(第1回)


説教日:2005年1月9日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 これまで取り上げてきましたエペソ人への手紙からのお話は先主日のお話をもって終りにいたします。今日から、マタイの福音書6章9節〜13節に記されています「主の祈り」についてお話しいたします。主の祈りそのものを取り上げる前に、いわばその序論として、祈りについていくつかのことをお話ししておきたいと思います。祈りについては、これまでもいろいろな機会にお話ししてまいりました。それで、これから序論としてお話しすることは、すでにいろいろな機会にお話ししたことを繰り返すことになります。そうでありましても、祈りのことを考えるうえでどうしても踏まえておかなければならないことですので、復習し再確認するためにもお話ししておきたいと思います。


 私たちクリスチャンは生きておられる神さまを信じています。それで私たちにとって祈りは自然なものです。私たちにとって祈りが自然なものであれば、私たちは自然と祈ることができると考えたくなります。ところが、クリスチャンの間では、祈りに関する本がよく読まれています。しかも、祈りについての本はいろいろあって、必ずしも、いくつかの「決定版」があって、それだけが読みつがれているわけではありません。よく、カルヴァンの『キリスト教綱要』の中の祈祷論やフォーサイスの『祈りの精神』が決定版だという声を聞きますが、それも一つの見方です。祈りについては、これからも新しい本が出版されていくことでしょう。
 でも、どうして祈りに関する本がよく読まれ、新しい本が次々と出版されるのでしょうか。もちろん、それは、クリスチャンにとって祈りが本当に大切なものであり、また、大切なものだと受け止めている人が多いということによっています。同時に、祈りは大切であるということが分かっていても、そして、毎日祈り続けていても、さらには、祈りに関する本を繰り返し読んでみても、どこか、自分の祈りについて不安を感じている人が多いことにもよっているのではないかという気がします。
 祈りに関する本をいくら読んでも、また、それによって祈りについていくつかのことが分かっても、実際に祈らなくては何もなりません。しかし、祈りについて誤った考えをもったままでいくら祈っても、祈りを備えてくださった神さまのみこころに沿った祈りにはならないのではないでしょうか。実際、マタイの福音書6章5節〜8節には、祈りに対する誤った考え方と、それに基づく祈りの問題についてのイエス・キリストの教えが記されています。ひょっとすると、その点に、自分の祈りに対する不安の原因がある兄弟姉妹たちが多いかもしれません。
 祈りはクリスチャンだけでなく、人間にとって自然なものです。「神なんか信じない。」とか「祈ったって無駄さ。」とかいう人々も、自分でも気づかないうちにある種の祈りをします。ある重大なことがもはや自分の手の届かないところにいってしまったときに、祈りにも似た願いを心の中で念じることがあります。気がつくと手を合わせているというようなこともあるでしょう。そのようなわけで、私たちの多くは、造り主である神さまを知るようになる前から何らかの形での祈りをしていました。その祈りは造り主である神さまに対する祈りではなかったのですから、本当の祈りではなかったはずです。その祈りには、自らのうちにある罪による歪みがあったはずです。
