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説教日:2001年12月2日 |
これらは、私たちが住んでいるこの世界にある植物の生長や動物たちのいのちの営みにとって決定的に大切なものです。神さまが、このような「区別」をしてくださったことによって、私たちの住んでいる世界の秩序が、空間的ばかりでなく、時間的・歴史的にも確立されたと考えられます。 空間的には、「上の水」と「下の水」を区別することによって大気圏を形成してくださることにより、植物や動物が生息するこの地上が、適度に乾燥しつつ、必要な潤いが与えられるという、大気の循環のシステムが確立されたということです。熱によって温度が上昇してくると、水蒸気が蒸発して蒸発熱によって気温が下がるとともに、蒸発した水蒸気が雨となって地上を潤すようになります。 このような大気の循環のシステムがなかったとしたら、地上はからからに乾いてしまうか、絶えず水浸しの状態で、植物の根も種も腐ってしまうでしょうし、地上の生き物にとっても厳しい世界となってしまっていたことでしょう。 さらに、神さまが、 大空の下にある水と、大空の上にある水とを区別された。 ことがどのような意味をもっているかということは、かつて、ノアの時代に、人間の罪が極みに達したときに、神さまが、この「区別」を取り除かれたこととの対比を通しても考えることができます。 そのことを記す創世記7章11節、12節では、 ノアの生涯の六百年目の第二の月の十七日、その日に、巨大な大いなる水の源が、ことごとく張り裂け、天の水門が開かれた。そして、大雨は、四十日四十夜、地の上に降った。 と言われています。ノアの時代の大洪水によるさばきは、神さまが創造の御業において「区別」された「大空の下にある水と、大空の上にある水」の「区別」を取り除かれたことによってもたらされました。 創世記9章9節~11節にありますように、大洪水によるさばきの後、神さまは、ノアとその家族に、 さあ、わたしはわたしの契約を立てよう。あなたがたと、そしてあなたがたの後の子孫と。また、あなたがたといっしょにいるすべての生き物と。鳥、家畜、それにあなたがたといっしょにいるすべての野の獣、箱舟から出て来たすべてのもの、地のすべての生き物と。わたしはあなたがたと契約を立てる。すべて肉なるものは、もはや大洪水の水では断ち切られない。もはや大洪水が地を滅ぼすようなことはない。 と約束し、契約をもって保証してくださいました。 この契約に基づいて、神さまは、今日に至るまで、創造の御業において「区別」された「大空の下にある水と、大空の上にある水」の「区別」を保ち続けてくださっておられます。それで、人間の歴史は保たれています。 このことを受けて、ペテロは、ペテロの手紙第二・3章3節~7節に記されていますように、 まず第一に、次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、次のように言うでしょう。「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。先祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」こう言い張る彼らは、次のことを見落としています。すなわち、天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によって成ったのであって、当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。 と教えています。 あざける人々は、 キリストの来臨の約束はどこにあるのか。先祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。 と言い張ります。「何事も創造の初めからのままではないか」というように、一応、この世界が「神」によって創造されたことは認めています。しかし、一旦、創造された世界は、その世界の法則のままに動いていくだけであって、そこに神さまが関わる余地はない、と言い張っているのです。このような立場を「理神論的な立場」といいます。 それに対して、ペテロは、今の世界が神さまの御言葉によって造られ、御言葉によって保たれていることを思い起こすように教えています。私たちは、ヘブル人への手紙1章2節、3節に記されています、 神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。 と言われている御子イエス・キリストのお働きを心に銘記していなければなりません。 創世記1章4節では、 そして神はこの光とやみとを区別された。 と言われています。これによって、3節で、 そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。 と言われている御業が、「地」に「光」を照らして、 地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり と言われている2節の段階で「大いなる水」を覆っていた「やみ」を、まったくなくしてしまうことではなかったことが分かります。それは、「光」と「やみ」という相反する性格をもったものに、それぞれ固有の位置と役割が与えられたことを意味しています。 神さまは、初めから「光」を「光」としてお造りなり、「やみ」を「やみ」としてお造りになりました。ですから、「光とやみ」が造られた時から、「光とやみ」の間には区別がありました。それは、「光とやみ」のそれぞれに固有の性質における区別です。ですから、神さまが、その「光とやみ」をさらに「区別された」ということは、「光とやみ」の性質の区別をつけられたということではありません。ここで、神さまが「光とやみとを区別された」ということは、「光とやみ」のそれぞれに、固有の位置や役割をお与えになったことを意味しています。 さらに、5節では、 神は、この光を昼と名づけ、このやみを夜と名づけられた。 