創世記1章6節〜8節に記されています、第二日に神さまがなさった御業は、前回お話ししましたように、三つに分けることができます。第一は、「大空」を造られたことです。第二は、「大空の下にある水」と「大空の上にある水」とを区別されたことです。そして、第三は、「大空を天と」名づけられたことです。
このうち、第一の、「大空」を造られたことと、第二の、「大空の下にある水」と「大空の上にある水」とを区別されたことは一つのことです。つまり、「大空の下にある水」と、大空の上にある水」とを分けられることによって、「大空」をお造りになったということです。この御業によって出来たものは、「大空」と、「大空の下にある水」と、大空の上にある水」です。
前回は、「大空」と「大空の上にある水」がどのようなものであるかということについて、いくつかの見方を検討しながらお話ししました。「大空」と訳されたラーキーアという言葉から、直ちに、昔の人々が「大空」を堅いドーム型のものであると考えていたとか、聖書がそのような考え方を支持していると主張することはできません。
また、「大空の上にある水」は現在の「雲」のことであって、ある人々が想定している、洪水前に地球を覆っていたという「水の粒子の層」であると考える理由はないこともお話ししました。
「大空の下にある水」は、9節、10節で、
神は「天の下の水は一所に集まれ。かわいた所が現われよ。」と仰せられた。するとそのようになった。神は、かわいた所を地と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。
と言われていることから、基本的には海の水のことですが、地下水や川の水も、これに含まれると考えられます。
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8節では、
神は、その大空を天と名づけられた。
と言われています。この「名づけられた」と訳されている言葉(カーラー)は、文字通りには「呼ぶ」ことを表わしています。原文には「名」という言葉はありませんが、つけられた名である「天」が出てきますので、ここで神さまが名をつけられたということが分かります。
創造の記事の中で神さまが名をつけられたことは、5節、この8節、そして10節に出てきます。5節では、
神は、この光を昼と名づけ、このやみを夜と名づけられた。
と言われており、10節では、
神は、かわいた所を地と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。
と言われています。
これらは、私たちが住んでいますこの地に対してなされた、神さまの創造の御業の最初の三つの御業で、その後に造られるすべてのものを支えるものです。それで、人間を初めとして、地上に存在する生き物や植物にとって、最も基本的な環境をなしています。「昼」と「夜」は、時間的な生活のリズムを刻むものです。そして、「天」と名づけられた「大空」は、後ほどお話ししますが、大気圏を形成するものとして、決定的に大切なものです。そして、「地」と「海」の大切さについては、改めて言うまでもないことです。
これらの、人間を初めとして、地上に存在する生き物や植物にとって、最も基本的な環境をなしているものには、神さまご自身が名をおつけになりました。
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このことの意味を理解するためには、聖書における「名をつけること」の意味を理解する必要があります。聖書においては「名をつけること」にはいくつかの意味があります。
第一には、名をつけた側が、名をつけられた側の上に主権や所有権を持っていることを示しています。
たとえば、バビロンの王ネブカデネザルに仕えるためにバビロンに連れて行かれたダニエル、ハナヌヤ、ミシャエル、アザルヤについて、ダニエル書1章7節では、
宦官の長は彼らにほかの名をつけ、ダニエルにはベルテシャツァル、ハナヌヤにはシャデラク、ミシャエルにはメシャク、アザルヤにはアベデ・ネゴと名をつけた。
と言われています。
同じように、列王記第二・23章34節には、
ついで、パロ・ネコは、ヨシヤの子エルヤキムをその父ヨシヤに代えて王とし、その名をエホヤキムと改めさせ、エホアハズを捕えて、エジプトへ連れて行った。エホアハズはそこで死んだ。
と記されていて、エジプトの王が征服したユダヤに自分の眼鏡にかなった王を立てて、その王に新しい名をつけています。さらに、24章17節には、
バビロンの王は、エホヤキンのおじマタヌヤをエホヤキンの代わりに王とし、その名をゼデキヤと改めさせた。
と記されていて、今度は、バビロンの王が、征服したユダヤに自分の眼鏡にかなった王を立てて、その王に新しい名をつけています。
また、創世記2章19節で、
