(第8回)


説教日:2001年11月4日
聖書箇所:創世記1章1節〜5節
説教題:神はご覧になった


 これまで、創世記1章3節に、

そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。

と記されている、神さまが創造の御業において、私たちが住んでいるこの世界に「」を照らし出されたことについてお話ししました。
 続く4節では、

神はその光をよしと見られた。

と言われています。これは、直訳調に訳しますと、

神は光をご覧になった。よしと。

となります。ここでは、神さまが、ご自身のお造りになった「」を「ご覧になった」ということ自体が大切なこととなっています。
 これ以後、創造の御業の記事の中で、神さまが、ご自身のお造りになったものを「ご覧になった」ことを記している個所を見てみますと、10節、12節、18節、21節、25節では、

神は見て、それをよしとされた。

と記されています。これは直訳調に訳しますと、

神は、よしとご覧になった。

となります。
 4節では、神さまが「」をご覧になったということということが述べられていましたが、これらの個所においては、神さまがご覧になったもののことは述べられていません。もちろん、神さまは、これに先立ってご自身がお造りになったものをご覧になったのです。
 そして、創造の御業の完成を記している31節では、

そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。

と言われています。
 ここでは、神さまは「お造りになったすべてのもの」をご覧になったと言われています。最初の「」の場合と、最後の「お造りになったすべてのもの」の場合には、神さまがご覧になったもののことが述べられています。
 全体としては、神さまが、ご自身のお造りになったものを「ご覧になった」ことは、7回述べられていることになります。よく知られていますように、聖書の中では、「7」は完全数です。


 4節では、わざわざ、神さまがご覧になったのは「」であるということが述べられています。それで、このことには何らかの意味があると考えられます。
 カスートは、ここで、神さまが「」をよしとご覧になったと言われているのは、神さまが「やみ」をもよしとご覧になったというように誤解されることがないようにするためであると述べています(A Commentary on the Book of Genesis, p26)。
 この段階においては、人類の罪による堕落は起こっていませんから、「やみ」には倫理的な悪の意味合いはありません。この点はカスートも認めていて、「やみ」は単に「」のない状態であるからよいとは言えないと述べています。
 けれども、すでにお話ししましたように、「やみ」も神さまがお造りになったものです。しかも、4節後半から5節においては、

そして神はこの光とやみとを区別された。神は、この光を昼と名づけ、このやみを夜と名づけられた。

と記されています。ここでは神さまが「やみ」にも「」としての意味と役割を与えられたことが記されています。
 これらのことを考えますと、4節に、

神はその光をよしと見られた。

と記されていることに「やみ」はよいとは見られなかったというような思いが込められているかどうかは疑問です。むしろ、ここでは2節に記されている、

地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり

という状態には関心がなく、その関心はもっぱらそこに存在するようになった「」に向けられていると考えたほうがいいと思います。
 エドワード・J・ヤングは、この点に関して、

光は、それに続くすべてのものにとって必要なものである。それで、モーセは、光を神がよしとされることの特別な対象として述べることにより、光を強調している。

と述べています(Studies in Genesis One, p.88)。ヤングも、神さまの関心が「」そのものに向けられているという方向で考えています。
 ここでは「」が「それに続くすべてのものにとって必要なものである。」ので強調されているということについては、少しコメントが必要かと思います。確かに、「」はそれに続いて造られるすべてのものにとってなくてはならないものです。しかし、前回お話ししましたように、そのことの奥には、「」が、造り主である神さまが「光であられる」ことを表示する存在として造られているということがあります。「」は神さまが「光であられる」ことを表示する存在として造られているので、その後に造られるすべてのものにとってなくてはならないものなのです。4節で、
神はその光をよしと見られた。
と述べられているのは、そのような重い意味をもった「」が、この「」に存在するようになったことについてであると考えられます。

神はその光をよしと見られた。

とか、

神は見て、それをよしとされた。

ということは、一見すると、神さまが、ご自身のお造りになったものがちゃんとできているかどうかを検査しておられるように見えます。しかし、それは、人間が何かを作るときに、作った後でそれがちゃんとできているかどうかを確かめることに重ね合わせて見てしまうからです。
 神さまは、その知恵と力において無限、永遠、不変の方です。ご自身の創造の御業において、何をどのようにお造りになるかを永遠から定めておられます。また、無限の知恵と力によって、その永遠のご計画に従って、すべてのものをお造りになりました。その二つのことの間には、寸分のずれもありません。ですから、神さまが造り出されたものには「失敗」というものはありえません。
 また、たとえば、詩篇139篇15節、16節に、

  私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、
  私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。
  あなたの目は胎児の私を見られ、
  あなたの書物にすべてが、書きしるされました。
  私のために作られた日々が、
  しかも、その一日もないうちに。

