(第12回)


説教日:2002年3月3日
聖書箇所:創世記1章6節〜8節
説教題:大空は神の栄光を現わし


 創世記1章6節〜8節には、創造の第2日に、神さまが、「大空」をお造りになり、「大空」が「大空の下にある水」と「大空の上にある水」を区別する役割を果たすようにされたことが記されています。前回までお話ししてきましたように、それは、今日の言葉で言いますと、大気圏とそのシステム(仕組み)が確立されたということです。
 このことは、人間を初めとして、あらゆる生き物や植物など、地上にあるものにとって重大な意味をもっています。大気の循環のシステムによって、ただ単に「大空の上にある水」が上に保たれているというだけでなく、必要に応じて、地を潤すために、地に水が注がれるようになりました。すなわち、地には乾いた状態の時と、水が注がれる時が別々にあるようになったということです。
 また、熱くなると水蒸気が蒸発して、気化熱が奪われて涼しくなります。さらには、蒸発が進むと凝結した水蒸気が雨となって地に注がれて、地を冷やします。それによって極端な温度の変化がないように保たれます。
 これは、人間や生き物たちの成長や、神さまが人間や生き物たちの食料となるようにと生えさせてくださるようになる、実を結ぶ植物の生長にとってもとても大切なことです。
 このように、神さまは「大空」をお造りになることによって、地上にある人間を初めとする生き物たち、植物たちの基本的な環境を整えてくださいました。そして、神さまは、この「大空」を「」と名づけられました。これによって、神さまは、地上にある人間を初めとする生き物たち、植物たちの基本的な環境を整えてくださったばかりでなく、それを特別な意味でご自身の主権の下においてくださり、真実な御手をもって支えてくださることを示しておられます。


 今日では大気圏のメカニズムがさまざまな形で解明されています。それは、創世記1章6節〜8節の言葉を用いて言いますと、神さまが「大空」をお造りになり、「大空」が「大空の下にある水」と「大空の上にある水」を区別する役割を果たすようにされたことが、実際に、どのような仕組みで成り立っているかを解明することです。
 聖書は「大空」をお造りになり、「大空」が「大空の下にある水」と「大空の上にある水」を区別する役割を果たすようにされたのは造り主である神さまであることを教えています。しかし、それが具体的にどのような仕組み(メカニズム)で働くものであるかは示していません。それは、神さまがお造りになったものそのものを実地に調べて発見してゆくべきことです。神さまは「神のかたち」に造られている人間に、そのような探求に必要な能力をお与えになりました。そこに科学的な営みが生まれてきます。
 人間は自分自身のことを含めて、神さまがお造りになったものからさまざまなことを発見し、学びながら、神さまの御業の素晴らしさを味わうことができます。
 しかし、人間は造り主である神さまに対して罪を犯して堕落した後は、心が神さまから離れてしまっています。そのために神さまがお造りになったものを実地に調べて、そこからさまざまなことを発見したり学んだりして、物事の成り立ちや仕組みを理解することによって、かえって神さまの御業の素晴らしさを味わうのとは正反対の方向へと進んでしまうことが多いのです。
 この、神さまが「大空」をお造りになり、「大空」が「大空の下にある水」と「大空の上にある水」を区別する役割を果たすようにされたことについて言いますと、たとえば、雨が降るのは大気圏にこのようなメカニズム(仕組み)があるからであって、神さまが降らせてくださるわけではないと主張されるようになります。
 それは、大気圏のメカニズムを解明したことによって、神さまの御業を否定することができたという勘違いをすることです。そして、そこから、そのようなメカニズムが働いているのだから、雨が降るのは当たり前であるというような結論を出してしまいます。
 けれども、大気圏のメカニズムを解明することができたからといって、それで神さまがそのメカニズムをお造りになったということが否定されるわけではありません。もちろん、それで大気圏が神さまによって造られたものであるということが肯定できるということでもありません。神さまが大気圏も含めて、この世界のすべてのものをお造りになったということは、聖書のみことばがあかししていることです。私たちはみことばのあかしに基づいて、神さまがこの世界のすべてのものをお造りになったと信じているのです。その上で、たとえば、大気圏のメカニズムを実地に調べてみると、確かに神さまの御手の作品にふさわしく、素晴らしいものであることが分かるという順序になっています。
 神さまがこの世界のすべてのものをお造りになったことを信じない人々にとっては、人知をはるかに越えたこの世界の素晴らしさも、偶然の結果でしかありません。
 そのどちらの結論が正しいかは、この世界にあるものの素晴らしさをいくら具体的に解明し説明しても、それで決定できることではありません。それは私たちそれぞれの「信仰」によることです。自然科学者で自然のメカニズムに精通している人で、そのすべてが造り主である神さまの御手によって造られたものであると信じている人はたくさんいます。また、そうでないと信じている人もたくさんいます。この場合、造り主である神さまはいないし、神さまがこの世界のすべてのものを造ったのではないと考えることも一種の信仰です。いくら科学者が「造り主である神さまはいないし、神さまがこの世界のすべてのものを造ったのではない」というようなことを言ったとしても、それはその人の「信仰」(信念)の表明であって、科学的な発言ではありません。
 いずれにしましても、聖書は、神さまが「大空」をお造りになり、「大空」が「大空の下にある水」と「大空の上にある水」を区別する役割を果たすようにされたことに、神さまの御力と恵みが現われていることを示しています。まず、そのことを告白しているみことばをいくつか見てみましょう。
 ヨブ記38章25節〜28節には、

