(第6回)


説教日:2001年7月1日 (夕拝)
聖書箇所:創世記1章1節~5節
説教題:神の霊は水の上を


 天地創造の記事の見出しである、創世記1章1節では、

初めに、神が天と地を創造した。

と言われています。これは、神さまがこの世界を豊かで、美しく整えられた、調和のある世界としてお造りになったことを示しています。
 しかし、この世界の最初の状態は、2節で、

地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあった。

と言われているような状態でした。
 イザヤ書45章18節には、この「」を形造られた神さまのことが、

  これを形のないものに創造せず、
  人の住みかに、これを形造られた方

と記されています。ここでは、神さまが「」を「人の住みか」にお造りになったと言われています。その際、「形のないもの」が、「人の住みか」と対比されています。この「形のないもの」と訳された言葉(トーフー)が、創世記1章2節で「地は形がなく」と言われているときの、「形がなく」と訳されている言葉です。

地は形がなく、何もなかった。

ということは、「人の住みか」として形造られるべきこの「」が、いまだ、とても人の住むことのできる状態ではなかったことを示しています。これに、

やみが大いなる水の上にあった。

ということが積み上げられて、

地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあった。

と言われている状態は、「」が「人の住みか」として形造られるということからしますと、積極的なものが何もない状態であったのです。また、この状態は、放っておいても自動的に「」が人や動物たちの住むことのできる状態になるというような考え方を否定するものです。
 では、そのような状態にあった「」は、「形がなく、何もなかった。」という言葉が連想させる、めちゃめちゃな状態であったのかというとそうではありません。そこでは、さらに、

神の霊は水の上を動いていた。

と言われています。
 すでにお話ししましたが、この天地創造の御業の記事のうち、2節以下は、私たちが住んでいるこの「」に焦点が合わされているだけでなく、「」に据えられた視点から見たように記されています。そのように「」に据えられた視点から見る「人の目」――もちろん、そこに人間は誰もいません。―― には、

地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあった。

と言われているような、混沌とした状態にあるとしか写りませんでした。しかし、そのような状態にあった「」に、「神の霊」がご臨在しておられたというのです。


 この「神の霊」のことをお話する前に、一つ考えておかなければならないことがあります。
 実は、ここで言われているのは「神の霊」ではなく、「強い風」であるという見方があるのです。「」と訳された言葉(ルーアハ)は、「風」や「息」をも表わします。そして、この見方では、「」という言葉(エローヒーム)を形容詞(の最上級)的に理解して「強大な」という意味に受け止めます。
 そうしますと、2節は、

地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、強い風が水の上を吹き荒れていた。

ということを述べていることになります。
 この見方では、

地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあった。

ということと、

強い風が水の上を吹き荒れていた。

ということが、同じようなことを述べているということになって、説得力があるような気がします。
 けれども、この見方には問題があります。この見方では、最初に造り出された「」には、三つの状態があったことになります。一つは、

地は形がなく、何もなかった。

ということです。もう一つは、

やみが大いなる水の上にあった。

ということです。そして、最後に、

強い風が水の上を吹き荒れていた。

ということです。
 このうち、最初の二つの、

地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあった。

ということは、神さまの創造の御業によって、いわば、解決されていきます。それらの状態が整えられて、積極的な意味をもつようになっていきます。
 具体的には、

地は形がなく、何もなかった。

ということに対しては、9節、10節に記されている、

神は「天の下の水は一所に集まれ。かわいた所が現われよ。」と仰せられた。するとそのようになった。神は、かわいた所を地と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。

という御業によって、「」が出現するようにされています。それとともに、「」と「水の集まった所」である「」が区別されてそれぞれが固有の位置と意味をもつようにされています。そして、それが、植物や生き物たち、さらには、「神のかたち」に造られている人間が住まうところとして整えられていきます。また、

やみが大いなる水の上にあった。

ということに対しては、3節~5節に記されている、

そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。神はその光をよしと見られた。そして神はこの光とやみとを区別された。神は、この光を昼と名づけ、このやみを夜と名づけられた。