と記されています。また、イザヤ書46章9節、10節にも、

  遠い大昔の事を思い出せ。
  わたしが神である。ほかにはいない。
  わたしのような神はいない。
  わたしは、終わりの事を初めから告げ、
  まだなされていない事を昔から告げ、
  「わたしのはかりごとは成就し、
  わたしの望む事をすべて成し遂げる。」と言う。

と記されています。神さまは何かが造り出される前から、それを完全にご存知です。それで、ご自身がお造りになったものを後から調べる必要もありません。
 それで、神さまがご自身のお造りになったものを「よしとご覧になった」ということは、それがどのように出来上がっているか分からないということから、「ちゃんと」できているかどうかを確かめたということではありません。
 それではこのことをどのように考えたらいいのでしょうか。これには、色々な面があると考えることができます。
 まず、神さまが「ご覧になった」ということに注目しますと、そこに神さまの人格的な働きかけがあることが見て取れます。神さまは、単なる力やエネルギーではありません。また、無限、永遠、不変の神さまは、絶対的な「超越者」であられます。けれども、この世界に何かが造り出されても、あるいは、何が起こっても、ご自身には痛くも痒くもないということで、何の関心も示さないというような意味で、この世界から超越しておられる方ではありません。神さまは、ご自身がお造りになったものに対して、しっかりと、ご自身の目を注いでくださいます。
 これは、神さまが、

光よ。あれ。

と語りかけられて、「」がこの世界にあるようにされたことと符合しています。この

光よ。あれ。

という語りかけは、神さまのご意志の表現であり発動です。そこには、この世界に対する、神さまの人格的な働きかけがあります。そのようなご自身の働きかけを通して、お造りになったものに対して、最後まで変わらない関心を注いでくださっておられます。神さまが、ご自身のお造りになったものを「ご覧になった」ということは、いわば、そのことの「出発点」ということでしょう。
 神さまは、創造の御業においてだけでなく、今も変わることなく、ご自身がお造りになったものに深い関心を注いでくださり、御目を向けてくださいます。イザヤ書40章26節には、

  目を高く上げて、
  だれがこれらを創造したかを見よ。
  この方は、その万象を数えて呼び出し、
  一つ一つ、その名をもって、呼ばれる。
  この方は精力に満ち、その力は強い。
  一つももれるものはない。

と記されています。
 そのように、一般的な意味で、神さまが、ご自身がお造りになったものをご覧になっておられるということとともに、聖書の中には、神さまが、あることを特別な意味で「ご覧になった」ことが記されています。
 すでにお話ししましたように、神さまは、ご自身がお造りになったすべてのものを完全にご存知です。神さまの御目から隠れているものは一つもありません。そのように、すべてのものを見ておられる神さまが、改めて、あることを「ご覧になった」ということです。
 創世記の中から、そのいくつかの例を見てみましょう。
 ノアの時代に洪水によるさばきが執行される直前の様子を記している6章5節〜7節には、

主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。そして主は仰せられた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。」

と記されています。6章12節、13節にも、

神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである。そこで、神はノアに仰せられた。「すべての肉なるものの終わりが、わたしの前に来ている。地は、彼らのゆえに、暴虐で満ちているからだ。それで今わたしは、彼らを地とともに滅ぼそうとしている。 ・・・

と記されています。
 また、バベルでの出来事を記している11章5節〜7節には、

そのとき主は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた。主は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」

と記されています。
 さらに、アブラハムの時代のソドムとゴモラの様子を記している18章20節、21節には、

そこで主は仰せられた。「ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、また彼らの罪はきわめて重い。わたしは下って行って、わたしに届いた叫びどおりに、彼らが実際に行なっているかどうかを見よう。わたしは知りたいのだ。」

と記されています。
 これとともに、主の契約の民のための贖いの御業がなされたことを記している出エジプト記からも、いくつか見ておきましょう。3章7節〜9節には、

主は仰せられた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている。わたしが下って来たのは、彼らをエジプトの手から救い出し、その地から、広い良い地、乳と蜜の流れる地、カナン人、ヘテ人、エモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいる所に、彼らを上らせるためだ。見よ。今こそ、イスラエル人の叫びはわたしに届いた。わたしはまた、エジプトが彼らをしいたげているそのしいたげを見た。

と記されています。また、4章31節には、

民は信じた。彼らは、主がイスラエル人を顧み、その苦しみをご覧になったことを聞いて、ひざまずいて礼拝した。

と記されています。さらに、シナイ山の麓でイスラエルの民が金の子牛を作って、これを契約の神である主、ヤハウェであるとして拝んだときのことを記す32章9節、10節には、