神である主が、土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造られたとき、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人が、生き物につける名は、みな、それが、その名となった。
と言われている、人間が生き物たちに名をつけたことも、1章28節で、
神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」
と言われているように、「神のかたち」に造られている人間に委ねられている権威によることです。
ただし、この場合は、人間が罪を犯して堕落する前のことですので、生き物たちを搾取するために自らの権威を示しているのではありません。むしろ、これは、それぞれの生き物の特性を理解して、それを表わす名をつけたことを意味しています。当面の目的としては、そのようにしてそれぞれの生き物に名をつけたけれども、「ふさわしい助け手」は見つからなかったということになります。より広い文脈からは、これは、神さまが委ねてくださった生き物たちとの関係を確立し、それぞれの生き物の特性を知ったうえで、それをよりよく生かすように「お世話する」ために名をつけたのです。
ついでに申しますと、人が生きものたちに名をつけたことはこのような意味をもっていることで、たとえば、犬に「ポチ」というような自分の好きな名前をつけるというのとは違います。人が一つの生き物に名をつけることだけでも、その生き物をしっかり観察してその特性を把握しなければなりませんでした。それには、それなりの時が必要であったはずです。実際には、2章20節に、
こうして人は、すべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけたが、人にはふさわしい助け手が、見あたらなかった。
と記されていますように、その時、人は神さまが連れてこられたあらゆる鳥と野の獣と家畜に名をつけました。このことのためには、かなりの日数を要したと考えられます。しかも、それは「ふさわしい助け手」としての女性の創造の前のことですから、創造の御業の第六日になされたことです。この点からも、創造の御業の日を地上の24時間であったと考えることはできないと思われます。
「名をつけること」の意味に戻りますが、第二に、「名をつけること」は、名をつけた側が、名をつけられた側に、特性や機能や役割などを与えていることを示しています。ただし、人間が名をつける場合には、造り主である神さまが与えておられる特性や機能や役割を見出して名をつけるということになります。
このことは、今お話ししました、最初の人が生き物に名をつけたことに現われています。また、創世記2章23節では、最初の人が最初の女性に出会ったとき、
これこそ、今や、私の骨からの骨、
私の肉からの肉。
これを女と名づけよう。
これは男から取られたのだから。
と言ったと記されています。また、3章20節では、
さて、人は、その妻の名をエバと呼んだ。それは、彼女がすべて生きているものの母であったからである。
と記されています。
さらに、マタイの福音書1章21節で、御使いがヨセフに、
マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。
と言ったと記されているのも、同じことを示しています。イエスという名は、「主は救い」あるいは「主は救う」という意味のヘブル語名のヨシュアに当たるギリシャ語名です。ヨシュアは、モーセの後継者で、イスラエルの民を約束の地であるカナンに導き入れた指導者です。
第三に、「名をつけること」は、名づけた側が、名をつけられた側に、その主権によって、与える約束、保護などの恵みを示しています。
たとえば、創世記17章5節では、神である主が、その時までアブラムと呼ばれていたアブラハムに向かって、
あなたの名は、もう、アブラムと呼んではならない。あなたの名はアブラハムとなる。わたしが、あなたを多くの国民の父とするからである。
と言われた、と記されています。ちなみに、アブラハムという名の意味は、「多くの者の父」です。
第四に、「名をつけること」には、告白や記念として名をつけるということがあります。
たとえば、創世記4章1節では、
人は、その妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み、「私は、主によってひとりの男子を得た。」と言った。
と言われています。この「ひとりの男子」の「男子」と訳されている言葉(イーシュ)は、「成人した男性」を表わす言葉です。エバはすでに、その子が成人したときの姿を思い描いていrるようです。このことは、それに先立つ3章15節に記されている、
わたしは、おまえと女との間に、
また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
