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説教日:2002年1月6日 |
この「大空」と訳されている言葉は、ラーキーアです。これは名詞ですが、その動詞形であるラーカァには、「拡げる」(詩篇136篇6節、イザヤ書42章5節、44章24節)、「打ち延ばす」(出エジプト記39章3節)、「かぶせる」(イザヤ書40章19節)、「張り延ばす」(ヨブ記37章18節)というように、金属を打ち延ばして器にするというような意味があります。これは、ヘブル語だけでなく、古代オリエントの言語において見られることです。このことから、しばしば、古代世界においては、大空は固くてボウル状のもので、地の上に据えられていると考えられていて、それが、古代イスラエルにおいても受け入れられていた、と主張されています。(L.I.J. Stadelmann, Hebrew Conception of the World. Ana. Bib., 39, Rome: Biblical Institute Press, 1970, pp.56-60 ) けれども、古代オリエントの人々が、大空は地の上に据えられた固いドームのようなものであると考えていたとしても、そして、当時のイスラエルでも、人々がそのように信じていたとしても、聖書がそのような考え方を、「取りあえず」であったとしても、受け入れているかどうかは、聖書から学ぶほかはありません。 「大空」と訳されているラーキーアの動詞形であるラーカァが金属を打ち延ばすことを表わすときに用いられるということで、ラーキーア(大空)も、固いものを表わしているとか、ラーカァが金属を打ち延ばして、ボウルのような形の器を作ることを表わすのに用いられているから、ラーキーア(大空)によって表わされているものも、ボウル形の器であると考えられていたと、直ちに主張することには、疑問符をつけなくてはなりません。というのは、ラーキーア(大空)とラーカァが関連する言葉であっても、ラーキーア(大空)が表わしていることがどのようなものであるかは、ラーキーア(大空)が使われている用例から考えるべきであるからです。そのような用例が他にないときに初めて、関連語であるラーカァの用例からラーキーア(大空)の意味を推測するということになります。 ラーキーアという言葉は、創世記1章6節、7節、8節、14節、15節、17節、20節、詩篇19篇1節、150篇1節、エゼキエル書1章22節、23節、25節、26節、10章1節、ダニエル書12章3節に出て来ます。 この言葉は、今日の私たちの「天球」という言葉のように、それ自体が、絵画的、詩的な言葉です。そして、それも、詩的な描写として用いられている場合に、「固い」とか「ボウルのような形」というニュアンスを伝えるだけです。 アンダーセンは、ヨブ記37章18節への注解において、次のように述べています。 地上から見る者には、空が、しっかりしていて固いものに見えるものである。「科学的な」正確さということをもちだしてきて、空を詩的に「鋳た鏡」と比較することに難癖をつけるべきではない。ヘブル人は、天の構造が、いわゆる「ひっくり返ったボウル」の構造よりも、はるかに複雑であることを、よく承知していた。( F.I. Andersen, Job. TOTC, p.267 ) 創世記1章6節〜8節の描写においては、神さまは、「大空」(ラーキーア)は「水の間に」あって、「大空の下にある水」と「大空の上にある水」とを区別するようにされました。7節に、 こうして神は、大空を造り、大空の下にある水と、大空の上にある水とを区別された。 と記されていますように、神さまは「大空」(ラーキーア)を打ち延ばされた(ラーカ)のではなく、造られた(アーサー)と言われています。 この「大空」の創造を記している記事との関連で、バビロニアの創造神話であるエヌマ・エリシュに記されていることを見てみましょう。エヌマ・エリシュでも大空の創造が「光」の後、そして「陸地」の前にあるという点で、聖書の創造の御業の記事と一致しています。(J.B.Pritchard,ed.,ANET, pp67, 501-502.)エヌマ・エリシュでは、バビロニアの主神であるマルドゥクが、敵であり、海の水を人格化した怪獣ティアマトを殺し、それを二分して、その半分で大空を造ったと言われています。その上で、マルドゥクは、かんぬきを掛け、見張り(ガード)を置いて、ティアマトの体のうちで大空を形造るのに用いられた部分の水が逃げないようにしたと言われています。(ANET, pp67.) ある人々は、創世記1章2節で、 地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。 と言われているときの「大いなる水」をティアマトに当たるものであると考えています。