と言われています。これによって、「光」と「やみ」に与えられている固有の位置と役割が、「昼」と「夜」という意味をもつようになったことが示されています。 このように、神さまが「光」と「やみ」を区別してくださって、それぞれに「昼」と「夜」という固有の意味と位置と役割を与えてくださったので、私たちの生活のリズムを根本から規定している「昼」と「夜」の入れ替わりが一定したものとなっています。 今日では、「昼」と「夜」の入れ替わりは「地球の自転」によっていることが分かります。それは、神さまがお造りになった地球のあり方を観察して分かったことです。それで、神さまは、「光」と「やみ」を区別してくださって、それぞれに「昼」と「夜」という意味を与えてくださったことを、現象的なメカニズムという観点からは、それを地球の自転を確立してくださることによって実現してくださっているということになります。 このことを、 そして神はこの光とやみとを区別された。神は、この光を昼と名づけ、このやみを夜と名づけられた。 という創造の御業の記事とかかわらせて言いますと、このことを成り立たせている地球の自転そのものが、造り主である神さまの創造の御業によって造り出されているということだけでなく、それが今日に至るまで真実な御手によって支えられているということを意味しているのです。「光」と「やみ」を区別してくださって、それぞれに「昼」と「夜」という意味を与えてくださったのは神さまです。それで、神さまは、このことを成り立たせている地球の自転そのものを、今日に至るまで真実な御手によって支え続けてくださっています。それによって、私たちの生活のリズムを根本から規定している「昼」と「夜」の入れ替わりが一定したものとなっています。この点においても、 あなたの真実は代々に至ります。 あなたが地を据えたので、 地は堅く立っています。 という、詩篇119篇90節の告白が当てはまります。 5節で、 神は、この光を昼と名づけ、このやみを夜と名づけられた。 と言われていますように、神さまは、「光とやみ」にそれぞれ固有の位置と役割をお与えになった後、「この光を昼と名づけ、このやみを夜と名づけられ」ました。 私たち人間は、ものごとに名前をつけることによって、ものごとを分類し整理します。それで、一般には、ものごとに名前をつけるのは人間のすることであり、この創造の記事では、人間がしている「名前をつけること」を、神さまに当てはめていると考えられるかもしれません。 しかし、聖書は、究極的に名前をつける方は造り主である神さまであるということを示しています。 人間は、ものごとに名前をつけて分類し、整理して理解しようとします。それは、すでに目の前にあるものごとの意味や価値を見つけようとすることです。そのものごとの意味や価値は、そのものごと自体や、それが関わるものとの関係の中に、すでにあるものです。人間は、その意味と価値を探り求め、その結果見つけ出した意味や価値にしたがって整理分類し、名前をつけます。 造り主である神さまが名前をつけられるのはこれと違います。神さまは、すべてのものごとをお造りになって、これを支えておられる方です。「あるもの」に意味と価値があるとすれば、それは、神さまがその「あるもの」を意味と価値をもつものとしてお造りになったからです。ですから、この世に存在しているすべてのものの意味と価値は、造り主である神さまの創造の御業によって造り出されたものです。 その意味で、造り主である神さまは、この世界に存在しているすべてのものの存在の源であるだけでなく、その意味と価値の源です。聖書の中では、名前は、その名前のついているものの性質・性格・特質・特徴などを表わします。そうであれば、造り主である神さまは、この世に存在しているすべてのものの名前(意味と価値)の源です。 ですから、神さまこそが、真に、ものごとに名前をおつけになる方です。これに対して、人間は、神さまがお造りになったものに、すでに「込められている」意味と価値を見つけ出して、理解します。そして、その理解したところにしたがって名前をつけます。名前をつけることにおいても、人間は「神のかたち」として、神さまにならって名前をつけているのです。 イザヤ書40章26節では、 目を高く上げて、 だれがこれらを創造したかを見よ。 この方は、その万象を数えて呼び出し、 一つ一つ、その名をもって、呼ばれる。 この方は精力に満ち、その力は強い。 一つももれるものはない。 と言われています。 神さまは、この広大な宇宙のすべてのものをお造りになっただけではありません。その一つ一つのものに名前をつけておられると言われています。それは、神さまが、ご自身のお造りになったすべてのものを、それが存在しているということだけでなく、一つ一つのものの特徴や特質を完全に知っておられること、また、一つ一つのものを、その特徴や特質にしたがって支えておられることを意味しています。 この世界のすべてのものをお造りになって、一つ一つのものに名前をつけておられる神さまは、特に、ご自身の民にその御目を向けてくださり、その名を呼んでくださいます。イザヤ書43章1節~4節では、 だが、今、ヤコブよ。 あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。 イスラエルよ。 あなたを形造った方、主はこう仰せられる。 「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。 わたしはあなたの名を呼んだ。 あなたはわたしのもの。 あなたが水の中を過ぎるときも、 わたしはあなたとともにおり、 川を渡るときも、あなたは押し流されない。 火の中を歩いても、あなたは焼かれず、 炎はあなたに燃えつかない。 わたしが、あなたの神、主、 イスラエルの聖なる者、 あなたの救い主であるからだ。 わたしは、エジプトをあなたの身代金とし、 クシュとセバをあなたの代わりとする。 わたしの目には、あなたは高価で尊い。 わたしはあなたを愛している。 と言われています。 