敵意を置く。
彼は、おまえの頭を踏み砕き、
おまえは、彼のかかとにかみつく。
という、神である主の「蛇」の背後にいる存在、すなわち、サタンに対するさばきの言葉に約束されている、サタンの頭を踏み砕く「女の子孫」が与えられるという約束を踏まえてのことであると考えられます。
カインという名は、「得る」ということを意味するヘブル語のカーナーという言葉と語呂合わせをした名前であると考えられます。エバは、3章15節の約束を信じ、カインが、そのサタンの頭を踏み砕く「女の子孫」であると考えてそのように名をつけたと考えられます。
同じことは、4章25節で、
アダムは、さらに、その妻を知った。彼女は男の子を産み、その子をセツと名づけて言った。「カインがアベルを殺したので、彼の代わりに、神は私にもうひとりの子を授けられたから。」
と言われていることにも当てはまります。この「もうひとりの子」の「子」と訳された言葉(ゼラ)は、「女の子孫」の「子孫」と同じ言葉です。
「名をつけること」には、これらの意味が考えられますが、一つの事例に一つの意味しか当てはまらないということではありません。時には、いくつかの意味があると考えられる場合があります。
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創造の記事が示していますように、何よりも、神さまご自身が名をおつけになる方であることが分かります。
イザヤ書40章26節では、
目を高く上げて、
だれがこれらを創造したかを見よ。
この方は、その万象を数えて呼び出し、
一つ一つ、その名をもって、呼ばれる。
この方は精力に満ち、その力は強い。
一つももれるものはない。
と言われています。神さまは、無数とも思える天の「万象」をお造りになった方です。
それは、宇宙の素材をこねていたら色々なものが出来たけれども、その一つ一つとなると、それがどのようなものか、すべて分かるわけではない、というような意味でお造りになったということではありません。
一つ一つ、その名をもって、呼ばれる。
ということは、無数とも思える天の「万象」の「一つ一つ」の位置や特性を完全に知っておられるし、その特性にしたがって支えておられることを意味しています。
ですから、本当の意味で「名をつける」方は、造り主である神さまご自身です。「神のかたち」に造られている人間は、神さまが名をおつけになることに倣って、身の回りのものに名をつけています。
そのことは、先ほど引用しました創世記2章19節で、
神である主が、土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造られたとき、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人が、生き物につける名は、みな、それが、その名となった。
と言われていることに表われています。ここで、人間が生き物たちに名をつけたことは、造り主である神さまとの関わりを示しています。言い換えますと、人間は自分の回りにあるものに「名をつけること」によって、自分が神さまとつながっていることを表わしています。というのは、すでにお話ししましたように、人間が生き物たちに名をつけることに関わる「権威」は、1章28節に記されている、
生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。
という使命とともに、造り主である神さまから委ねられたものであるからです。
また、人間がつけた名が表わしている、生き物たちの特性や特徴や特性などは、人間が造り出したものではありませんし、人間が決めたものでもありません。それらは、神さまが造り出されたものです。人間は、神さまがお造りになった生き物たちの立場や特徴や特性などをしっかりと観察して、受け止めただけです。そして、観察の結果を名をつけることを通して表わしているわけです。
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さて、創世記1章8節で、
神は、その大空を天と名づけられた。
と言われていますように、神さまは、ご自身がお造りになった「大空を天と」と名づけられました。
このことには、先ほどお話ししました「名をつけること」に関わる意味がいくつか当てはまると考えられます。―― ただし、すべての意味が同じような重さを持っているとは言えないかもしれません。おそらく、
神は、その大空を天と名づけられた。
ということで、最も基本的な意味は、そこに造り主である神さまの主権や所有権が表わされているということでしょう。また、後ほどお話ししますが、「大空」に「天」という位置や役割が与えられたということも意味していると考えられます。さらに、神さまが、人間を初めとする生き物や植物など、地上の存在にとって最も基本的な環境を形成するものの一つである「大空」をお造りになったことを「記念する」という意味がないとは言えないように思われます。
