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説教日:2005年1月19日 |
神さまが三位一体であられるということは、三つのことから成り立っています。 第一に、神さまの本質と実体は一つであるということです。これは、神さまが唯一の神であられるということを意味しています。三位一体の神さま以外に神はないということです。三位一体の「一体」はこのことを表しています。この場合、本質と実体はギリシャ語のウースィア、ラテン語のスブスタンティアの訳語です。日本語では「本質」と「実体」というように二つの言葉で表していますが、ギリシャ語のウースィアにもラテン語のスブスタンティアにも、この二つの意味があります。ただ実際の論争史の中では、ウースィアは「本質」を表し、スブスタンチィアは「実体」を表すものとして使われていました。ここでギリシャ語とラテン語が出てくるのは、東方教会の教父たちがギリシャ語を用いており、西方教会の教父たちがラテン語を用いていたからです。 第二に、この唯一の神さまに、御父、御子、御霊の三つの位格があり、三つの位格は本質と力と栄光において等しい方であるということです。三位一体の「三位」はこのことを表しています。「位格」というのはラテン語のペルソナの訳語で、人間について言えば「人格」に当たるものです。ギリシャ語では「確かな存在」などを表すヒュポスタシスが用いられています。日本語の「位格」という言葉は神道の用語から来ていると言う人々もいますが、私には正確なところは分かりません。おそらく、「人格」という言葉には「人」という漢字が入っていて、人間のことのようになってしまうので、「人格」という言葉を避けて「位格」という言葉を使っているのではないかと思います。これは日本語のことで、たとえば英語にはこのような区別はなく、どちらも、パーソンという言葉を用いています。また、日本語でも「位格」には人格という意味合いがあるようです。しかし、「神さまは人格的な方である」とは言いますが、「神さまは『位格的』な方である」というようには言いません。つまり、御父、御子、御霊の区別を表すときには「位格」という言葉が用いられ、神さまが人格的な方であられることを表すときには「人格」という言葉が用いられているということです。 三つ目のことは、御父、御子、御霊はお互いに区別されるということです。これは、一つの神が、あるときには御父として現れ、あるときには御子として現れ、あるときには御霊として現れるというような考え方を退けるものです。教会の歴史の中にそのような考え方が実際に生れてきたので、それを退けているわけです。 これら三つのことが三位一体の教理を構成するものですが、これは、存在と属性の一つ一つにおいて無限、永遠、不変の神さまについて御言葉において啓示されていることを全体的に調和するようにまとめたものです。これを人間の理性で捉えきることはできません。今日お話ししたいのは、ただ単に三位一体の教理を私たちの理性で捉えきることができないということだけでなく、どのような意味で捉えきることができないのかということです。このことは、私たちの限界をわきまえるうえで大切なことです。 まず考えたいことは、数のことです。「1」とか「3」というように人間が数える数は、空間的な概念です。ここにある聖書のように、あるものが空間的に区切られていて一つのまとまりになっているときに、それを「一つ」と数えます。ところが、無限、永遠、不変の神さまを、これと同じように区切ることはできません。先週お話ししましたように、神さまの無限は、どこまでも果てしなく広がっているというような、空間的なものではありません。神さまの無限は空間を超越しています。 ところが、私たちは経験においても、考えにおいても、想像力においても、空間を越えることができません。それで、神さまの無限が実際にどのようなものであるか理解することはできませんし、想像することもできません。たとえば、私たちが、神さまはこの宇宙を超越しておられるということを考えると、どうしても、この宇宙を考えて、その上に神さまがおられるように考えてしまいます。それは、神さまを空間的な方として考えてしまうことです。自分の考えの中で神さまと宇宙を上下に配置して考えてしまうわけです。そのように考えてしまうのは、私たちの考えや想像力がそのようにしか働かないからです。 私は数学のことはさっぱり分からないのですが、「無限大」というのは「どこまでも続いている」ということを表すという意味で空間的な概念ですね。その意味では、これは神さまの無限と質的に違っています。神さまの無限は無限大を超越しています。そのように言っても、私たちには「無限大」を超越するということが、実際にどういうことか理解することはできません。そのことをわきまえたうえでのことですが、「無限大」というものを考えてみたいと思います。