創世記1章9節〜13節に記されている、創造の第三日の御業は、二つの部分に分けられます。一つは、9節と10節に記されている、海と陸の創造です。もう一つは、11節と12節に記されている、植物の創造です。
まず、創造の記事の順序に従って、9節と10節に記されている、海と陸の創造から見ていきます。
9節では、
神は「天の下の水は一所に集まれ。かわいた所が現われよ。」と仰せられた。するとそのようになった。
と言われています。ここには
天の下の水は一所に集まれ。
という命令と、
かわいた所が現われよ。
という命令があります。
この二つの命令の関係が問題となりますが、文法の上では、この二つの命令は同等の力をもっていて、二つの命令のどちらかが他方に従属するものではありません。
この二つの命令の関係については、これを原因と結果の関係とする見方があります。つまり、天の下の水が一所に集まることによって、乾いた所が現われるようになるということです。(Harold G.Stigers, A Commentary on Genesis, p.57. cf. Gesenius, Hebrew Grammar, para. 120c(2). )
しかし、この二つのことは、必ずしも、原因と結果という単純なつながりとは言えないのではないかと思われます。確かに、乾いた地が現われるためには、天の下の水が一所に集まらなくてはなりません。しかし、天の下の水が一所に集まるのはどのようにしてでしょうか。それは地が隆起するか陥没するか、あるいはその両方が同時に起こることによったと考えられます。詩篇104篇5節〜9節で、
また地をその基の上に据えられました。
地はそれゆえ、とこしえにゆるぎません。
あなたは、深い水を衣のようにして、
地をおおわれました。
水は、山々の上にとどまっていました。
水は、あなたに叱られて逃げ、
あなたの雷の声で急ぎ去りました。
山は上がり、谷は沈みました。
あなたが定めたその場所へと。
あなたは境を定め、
水がそれを越えないようにされました。
水が再び地をおおうことのないようにされました。
と言われているとおりです。
つまり、天の下の水が一所に集まるために、それまで隠れていた「地」(と10節で名づけられるものの原型)の隆起と陥没があって、地が現われる必要があったのです。それで、天の水が一所に集まることが原因となって、乾いた地が現われるようになるという、初めに考えられた原因と結果の関係は、その逆の、地の隆起や陥没によって乾いた地が現われることが原因となって、水が一所に集まるようになる、という関係でもあるわけです。この意味で、天の下の水が一所に集まることと地が現われることは、一つのことの裏表であると考えられます。
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「かわいた所」については、
「かわいた地」と訳されたことばは「乾燥しきった所」ということばです。これがただの「かわく」より強い表現であることは洪水物語からも知られます。
という見方があります。このことの根拠として、創世記8章13節で
地の面は、かわいていた。
と言われている状態の後1ヶ月と27日たった、14節の「地はかわききった。」という状態がこれに当たるということが挙げられています。そして、
現われる陸がこのような乾燥地帯になるためには、湿った土地からの蒸発作用が必要です。
と言われています。(榊原康夫『創造と堕落』36ー37頁)
創世記1章9節で「かわいた所」と訳されたことばは、名詞のヤバーシャーであり、8章14節で「かわききった」と訳されたことばは、その動詞形のヤーベーシュです。このヤーベーシュの語根の通常の意味は「必要な水分、または通常の水分がなくて乾いていること、あるいは乾くこと」です。それで、「かわききった」と訳されているわけです。
ただ、これが、その名詞形であるヤバーシャーにどれほど受け継がれて「乾燥しきった所」を表わすようになっているかは、直ちには明らかではありません。それは、このことばが用いられているそれぞれの個所の文脈によって判断するほかはありません。
この他の個所で、このことばがどのように用いられているか見てみましょう。前もってお話ししておきたいのですが、このことばにこだわるのは、先ほどお話しした見方を検討するためだけではありません。このことによって見えてくることがあるからです。
まず、出エジプト記からいくつか引用しますと、4章9節には、
もしも彼らがこの二つのしるしをも信ぜず、あなたの声にも聞き従わないなら、ナイルから水を汲んで、それをかわいた土に注がなければならない。あなたがナイルから汲んだその水は、かわいた土の上で血となる。
と記されています。また14章16節には、
あなたは、あなたの杖を上げ、あなたの手を海の上に差し伸ばし、海を分けて、イスラエル人が海の真中のかわいた地を進み行くようにせよ。
と記されています。さらに14章22節には、
そこで、イスラエル人は海の真中のかわいた地を、進んで行った。水は彼らのために右と左で壁となった。
と記されています。14章29節には、
イスラエル人は海の真中のかわいた地を歩き、水は彼らのために、右と左で壁となったのである。
と記されています。そして15章19節には、
パロの馬が戦車や騎兵とともに海の中にはいったとき、主は海の水を彼らの上に返されたのであった。しかしイスラエル人は海の真中のかわいた土の上を歩いて行った。