という御業がなされて、やはり、「」と「やみ」がそれぞれ固有の位置と意味を与えられています。「やみ」にも積極的な意味が与えられて生かされています。また、先ほど引用しました、9節、10節に記されている、

神は「天の下の水は一所に集まれ。かわいた所が現われよ。」と仰せられた。するとそのようになった。神は、かわいた所を地と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。

という御業も「大いなる水」が「」を覆っていたことに対してなされた御業です。
 しかし、この見方が主張する、

強い風が水の上を吹き荒れていた。

ということに対しては、このような、それに対処する御業がなされた形跡がありません。
 それで、この「」の最初の状態を記している2節に記されているのは、「強い風」ではなく、「神の霊」であると考えられます。
 2節の、

神の霊は水の上を動いていた。

という言葉において、「動いていた」と訳されている言葉は、強調形(ピエル語幹)です。
 聖書の中で、この言葉は、これと同じ強調形では、この他には、申命記32章11節にしか出てきません。そこでは、神さまの守りと導きのことが、

  わしが巣のひなを呼びさまし、
  そのひなの上を舞いかけり、
  翼を広げてこれを取り、
  羽に載せて行くように。

と言われて描かれています。
 この「舞いかけり」と訳されている言葉がそれです。ここでは、ワシが未熟なひなを大切に守り導くさまを示すのにこの言葉が用いられています。
 創世記1章2節においても、同じようなことが見て取れます。

地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあった。

と言われている、この「」の最初の状態は、いわば、未熟なひなのような状態でした。「」そのものが自分の力で何かを生み出していくというようなことはできません。しかし、そこには、その「」を見守るように「水の上を動いていた」「神の霊」がおられたのです。
 もちろん、これは擬態化された表現です。「神の霊」は無限の神さまの御霊で、この世界のどこにでもおられますから、鳥のようにあっちこっち動き回るわけではありません。この、

神の霊は水の上を動いていた。

という言葉は、生きておられる神さまの御霊が、親しく(人格的に)この「」に関わっていてくださっておられるということを、生き生きと伝えています。
 「神の霊」はその点で一貫しておられます。今日の私たちも、神さまの御霊の見守りと支えと導きの下で生きています。詩篇139篇7節~9節では、

  私はあなたの御霊から離れて、どこへ行けましょう。
  私はあなたの御前を離れて、どこへのがれましょう。
  たとい、私が天に上っても、そこにあなたはおられ、
  私がよみに床を設けても、
  そこにあなたはおられます。
  私が暁の翼をかって、海の果てに住んでも、
  そこでも、あなたの御手が私を導き、
  あなたの右の手が私を捕えます。

と言われています。
 このように、神さまがこの世界に心を注いでくださり、この世界に関わってくださったことは、

神の霊は水の上を動いていた。

ということに表われています。
 神さまはこの世界をお造りになった方ですから、この世界の一部をなしている方ではありません。当然、この世界の時間や空間の枠の中にはなく、この世界の時間や空間の制限を超越しておられます。―― このように言っても、この世界の時間や空間の制限を超越することがどのようなことかは、その制限の中にいる私たちには分かりません。
 私たちのイメージでは、「この世界を超越しているということは、この世界から遠く離れていることだ。」というようなイメージがあります。しかし、近いとか遠いということも、空間的な制限の中にあるものについて言えることです。遠くにあるということは、近くにはないということです。あそこにあって、ここにはないということは空間の制限の中にあるということです。
 それで、私たちとしては、この世界の造り主で、この世界を超越しておられる神さまは、「この世界のどこにもおられるけれども、たとえば空気のように、この世界全体に広がっているのではない。」とか、「この世界のどこにでもおられると同時に、この世界全体を越えておられる。」というような、この世界の中にあるものについて言うと矛盾したことになってしまう言い方をするわけです。
 存在ということからは、神さまはこの世界を超越した方ですが、神さまは同時に「人格的な」方です。神さまは無限の人格です。ですから、神さまはこの世界に、単なる力やエネルギーのように「作用する」のではなく、ご自身の意志(みこころ)をもって「人格的に」関わってくださいます。そのことが、