1章1節~2章3節の天地創造の記事の中で、神さまが名前をおつけになったことは三回出てきます。1章5節で、 神は、この光を昼と名づけ、このやみを夜と名づけられた。 と言われた後、8節で、 神は、その大空を天と名づけられた。 と言われており、さらに10節で、 神は、かわいた所を地と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。 と言われています。 聖書において、「名前をつけること」には、いくつかの意味がありますが、基本的には、名前をつけた者が、名前をつけられたものの上に、主権や所有権をもっていることを意味しています。そして、そのようにして「あるもの」につけられた名前は、その「あるもの」の性質・性格・特質・特徴などを表わしています。 創造の御業において、神さまが名前をおつけになった「昼」と「夜」、「天」(と名づけられた「大空」)、そして「地」と「海」は、私たち人間にとって最も基本的な環境です。神さまは、それに対してご自身の主権と所有権を主張しておられます。それは、神さまがご自身の「縄張り」を主張しておられるということではありません。先ほど引用しましたイザヤ書40章26節にも示されていますように、この世界のすべてのものをお造りになった神さまは、その「すべてのもの」を所有しておられる方ですから、神さまの「縄張り」がどこかにあるわけはありません。 それなのに、この創造の御業においては、神さまが、特に、「昼」と「夜」、「天」(と名づけられた「大空」)、そして「地」と「海」に名前をおつけになったことが記されています。そして、これによって、神さまが、ご自身が名前をおつけになった「昼」と「夜」、「天」(と名づけられた「大空」)、そして「地」と「海」に対して、特別な主権と所有権を主張しておられるということが示されています。これは、いったいどういうことなのでしょうか。 それは、神さまが名前をおつけになった「昼」と「夜」、「天」(と名づけられた「大空」)、「地」と「海」が、私たち人間にとって最も基本的な環境であるということにかかわっていると考えられます。そして、そのような意味をもっている「昼」と「夜」、「天」(と名づけられた「大空」)、「地」と「海」に対して、ご自身が、特に心を注いでくださり、責任をもって支えてくださることを示してくださったものである、と考えられます。これらのものが、造り主である神さまの特別な主権の下におかれているので、私たちは、安んじてこの世界に足をつけて、委ねられた使命を果たしつつ歩むことがでるのです。 これまで、創世記1章3節~5節に記されている、神さまが「光」をお造りになったことの意味についてお話ししてきました。この記事の最後には、 こうして夕があり、朝があった。第一日。 と言われています。 一般にもよく知られていますように、創世記1章1節~2章3節の天地創造の御業の記事には、神さまがこの世界のすべてのものを六日間の御業によってお造りになり、七日目に休まれたことが記されています。 この「天地創造の御業のなされた日」をどのように考えるかについては、色々な意見が出されています。 大きく分けると、この「日」を、歴史的な時間としての「日」であるとする見方と、文学的な表現の枠組みとして「日」が用いられているとする見方があります。 「日」が文学的な表現の枠組みとして用いられているとする見方にも、たとえば、第一日と第四日が対応し、第二日と第五日が対応し、第三日と第六日が対応するように組み立てられているというものや、このような対応関係を見るとともに、全体を六日プラス一日という構成にして、「第七日」を強調することによって、自分たちの時代をこの「第七日」との関わりで理解すべきことを示す教育的な意味をもっているとするものなどがあります。 これらの、単に、文学的な表現の枠組みとして「日」が用いられているという見方では、創造の御業の「日」は実際の歴史的な「日」ではないということを意味しています。そうしますと、創造の御業の記事は創造の御業の歴史的な過程を記すものではないということになります。このように見ることによって、創造の御業の記事が創造の御業の歴史的な過程を記すものであるとすると、特に今日の自然科学の結論との間に矛盾することが出てくるのではないかという問題を回避することができます。 しかし、この見方には大きな問題があります。 出エジプト記20章8節~11節には、 安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。 と記されています。 この「安息日」を聖別すべき規定では、その理由として、 それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。 と言われています。これは、文学的な表現のための枠組みとして六つの「日」ともう一つの「日」が用いられているから、主の民も六日の間働いて、七日目を安息の日とするようにということではありません。むしろ、創造の御業が歴史的に六日にわたってなされて、第七日が安息の日として聖別されたので、主の民もそれに倣うようにという戒めです。 また、第一日と第四日が対応し、第二日と第五日が対応し、第三日と第六日が対応しているという見方も、対応していると思われるものだけを取り上げ、対応していないものは無視することによって成り立っているという一面があります。 創造の御業の「日」を、歴史的な時間としての「日」であるとする見方にも、それが24時間の日であるとする見方と、24時間の日とは限らない「特別な日」であるとする見方があります。そして、「特別な日」とする立場にも、いくつかの見方があります。 少し前にある方が、聖書が「日」と言っているのだから、それは24時間の日のことです、ということを言っておられるのを読んだことがありますが、これは無謀な断定です。聖書の中では、「日」と訳されている言葉(ヨーム)は、24時間の日とともに、24時間の日とは限らない「特別な日」を表わすことがあります。それで、創造の御業の「日」がどのような意味で用いられているかは、それとして考えられなければならないのです。 