  だれが、大水のために水路を通し、
  いなびかりのために道を開き、
  人のいない地にも、人間のいない荒野にも、
  雨を降らせ、
  荒れ果てた廃墟の地を満ち足らせ、
  それに若草を生やすのか。
  雨に父があるか。露のしずくはだれが生んだか。

と記されています。
 また詩篇65篇9節、10節には、

  あなたは、地を訪れ、水を注ぎ、
  これを大いに豊かにされます。
  神の川は水で満ちています。
  あなたは、こうして地の下ごしらえをし、
  彼らの穀物を作ってくださいます。
  地のあぜみぞを水で満たし、そのうねをならし、
  夕立で地を柔らかにし、
  その生長を祝福されます。

と記されています。
 同じく詩篇104篇13節、14節には、

  主はその高殿から山々に水を注ぎ、
  地はあなたのみわざの実によって
  満ち足りています。
  主は家畜のために草を、
  また、人に役立つ植物を生えさせられます。
  人が地から食物を得るために。

と記されています。
 さらに詩篇147篇8節、9節には、

  神は雲で天をおおい、
  地のために雨を備え、
  また、山々に草を生えさせ、
  獣に、また、鳴く烏の子に
  食物を与える方。

と記されています。
 このような神さまの恵みと御力の現われが当たり前のこととして受け止められているのは、人間が造り主である神さまに対して罪を犯して、その心が神さまから離れてしまっているためです。そのように罪のために心が造り主である神さまから離れてしまっている人間の状態について、詩篇14篇1節では、

  愚か者は心の中で、「神はいない。」と言っている。

と言われています。これは、すでにいろいろな機会にお話ししてきましたように、罪のために心が造り主である神さまから離れてしまっている人のものの見方と考え方と生き方、思想と生活を根本から律しているのは「神はいない。」という思いであるということを意味しています。ですから、この場合の「神はいない。」ということは単なることばではなく、その人の根本的な信条であり、その人を根底から動かしている原理・原則なのです。
 同じように、罪によって心が造り主である神さまから離れてしまっている人の状態について、ローマ人への手紙1章18節〜21節には、

というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。なぜなら、神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。

と記されています。
 神さまの創造の御業は、神さまの自己啓示としての意味をもっています。それで、

神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められる

と言われています。これは神のかたちに造られている人間にとっては、外側から与えられている造り主である神さまの自己啓示です。さらに、ここでは、

彼らは、神を知っていながら

とも言われています。これは神のかたちに造られている人間には造り主である神さまをわきまえる「基本的なわきまえ」が与えられているということを意味しています。この神さまに対する「基本的なわきまえ」は、一般に「神の観念」と呼ばれます。人にはすべて「神の観念」が与えられていますので、どうしても「神」を考え「神」を求めます。その様子は、これに続く、22節、23節で、

彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。

と言われています。
 このように、神のかたちに造られている人間は、自分の外から造り主である神さまの自己啓示を与えられているだけでなく、自分自身のうちにも造り主である神さまの自己啓示を与えられているのです。それにもかかわらず、人は「神はいない。」という原理・原則にしたがって生きているのです。それで、ローマ人への手紙1章18節では、

不義をもって真理をはばんでいる人々

と言われているのです。
 これとともに、注意深く受け止めなくてはならないことですが、このことには、マタイの福音書5章45節で、

天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。

と言われており、使徒の働き14章16節、17節で、

過ぎ去った時代には、神はあらゆる国の人々がそれぞれ自分の道を歩むことを許しておられました。とはいえ、ご自身のことをあかししないでおられたのではありません。すなわち、恵みをもって、天から雨を降らせ、実りの季節を与え、食物と喜びとで、あなたがたの心を満たしてくださったのです。

と言われていますように、「大空」をお造りになり、「大空」が「大空の下にある水」と「大空の上にある水」を区別する役割を果たすようにしてくださった神さまが、真実な御手によって、人間を初めとしてすべての造られたものを支えてくださっていることが関わっています。
 もし、神さまがそのように真実にこの世界とその中にあるすべてのものを支えてくださることがないとしたら、どうなるでしょうか。いつ日が昇るか分からず、雨が降るかどうかも分からない。そして、作物の生長も見通しが立たないというようなことになります。そうしますと、人間は日が昇り雨が降ること、そして作物が生長することを当然のことと考えることはなかったでしょう。
 しかし実際には、神さまがご自身がお造りになったものに対して真実を尽くしてくださっておられます。それでふさわしい時に日は昇り、雨が降り、作物は生長しています。神さまの御前に罪を犯して、心が神さまから離れてしまっている人間は、かえってそのことを当然のことと考えて、神さまを否定する材料として用いているわけです。
 先ほど、これは「注意深く受け止めなくてはならないこと」であると言いました。それは言うまでもないことですが、神さまがお造りになったすべてのものに対して真実を尽くしてくださっていることが、人間がそれを当然と思う思いを生み出しているのではないということです。造り主である神さまを神として認めようとしない人間の罪が、神さまの真実な御手のお働きを、当たり前のものと思う思いを生み出しているのです。
 神さまが「大空」をお造りになり、「大空」が「大空の下にある水」と「大空の上にある水」を区別する役割を果たすようにしてくださったことにより、この地により豊かな光が注がれるようになり、地が乾く時と、必要に応じて水が注がれて潤される時があるようになりました。これは第3日の御業へとつながっていって、地にある植物が芽生えて生長し、生き物たちが育つ環境が整えられることになります。「大空」が造られなかったら、地は水蒸気が立ちこめた状態になっていて、植物の生長にも、生き物たちの成長にも、さまざまな障害が生じていたことでしょう。
 このように見ますと、マタイの福音書6章25節〜33節で、イエス・キリストが、

だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。

とあかししておられる、父なる神さまのご配慮は、「大空」をお造りになった御業からすでに始まっていたことが分かります。
 それとともに、神さまが「大空」をお造りになり、「大空」が「大空の下にある水」と「大空の上にある水」を区別する役割を果たすようにしてくださったことにより、第4日の御業も、地にあるものたちにとって意味あるものとなりました。「大空」がなくて地に水蒸気が立ちこめた状態であったとしたら、月や星などの天体の光が地上に到達することはなかったでしょう。
 今日の天文学の成果をまつまでもなく、人類は古くから「」と名づけられた「大空」を見上げて、神さまがお造りになった世界の壮大さを思いました。そして、自分たちが本当に小さな存在であることを自覚しました。詩篇8篇3節、4節に、