「1」であれば、それを3倍にすれば「3」になります。「3」であれば、それを3で割れば「1」になります。ところが、「無限大」を3倍にしても「無限大」ですし、「無限大」を3で割っても「無限大」です。空間的な概念である「無限大」であっても、限られた数において考えられることが、そのまま当てはまらなくなってしまいます。 このことから、「無限大」を超越しておられる無限の神さまのことを、空間的な概念である数を当てはめて考えることには無理があることが分かります。そうではあっても、私たちとしては、私たちの理解力の枠の中で神さまを考えるほかはありません。 私たちは「神さまはお一人である。」と言います。私たちはこの言葉を理解することができますが、必ずしも、それが実際にどういうことかを理解できているわけではありません。どういうことかと言いますと、私たちは「神さまはお一人である。」ということの「お一人」ということを、私たちの考える人間の「一人」になぞらえて考えています。被造物である人間は、空間的な存在で、一人、二人と区切られるものです。その人間の場合には、一存在一人格です。それで、私たちは、(御言葉の教えの光がなければ)神さまのことも、一存在一人格、すなわち、一位一体と考えてしまうわけです。ところが、「お一人」であられる神さまは無限、永遠、不変の存在であられます。この無限であられる神さまの存在を人間を規準として、それに合うように考えることはできません。御言葉は、その「お一人」であられる神さまのあり方が、御父、御子、御霊の三位においてあられるということを教えています。神さまは唯一の神であられますが「単一神」ではありません。神さまが「一つ」であられることは「単一」ということではなく、御父、御子、御霊の三つの区別される位格の統一における「一つ」であるのです。これを言い換えますと、三位における一体ということになります。 先週お話ししましたように、かりに、神さまが三位一体ではなく、一位一体であられるとしたら、無限、永遠、不変の位格は一つである、つまり、永遠にいます方は父なる神さまだけであるということになります。そうしますと、永遠の次元では、神さまには愛する相手がいないということになります。その一方で、ヨハネの手紙第一・4章16節に、 神は愛です。 と記されていますように、神さまの本質的な特性は愛です。言うまでもなく、神さまの愛は無限、永遠、不変の完全な愛です。ところが、神さまが一位一体であるとしたら、神さまはその無限、永遠、不変の愛を、そのまま表すことができないということになってしまいます。いくら、神さまの愛が無限、永遠、不変の完全な愛であると言っても、その愛は十分には表現できないということになるのです。言い換えますと、神さまの無限、永遠、不変の愛は、無限、永遠、不変の愛として現実になることはないということです。 愛は神さまの本質的な特性です。愛ではない「神」は神ではありません。さらに、神さまの愛完全な愛です。それは、神ご自身がその存在と属性の一つ一つにおいて完全な方であるからです。その愛が完全ではない「神」は、神ではありません。このように、神さまは完全な方です。それで神さまの愛も完全な愛です。 けれども、私たちは、神さまの愛が完全であるということがどのようなことであるかを、ある程度しか知ることができません。このことは、私たち人間が有限なもの、限界のあるものであることによることで、仕方のないことです。それは、何も神さまのことに限らず、私たちがお互いのことを知ることについても当てはまります。ある人について、「あの人は愛に満ちた人だ。」と言っても、そう言っている人も、それに同意している人も、その「ある人」の「愛の深さ」を完全に知っているわけではありません。私たち人間は、この造られた世界の有限なものさえも、さらに言いますと、同じ人間でさえも完全に知ることはできません。 私たちは、神さまのことについて何かを語るとき、常に、人間としての限界の中で語ることしかできません。また、神さまを人間としての限界の中で理解することしかできません。私たちは、自分たちにあるこの限界をわきまえること、また、自分たちの限界をわきまえて謙虚になることが大切です。 さて、「神さまの愛は完全である。」というとき、その愛の「完全さ」は、無限、永遠、不変の神さまご自身の完全さです。この神さまの完全さは、私たちが普通に考える完全さと質的に異なっています。 私たちの間であるものが「完全である。」と言われるときには、普通、そう言われているものとしての完全さのことが言われています。たとえば、ある小学生が掛け算の問題で百点満点を取ったとします。その場合、それは「完全な」解答であると言えます。しかし、それは小学生の段階における完全さです。だからといって、その子が微分や積分の問題が解けるわけではありません。