(第14回)


説教日:2002年5月5日
聖書箇所:創世記1章9節〜13節
説教題:かわいた所を出現させた方が

 
 天地創造の第三日の御業は二つの部分に分けられます。一つは9節と10節に記されている海と陸の創造です。もう一つは11節と12節に記されている植物の創造です。今日も前回に続いて海と陸の創造についてお話しします。
 前回は創世記1章9節で「かわいた所」と訳されたことばである名詞のヤバーシャーが「乾燥しきった所」、すなわち「乾燥地帯」を表わすという見方について検討しました。その見方は8章14節で「かわききった」と訳されたことばが、ヤバーシャーの動詞形であるヤーベーシュであるということに基づいています。
 これに対しまして、私たちは聖書の中でこのヤバーシャーということばがどのような意味合いで用いられているかの用例に当たってみました。その結果、このことばは必ずしも「乾燥地帯」というような意味で「乾燥しきった所」を表わすのではなく、私たちが普通に理解している「陸地」の状態を表わしているということを確認しました。


 前回はこのことにこだわって、このヤバーシャーということばの用例に当たってみました。それにはそうすることによって、このことばがしばしば神である主の贖いの御業との関わりで用いられているということを明らかにすることができるという目的もありました。
 それは、出エジプトの贖いの御業とカナンの地への進入という二つのことと関わっています。
 出エジプトの際に、神である主は紅海の水を分けられ、イスラエルの民が乾いた地を通るようにして渡ることができるようにしてくださいました。そして、その同じ水によってエジプトの軍隊をさばかれました。
 そのことを述べているみことばをもう一度見てみましょう。
 出エジプト記14章16節〜18節には、

あなたは、あなたの杖を上げ、あなたの手を海の上に差し伸ばし、海を分けて、イスラエル人が海の真中のかわいた地を進み行くようにせよ。見よ。わたしはエジプト人の心をかたくなにする。彼らがそのあとからはいって来ると、わたしはパロとその全軍勢、戦車と騎兵を通して、わたしの栄光を現わそう。パロとその戦車とその騎兵を通して、わたしが栄光を現わすとき、エジプトはわたしが主であることを知るのだ。

と記されています。また同じ14章21節、22節には、

そのとき、モーセが手を海の上に差し伸ばすと、主は一晩中強い東風で海を退かせ、海を陸地とされた。それで水は分かれた。そこで、イスラエル人は海の真中のかわいた地を、進んで行った。水は彼らのために右と左で壁となった。

と記されています。さらに、27節〜31節には、

モーセが手を海の上に差し伸べたとき、夜明け前に、海がもとの状態に戻った。エジプト人は水が迫って来るので逃げたが、主はエジプト人を海の真中に投げ込まれた。水はもとに戻り、あとを追って海にはいったパロの全軍勢の戦車と騎兵をおおった。残された者はひとりもいなかった。イスラエル人は海の真中のかわいた地を歩き、水は彼らのために、右と左で壁となったのである。こうして、主はその日イスラエルをエジプトの手から救われた。イスラエルは海辺に死んでいるエジプト人を見た。イスラエルは主がエジプトに行なわれたこの大いなる御力を見たので、民は主を恐れ、主とそのしもべモーセを信じた。

と記されています。さらに、15節19節には、

パロの馬が戦車や騎兵とともに海の中にはいったとき、主は海の水を彼らの上に返されたのであった。しかしイスラエル人は海の真中のかわいた土の上を歩いて行った。

と記されています。
 後の時代に主の御業を振り返っているネヘミヤ記9章9節〜11節には、

あなたはエジプトで私たちの先祖が受けた悩みを見、また、葦の海のほとりでの彼らの叫びを聞かれました。あなたは、パロとそのすべての家臣、その国のすべての民に対して、しるしと不思議を行なわれました。これは、彼らが私たちの先祖に対して、かってなことをしていたのをあなたが知られたからです。こうして、今日あるとおり、あなたは名をあげられました。あなたが彼らの前で海を分けたので、彼らは海の中のかわいた地を通って行きました。しかし、あなたは、奔流に石を投げ込むように、彼らの追っ手を海の深みに投げ込まれました。

と記されています。また、詩篇66篇5節〜7節には、

  さあ、神のみわざを見よ。
  神の人の子らになさることは恐ろしい。
  神は海を変えて、かわいた地とされた。
  人々は川の中を歩いて渡る。
  さあ、私たちは、神にあって喜ぼう。
  神はその権力をもってとこしえに統べ治め、
  その目は国々を監視される。
  頑迷な者を、高ぶらせないでください。