 天文学の歴史においては天動説というものがありました。地球が宇宙の中心にあって、その他の天体はすべて地球を中心にして動いているという理解です。しかし、それは、太陽と地球の関係がよく分からなかった時代の錯覚に基づいているものです。祈りにおいても、自分が中心にあって、神が自分の祈りに合わせて動くというような発想があります。それは、神さまを知らないために神さまと自分の関係を誤解していることから生まれてくる錯覚です。
 果たして、そのような誤解に基づく祈りをしていた私たちが、クリスチャンになった後で、祈りの対象を造り主である神さまに変えたことによって、私たちの祈りは自然と本来の姿に回復されたのでしょうか。むしろ、罪によって歪んだままの祈りについての発想や理解をもったままで、ただ祈る対象を造り主である神さまに変えただけであるということもあるのではないでしょうか。造り主である神さまに向かって、罪によって歪んだままの祈りを、それと気付くこともなく、ささげていることはないでしょうか。そのようなことを念頭において、、御言葉の光の下で、祈りについていくつかのことを考えてみたいと思います。
 まず、これから何回かにわたってのことになりますが、祈りの起源についてお話ししたいと思います。人間にとって自然なものである祈りは、いったい、どこから生まれてくるのでしょうか。もちろん、私たちが祈るのですから、祈りは私たちの中から生まれてくると言えます。しかし、ここで考えたいのは、それよりもさらに奥にあることです。「人間はなぜ祈るのか」というような問いに答える意味での祈りの起源を考えるということです。
 突き詰めていきますと、祈りの起源は二つのことにあります。一つは、三位一体の神ご自身です。三位一体の神さまは、祈りの究極的な起源です。もう一つは、私たち人間が、神のかたちに造られ、造り主である神さまに向けて造られているということです。
 祈りの究極的な起源は三位一体の神さまにあります。そして、このことが、祈りの意味を決定しています。それで、祈りの究極的な起源が三位一体の神さまにあるということが、祈りがどのようなものであるかを理解するための鍵であるのです。
 このことを考えるために、もし、神さまが、たとえば、ユダヤ教徒の人々や「エホバの証人」の人々が言うように、三位一体の神ではなかったとしたらどうなるかということを考えてみましょう。神さまが、「一位一体の神」であったとしたらどうなるでしょうか。
 父親とその子どもの会話です。ある時、子どもが父親に向かって、「お父さん。この世界はどうやってできたの。」と聞きました。父親は「神さまがこの世界をお造りになったのだよ。」と答えました。すると、また、子どもが「じゃあ、神さまがこの世界をお造りになる前には何があったの。」と聞き返しました。それで父親は、「この世界が造られる前には、何もなくて、ただ神さまだけがおられたんだよ。」と答えました。それを聞いた子どもは、しばらく考えてから、「ふうん。じゃあ、神さまは独りぼっちで、ずっと淋しかったんじゃない。」と言いました。
 皆さんだったらこの子どもに、何とお答えになりますか。
 もし神さまが「一位一体の神」であられるなら、この子どもの言うとおりであるということになります。神さまは永遠の次元において孤独であり、独りぼっちであるということになります。
 もし「神」が単なる力やエネルギーのようなものであれば、あるいは根本的な原理や原則のようなものであれば、このような問題はなくなります。けれども、神さまは生きておられる方であり、人格的な方です。そして、神さまの本質的な特性は愛です。ヨハネの手紙第一・4章16節に、