また、果樹の種には種としての完全さがあります。完全な種だからといって、すぐに実を結ぶわけではありません。いろいろな条件の下で生長していって最後に良い実を結べばよいのです。さらには、ピアノが電卓のように計算をしないからといって、不完全なピアノであるとは言われません。 このように、それぞれのものには、それぞれにふさわしい「完全さ」が考えられます。その完全さの尺度は、それぞれのものによって違います。その意味で、これらの完全さは相対的なものです。それは、それぞれのもの自体が神さまによって造られた被造物として、相対的なものであるからです。それぞれのものには、それぞれの完全さの規準があって、その規準にまったくかなっていれば、完全なものであると言うことができます。先ほどの算数のテストで言いますと、正解があるわけです。すべての答えがその正解の通りであればそれは完全な答案となります。 しかし、神さまの完全さは、そのように相対的なものではありません。それは、神さまご自身が相対的な方ではなく、絶対的な方であるからです。神さまが完全な方であるというのは、神さまの上に何かの規準があって、それに照らして見たときに完全であるということではありません。神さまにとっての規準があるとすれば神さまご自身であって、それ以外の規準はありません。かりに神さまを測る規準があるとすれば、神さまより高くて神さまを規定するものがあるということで、神さまは神ではなくなってしまいます。ですから、神さまの完全さは、何かに照らしての完全さではありません。それで、さまざまな被造物に当てはめられる、それぞれの完全さとはまったく区別されます。被造物について言われる完全さは、何らかの基準に照らして見られた、相対的な意味での完全さです。神さまの完全さは被造物について言われる完全さと同一線上に並べて比べたりすることはできません。神さまの完全さは、無限、永遠、不変の存在としての完全さです。 すでにお気づきのことと思いますが、これは神さまの聖さとかかわっています。神さまに当てはめられる完全さは、被造物について言われる完全さと絶対的に区別されるものなのです。 このことは、神さまの愛が完全であるということにも当てはまります。神さまの愛の完全さは、神さまが無限、永遠、不変の方であるということに基づくものです。ですから、その愛も、無限、永遠、不変です。その意味で、神さまの愛は、私たち人間の愛とは区別されます。しかも、その違いは、比較・相対の上での違いではありません。人間の愛と神さまの愛を比べると、神さまの愛の方がより深いとか、より大きいとか、より完全であるということではありません。そのような比較をすること自体が、神さまの愛を相対化してしまうことになります。 この神さまの愛と人間の愛の違いは、先週お話ししました、被造物に当てはめて言われる永遠と無限と、神さまに当てはめて言われる永遠と無限の間の違いと同じものです。いつまでも、また、どこまでも続くという意味での永遠や無限を、さらに延ばしたり広げたりしても(実際には、そのようなことはできないのですが)、神さまに当てはめられる永遠や無限にはなりません。そこには、創造者である神さまと被造物の間にある、絶対的な違いがあります。同じように、私たち人間の愛を極限まで深めていくと神さまの愛になるかというと、決して、そのようなことはありません。神さまの愛を、私たち人間の愛の拡大したものであるかのように考えてはならないのです。 この意味で、神さまの愛と人間の愛を同じ次元、同じ平面において比べることはできません。神さまの愛と人間の愛を同じ同じ次元、平面において比べることは、たとえ神さまの愛を人間の愛のはるか上に置いたとしても、神さまの愛を私たち被造物の愛のレベルへと引き下ろしてしまうことになってしまいます。ただし、私たちとしては、自分たちの愛になぞらえて、神さまの愛を理解するほかはありません。それで、神さまは、ご自身の愛を私たちが受け止めることができる形で示してくださっています。私たちは、神さまが私たちに対して示してくださっている愛を、私たちに対する神さまの愛として理解しているのです。そうではあっても、そのように私たちを愛してくださっている神さまご自身は、愛において無限、永遠、不変の方です。 これらのことを踏まえて、一つの主張のことを考えてみましょう。それは、古代教会の時代にもありましたが、今日では自らのことを「エホバの証人」と呼んでおられる方々の主張です。その方々は、御子イエス・キリストは、いちばん最初に父なる神さまによって造られた被造物であると主張しています。その際に、その人々は、「被造物としての御子」が、限りなく神さまに近い存在だと考えます。それは、実在するものを階層的に考えて、その一番上に神さまがあり、その次に最初に造られた「御子」があるというような考え方をするのです。