主はまた、モーセに仰せられた。「わたしはこの民を見た。これは、実にうなじのこわい民だ。今はただ、わたしのするままにせよ。わたしの怒りが彼らに向かって燃え上がって、わたしが彼らを絶ち滅ぼすためだ。しかし、わたしはあなたを大いなる国民としよう。」

と記されています。
 これらの例から分かりますように、神さまが特別な意味で「ご覧になった」と言われているときには、神さまが、その人やものや状態と深く関わってくださり、それに対する評価が下され、救いとさばきの御業がなされることが示されています。(その他、サムエル記第一・16章7節、列王記第二・20章5節、詩篇10篇14節、35篇22節、139篇16節、24節、箴言24章18節、イザヤ書37章17節、59章16節などを見てください。)
 創造の御業の中で、神さまが、ご自身がお造りになったものを「ご覧になった」ことには、これと同じように深い、神さまの関心が注がれていると考えられます。
 もちろん、創造の御業においては、救いとさばきが執行されるということはありません。どのような意味で、神さまが、お造りになったものに深い関心を注がれたのかについては、後ほど、この世界が「人の住みか」(イザヤ書45章18節)に造られたということとのかかわりで、神さまが、お造りになったものを「よし」とご覧になったことの意味を考えるときにお話しします。

神はその光をよしと見られた。

というときの「よし」と訳されている言葉(ヘブル語・トーブ)は、とても意味の広い言葉で、倫理的に善いこと、「良質」、「上出来」など一般的に良いこと、美しいこと、正確であること、喜ばしいことなどを表わします。
 この創造の御業においては、神さまは、ご自身がお造りになったもののうちに、この言葉(トーブ)が意味しているすべての意味を見ておられると考えられます。神さまがお造りになったものは、その一つ一つが、聖いものであり、とても良くできており、正確で調和のとれた美しいものです。当然、神さまはそのようなことを見て取られたはずです。
 そうではありますが、すでにお話ししましたように、神さまがお造りになったものが聖いものであり、とても良くできており、正確で調和のとれた美しいものであることは、改めて確認するまでもなく、初めから分かっていたことです。ですから、神さまがお造りになったものを改めてご覧になったことには、それらのことを含みながらも、それをさらに超えた、人格的な関わりがあったと考えられます。
 その意味では、その言葉(トーブ)が「喜ばしい」ということを意味していることが注目されます。つまり、ここでは、ご自身がお造りになったものをご覧になった神さまのうちに喜びがあった、ということが考えられます。
 これをたとえて言いますと、ある作曲家が自分のうちにあるインスピレーションに従って一つの曲を作曲したとします。その作曲家は、その曲をさまざまな点から推敲して仕上げましたので、それがどんなに美しい曲かを分かっています。けれども、その曲が実際にオーケストラなどで演奏されますと、改めてその美しさに感動します。本当に深く豊かに美しいもの、素晴らしいものには、そのような、常に新しい感動をもたらす「良さ」があります。
 もちろん、それは、神さまがお造りになったものが聖いものであり、とても良くできており、正確で調和のとれた美しいものであることを、当然のこととして踏まえています。それが、神さまの知恵と力の御言葉によって造られたものであるから、良いものであり、意味と価値があるものであるのです。そして、そうであるからこそ、神さまはそれをご覧になったときに、その存在を喜ばれたのです。
 造り主である神さまが、ご自身のお造りになったものをご覧になってくださること、そして、それが在ること(存在すること)に喜びを抱かれたことこそは、造られたものにとっての最高の「栄誉」です。また、そのように、造り主である神さまが、お造りになったものの存在に対して喜びを抱かれたことは、それが、そこに存在する意味と価値があることを確証するものです。
 さらに、私たちは、私たちの神である主は、徒に何かをお造りになることはなく、ご自身のお造りになったものに確かな意味と価値を与えておられることを知ります。私たちも、神さまによって造られているということのうちに、存在するだけの意味と価値があるのです。私たち人間の場合には、さらに、「神のかたち」に造られているということからくる、存在の意味と価値があります。
 また、神さまは、お造りになったものに確かな意味と価値を与えておられるだけではありません。ご自身が、お造りになったものの存在をお喜びになり、それを深く慈しんでくださる方なのです。マタイの福音書6章26節には、