神は愛です。

と記されているとおりです。もし、神さまが愛ではなかったなら、神さまは神ではあり得ないと言うことができるくらい、愛であられるということは、神さまにとって本質的なことなのです。それで、神さまの本質的な特性は愛であるというのです。
 このように、神さまの本質的な特性は愛です。その神さまが「一位一体の神」であられるとしたら、いったい、どうなるでしょうか。そのような「一位一体の神」が永遠に存在しているというなら、その「一位一体の神」には愛する相手がいないということになります。そうであれば、永遠の次元では、神さまは愛を表現できないということになります。
 この問題に関しては、今日ではありませんが、後ほどさらにお話しすることにします。今は、このような問題を念頭において、さらにお話を進めていきます。
 御言葉は、神さまが愛であられ、神さまのうちには愛の性質があるけれども、永遠の次元では愛する相手がいないために愛を表現できないというようなことを教えてはいません。むしろ、神さまは永遠に愛の交わりのうちにいます方であることをあかししています。それが明確に示されているのは、ヨハネの福音書1章1節〜3節です。そこには、

初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

と記されています。
 この「ことば」は、14節で、

ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

と言われていることから分かりますように、人となって来られる前の、永遠の神の御子のことです。神学的には、「先在のキリスト」と呼ばれます。
 永遠の神の御子が人となって来られたことを「受肉」と言いますが、それは、御子が人に「変化した」ということではありません。御子が人に変化してしまうということは、御子が神としての本質を失って、神ではなくなってしまうということです。天地が消滅してしまうことはあり得るとしても、御子が神としての本質を失ってしまうというようなことはあり得ません。
 御子は永遠に神です。それは永遠の事実です。受肉は、その神の御子が、「人の性質」を取って来られたということです。それによって、永遠の神の御子である方が、人の性質において、私たち人間がこの世で経験することを、ご自身のこととして経験されるようになりました。しかし、人の性質においてこの世におられた時も、また、今、その栄光化された人の性質において父なる神さまの右の座に着座しておられる時も、御子が永遠の神である(永遠の事実を表す現在形)ことには変わりありません。
 さて、ヨハネの福音書1章1節においては、受肉前の永遠の神の御子について、

初めに、ことばがあった。

と言われています。この「初め」が何の「初め」であるかは、ここでは記されていません。しかし、3節では、

すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

と言われています。このことから分かりますように、この「初め」は、「すべてのもの」の「初め」です。すなわち、創世記1章1節で、

初めに、神が天と地を創造した。

と言われているときの「初め」です。創世記のヘブル語の書名は、その最初の言葉である『初めに』ですから、ヨハネの福音書の冒頭の「初めに」という言葉を聞いただけで、創世記を思い出す人々もいたはずです。
 創世記1章1節に記されている、

初めに、神が天と地を創造した。

という言葉の「天と地」という言葉は、この世界の「すべてのもの」を表しています。しかも、単に、「すべてのもの」を十把一からげにして総称しているのではなく、私たち人間が、法則として捉えることができるほどに、規則性をもって秩序立てられている世界全体のことを表しています。また、「初めに」という言葉は、この秩序立てられた世界が時間的、歴史的な世界であり「初め」があることを示しています。それで、

初めに、神が天と地を創造した。

ということばは、秩序立てられた歴史的な世界が神さまの創造の御業によって始まったということを示しています。
 この意味で、創世記1章1節に記されている、

初めに、神が天と地を創造した。

という言葉では、造られた世界に焦点が合わされて、この世界が神さまによって造られたものであることを明らかにしています。そのことの中で、天地創造の「初め」が考えられています。これに対して、ヨハネの福音書1章1節で、

初めに、ことばがあった。

と言われているときの「初め」は、すべてのものをお造りになった神さまご自身に焦点を当てる中で用いられています。天地創造の「初め」において「ことばがあった」と言うのです。
 この「あった」と訳されている言葉(エーン)は(未完了形で)、過去における継続を表しています。「ことば」は、天地創造の「初め」の時点で、すでに、ずっとあり続けた方であるというのです。それは、「ことば」が、この造られた世界の「初め」とともに存在し始めた方ではないということを意味しています。この世界は時間的、歴史的な世界として、神さまの創造の御業とともに始まりました。しかし、「ことば」は、この世界の「初め」において、すでにあり続けておられました。
 このことを理解するためには、人間としての私たちの限界をわきまえておかなくてはなりません。私たちは、時間的な世界の中に住んでいますので、時間が過去と未来に向って無限に延びているように感じています。そして、その過去に向って無限に延びている(と感じられる)時間の流れの中の「ある時」に、神さまの創造の御業がなされたと考えてしまいがちです。そのために、その創造の御業の前には何があったのかというような問いがなされたりします。あるいは、そのような問いへの答えとして、天地創造の前には無限に延びている時間と無限に広がっている空間があって、そこに神さまだけがおられたというように考えられたりします。
 しかし、そのように考えることは、造り主である神さまを造られた世界の時間と空間の枠の中に閉じ込めてしまうことです。もちろん、それは、私たちの考えにおいて、そうしてしまうということです。実際に、神さまを造られた世界の枠の中に閉じ込めることはできません。
 時間や空間は神さまによって造られたこの世界に属するものです。それらは、この世界の時間であり、この世界の空間です。ですから、この世界が造られて初めて時間や空間が存在するようになったのです。その意味で、時間は創造の御業とともに始まったものです。その時間の「初め」が、創世記1章1節で、