と記されています。
 ヤバーシャーということばが用いられている、これらのみことばから四つほどのことに注目したいと思います。
 第一に、これらのみことばは出エジプトの贖いの御業には二つの面があることを示しています。一つは、主の契約の民であるイスラエルをエジプトの奴隷の身分と状態から救い出してくださったことです。もう一つは、自らの権力を頼みとし誇りとして、主の民を奴隷にするほどに高ぶっていたエジプトに対するさばきの執行です。神である主の贖いの御業におけるこの二つの面、すなわち、救いとさばきが海の中に「かわいた地」(ヤバーシャー)を出現させてくださった御業と、その「かわいた地」を再び海の水をもって覆われた御業を通して実現しています。
 第二に、これらのみことばは海の中に「かわいた地」を出現させてくださった御業と、その「かわいた地」を再び海の水をもって覆われた御業、すなわち、救いとさばきの御業からなる贖いの御業を通して、神である主の栄光がエジプトを初めとして、この世の国々―― 天地創造の御業において神さまが水の中から出現させられ、「」と名づけられた「かわいた所」に住んでいる国々に対して示されるようになるということを示しています。
 第三に、これらのみことばは海の中に「かわいた地」を出現させてくださった御業と、その「かわいた地」を再び海の水をもって覆われた御業は、この世の国々にとっては恐れを生み出すけれども、主の契約の民のうちには喜びと感謝を生み出すということを示しています。
 このことは、最後に引用しました詩篇66篇5節、6節に、

  さあ、神のみわざを見よ。
  神の人の子らになさることは恐ろしい。
  神は海を変えて、かわいた地とされた。
  人々は川の中を歩いて渡る。
  さあ、私たちは、神にあって喜ぼう。

と歌われていることに、はっきりと示されています。また、すでに引用しました出エジプト記14章と15章に記されているみことばの前後を見ますと、そこには15章1節〜18節に記されているモーセとイスラエルの民の讃美の歌と、21節に記されているミリヤムの讃美の歌があります。
 第四に、これらのみことばは海の中に「かわいた地」を出現させてくださった御業と、その「かわいた地」を再び海の水をもって覆われた御業は、神である主の贖いの御業の歴史(救済史)において一度だけなされた御業ですが、主の契約の民に常に記憶されて、神である主の贖いの御業をあかしするものとなっているということです。
 それは、ネヘミヤ記9章9節〜11節に記されている出エジプトの救いとさばきの御業についての告白が自分たちの罪の告白と悔い改めの中でなされていることから分かりますように、主の民が契約の神である主の恵みとあわれみが変わることがないことに信頼するようになるためです。
 この「かわいた所」(ヤバーシャー)ということばは、さらに、イスラエルの民が約束の地であるカナンに入る際に、神である主がヨルダン川の水をせき止めて、イスラエルの民が乾いた地を通るようにして渡ることができるようにしてくださったことを記念して覚えるためにも用いられています。
 そのことを述べるみことばも引用してみましょう。
 ヨシュア記4章18節〜24節には、

主の契約の箱をかつぐ祭司たちが、ヨルダン川の真中から上がって来て、祭司たちの足の裏が、かわいた地に上がったとき、ヨルダン川の水はもとの所に返って、以前のように、その岸いっぱいになった。民は第一の月の十日にヨルダン川から上がって、エリコの東の境にあるギルガルに宿営した。ヨシュアは、彼らがヨルダン川から取って来たあの十二の石をギルガルに立てて、イスラエルの人々に、次のように言った。「後になって、あなたがたの子どもたちがその父たちに、『これらの石はどういうものなのですか。』と聞いたなら、あなたがたは、その子どもたちにこう言って教えなければならない。『イスラエルは、このヨルダン川のかわいた土の上を渡ったのだ。』あなたがたの神、主は、あなたがたが渡ってしまうまで、あなたがたの前からヨルダン川の水をからしてくださった。ちょうど、あなたがたの神、主が葦の海になさったのと同じである。それを、私たちが渡り終わってしまうまで、私たちの前からからしてくださったのである。それは、地のすべての民が、主の御手の強いことを知り、あなたがたがいつも、あなたがたの神、主を恐れるためである。」

と記されています。
 このうち18節で「かわいた地」と訳されていることばはヤバーシャーではなく、ハーラーバーです。このことばはイスラエルの民がヨルダン川を渡ったことを記す3章17節でも用いられています。3章14節〜17節では、

