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説教日:2001年10月7日 |
この、御霊による神さまのご臨在の御許から発せられた、語りかけとしての創造の御言葉は、3節の、 光よ。あれ。 という語りかけのように、神さまのご意志、あるいは、みこころの表現です。 3節では、 そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。 と言われています。この 光よ。あれ。 という命令と、それに続く、 光ができた。 と訳されている言葉は、原文では同じ言葉です。ですから、 すると光ができた。 と訳されている言葉は、 すると光があった。 と訳した方が、原文のつながりがはっきりします。また、後ほど触れますが、この時に初めて「光」が造られたわけではないと考えられることからも、これは、 すると光があった。 と訳した方がいいと思われます。 いずれにしましても、ここでは、創造の御言葉によって、造り主である神さまのご意志が表現されることと、それがその通りに実現するものであることが、簡潔な言い回しの中で、すっきりと表わされています。 そして、このことが、神さまのみこころの表現である御言葉には、それが表現していることを実現する力がある、というキリスト教信仰の出発点です。 詩篇33篇9節では、 まことに、主が仰せられると、そのようになり、 主が命じられると、それは堅く立つ。 と言われており、イザヤ書55章9節〜11節では、 天が地よりも高いように、 わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、 わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。 雨や雪が天から降ってもとに戻らず、 必ず地を潤し、 それに物を生えさせ、芽を出させ、 種蒔く者には種を与え、 食べる者にはパンを与える。 そのように、 わたしの口から出るわたしのことばも、 むなしく、わたしのところに帰っては来ない。 必ず、わたしの望む事を成し遂げ、 わたしの言い送った事を成功させる。 と言われています。 このように、 光よ。あれ。 という命令と、その実現を記す、 光があった。 という言葉が、原文では、まったく同じ言葉で表わされているということによって、造り主である神さまの意志が表現されると、その通りに実現することが、これを読む者たちにより深く印象づけられるようになっています。また、このことから、神さまのみこころの表現である御言葉は、表現されたことをその通りに実現する力があるということも示されています。 このことはキリスト教信仰の根本にあることです。 よく、「キリスト教は、言葉の宗教である。」と言われます。「キリスト教は、言葉の宗教である。」というのは、神さまは御言葉をもってご自身を啓示してくださり、クリスチャンは神の御言葉を信じているということです。 ヨハネの福音書1章1節においては、 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。 と言われています。 ここでは、ご自身の民を罪の結果である死と滅びから救うために、人の性質をお取りになって来てくださる「前の」神の御子イエス・キリストが、永遠の「ことば」として紹介されています。この受肉される前のイエス・キリストのことは、一般に「先在のキリスト」と呼ばれています。 そして、3節では、 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。 と言われていて、永遠の「ことば」がこの世界の「すべてのもの」をお造りになって、真実に支えておられることが示されています。御子イエス・キリストが造られたすべてのものを支えておられることは、ヘブル人への手紙1章2節後半から3節前半に記されている、 神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。 という言葉に、よりはっきりと示されています。 このような方である永遠の「ことば」は、「根源的なことば」であり、この世界のすべてのものの存在の源であり、根拠であり、目的でもあります。コロサイ人への手紙1章15節〜17節に、 御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。 と記されているとおりです。 私たちの言葉に意味があるのも、私たちとこの世界がこの「根源的なことば」である方によって造られ、この方によって支えられているからです。 そのようなわけで、クリスチャンが神の御言葉を信じるということには、二重の意味があります。 一つは、クリスチャンが、ここで永遠の「ことば」としてあかしされている永遠の神の御子を、信じているということです。この方を、「すべてのもの」をお造りになって、支えておられる方、すなわち、この世界のすべてのものの存在の源であり、根拠であり、目的である方として、また、ご自身の民の罪の贖いのためにいのちをお捨てになった贖い主(救い主)として、信じているということです。 もう一つは、それと同時に、御子イエス・キリストが「すべてのもの」をお造りになった方であり、ご自身の民の罪の贖いのためにいのちをお捨てになった救い主であるということを私たちにあかししている、神の御言葉、すなわち、聖書の御言葉を信じているということです。 この二つのことはクリスチャンの信仰の表と裏です。つまり、クリスチャンは、聖書の御言葉のあかし(証言)に基づいて、永遠の「ことば」である御子イエス・キリストを、自分の神、また救い主として信じているのです。ヨハネの福音書5章39節に記されているように、イエス・キリストは、 あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。 と教えてくださいました。 すでにお話ししましたように、創世記1章1節の、 初めに、神が天と地を創造した。 