともにおられた。

と言われてそのことが強調されています。その上で、3節において、

すべてのものは、この方によって造られた。

と言われています。ですから、御子が御霊による御父との無限、永遠、不変の愛にある交わりのうちにおられることを考えることなしに、御子によってすべてのものが造られたことを考えることはできません。
 このように、この世界は、完全な愛のうちに充足しておられる神さまの御手によって造られたものです。三位一体の神さまの御父と御子の間の御霊による交わりのうちに、完全な愛が、永遠にまた無限に表現されています。神さまは、さらにその愛をご自身の外に向けて表現されるために、その充満な愛にうちに、この世界をお造りになりました。それが、

すべてのものはこの方によって造られた。

ということの意味です。あらゆる点において充足しておられる神さまが、ご自身のまったき充足のうちに、この世界をお造りになりました。この世界は神さまの不足を補うために造られたのではありません。むしろ、これをお造りになった神さまが、この世界をご自身の充満をもって満たしてくださっているのです。
 このことと調和して、神さまは、この世界にあって、ご自身の愛を受け止める存在としての人間をお造りになりました。永遠にして無限の愛における交わりのうちに充足しておられる神さまが、その愛をご自身の外に向けて表されるために、すべてのものをお造りになり、私たち人間を神のかたちにお造りになりました。神さまが私たち人間を神のかたちにお造りになって、ご自身との交わりのうちに生きるものとしてくださったのは、私たちをご自身の欠けを満たすための手段としてではありません。むしろ、私たちを愛して、私たちをご自身の愛によって満たしてくださるためです。
 そのようにして、神さまは、人間を、ご自身の愛に包まれて、ご自身との愛にあるいのちの交わりに生きるものとして、神のかたちにお造りになりました。神さまの創造の御業の目的を突き詰めていきますと、このことに行き着きます。
 神さまの創造の御業の目的は、そのまま、私たちの存在の目的です。よく「自分の人生は自分で決める」ということが言われます。確かに、神のかたちに造られて自由な意志を与えられている人間は、自分の意志で自分のあり方を決定しています。そうであるからこそ、そのことに対して、つまり、自分の人生のあり方に対して、自らの造り主に対して責任を負っているのです。
 先ほど触れましたが、もしこの世界を根本的に律しているものが造り主である神さまではなく、自らの意志をもたない力でしかなかったとしたら、人間を含めてこの世界はたまたま発生しただけのものであるということになります。ということは、発生しなくてもよかったのに、発生してしまった存在であるということです。そうであれば、人間を含めて、この世界には、こうあらねばならぬというような規準とか標準はないということになります。それがどうなっても、たまたま発生してきたものが、たまたまこのようなものになり、たまたま壊れて消滅していくだけのことであるということになってしまいます。
 しかし、私たちはそのような考え方に耐えることはできません。私たちは生まれてまだ物心がつく前に、両親などとの関わり合いにおいて、自らのあり方を確かめています。私たちすべては、自分たちの存在には確かな意味があると感じていますし、その意味を求めて生きています。特に、私たちが愛している人々のことを考えるときにはそうです。それで、その存在が何らかのことで失われてしまうことは、たまたま発生しただけのものが、たまたま壊れて消滅していくだけだとは考えることができません。ある方は、人間は物質的なものから成り立っていて、心の動きさえも物質的なもので説明できるという考え方を聞いて、何となくそのようにも考えられると思っていました。しかし、その人の愛している子どもが突然の事故で亡くなってしまったときに、その子がもともと物質の塊であって、それが崩壊しただけだという考えに対して、その人の存在の内側から突き上げるような抗議の思いがわき上がってきたそうです。それは、私たちが偶然たまたまこの世界に発生しただけのものではないからです。
 私たちは造り主である神さまのみこころにしたがって造り出されたものです。しかも、御父と御子の間に、御霊によって、無限、永遠、不変の愛の通わしがあり、愛のうちに充足しておられる神さまが、その愛のうちに私たちをお造りになりました。私たちは、神さまの愛を受け止めることができるようにと、神のかたちに造られている存在です。ですから、神さまとの愛にある交わりのうちに生きることが、私たち神のかたちに造られているもののいのちの本質です。言い換えますと、造り主である神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きることが私たちの存在の目的であるのです。
 ヨハネの福音書17章3節に、