民がヨルダン川を渡るために、天幕を発ったとき、契約の箱をかつぐ祭司たちは民の先頭にいた。箱をかつぐ者がヨルダン川まで来て、箱をかつぐ祭司たちの足が水ぎわに浸ったとき、―― ヨルダン川は刈り入れの間中、岸いっぱいにあふれるのだが―― 上から流れ下る水はつっ立って、はるかかなたのツァレタンのそばにある町アダムのところで、せきをなして立ち、アラバの海、すなわち塩の海のほうに流れ下る水は完全にせきとめられた。民はエリコに面するところを渡った。主の契約の箱をかつぐ祭司たちがヨルダン川の真中のかわいた地にしっかりと立つうちに、イスラエル全体は、かわいた地を通り、ついに民はすべてヨルダン川を渡り終わった。

と言われています。
 ですから、実際にイスラエルの民が乾いた地を渡るようにしてヨルダン川を渡ったことを記すときにはハーラーバーが用いられていますが、そのことを告白して後の時代にまで覚えていくときには、4章22節に、

イスラエルは、このヨルダン川のかわいた土の上を渡ったのだ。

とありますように、ヤバーシャーが用いられています。
 そして、続く4章23節で、

あなたがたの神、主は、あなたがたが渡ってしまうまで、あなたがたの前からヨルダン川の水をからしてくださった。ちょうど、あなたがたの神、主が葦の海になさったのと同じである。

と言われています。
 この「葦の海」は紅海のことです。ですから、イスラエルの民が約束の地であるカナンに入る際に主がヨルダン川の水をせき止めて、イスラエルの民が乾いた地を通るようにして渡ることができるようにしてくださったことは、その時から約40年前の出エジプトの際に、主が紅海の水を分けてイスラエルの民が乾いた地を通るようにして渡ることができるようにしてくださった御業を、いわば、再確認させてくださることであったのです。
 このことは、先ほど引用しました詩篇66篇6節で、

  神は海を変えて、かわいた地とされた。
  人々は川の中を歩いて渡る。
  さあ、私たちは、神にあって喜ぼう。

と歌われていて、神である主が紅海の水を分けて「かわいた地」を出現させてくださったことと、ヨルダン川の水をせき止めてイスラエルの民を約束の地に導き入れてくださったことが並べて歌われていることにも示されています。
 それで、この二つの御業は本質的に同じ意味をもっていると考えられます。ギルガルに立てた十二の石を通してあかしされた主の贖いの御業を後の子孫にまで覚えて告白すべき戒めの結論で、

それは、地のすべての民が、主の御手の強いことを知り、あなたがたがいつも、あなたがたの神、主を恐れるためである。

と言われていることも、このことを示しています。

地のすべての民が、主の御手の強いことを知り

ということは、主の贖いの御業を通してこの世の国々に主の栄光があかしされるようになることを示しています。また、

あなたがたがいつも、あなたがたの神、主を恐れるためである。

ということは、後の世代にまで主の贖いの御業を覚え続けることによって、イスラエルの民がどのようなときにも主の恵みとあわれみが変わらないことを信じ、主に信頼し続けるようになるためであることを示しています。
 神である主が紅海の水を分けて「かわいた地」を出現させてくださり、イスラエルの民をエジプトの奴隷の状態から贖い出してくださったことと、ヨルダン川の水をせき止めて「かわいた地」を通るようにしてイスラエルの民を約束の地に導き入れてくださったことは、その贖いの御業を遂行された主が天地創造の御業において天の下の水を一所に集めて「かわいた所」が現われるようにしてくださった神であることを示しています。
 天地創造の御業において天の下の水を一所に集めて「かわいた所」が現われるようにしてくださった神さまだけが、海の水を分けてその中に「かわいた地」を出現させることがおできになります。その天と地の創造者である神さまが、イスラエルの民をお救いになり、イスラエルの民を奴隷にしていたエジプトをおさばきになったのです。
 このことは、天地創造の御業において天の下の水を一所に集めて「かわいた所」が現われるようにしてくださった神さまの御業の目的に沿ったことです。
 先ほどは引用することはなく触れましたが、出エジプト記15章1節〜18節には、神である主の救いとさばきの御業を目の当たりにしたモーセとイスラエルの民が歌った歌が記されています。その結論に当たる17節、18節では、

  あなたは彼らを連れて行き、
  あなたご自身の山に植えられる。
  主よ。御住まいのために
  あなたがお造りになった場所に。
  主よ。あなたの御手が堅く建てた聖所に。
  主はとこしえまでも統べ治められる。