今日では、そのように考える人はほとんどいないと思いますが、そのように考える人々の目からは、神さまが「大空の下にある水」と「大空の上にある水」とを区別されたことは、マルドゥクがティアマトの体を二つに切り裂いたことと同じことを述べているように見えることでしょう。 しかし、このような皮相的な類似の奥には、より大きな相違があります。最も大きな違いは、創世記1章1節〜2章3節に記されている創造の御業の記事においては、造り主である神さまに敵対する存在は一つもないということです。1章2節において、 地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、 と言われていますが、そのどれも神さまに敵対するものではありません。その意味で、ここには、ティアマトに当たる、神さまに敵対する存在はありません。 この、6節〜8節に記されている「大空」は、どのようなものでしょうか。 これは、今日で言うところの「宇宙空間」のことではありません。それは、この「大空」が「大空の下にある水」と「大空の上にある水」とを区別するものであるという、6節〜8節の描写そのものから分かることです。 これに対しまして、14節〜18節では、 ついで神は、「光る物は天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、日のため、年のために、役立て。天の大空で光る物となり、地上を照らせ。」と仰せられた。するとそのようになった。それで神は二つの大きな光る物を造られた。大きいほうの光る物には昼をつかさどらせ、小さいほうの光る物には夜をつかさどらせた。また星を造られた。神はそれらを天の大空に置き、地上を照らさせ、また昼と夜とをつかさどり、光とやみとを区別するようにされた。 と言われています。 「光る物」とは、今日で言う「天体」のことです。それが「天の大空」にあると言われています。そうであれば、「大空」は今日で言う「宇宙空間」のことではないか、と言われるかもしれません。 しかし、創世記1章1節〜2章3節に記されています創造の御業の記事の理解にとってとても大切なことですが、創造の御業の記事におきましては、1章2節で、視点が「地」に移されていて、2節以下に記されている記事は「地」からの視点で記されています。それで、この14節〜18節で言われているのは、「地」からの視点で見たときに「大空」にあると見える天体のことを記しているわけです。 14節〜18節に記されていることの啓示としての関心は、今日の天文学的な知識を持っている人々だけに理解できる宇宙空間にはありません。あくまでも、「地」からの視点で見たときに「大空」にあると見える天体のことを述べています。それは、いつの時代の人にとっても共通の関心事です。ですから、14節〜18節の描写は、宇宙空間というものを否定しているわけではありませんが、その当時の人々が知らない宇宙空間というものを念頭に置いていないのです。 もちろん、この広大な宇宙空間は、造り主である神さまがお造りになったものです。そのことは、1章1節の、 初めに、神が天と地を創造した。 という言葉から分かります。また、それと合わせて見る必要がありますが、14節〜18節で、「地」からの視点で見たときに「大空」にあると見える天体も、16節に、 それで神は二つの大きな光る物を造られた。大きいほうの光る物には昼をつかさどらせ、小さいほうの光る物には夜をつかさどらせた。また星を造られた。 と記されていますように、神さまがお造りになったものであると言われていることからも分かります。 これらのことから、第二日目に造られた「大空」は、今日で言う「空」のことであり、「大気圏」のことであると考えられます。 次に、「水」について見てみましょう。1章2節では、 地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。 と言われていますように、「大いなる水」が「地」を覆っていましたので、「地」は「大いなる水」の下に隠れていました。この「大いなる水」が、ここで、「大空」によって、「大空の下にある水」と「大空の上にある水」とに分離されました。 さらに、第三日の御業を記している9節、10節で、 神は「天の下の水は一所に集まれ。かわいた所が現われよ。」と仰せられた。するとそのようになった。神は、かわいた所を地と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。 と言われていますように、「大空の下にある水」は、やがて一所に集めらるようになります。これによって、「地」と「海」が造られます。 このようにして、「地」が「大いなる水」によって覆われてしまっていた状態の中から、大気圏が造られ、今日の海と陸とが造られました。