しかし、もし「御子」が造られたものであれば、その「被造物としての御子」と造り主である神さまとの間には絶対的な区別があることになります。その絶対的な区別を曖昧にすることは、神さまの聖さを冒すことです。 御子が永遠の神ではなく、ある時に造られた被造物でしかなかったとしたら、永遠の人格は一つしかないということになります。人間的な言い方をしますと、すでに繰り返しお話ししてきましたように、永遠においては、神さまは「独りぼっち」であるということになってしまいます。そうなりますと、神さまは、御子を「創造」しなければ、愛する相手がいなかったというこになります。御子を「創造」するまでは、愛を具体的に表現できなかったということになってしまいます。そうしますと、完全な神として、すべての点において欠けることがなく、何ものにも依存することなく充足しておられるはずの神さまにも、欠けがあるということになってしまいます。難しい言葉で言いますと、神さまは、自立自存にして自己充足の神ではないということになってしまいます。そうであれば、神さまは無限、永遠、不変の神ではないということになります。 これに対して、神さまは永遠であり、時間を超越した方であるから、御子が造られた時から存在するようになったとしても、永遠の前から御子に接するることができるはずだというようなことが言われるかも知れません。ただし、これは私が考えた疑問で、必ずしも、どこかで、そのようなことが言われているということではありません。 確かに、神さまは永遠にいます方として被造物に接しておられますので、やがて存在するようになるものを、すでにあるもののように知っておられます。あるものが創造される前には、まだ存在していない、ということは、私たち時間の流れの中にあるものにとってのことです。永遠にいます方である神さまは、やがてご自身が創造されるものも、すでに存在しているもののように知っておられます。 そのことは、たとえば、エペソ人への手紙1章4節、5節によって支持されます。そこには、 神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。 と記されています。神さまは、「世界の基の置かれる前から」、したがって、私たちが存在する前から、イエス・キリストにあって、私たちを愛をもって選んでいてくださいました。 ですから、かりに御子がある時に造られたもので、造られる前には存在していなかったとしても、永遠にいます神さまは「造られたとされる御子」が存在するようになる前に、その「御子」をすでにあるもののように愛することができたと言うことができます。 しかし、そうであったとしても問題は残ります。このエペソ人への手紙1章4節、5節のみことばが示していますように、確かに、神さまはいまだ存在していないものを、すでに存在しているもののように知っておられ、これを愛してくださいます。けれども、まさにそのみことばが示しているように、その愛は一方的なものです。いまだ存在していないものの方は、実際に存在するようになるまでは、神さまを愛することはできません。神さまには限界はないけれども、被造物には限界があるのです。ですから、もし、御子が被造物でしかなかったとしたら、「御子」は造られる前には神さまを愛することはできなかったということになります。すると、永遠の次元においては、一方的な愛だけがあって、愛の通わし、愛における交わりの現実はないということになります。 また、愛は人格的な存在の自由な意志から生まれてくるものです。言い換えますと、愛は自由で自立している人格から生れてきます。その意味で、愛は、上下関係においてよりも、対等の人格の間の対等の関係において豊かに愛の本質を表します。実際に、最初に神のかたちに造られた時のアダムとエバの間には、等しく自由で自立しているものの間に通わされる愛が通わされていたと言うことができます。ところが、もし、御子が単なる被造物であったとしたら、神さまは、等しく自由で自立しているものの間に表される愛を表すことはできないということになってしまいます。 先程お話したように、神さまは完全な方であり、神さまの愛は完全な愛です。その愛の完全さは、無限、永遠、不変な方であられる神さまの完全さです。この神さまの無限、永遠、不変の愛は御霊によって、御父と御子の間に通わされています。そして、この愛は私たち被造物にも向けられています。しかし、私たちであれ、御使いたちであれ、どのような被造物も、神さまの無限、永遠、不変の愛を完全に(神さまの完全さに見合う形で)受け止めることはできません。それで、神さまの愛は無限、永遠、不変の愛ですが、それは、そのまま被造物に向けて表されることはないのです。 無限、永遠、不変の神さまはその存在において無限、永遠、不変の栄光に満ちておられるだけでなく、その属性の一つ一つにおいて無限、永遠、不変の栄光に満ちておられます。