と歌われています。
 これは神である主の贖いの御業の目的が、ご自身の民を「聖所」によって示されているご自身のご臨在の御前に住まわせてくださり、ご自身との交わりに生きるものとしてくださることにあることを示しています。
 ご自身の民をご自身のご臨在の御前に住まわせてくださり、ご自身との交わりに生きるものとしてくださることは、主の贖いの御業の目的であると同時に、天地創造の御業において天の下の水を一所に集めて「かわいた所」が現われるようにしてくださった御業の目的、さらに言いますと、天地創造の御業そのものの目的でもあると考えられます。
 すでにお話ししましたが、創世記1章2節で、

地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。

と言われていますように、いまだこの世界に光もなく、天の上の水と下の水が分けられることもなく、「かわいた所」が現われる前に、神さまの御霊がこの世界にご臨在されて、やがて神のかたちに造られる人間が住むべき所として整えてくださいました。この世界は人間が住むところである前に神さまがご臨在してくださっている世界なのです。
 その人間をお造りになるに当たって、神さまは創世記1章26節に記されていますように、

われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。

と言われました。
 この「われわれ」についてはいずれお話ししますが、結論的に言いますと、神さまの人格的な複数性を示しており、複数の人格の間に交わりがあることがうかがわれます。そして、神のかたちの本質は自由な意志をもつ人格的な存在であることにあり、その本質的な特性は愛です。
 これらのことから、天地創造の初めから、神さまがこの世界にご臨在されて、この世界を神のかたちに造られている人間の住むべき世界として整えてくださったことによって、この世界が神さまと神のかたちに造られている人間の愛にある交わりの場として造られたことが分かります。
 そのような、創造の御業の大きな目的の中で、神さまは天の下の水を一所に集めて「かわいた所」が現われるようにしてくださり、そこを「地と名づけ」られて、やがて神のかたちに造られる人間が住むべき所として整えてくださったのです。そして、神さまはこの「」を神のかたちに造られている人間に委ねてくださいました。
 エジプトは、そのような意味をもっている「」を偶像で満たして、造り主である神さまの栄光を空しいものにすり替えてしまいました。そして、神のかたちに造られている人間を奴隷として搾取するほどに高ぶっていました。それで、神さまは紅海を分けて「かわいた地」を出現させられることによって、ご自身の民をお救いになると同時に、その水を元に返されることによって、エジプトの力の象徴である軍隊をおさばきになりました。
 これによって主は、ご自身が天地創造の御業において天の下の水を一所に集めて「かわいた所」が現われるようにしてくださり、そこを「地と名づけ」、やがて神のかたちに造られる人間が住む所として整えてくださった神であられることを、エジプトを初めとするこの世の国々―― 神さまが整えられた「」にある国々にお示しになりました。
 人間が神さまに栄光を帰さなくても、神さまは必ずこの「」にご自身の栄光を現わされます。
 エジプトは事実そのような帝国でしたが、啓示のみことばにおいては神のかたちに造られている人間を奴隷化している罪の力や、罪を通して人間を支配して霊的な暗やみの中に閉じこめている暗やみの主権者たち、またそれらに突き動かされて神さまの御前に高ぶっている人間の現実などを表わす地上的な「ひな型」として用いられています。
 一方、イスラエルは神のかたちに造られていながらそれらの力に縛られて奴隷化され、死と滅びへの道を歩んでいる人間―― 自分の力で自分を救うことができない人間を表わす地上的な「ひな型」として用いられています。その意味では、エジプト的なものだけでなくイスラエルの民も、罪を犯して堕落した人間の現実を示しています。
 このように、この世界をお造りになった神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまっている人間に対して救いとさばきの御業を執行されるのは、造り主である神さまご自身です。それで、救いの御業は新しい創造の御業としての意味をもっています。
 コリント人への手紙第二・5章17節には、

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

と記されています。
 また、ガラテヤ人への手紙6章15節には、

割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。

と記されています。
 また、世の終わりにおけるさばきの後にイエス・キリストの十字架の死による贖いに基づいて救いが完成することを記している黙示録21章1節には、

また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。

と記されています。
 これは、神さまが御子イエス・キリストの贖いに基づいて救いを完成してくださることを描いています。それは「新しい天と新しい地」ということばに示されていますように、神さまが創造の御業において造り出してくださったものの完成を描くものでもあります。
 これに続く2節〜4節には、

私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」

という神さまと人との交わりの完成が記されています。すでにお話ししたことから分かりますように、これは救いの完成であると同時に、神さまがこの世界をお造りになった創造の御業の目的を実現するものでもあります。

 


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