そして、これが、草や木、さらに、さまざまな生き物たちが住むことができる世界、また、「神のかたち」に造られる人間が住むことができる世界として造られていきます。 ですから、私たちが住んでいるこの世界は、元来、「大いなる水」によって覆われていたものであり、その「大いなる水」が「大空」によって、「大空の下にある水」と「大空の上にある水」とに分離され、さらに、「大空の下にある水」が一所に集められることによって、やっと、現われてくることができたものです。私たちが当然のように歩き回っているこの大地も、このような神さまの創造の御業のお働きによって整えられたものであり、同じ神さまの御手によって保たれています。私たちはこのことを心に銘記しておかなければなりません。ペテロの手紙第二・3章3節〜7節には、 まず第一に、次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、次のように言うでしょう。「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。先祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」こう言い張る彼らは、次のことを見落としています。すなわち、天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によって成ったのであって、当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。 と記されています。 このように、「大空の下にある水」は、やがて「海」として集められるようになる水であることが分かります。それでは、「大空の上にある水」とは、一体、何でしょうか。 これに対しては、三つほどの考え方があります。 第一は、「大空の上にある水」は、空にある「雲」のことであるという見方です。第二は、「大空の上にある水」は、「宇宙の水」のことであるという見方です。第三は、「大空の上にある水」は、ノアの時代の大洪水の前まで、地球を取り囲んでいた(とされている)、微粒子状の水の層ことであるという見方です。 第二の「宇宙の水」という見方についてですが、今日では、宇宙には、色々な形で水が存在していることが指摘されています。けれども、それが、創世記1章6節〜8節で言われている「大空の上にある水」であると考えることはできません。というのは、「大空の上にある水」は、もともと「地」を覆っていた「大いなる水」の一部であり、「大空」によって、「大空の上にある水」として分離されたものです。その意味で、この「大空の上にある水」は「地」に属する水であると考えられるからです。 さらに、先程もお話ししましたように、この創世記の記事においては、今日の天文学的な知識をもってして初めて分かるようになるものの存在に対する関心はありません。 第三の、ノアの時代の大洪水の前まで、地球を取り囲んでいたとされている、微粒子状の水の層であるという見方は、創造科学研究所にかかわっている方々の見方で、日本の福音派の信徒の方々にかなり広まっている見方です。 この見方を採る人々は、最初に造られた時の地球は、「大空の上にある水」と呼ばれる微粒子状の水の層に取り囲まれていたので、外からやって来る有害な宇宙線の破壊的な作用から守られていたと言います。また、「温室効果」によって、地球全体の気候を一律に温暖なものにしていたと言います。それで、今日、化石となって出てくる巨大な植物や動物が存在していたことや、それが今日では寒冷地となっている所からも出てくること、さらには、洪水の前の父祖たちが、今日では考えられないような長寿であったことが説明できると言うのです。 そして、今日、この地球を取り囲む(とされている)微粒子状の水の層がないのは、ノアの洪水の時に地に注がれてしまったからであると言います。ですから、この見方では、今日では「大空の上にある水」は存在していないということになります。 これを支持するものとして、ペテロの手紙第二・3章5節、6節の、 天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によって成ったのであって、当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。 という御言葉が挙げられています。「大空の上にある水」が分けられたことによって地が現われ、その同じ水によって滅んでしまったと言うのです。 まず、私たちが心に留めておかなければならないことは、かつて地球を取り囲んでいた微粒子状の水の層が存在していたかどうかは、今日では確かめることはできないということです。つまり、この見方は、そのようなものがあったと仮定することの上に成り立っているということです。 