その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。

というイエス・キリストの祈りの言葉が記されています。私たちにとっての「永遠のいのち」は、父なる神さまと父なる神さまが私たちの贖い主として遣わしてくださった御子イエス・キリストを知ることにあります。このことは、愛のうちにおいて起こります。なぜなら、

あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ること

と言われていますが、父なる神さまが御子イエス・キリストを遣わしてくださったのは、同じ福音書の3章16節に、

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

と記されていますように、神さまの私たちに対する愛によっているからです。この神さまの愛を受け止めることなしに、父なる神さまと父なる神さまがお遣わしになった御子イエス・キリストを知ることはできません。
 このように、私たちのいのちそのものの本質が神さまとの愛の交わりのうちにあります。そのように生きるものとして造られている私たちの存在の目的も、神さまの愛を受け止め、神さまを愛することのうちにあるのです。そのようにして、私たちは神さまの愛を受け止め神さまを愛することによって、私たちを神のかたちにお造りになった神さまの目的を果たすようになります。それが、神さまの栄光を現すことの核心にあることです。
 私たちの信仰基準の一つである『ウェストミンスター小教理問答』は、その問1に対する答えにおいて、

人のおもな目的は神の栄光を現し、永遠に神を喜ぶことです。

と述べています。今お話ししたことから分かりますように、「神の栄光を現し、永遠に神を喜ぶこと」は、私たちが神のかたちに造られているものとして神さまの愛を受け止め、神さまを愛すること、すなわち、私たちが神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きることを中心として実現していきます。
 先ほど引用しましたヨハネの手紙第一・1章3節、4節には、

私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。私たちがこれらのことを書き送るのは、私たちの喜びが全きものとなるためです。

と記されていました。私たちの喜びは、父なる神さまと御子イエス・キリストとの愛にあるいのちの交わりのうちでまったきものとなります。
 このことを捉えて、アウグスティヌスは、その『告白』の冒頭において、神さまを讚えつつ、

 偉大なるかな、主よ。まことにほむべきかな。汝の力は大きく、その思いははかりしれない。
 しかも人間は、小さいながらもあなたの被造物の一つの分として、あなたを讃えようとします。それは、おのが死の性(さが)を身に負い、おのが罪のしるしと、あなたが「高ぶる者をしりぞけたもう」ことのしるしを、身に負うてさまよう人間です。
 それにもかかわらず人間は、小さいながらも被造物の一つの分として、あなたを讃えようとするのです。よろこんで、讃えずにはいられない気持ちにかきたてる者、それはあなたです。あなたは私たちを、ご自身に向けてお造りになりました。ですから私たちの心は、あなたのうちに憩うまで、安らぎを得ることはできないのです。

と告白しています。
 造り主である神さまとの愛にあるいのちの交わりの中心にある祈りは造り主である神さまご自身が無限、永遠、不変の愛の交わりのうちにおられる神であられることから生れてきます。神さまは、その愛をご自身のお造りになった世界に対して表現し、私たち人間を神のかたちとして、ご自身の愛を受け止めることのできるものとしてお造りになりました。この神さまの私たちに対する愛を受け止めることのない祈りは、聖書が示す祈りの本質を欠いています。
 神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまった人間は、神さまの愛を受け止めることをしなくなってしまいました。しかし、神さまは、御子イエス・キリストを贖い主として遣わしてくださって、その十字架の死と死者の中からのよみがえりによる罪の贖いによって、私たちをご自身との愛にあるいのちの交わりのうちに生きるものとしてくださいました。ローマ人への手紙5章8節〜11節には、

しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。

と記されています。
 父なる神さまは御子イエス・キリストを通して私たちへの愛をこの上なく豊かに示してくださっています。私たちはその愛に包んでいただいて、神さまを大いに喜んでいます。私たちの祈りは、このことのうちにあって息づいています。それは、私たちが神さまご自身を喜ぶことの現れです。それは、正体の分からない無機的な力を動かそうとするおまじないや呪術の類いと何と異なっていることでしょうか。このことから、私たちは、主イエス・キリストが「主の祈り」をお示しくださるのに先だって、

また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。

と教えてくださっていることに深い納得の思いをもってうなずきます。
 どうか、私たちの祈りが、御子イエス・キリストにある父なる神さまの愛に包まれたものであり、父なる神さまと御子イエス・キリストへの私たちの愛を受け止めるものとなりますように。また、私たちが祈る時に、御霊によって私たちのうちに生み出された父なる神さまと御子イエス・キリストへの愛がますます深められていきますように。

 


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