という天地創造の御業の記事の「見出し文」においては、宇宙大の視野をもって、この世界のすべてのものは神さまによって造られたものであることが宣言されています。そして、続く2節は、「さて、地は」と始まっていて、この地上にある人間の視野で書き始められています。 ですから、3節の、 そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。 ということも、私たちの置かれている地上からの視点で「見た」ことを記しています。つまり、3節で言われているのは、2節で、 地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。 と言われていた、この地上の世界に「光」があるようになったということです。 ここでは、この「光」が、この時に初めて造られたのか、それとも、すでにどこかで造られていた「光」がこの時に初めて地上に到達するようになったのかは記されていません。しかし、ここに記されていることが、いま私たちの住んでいるこの地上におけることであるということからしますと、この「光」は太陽からの光であったと考えられます。神さまの創造の御業によって、太陽も同時並行的に造られていたはずです。その原始の太陽の発する光が、この時、地球に到達したということでしょう。 日本も含めて、世界のどこにでも見られることですが、聖書が記された時代と文化においても、太陽は、「神」のように見られて、崇拝されていました。 明治の頃から昭和の時代に至るまで、クリスチャンは、しばしば、「日本には、天照大神があるのだから、外国の神を拝むな。」と言われて非難を受けたそうです。「日本には天照大神がある。」というのは、実際には、世界の至る所で「あれは自分たちの神である。」と主張されていた太陽のことを、日本人も「あれは自分たちの神である。」と言っていたということです。自分たちの中に「世界は一つ」という意識がなかった時代には、「神」にも国境があるかのごとくに考えられていたわけです。その状況は、今日でも余り変わっていません。 しかし、聖書は、今日のような天文学的な知識もなく、太陽が、世界の至る所で「神」としてあがめられていた時代と文化の中にあって、太陽のことを、神さまがお造りになったものの一つであるとして、造り主である神さまとはっきりと区別しています。そして、あがめるべきは、太陽ではなく、太陽を造られたる神さまであることを伝えています。 主に感謝せよ。 主はまことにいつくしみ深い。 その恵みはとこしえまで。 という言葉で始まる詩篇136篇の7節、8節では、 大いなる光を造られた方に。 その恵みはとこしえまで。 昼を治める太陽を造られた方に。 その恵みはとこしえまで。 と言われていて、太陽を造られた神さまに感謝と讃美がささげられています。 このように、聖書は、世界の至る所で神としてあがめられている太陽も神さまのお造りになったものの一つであり、造り主である神さまとは区別されるものであることを教えています。同時に、聖書は、 神は光である。 と教えています。ヨハネの手紙第一・1章5節には、 神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。 と記されています。 そうしますと、 神は光である。 のであれば、光は神なのではないかと問われるかもしれません。しかし、同じヨハネの手紙第一・4章16節には、 神は愛です。 と記されています。けれども、愛が「神」であるわけではありません。愛は、神さまのご性質であり、神さまがどのような方であるかを示すものです。それと同じように、神さまは光ですが、光は「神」ではなく、神さまがどのような方であるかを示すために用いられているものです。 では、 神は光である。 ということは、どのようなことなのでしょうか。ヨハネの手紙第一・1章5節の、 神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。 ということは、神さまご自身が真理であり、聖い方であることを示しています。同時に、神さまが、私たちにとって真理の源であり、いのちの光であることを示しています。 それに続く、 これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。 ということは、ただイエス・キリストの言葉による教えだけでなく、イエス・キリストの生涯の全体が、 神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。 ということを示していたということを意味しています。ヨハネの福音書8章12節に記されていますように、イエス・キリストも、 わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。 と言われてご自身のことをあかしされました。 神さまは、天地創造の御業の初めに、この世界を「人の住みか」として形造ってくださるに当たって、まず、この世界に光があるようにしてくださいました。その光は目に写る物理的な光ですが、それは、目に見えないけれども「光である」神さまを、私たち人間が理解するための「手がかり」のような意味をもっています。いわば、光は、 神は光である。 ことを映し出すような意味をもっているのです。それで、私たちの世界を照らす光には、この世界に生きているもののいのちを支え、はぐくみ育てる温かさや、生きているものの行く道を導く明るさなどが備えられています。罪によって造り主である神さまを見失ってしまった人間は、そのように「ありがたいもの」として造られている光や、光をもたらす太陽を「神」と考えてしまいました。 この世界に住んでいるものにとっての光の源は太陽です。その太陽が、光であられる神さまをあかしするために造られているということは、聖書のいくつかの個所に示されています。たとえば、イザヤ書60章1節、2節には、 起きよ。光を放て。 あなたの光が来て、 主の栄光があなたの上に輝いているからだ。 見よ。やみが地をおおい、 暗やみが諸国の民をおおっている。 