もちろん、そのようなものでも、確かに、聖書がそのようなものが存在していたということを示しているのであれば、その存在を認めなければなりません。そうしますと、先ほどの、ペテロの手紙第二・3章5節、6節の、 天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によって成ったのであって、当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。 という御言葉を、どのように考えたらいいのかという問題が出てきます。結論的に言いますと、このペテロの言葉は、「大空の上にある水」が地球を取り囲んでいた微粒子状の水の層であるということを意味するわけではありません。「大空の上にある水」が雲であっても、同じように言えます。 これに対して、この見方を採る人々は、普通の雲では、ノアの洪水の時に「四十日四十夜」(創世記7章4節、12節)も大雨を降らせることはできないと言います。 けれども、ノアの時代の洪水は、終末のさばきを予表する神さまの特別な御業による出来事です。その時、今日知られている自然法則を超える出来事が起こったであろうことは、十分、考えることができます。 さらに、重大な反論があります、創世記9章13節〜15節に記されていますように、神さまは、洪水の後に、ノアを通して契約を与えてくださり、 わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それはわたしと地との間の契約のしるしとなる。わたしが地の上に雲を起こすとき、虹が雲の中に現われる。わたしは、わたしとあなたがたとの間、およびすべて肉なる生き物との間の、わたしの契約を思い出すから、大水は、すべての肉なるものを滅ぼす大洪水とは決してならない。 と言われました。 まず確認しておきたいことは、神さまがこのような契約を与えてくださったのは、ノアの時代の後にも、再び大洪水は起こりえるけれども、神さまがこの契約のゆえに、再び全ての生き物を滅ぼすような大洪水を起こすことはなさらないということを約束してくださったものであるということです。このことを踏まえて、かりに、この「大空の上にある水」が地球を取り囲んでいた微粒子状の水の層であるという見方が正しいとしましょう。そうしますと、ノアの時代の大洪水によって、地球を取り囲む微粒子状の水の層がなくなってしまったので、もう、大洪水は起こりえない状況になったということになります。そうであれば、わざわざ、ノアを通して、このような契約を与えてくださるまでもなかったわけです。 先に触れましたように、この「大空の上にある水」が地球を取り囲んでいた微粒子状の水の層であるという見方を採る人々は、洪水の前の父祖たちが、今日では考えられないような長寿であったことに注目します。そして、それは、ノアの時代の大洪水の前の地球が、微粒子状の水の層に取り囲まれていたために、外からの有害な宇宙線の破壊的な作用から守られており、「温室効果」によって、地球全体の気候が一律に温暖なものであったからであると言います。 また、この見方を採る人々は、これと関連して、初期の地球に巨大な植物が繁茂しており、巨大な生き物が生息していたことにも注目しています。それも、ノアの時代の大洪水の前の地球が、微粒子状の水の層に取り囲まれていたために、外からの有害な宇宙線の破壊的な作用から守られており、「温室効果」によって、地球全体の気候が一律に温暖なものであったからであると言います。 けれども、このことにも、問題があります。 初期の地球に巨大な植物が繁茂しており、巨大な生き物が生息していたことについては、聖書に記述がありません。(このことにつきましては、後で簡単に触れます。)それで、聖書から直接的に論ずることはできません。ここでは、洪水の前の父祖たちのことだけをお話しします。 確かに、創世記5章に記されている、洪水の前に生きていた父祖たちの寿命は、九百年前後です。これに対して、創世記11章10節〜26節に記されている、洪水の後に生まれた父祖たちの寿命は、せいぜい、四百数十年です。ですから、洪水を境にして、父祖たちの寿命がほぼ「半減」していることが分かります。このことは、大洪水の前の地球が、微粒子状の水の層に取り囲まれていたということを支持するかのように見えます。 しかし、もう少しよく見てみますと、洪水の後、父祖たちの寿命は、もう一度「半減」しています。創世記11章10節〜26節には、 セムは百歳のとき、すなわち大洪水の二年後にアルパクシャデを生んだ。セムはアルパクシャデを生んで後、五百年生き、息子、娘たちを生んだ。アルパクシャデは三十五年生きて、シェラフを生んだ。アルパクシャデはシェラフを生んで後、四百三年生き、息子、娘たちを生んだ。