と記されています。
ヨシュア記4章20節〜22節には、
ヨシュアは、彼らがヨルダン川から取って来たあの十二の石をギルガルに立てて、イスラエルの人々に、次のように言った。「後になって、あなたがたの子どもたちがその父たちに、『これらの石はどういうものなのですか。』と聞いたなら、あなたがたは、その子どもたちにこう言って教えなければならない。『イスラエルは、このヨルダン川のかわいた土の上を渡ったのだ。』 ・・・・ 」
と記されています。また、イザヤ書44章3節には
わたしは潤いのない地に水を注ぎ、かわいた地に豊かな流れを注ぎ、わたしの霊をあなたのすえに、わたしの祝福をあなたの子孫に注ごう。
と記されています。ヨナ書にもいくつかの用例があります。1章9節には、
ヨナは彼らに言った。「私はヘブル人です。私は海と陸を造られた天の神、主を礼拝しています。」
と記されています。また1章13節には、
その人たちは船を陸に戻そうとこいだがだめだった。海がますます、彼らに向かって荒れたからである。
と記されています。さらに2章10節には、
主は、魚に命じ、ヨナを陸地に吐き出させた。
と記されています。詩篇66篇6節には、
神は海を変えて、かわいた地とされた。
人々は川の中を歩いて渡る。
さあ、私たちは、神にあって喜ぼう。
と記されています。そして、ネヘミヤ記9章11節には、
あなたが彼らの前で海を分けたので、彼らは海の中のかわいた地を通って行きました。しかし、あなたは、奔流に石を投げ込むように、彼らの追っ手を海の深みに投げ込まれました。
と記されています。
これらの用例において、ヤバーシャーということばに「乾燥しきった」という意味をもたせることができるのは、イザヤ書44章3節だけです。それも、必ずしも、その意味でなければならないわけではありません。
また、これらの用例から見えてくるのは、このヤバーシャーということばが、特に二つの出来事を表わすのに用いられているということです。一つは、出エジプト記14章16節、22節、29節、15章19節、詩篇66篇6節、ネヘミヤ記9章11節に記されている、出エジプトの贖いの御業において、主が紅海を分けて乾いた地を現わされ、イスラエルの民を通らせてくださったことです。もう一つは、ヨシュア記4章22節と詩篇66篇6節に記されている、イスラエルのカナン侵入の際に、主がヨルダン川を分けて乾いた地を現わされ、そこを通らせてくださったことです。この二つのことは、時間的には40年のずれがありますが、その意味としては、出エジプトの時代に主が成し遂げてくださった贖いの御業にかかわるものとしての意味をもっています。
後ほど(次回に)お話しすることになりますが、ヤバーシャーということばを用いて表わされているこれら二つの御業は、創世記1章9節に、
神は「天の下の水は一所に集まれ。かわいた所が現われよ。」と仰せられた。するとそのようになった。
と記されている創造の御業によって神さまが「かわいた所」を出現されたこととつながっています。
これら二つの出来事において、イスラエルが渡った乾いた地が普通に乾いている以上に「乾燥しきった地」であったと考える必要はありません。また、ヨナ書では、このことば(ヤバーシャー)は、普通の陸地か海岸を指しています。
創造の第三日の御業におきましても、創世記1章10節に記されていますように、神さまは、この「かわいた所を地と名づけ」られました。また、11節、12節に記されていますように、神さまは、この「地」から植物を芽生えさせられました。そして、「地」が最初に造り出された状態においては、そこは十分に潤っていたと考えられます。その「地」が乾ききってしまって作物も十分に育たないような状態になってしまったのは、創造の御業において「地」を委ねられた(1章28節)人間が造り主である神さまに対して罪を犯し、御前に堕落してしまった後のことです。人類の堕落に対する神さまのさばきによって「地」が「呪い」に服してしまったためのことです(創世記3章17節)。
参考までに、創世記2章4節〜6節には、
神である主が地と天を造られたとき、地には、まだ一本の野の潅木もなく、まだ一本の野の草も芽を出していなかった。それは、神である主が地上に雨を降らせず、土地を耕す人もいなかったからである。ただ、霧が地から立ち上り、土地の全面を潤していた。
と記されています。この「霧が地から立ち上り」の「霧」は、新改訳の欄外注にありますように、「地下水」である可能性があります。
このように、ヤバーシャーを「乾燥しきった地」と理解することはできません。しかし、神さまの創造の御業において「かわいた地」が現われるようになるために、大いなる水の下に隠れていた地に隆起や陥没が起こりましたが、それとともに、先の見方で指摘されていました「湿った土地からの蒸発作用」があったと考えられます。この「蒸発作用」は、第二日の御業において確立された大気圏の仕組みによってもたらされたと考えられます。
10節では、
神は、かわいた所を地と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神は見て、それをよしとされた。
と言われています。
ここに記されている「海」(ヤムミーム)は複数形です。これは、その前の「水の集まった所」が単数形ですから、海が沢山あることを示すのではなく、海の広大さを表わす「強意の複数形」です。これによって、広大な海が地を囲んでいる姿を思わせます。これを受けて、詩篇24篇2節では、