具体的に、「天」と名づけられている「大空」がどのようなものとして描かれているか、また、どのような役割を担っているかを、創造の記事に則して見てみましょう。
1章6節、7節では、
ついで神は「大空よ。水の間にあれ。水と水との間に区別があるように。」と仰せられた。こうして神は、大空を造り、大空の下にある水と、大空の上にある水とを区別された。するとそのようになった。
と言われていました。
「大空」は、「大空の下にある水」と「大空の上にある水」を区別する役割を果たしています。「大空」が造られるまでは、地は、2節で言われていますように、「大いなる水」に覆われていました。また、第一日目に(太陽の)光があるようにされたことによって、「大いなる水」から出る水蒸気にも覆われていたのではないかと思われます。神さまが、この「大いなる水」を「大空の下にある水」と「大空の上にある水」として区別してくださることによって、今日で言う「大気圏」が形成されました。
これによって、地は晴れ渡って、第一日に地にあるようにされた光が、より豊かに地に注がれるようになりました。そして、これが、第三日に植物が生じるようになるための条件が整えられていく第一歩となりました。
その意味で、「天」と名づけられている「大空」による大気圏の形成は、9節、10節で、
神は「天の下の水は一所に集まれ。かわいた所が現われよ。」と仰せられた。するとそのようになった。神は、かわいた所を地と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神は見て、それをよしとされた。
と言われている、御業へとつながっています。
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「大空」は「大空の下にある水」と「大空の上にある水」を区別する役割を果たしていますが、このことの意味を示す重要な例は創世記7章11節、12節です。そこでは、
ノアの生涯の六百年目の第二の月の十七日、その日に、巨大な大いなる水の源が、ことごとく張り裂け、天の水門が開かれた。そして、大雨は、四十日四十夜、地の上に降った。
と言われています。
11節前半の
巨大な大いなる水の源が、ことごとく張り裂け
という言葉は、地殻変動によって地下水があふれ出たり、貯まっていた水があふれ出るような状態になったことを示していると考えられます。その意味で、これは、1章9節の、
神は「天の下の水は一所に集まれ。かわいた所が現われよ。」と仰せられた。するとそのようになった。
ということを意識したものであると考えられます。
そして、7章11節後半の
天の水門が開かれた。
という言葉は、「大空の上にある水」のことを意識したものであると考えられます。
このように、「大空」が「大空の下にある水」と「大空の上にある水」を区別する役割を果たしていることは、地上にあるものにとって重大な意味をもっています。それは、今日の言葉で言いますと、大気の循環のシステムがうまく保たれているということです。ただ単に、「大空の上にある水」が上に保たれているというだけでなく、必要に応じて、地を潤すために、地に水が注がれるようになるということを意味しています。すなわち、地には、乾いた状態の時と、水が注がれるときが別れてあるようになったということです。
また、熱くなると水蒸気が蒸発して、気化熱が奪われて涼しくなります。さらには、蒸発が進むと凝結した水蒸気が雨となって地に注がれて、地を冷やします。それによって、極端な温度の変化がないように保たれます。
これは、人間や生き物たちの成長や、神さまが人間や生き物たちの食料となるようにと生えさせてくださるようになる、実を結ぶ植物の生長にとっても、とても大切なことです。
詩篇65篇9節、10節では、
あなたは、地を訪れ、水を注ぎ、
これを大いに豊かにされます。
神の川は水で満ちています。
あなたは、こうして地の下ごしらえをし、
彼らの穀物を作ってくださいます。
地のあぜみぞを水で満たし、そのうねをならし、
夕立で地を柔らかにし、
その生長を祝福されます。
と歌われています。また、詩篇147篇8節、9節では、
神は雲で天をおおい、
地のために雨を備え、
また、山々に草を生えさせ、
獣に、また、鳴く烏の子に
食物を与える方。
と歌われています。
このように、神さまは神のかたちに造られている人間と、人間に委ねられた生き物たちにとっての基本的な環境に名をつけられることによって、神さまがそれらに委ねられている位置と役割を確立しておられます。そして、それをご自身の主権の下においてくださることによって、それらが真実に保たれていくことを保証してくださっています。
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