シェラフは三十年生きて、エベルを生んだ。シェラフはエベルを生んで後、四百三年生き、息子、娘たちを生んだ。エベルは三十四年生きて、ペレグを生んだ。エベルはペレグを生んで後、四百三十年生き、息子、娘たちを生んだ。ペレグは三十年生きて、レウを生んだ。ペレグはレウを生んで後、二百九年生き、息子、娘たちを生んだ。レウは三十二年生きて、セルグを生んだ。レウはセルグを生んで後、二百七年生き、息子、娘たちを生んだ。セルグは三十年生きて、ナホルを生んだ。セルグはナホルを生んで後、二百年生き、息子、娘たちを生んだ。ナホルは二十九年生きて、テラを生んだ。ナホルはテラを生んで後、百十九年生き、息子、娘たちを生んだ。テラは七十年生きて、アブラムとナホルとハランを生んだ。 と記されています。 この記録から分かりますように、洪水後の父祖たちの寿命は四百数十年でした。しかし、18節に記されているペレグ以後の父祖たちにおいては、二百数十年になっています。 この寿命の半減は、一体何によったのでしょうか。それを理解する鍵は、創世記10章25節に、 エベルにはふたりの男の子が生まれ、ひとりの名はペレグであった。彼の時代に地が分けられたからである。 と記されていることです。 「彼の時代に地が分けられた」と言われていることから分かりますように、ペレグの時代に、創世記11章1節〜9節に記されている、バベルにおけるさばきが執行されたのです。それによって、地球環境に劇的な変化があったわけではなかったのですが、父祖たちの寿命は半減しています。ですから、人間の寿命は、神さまのさばきによって短くなったのであると考えられます。その意味で、ノアの時代の大洪水によるさばきの後の寿命の半減も、地球を取り巻くとされる微粒子状の水の層が無くなったためであると、考えなければならないわけではありません。 これらのことから、「大空の上にある水」が地球を取り巻く微粒子状の水の層であるとする説を積極的に支持するものはありません。言い換えますと、ノアの時代の大洪水以前には、地球を取り巻く微粒子状の水の層があったと考えなくてはならない理由はないということです。 さらに、創世記の記事は、神さまの創造の御業の全てを記しているのではありません。それは、その記事を読む人々にとって意味あることを記しています。それによって、私たちが、自分の住んでいるこの世界と自分自身を造り主である神さまとの関係において理解し、自分たちの存在の意味を理解するための土台、あるいは、原理を把握することができるようにしているのです。 ということは、創世記の記事は、ある特定の時代の人々にしか知ることができないようなことは、取り上げていないということです。たとえば、先ほど触れました、初期の地球に繁茂していた巨大な植物や、恐竜などの巨大な生き物のことなどが書かれていないのは、それらの存在が、その当時の人々に知られていなかったからです。そのようなもののことを記せば、無用な混乱を増すだけです。地球を取り巻くとされる微粒子状の水の層の存在も、その時代の人々に知られていたわけではありませんし、今日でも知られていません。 それで、「大空の上にある水」は、今日で言う、「雲」のことであると考えれば、一番すっきりします。 ところが、E. J. ヤングは、大空の上の水が雲を指しているという見方は、水が大空の「上にある」ということを正当に扱っていない、と言っています。 けれども、たとえば、詩篇148篇4節では、 主をほめたたえよ。天の天よ。 天の上にある水よ。 と言われています。この「天の上にある水」は、広く人々に知られている「天の上にある水」です。そして、この詩篇が記されたときにも存在している「天の上にある水」です。それで、それは、雲のことを指していると考えられます。そうであれば創世記1章6節〜8節に出てくる「大空の上にある水」も、雲のことであると考えることができます。 ここでも、「大空の上にある」ということで、今日の天文学的な知識を持っている者の発想や感覚を持ち込まないようにしなくてはなりません。今日では、地球も宇宙の小さな惑星の一つでしかないことが分かっています。そのような者の感覚では、「大空の上にある」と言えば、地球の外のような感じがします。そして、雲は、それよりか、地球の近くに発生するものであるような感じがします。けれども、その当時の人々の感覚では、雲は、天高くあったことでしょう。 いずれにしましても、創世記1章6節〜8節の「大空の上にある水」は雲のことであるという見方で、何か不都合なことが生じることはありません。そうであれば、そもそも、その存在があったかどうかも分からない、地球を取り巻くとされる微粒子状の水の層があったということを想定する必要はありません。 |
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