  あなたの指のわざである天を見、
  あなたが整えられた月や星を見ますのに、
  人とは、何者なのでしょう。
  あなたがこれを心に留められるとは。
  人の子とは、何者なのでしょう。
  あなたがこれを顧みられるとは。

と記されているとおりです。
 それは何よりもまず、神さまが、今日の天文学が明らかにしているように、想像を絶する広がりと壮大な事象に満ちている宇宙をお造りになったことによっています。
 それと同時に、それは、神さまが「大空」をお造りになって、このような宇宙の壮大さと複雑さを見出すための手がかりである天体の光が地上に届くようにしてくださったことによっています。もちろん、「神のかたち」に造られている人間に、そのような宇宙の壮大さを受け止める能力が与えられていることもあってのことです。
 詩篇19篇1節〜4節では、

  天は神の栄光を語り告げ、
  大空は御手のわざを告げ知らせる。
  昼は昼へ、話を伝え、
  夜は夜へ、知識を示す。
  話もなく、ことばもなく、
  その声も聞かれない。
  しかし、その呼び声は全地に響き渡り、
  そのことばは、地の果てまで届いた。

と歌われています。ここでは、

  天は神の栄光を語り告げ、

と言われていることと、

  大空は御手のわざを告げ知らせる。

と言われていることは、並行法によって同じことを述べています。それは、創造の初めに神さまが「大空」を「」と名づけられたことに基づいています。
 神さまが「大空」をお造りになり、「大空」が「大空の下にある水」と「大空の上にある水」を区別する役割を果たすようにしてくださったことについて、これまでお話ししてきたことを踏まえて、

  天は神の栄光を語り告げ、
  大空は御手のわざを告げ知らせる。

と歌われていることを受け止めますと、「」と名づけられた「大空」を通して表わされている神さまの栄光は、ただ単に、宇宙の壮大さに表わされている神さまの知恵と御力だけでなく、地上に存在する植物や、「神のかたち」に造られている人間を初めとする生き物たちに対するご配慮に満ちた栄光であることが感じ取れます。
 最後に、造り主である神さまに対する賛美の思いを込めて、「」と名づけられた「大空」が神さまの栄光を現わしていることがあかしされている例を、詩篇の賛美の中からいくつか見ておきましょう。
 8篇1節には、

  私たちの主、主よ。
  あなたの御名は全地にわたり、
  なんと力強いことでしょう。
  あなたはご威光を天に置かれました。

と記されています。
 また36篇5節〜7節には、

  主よ。あなたの恵みは天にあり、
  あなたの真実は雲にまで及びます。
  あなたの義は高くそびえる山のようで、
  あなたのさばきは深い海のようです。
  あなたは人や獣を栄えさせてくださいます。主よ。
  神よ。あなたの恵みは、なんと尊いことでしょう。
  人の子らは御翼の陰に身を避けます。

と記されています。そして、97篇6節には、

  天は主の義を告げ、
  すべての国々の民は主の栄光を見る。

と記されています。
 また、これらのことと呼応するように、148篇1節〜6節では、

  ハレルヤ。
  天において主をほめたたえよ。
  いと高き所で主をほめたたえよ。
  主をほめたたえよ。すべての御使いよ。
  主をほめたたえよ。主の万軍よ。
  主をほめたたえよ。日よ。月よ。
  主をほめたたえよ。すべての輝く星よ。
  主をほめたたえよ。天の天よ。
  天の上にある水よ。
  彼らに主の名をほめたたえさせよ。
  主が命じて、彼らが造られた。
  主は彼らを、世々限りなく立てられた。
  主は過ぎ去ることのない定めを置かれた。

と歌われています。讃美は、神さまが恵みとまことに満ちた栄光を現わしてくださっていることに対する、私たちの側からの信仰による応答です。
 もちろん、先ほどお話ししましたように、「」と名づけられた「大空」をお造りになった神さまの真実な御手の支えにつけ込んで、造り主である神さまを否定している人間の罪による高ぶりに対しても、神さまの御怒りがその「」から啓示されています。繰り返しになりますが、ローマ人への手紙1章18節〜20節を見てみましょう。そこには、

というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。なぜなら、神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。

と記されています。

 


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