空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。

というイエス・キリストの教えが記されています。
 人間的な言い方をしますと、神さまは、創造の御業を遂行される過程の中で、しばし、その御手を休めて、ご自身がお造りになった一つ一つのものを、「よし」とご覧になりました。そして、それが存在することお喜びになりました。
 けれども、神さまは、永遠に、また無限に、充足しておられます。それは、ご自身がこの世界のすべてのものを所有しておられるから充足しておられるということではありません。この世界が造り出される前から、あるいは、この世界が存在する、しないにかかわりなく、神さまは、永遠から永遠に、無限の充足のうちにおられます。神さまご自身が無限に豊かな方であるので、充足しておられるのです。
 「無限大」にどのような大きな数を加えても、あるいは、「無限大」からどのように大きな数を引いても、「無限大」であることには変わりがありません。それと同じように、この世界が造り出されたからといって、神さまの無限の豊かさに何かが増し加わったということはありません。また、この世界を造り出されて、これを真実に支えておられるから、神さまから何かが失われるということもありません。
 ですから、神さまが、お造りになったものを「よし」とご覧になって、その存在をお喜びになったということは、神さまに何らかの不足があるために、新しく何かが造り出されて存在するようになったことをお喜びになった、ということではありません。このことは、そのようなこととは違った面から考えなくてはなりません。
 すでにお話ししましたように、創世記1章1節〜2章3節の天地創造の御業の記事は、特に、神さまが、この世界を「人の住みか」(イザヤ書45章18節)にお造りになったということを中心主題として記されています。
 それで、1章1節で、宇宙大の視点から、

初めに、神が天と地を創造した。

という見出し文が記された後、続く2節からは、その視点が「」に移されており、「」の上に住んでいる人間の視点から、神さまの創造の御業が記されていて、この「」に住んでいる人間が、この世界をどのように見るべきかを示しています。
 また、2節では、まだとても「人の住みか」とはいえない状態の「」に、神さまが、御霊によってご臨在しておられたことが記されています。そして、3節からは、そのご臨在の御許から発せられた一連の「創造の御言葉」によってこの世界を「人の住みか」に整えてくださったことが記されています。神さまは、その上で、「神のかたち」に造られた人をそこに住まわせてくださいました。
 神さまが、ご自身がお造りになったものを「よし」とご覧になったことも、このことと関わっていると考えられます。この世界を「人の住みか」にお造りになるという、ご自身のみこころに照らして、ご自身がお造りになったものを改めてご覧になったということです。そして、そこに造り出されたものはそのこととの関わりで良いものであり、神さまはそれが存在することをお喜びになったということです。
 3節、4節においては、

そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。神はその光をよしと見られた。

と言われています。
 詩篇139篇12節で、

  あなたにとっては、やみも暗くなく
  夜は昼のように明るいのです。
  暗やみも光も同じことです。

と言われていますように、神さまが、この世界に「」があるようにされたのは、ご自身の必要のためではなく、「」に住む人間のためです。
 この世界を「人の住みか」にお造りになっておられるので、神さまは、この世界に「」があるようにされました。そして、そのみこころに照らして、この「」をご覧になって、それが良いものであることを確認され、それがあることを喜ばれました。
 これを、子どもの誕生日に、お母さんが心を込めてケーキを焼いていることにたとえてお話ししたいと思います。
 お母さんがケーキを作るとき、その手順の一つ一つの段階で、うまくできると、うまくできたこと自体に対する喜びがあります。また、最後に、本当にきれいでおいしくでき上がったことに対する喜びがあります。それが、初めの方でお話ししました、神さまがお造りになったものが聖いものであり、優れたものであり、意味と価値があるものなので、神さまは、それを「よし」とご覧になり、それが在ることを喜ばれた、ということに当たります。
 同時に、お母さんは、ただケーキがうまくできたという喜びだけでなく、それを作る一つ一つの段階において、皆といっしょに、子どもの誕生日をお祝いすることを想像しながら、思わず顔をほころばせることもあるでしょう。そして、最後に、とてもおいしいケーキができ上がったことで、子どもの誕生日のお祝いが一層豊かなものになると感じて、嬉しくなってくることでしょう。これが、神さまが、この世界を「人の住みか」にお造りになるという、ご自身のみこころに照らして、ご自身がお造りになったものをご覧になったときに、そこに存在するものは良いものであり、それが存在することをお喜びになった、ということに当たります。
 そうであれば、これもまた人間的な言い方になりますが、神さまが、創造の御業を遂行される過程の中で、しばし、その御手を休めて、ご自身がお造りになったものを、「よし」とご覧になり、それが存在することに喜びを抱かれたことは、やがて、「神のかたち」に造り出される人間を念頭においてのことであった、と言うことができます。
 3節、4節において、

そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。神はその光をよしと見られた。

と言われている段階では、いまだ、人間は造り出されていません。しかし、その時すでに、創造の御業を遂行される神さまのみこころのうちには、「神のかたち」に造られて、ご自身とのいのちの交わりのうちに生きるようになる人間への愛が、ある形で表現されていたということでしょう。
 詩篇136篇1節では、

  主に感謝せよ。
  主はまことにいつくしみ深い。
     その恵みはとこしえまで。

と歌い始められています。そして、7節、8節では、

  大いなる光を造られた方に。
     その恵みはとこしえまで。
  昼を治める太陽を造られた方に。
     その恵みはとこしえまで。

と歌われています。

 


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