しかし、あなたの上には主が輝き、 その栄光があなたの上に現われる。 と記されています。 ここでは、約束の贖い主であられるイエス・キリストによってもたらされる救いの光のことが預言的に示されています。ここには太陽が出てきませんが、明らかに、「主」が太陽にたとえられています。このご自身の民の上に輝き昇られる「主」は、贖い主として来てくださったイエス・キリストにおいて成就しています。 「主」が太陽にたとえられていることは、同じ章の19節、20節においてはっきりとしてきます。そこには、 太陽がもうあなたの昼の光とはならず、 月の輝きもあなたを照らさず、 主があなたの永遠の光となり、 あなたの神があなたの光栄となる。 あなたの太陽はもう沈まず、 あなたの月はかげることがない。 主があなたの永遠の光となり、 あなたの嘆き悲しむ日が終わるからである。 と記されています。 ここでは、終末における新しい天と新しい地の完成のことが視野に入れられて、預言的に語られています。そして、最初の創造の御業によって造られた太陽は、御子イエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業に基づく再創造によって造り出される新しい天と地においては、神である主ご自身によって取って代わられるということが語られています。 同じことは、新しい天と新しい地の様子を預言的に記している黙示録21章23節に、 都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。 と記されています。また、新しい天と新しい地が最初の創造の御業によって造られたこの世界の完成であることを記している22章5節にも、 もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。 と記されています。 これらのことから、最初の天地創造の御業によって造り出された太陽は、 神は光である。 ことをあかしする役割を負っていると考えられます。 神さまは、天地創造の御業の初めに、まず、 形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり という状態の「地」を造り出されました。そして、これを、ご自身の意志の発動である御言葉による語りかけとともに、「人の住みか」として形造っていかれました。そのように「地」を「人の住みか」として形造るに当たって、神さまは、まず、「地」に「光」があるようにされました。 すでにお話ししましたように、この「光」は、何よりも、 神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。 とあかしされている造り主である神さまを、私たち人間が知るための「手がかり」のような意味をもっています。 神さまは、ご自身のことも、お造りになったこの世界のことも、すべてのことを完全にご存知であられます。神さまにとっては、人間的に言いますと「暗くてよく分からない」というようなところはどこにもありません。ヘブル人への手紙4章13節に、 造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。 と記されているとおりです。 神さまは、ご自身がすべてのことをご存知であられて、ご自身の内側に不明な「暗やみ」がないというだけでなく、この世界に「光」があるようにされました。その結果、この世界は、私たち人間にとっても、わけの分からない暗やみに覆われた世界ではなく、探り求めていけばよく分かるようになる、調和と秩序のある世界となりました。 目に見える世界のことは、物理的な「光」に照らされて見ることができます。しかし、私たち人間は、目に見えるものだけを見ているわけではありません。目で見ていることの奥にあるものごとの「真相」とか「本質」というものを「見る」(判断し見極める)力を与えられています。 そのような、本質をわきまえることを通してものごとを知っていくことを「真理」を知ることといいますが、神さまは私たち人間が「真理」を知ることによって生きるようにお造りになりました。天地創造の御業の初めに、この世界に「光」があるようにされた神さまは、ただ目に見える「光」をともされただけでなく、ものごとの本質をも見ることができる「光」を照らし出しておられます。 その「光」は「神のかたち」に造られている人間のうちに初めから与えられていたものですが、人間が造り主である神さまに対して罪を犯し、御前に堕落してしまったことによって、罪の暗やみに隠されてしまいました。イエス・キリストは、贖いの御業によって、この「光」を私たちのうちに回復してくださっています。先ほども引用しましたように、イエス・キリストご自身が、 わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。 とあかししておられます。 また、コリント人への手紙第二・4章6節には、 「光が、やみの中から輝き出よ。」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。 と記されています。ここでも、天地創造の御業の初めに、この世界に「光」があるようにされた神さまが、私たちの外側の世界だけでなく、私たちのうちにも「光」をもたらしてくださっていることが示されています。 この「光」に照らされて初めて見ることができる、ものごとの本質(真相)の第一にして、すべてのものにとって最も本質的なことは、 初めに、神が天と地を創造した。 という事実にあります。私たち人間を初めとして、この世界のすべてのものは、神さまの御手によって造られたものであり、支えられているものであり、神さまのご栄光を目的としているということです。ですから、造り主である神さまを知ることが、自分自身とこの世界を、「真理」の光の下で知ることの第一歩です。箴言1章7節に、 主を恐れることは知識の初めである。 と記されているとおりです。 |
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