初めに、神が天と地を創造した。

と言われているときの「初め」です。ですから、厳密に言いますと、そのようにして始まった時間の「初め」の「前」というものは「ない」のです。
 時間や空間はこの造られた世界に属するものであって、これをお造りになった神さまには当てはまりません。そのことを、私たちは「神さまは永遠であり、無限な方である。」と言います。この意味での永遠、すなわち、神さまに当てはめられる永遠は、時間が無限に続いているものではありません。むしろ、時間を超越しているものです。時間の流れの中にあって、経過して行くものではありません。同じように、神さまに当てはめられる無限は空間が無限に広がっているものではなく、空間を超越しています。実際に、今日では、時間には初めがあり、空間は閉じていると理解されています。
 もちろん、私たちの使う言葉としては、たとえば、「永遠のいのち」というように、いつまでも続くことを表すのに、「永遠」という言葉を用いています。(ただし、永遠のいのちは、いつまでも続くものですが、ヨハネの福音書17章3節にありますように、造り主である神さまとの交わりを本質とするいのちのことです。)また、どこまでも広がっていることを表すのに、「無限」という言葉を用いています。
 ですから、「永遠」という言葉や「無限」という言葉には二通りの意味があります。造られた世界の何かに当てはめられるときには、いつまでも続くこと、あるいは、どこまでも続くことを表します。これは、あくまでも、時間的なもの(時間の流れの中にあるもの)、また、空間的なもの(空間の広がりの中にあるもの)について言われることです。しかし、神さまに当てはめられるときには、造られたものに当てはめられる永遠と無限を超越した永遠と無限を表します。
 ここには、同じ言葉を用いることによって、私たちが、この二つを混同してしまう危険があります。たとえば、神さまについて語るときに、「永遠」、「無限」という言葉を使っていながら、神さまが、単に、いつまでも続いて存在する方、どこまでも広がって存在している方であると考えて終わってしまうことがあります。
 確かに、神さまについてそのように言える面があります。聖書の中にも、そのような表現が見られます。たとえば、詩篇102篇25節〜27節には、

  あなたははるか以前に地の基を据えられました。
  天も、あなたの御手のわざです。
  これらのものは滅びるでしょう。
  しかし、あなたはながらえられます。
  すべてのものは衣のようにすり切れます。
  あなたが着物のように取り替えられると、
  それらは変わってしまいます。
  しかし、あなたは変わることがなく、
  あなたの年は尽きることがありません。

と記されています。しかし、それは、私たち人間の理解と言葉の限界によることです。ここでは、神さまがこの世界にかかわってくださっておられることから、この世界との対比において神さまのことが語られているのです。ここで、神さまが永遠な方であり、無限な方であるということのすべてが言い尽されているわけではありません。神さまはこれ以上の方なのです。
 祈りについてのお話で、このことにこだわっているのは、後ほどお話ししますが、このことが私たちの祈りに対して深い意味をもっているからです。これは、すでに「聖なるものであること」ということでお話ししたことがある神さまの聖さにかかわっています。神さまの聖さは、神さまが神さまによって造られたどのようなものとも絶対的に区別される方であるということを意味しています。それは、神さまがその存在においても、一つ一つの属性においても、また、それらの輝きである栄光においても、無限、永遠、不変の豊かさに満ちておられる方であることによっています。祈りについて考える時には、また、実際に祈る時には、このような神さまの聖さをわきまえることが絶対に必要なことです。
 神さまの聖さをわきまえますと、祈りは大変な「出来事」であると言うほかはなくなります。歴史に名を残した大帝国において一介の民が皇帝に謁見が許されたとしたら、それはその人にとって記念すべき出来事となるでしょう。しかも、その人は、直接的に皇帝に語りかけるというようなことはできなかったでしょうし、自分から自由に語りかけるというようなことは考えられないことです。この宇宙をお造りになってこれを支えておられる神さまは、この宇宙を無限に超越しておられる方です。それに対して、私たちはこの宇宙の中の点としか見えないこの星にへばりついているような存在です。祈りにおいては、そのような私たちが無限、永遠、不変の栄光の神さまに向かって、直接的に、しかも自分から自由に語りかけるというのです。私たちがどのように感じていようと、一つ一つの祈りが「出来事」であるのです。
 このようなことを踏まえて、ヨハネの福音書1章1節に記されている、