それは、神さまの愛も無限、永遠、不変の栄光に満ちているということです。もしそのような無限、永遠、不変の栄光に満ちている愛が、被造物に向けてそのまま表されることがあるとしたら、どのような被造物であっても、その栄光に耐えることができません。 このことについて理解するために、私たち人間の場合を考えてみましょう。私たちが誰かを心から愛しているとしたら、私たちは自分のすべてをかけてその人を愛します。つまり、愛を示すということは、私たちの存在のすべてを示すことにほかなりません。もちろん、私たちには罪がありますので、自分のすべてをさらけ出すことができないという面があります。しかし、神さまが無限、永遠、不変の完全な愛を完全な形で表されるというときには、神さまのすべてがありのままに示されます。それは、神さまの無限、永遠、不変の栄光がそのまま表されるということにほかなりません。もし、そのように、神さまの無限、永遠、不変の栄光がそのまま表されるとしたら、この宇宙も一瞬のうちに焼け溶けてしまいます。ですから、そのような、無限、永遠、不変の栄光に満ちた愛を、そのまま受け止められる被造物は存在しません。しかし、御父と御子の間には、御霊によって、無限、永遠、不変の栄光に満ちた愛が完全な形で表され、通わされています。御父と御子はお互いにご自身のすべてを与え合っておられ、そこに一点の隠れたところもありません。御父は御子を完全に知っておられ、御子は御父を完全に知っておられます。 このように、私たちであれ、御使いたちであれ、どのような被造物も、神さまの無限、永遠、不変の愛を完全に受け止めることはできません。それで、神さまの愛は無限、永遠、不変の愛ですが、それが、そのまま被造物に向けて表されることはありません。これに対して、私たちの罪を贖うために人の性質を取って来てくださり、十字架にかかって死んでくださったイエス・キリストの愛は完全な愛ではなかったのかという疑問が出されることでしょう。確かに、そのイエス・キリストの愛は無限、永遠、不変の愛であり、完全な愛です。御子イエス・キリストの愛は、常に無限、永遠、不変の完全な愛です。けれども、今お話ししましたように、御子イエス・キリストは、その無限、永遠、不変の愛を、そのまま被造物である私たちに表すことはできません。それは、その愛がそのまま被造物である私たちに表されたら、私たちがその栄光によって焼き尽くされてしまうからです。 誤解を恐れずに言いますが、イエス・キリストが十字架にかかってくださって示してくださった愛は、神さまの無限、永遠、不変の愛の現れです。しかし、それは、御父と御子の間に通わされている無限、永遠、不変の愛がそっくりそのまま表されたということではありません。それは、被造物である私たち人間が受け止めることができる限界の中でこの上なく深くて豊かに表された愛であり、その意味で完全な愛です。このように、御子を通して表された神さまの愛を、被造物である私たちは永遠に受け続けていきます。この世においてばかりでなく、栄光のキリストの再臨によってもたらされる新しい天と新しい地においても、その愛に触れていくことになります。そのようにして、神さまの愛に対する私たちの理解は永遠に深められていくことでしょう。そうではあっても、私たちが神さまの愛を知り尽くすということはありません。それは、神さまの愛が無限、永遠、不変の愛であるからです。 ですから、 神は愛です。 というときの神さまの愛は、無限、永遠、不変の愛です。それは、御霊によって、御父と御子の間において完全な形で表されています。これは、ただ単に、神さまに完全な愛の性質があるというだけのことではありません。無限、永遠、不変にして完全な愛が、御霊によって、御父と御子の間に、永遠に通わされています。 そして、神さまは無限、永遠、不変の愛をもって私たちを愛してくださっています。けれども、その愛を受け止める私たちの側には、被造物としての限界があります。それで、神さまは、ご自身の無限、永遠、不変の愛を、私たちが受け止めることができる形で表してくださっています。それは、私たちを罪と死の力から贖い出してくださるために、ご自身の御子をも十字架におつけになったことに表された愛です。ローマ人への手紙8章31節〜39節において、パウロは、私たちがそのような愛のうちにあることを歌っています。そこには、 では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。 と記されています。 祈りは、このような、御子イエス・キリストにある父なる神さまの愛に包まれている私たちが、御霊によって、父なる神さまに語りかける形でもつ交わりです。 |
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