無限の知恵と力に満ちた神さまを信じない人々は、この世界(今日の言葉で言う「宇宙」)が一日24時間の六日の間に造られたということに抵抗を感じることでしょう。しかし、天地の造り主である神さまを信じている者には、そのような抵抗はありません。神さまは一瞬のうちにでも、この宇宙を造り出すことがおできになったと信じています。神さまの能力という点からは、天地創造の御業のために、「24時間の日が六日」が、短すぎることはないのです。 しかし、いくつかの理由から、天地創造の「日」は、地上の24時間の日のことではなく、それとは別の、特別な日であると思われます。 ここでは、詳しいことをお話しする余裕はありませんが、おそらく、最大の理由は、天地創造の「第七日」が、今日においてもまだ終わっていないということです。 2章1節~3節には、 こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。それで神は、第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち、第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。神はその第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。 と記されています。 この個所を取り上げるときに改めてお話ししますが、神さまがご自身の安息の日として、祝福して聖別された「第七日」は、今日においてもまだ終わっていません。そのことは、いくつかの個所から分かりますが、ここでは、ヘブル人への手紙4章1節~11節を見てみたいと思います。そこには、 こういうわけで、神の安息にはいるための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれにはいれないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。信じた私たちは安息にはいるのです。 「わたしは、怒りをもって誓ったように、 決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」 と神が言われたとおりです。みわざは創世の初めから、もう終わっているのです。というのは、神は七日目について、ある個所で、「そして、神は、すべてのみわざを終えて七日目に休まれた。」と言われました。そして、ここでは、「決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」と言われたのです。こういうわけで、その安息にはいる人々がまだ残っており、前に福音を説き聞かされた人々は、不従順のゆえにはいれなかったのですから、神は再びある日を「きょう。」と定めて、長い年月の後に、前に言われたと同じように、ダビデを通して、 「きょう、もし御声を聞くならば、 あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」 と語られたのです。もしヨシュアが彼らに安息を与えたのであったら、神はそのあとで別の日のことを話されることはなかったでしょう。したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。神の安息にはいった者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。ですから、私たちは、この安息にはいるよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。 と記されています。 詳しい説明は必要ないと思います。ここでは、主の契約の民が、創造の御業が終わった後の神さまの安息にまったくあずかるようになること、すなわち、神さまの安息の完成の時は、まだ来ていないということが示されています。 ですから、この「第七日」の枠の中に、天地創造の御業によって始まって、今日に至るまでの人間の歴史があります。そして、この「第七日」は、最初の創造の御業によって造られたものが、御子イエス・キリストの贖いの御業を通して回復され、さらに、イエス・キリストの再臨とともに完成することによって終結すると考えられます。そして、新天新地においては、第八日が始まると考えられます。 ちなみに、聖書の中では、たとえば、八日目の割礼というように、八日目は、しばしば、新しい始まりを示しています。そして、新しい契約の下において、安息の日が日曜日になったのも、この八日目が新しい始まりという意味をもっているとかかわっていると考えられます。ご自身の十字架の死をもって贖いの御業を成し遂げられたイエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、来たるべき時代の原理、すなわち天地創造の「第七日」に続く「第八日」の原理が、すでに、この時代において働いています。 いずれにしましても、このことは、天地創造の「第七日」は24時間ではないということを意味しています。 そして、もう一つ大切なことですが、天地創造の「日」と地上の「日」は区別されるということを意味しています。ですから、天地創造の「日」の中で地上の何日もが過ぎていっていたと考えられます。それで、天地創造の「日」が長い期間であったのであれば、夜も長い期間になってしまうのではないかというような疑問は解消されます。 このことから、天地創造の「日」は、地上の日すなわち地球の自転によって区切られたのではなく、造り主である神さまがご自身の御業に区切りをつけられたことによって、そこまでが「一つの日」となったと考えられます。 [天地創造の「日」についての私の理解のより詳しい論述は、「創造の日の解釈をめぐって」(『基督神学』第二号東京基督神学校 1984年)という小論を参照してください。] |
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