初めに、ことばがあった。

という言葉を読みますと、「ことば」は、時間の「初め」において、すでに「あり続けていた」方として、時間を超えた永遠なる方であることが分かります。
 ここで、

初めに、ことばがあった。

と言われているときの「初め」におられたのは「ことば」だけではありません。1節では、これに続いて、

ことばは神とともにあった。

と言われており、さらに、2節では、

この方は、初めに神とともにおられた。

と言われています。このように、永遠の「ことば」であられる御子が父なる神さまとともにおられたことが、繰り返して語られています。これは、そのことがとても重要なことであることを意味しています。
 2節においては、御子が父なる神さまとともにおられたのは、「初め」における継続であることが示されています。つまり、御子は永遠に父なる神さまとともにおられるということです。
 1節と2節において繰り返されている

ことばは神とともにあった。

の「神とともに」という言葉(プロス トン セオン)は、「ことば」が父なる神さまの方を向いていることを暗示しています。たとえて言いますと、愛し合っている者同士がお互いに向き合って、親しい会話を交わしているようなことに当たります。これは、見知らぬ人同士が電車の横長の座席にともに座っても、お互いに前の方を向いて、窓の外を見たりしていて話しもしない、というようなことではありません。これだけでは「ことば」と父なる神さまとの間に愛の交わりがあるかどうかははっきりしません。しかし、18節には、

いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

と記されています。ここでは、永遠の「ことば」のことが、「父のふところにおられるひとり子の神」と言われています。これは、御父と御子との間に愛の交わりがあることをはっきりと示しています。ですから、1節、2節で、

ことばは神とともにあった。

と言われているときの「ともに」は、愛の交わりを示す「ともに」です。
 このように、1節、2節において、

初めに、・・・ことばは神とともにあった。

と言われているのは、永遠の「ことば」が父なる神さまと愛の交わりのうちにあることを示しています。そして、その愛の交わりは永遠のものです。これは、ただ単に、神さまのうちには永遠にして無限の愛の性質があるということではありません。そうではなく、御父と御子の間には永遠の愛の通わしがある、愛における交わりがあるということです。その御父と御子の永遠の交わりにおいてこそ、神さまの無限の愛が、無限に豊かに現わされているのです。
 これを三位一体論の御父、御子、御霊の関係から言いますと、御父と御子の間に、御霊による、無限、永遠、不変の愛の交わりがあるというように表すことができます。これは、アウグスティヌスがその『三位一体論』の中で述べていることです。愛には、愛する者と愛する相手と愛(そのもの)があります。愛する者と愛する相手は、御父と御子の間に成り立っています。御父と御子がお互いに愛する者であり愛する相手となっています。それがヨハネの福音書1章1節、2節に示されています。そして、神さまにあっては愛は実体です。この愛が御霊であると理解されています。ただし、これは、

神は愛です。

ということを、三位一体の御父、御子、御霊の関係を述べたものであって、三位一体のことを述べ尽くしたものではありません。
 このように、

神は愛です。

ということは、神さまの性質が愛であるというだけのことではありません。神さまに完全な愛の性質があって、その愛が神さまの存在の奥深くに潜んでいるということではありません。その愛は、三位一体の神さまご自身の中に「燃えている」のです。御父と御子の間には、御霊によって、永遠にして無限の愛が通わされています。
 このことが、私たちの祈りの究極の起源となっています。三位一体の神さまは、ご自身の無限に豊かな愛をご自身の外に向けて表してくださっています。それが、創造の御業と贖いの御業において表されています。祈りは、その神さまの愛を受け止めた者が、愛をもって神さまに応答することです。この点については、日を改めてお話しいたします。

 


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