まことに主は、海に地の基を据え、
また、もろもろの川の上に、それを築き上げられた。
と言われています。
神さまが、ここに現われた「かわいた所を地と名づけ」られたことと、「水の集まった所を海と名づけられた」ことから、二つほどの意味を汲み取ることができます。
第一に、ここに現われた「かわいた所」と「水の集まった所」を、それぞれ「地」と「海」としての意味をもつものとして位置づけることによって、「地」と「海」の区別と関係が永続的に確立されたことを意味しています。
詩篇104篇5節〜9節においては、神さまの御業が、
また地をその基の上に据えられました。
地はそれゆえ、とこしえにゆるぎません。
あなたは、深い水を衣のようにして、
地をおおわれました。
水は、山々の上にとどまっていました。
水は、あなたに叱られて逃げ、
あなたの雷の声で急ぎ去りました。
山は上がり、谷は沈みました。
あなたが定めたその場所へと。
あなたは境を定め、
水がそれを越えないようにされました。
水が再び地をおおうことのないようにされました。
と歌われています。
第二に、「かわいた所」と「水の集まった所」を、それぞれ「地」と「海」としての役割を果たすものとして確立されたことを意味しています。具体的には、それぞれ、後に造られるようになる、植物が生い育ち、地に住む生き物たちや動物たちの住むべき所として、また、魚など、海に住む生き物たちの住むべき所としての位置と役割を担うようになったということです。
聖書の中では、このように、水を一所に集められ、かわいた地が現われるようにしてくださった神さまの御業が、繰り返し告白され、讃美されています。以下にそれを取り上げて、私たちも、その讃美の告白に心を合わせたいと思います。
ヨブ記38章8節〜11節には、
海がふき出て、胎内から流れ出たとき、
だれが戸でこれを閉じ込めたか。
そのとき、わたしは雲をその着物とし、
黒雲をそのむつきとした。
わたしは、これをくぎって境を定め、
かんぬきと戸を設けて、
言った。「ここまでは来てもよい。
しかし、これ以上はいけない。
あなたの高ぶる波はここでとどまれ。」と。
と記されています。詩篇33篇6節〜8節には、
主のことばによって、天は造られた。
天の万象もすべて、御口のいぶきによって。
主は海の水をせきのように集め、
深い水を倉に収められる。
全地よ。主を恐れよ。
世界に住む者よ。みな、主の前におののけ。
と記されています。また95篇4節〜6節には、
地の深みは主の御手のうちにあり、
山々の頂も主のものである。
海は主のもの。主がそれを造られた。
陸地も主の御手が造られた。
来たれ。私たちは伏し拝み、ひれ伏そう。
私たちを造られた方、主の御前に、ひざまずこう。
と記されています。
箴言8章28節〜30節には、
神が上のほうに大空を固め、
深淵の源を堅く定め、
海にその境界を置き、
水がその境を越えないようにし、
地の基を定められたとき、
わたしは神のかたわらで、
これを組み立てる者であった。
と記されています。
これは、神さまの創造の御業において働いていた神さまの「知恵」を擬人化して歌っているものです。これが、ヨハネの福音書1章1節〜3節で、
初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。
とあかしされている永遠の神の御子が「ことば」と言われていることの背景の一つとなっていると考えられます。
またエレミヤ書5章22節には、
あなたがたは、わたしを恐れないのか。
―― 主の御告げ。――
それとも、わたしの前でおののかないのか。
わたしは砂を、海の境とした。
越えられない永遠の境界として。
波が逆巻いても勝てず、
鳴りとどろいても越えられない。
と記されています。
新約聖書のペテロの手紙第二・3章3節〜6節には、
まず第一に、次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、次のように言うでしょう。「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。先祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」こう言い張る彼らは、次のことを見落としています。すなわち、天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によって成ったのであって、当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。
と記されています。
ここでは、
地は神のことばによって水から出て、水によって成った
ということが、創造の第三日の御業に触れることです。次回お話ししますが、これと洪水とのつながりは大切なことです。
今日、私たち神の子どもたちの間でさえも、神さまが水を一所に集められ、かわいた地が現われるようにしてくださったということは、ほとんど意識されません。それは当然のことのように生活しています。けれども、みことばのあかしは、神さまが水を一所に集められ、かわいた地が現われるようにしてくださった御業が覚えられ、賛美とともに告白されるべきであることを示しています。
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