神の霊は水の上を動いていた。

ということに表われています。
 このように神さまが、親しく人格的に関わってくださるために「ともにいてくださること」を、神さまの「ご臨在」と言います。神さまは、そのご臨在において、ご自身の御顔を向けてくださり、愛をもって迎え入れてくださり、御手を置いていつくしんでくださり、ねんごろに語ってくださいます。また、私たちの礼拝や賛美を受け入れてくださり、祈りに耳を傾けてくださいます。
 このように、

神の霊は水の上を動いていた。

と言われているのは、天地創造の御業の初めから、神さまのご臨在が「」にあったことを伝えています。
 この「」は、やがて「人の住みか」として形造られていきます。しかし、この「」は「人の住みか」であるのに先だって、造り主である神さまがご臨在しておられる場所だったのです。
         *
 この世界の最初の状態は、

地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあった。

というように消極的な状態でした。これに対して、最初に見られる積極的なものは、3節の、

光よ。あれ。

という神さまの言葉とともにそこにあるようになった「」であるというような気がします。私たちの目は、

光よ。あれ。

という神さまの言葉とともに、全地を覆う「大いなる水」をも見えなくしているような「やみ」を追い払うかのように射してきた「」に引きつけられます。まさに希望の光が射してきたという感じです。
 しかし、そのように「」があるようになったことが、この「人の住みか」として形造られていくべき「」にとって積極的なことの初めなのではありません。その前に、この「」に対する神さまの御業の「土台」となるような積極的なことがありました。それは、「神の霊」がそこに親しくご臨在しておられたということです。
 私たちは、

光よ。あれ。

ということから始まる、鮮やかな御業の遂行に引きつけられます。しかし、それ以上に、この「」には、初めから、御霊による神さまのご臨在があったということの重さと意味に目を留めたいと思います。
 お母さんの手料理を当然のようにして食べている子どもの心は、「今日のご飯は何だろう。」と、作られた料理に向いていることでしょう。
 しかし、お母さんが病気で長い間入院して、しばらく、出来合いのご飯を食べるようになったとします。
 そうなりますと、その子どもは、料理そのものはそこにあって食べることに不自由していなくても、何かが欠けていることを感じ始めます。そこで初めて分かるのは、いちばん重いことはお母さんの存在であって、料理はお母さんがそこにいてくれることのしるしあるいは結果の一つでしかなかったことに気がつきます。
 同じように、私たち人格的な存在にとって、天地創造の御業においていちばん重くて大切なことは、造り主である神さまのご臨在が、初めから、「人の住みか」として形造られるようになる「」にあったということです。
           *
 このように、私たちが住んでいるこの世界は、神さまが親しくご臨在されて、ご自身のみこころに従って形造ってくださった世界です。それで、この世界は「人の住みか」として形造られただけではなく、造り主である神さまが、御霊によってご臨在しておられることを表わす世界として整えられていくことにもなりました。言い換えますと、この世界そのものが、神さまがご臨在される「神殿」としての意味をもった世界として整えられていったのです。
 かつて、ソロモン王が建てた神殿の壮大さを誇って、それで神さまもその神殿を喜んでおられると考えていたイスラエルの民に対して、神さまは預言者イザヤを通して、

  主はこう仰せられる。
  「天はわたしの王座、地はわたしの足台。
  わたしのために、あなたがたの建てる家は、
  いったいどこにあるのか。
  わたしのいこいの場は、いったいどこにあるのか。
  これらすべては、わたしの手が造ったもの、
  これらすべてはわたしのものだ。
  ―― 主の御告げ。――
  わたしが目を留める者は、
  へりくだって心砕かれ、
  わたしのことばにおののく者だ。

 イザヤ書66章1節、2節
と仰せになりました。
 この、

  天はわたしの王座、地はわたしの足台。

という主の言葉は、主は、ご自身がお造りになった天と地にご臨在しておられるということを意味しています。その意味で、天と地は、主がご臨在される神殿としての意味をもっています。
 これに対して、人間が造った地上の神殿は、神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまった人間の間に、聖なる神さまがご臨在してくださることがどのようなことであるかを教えてくださるための「模型」あるいは「視聴覚教材」のようなものです。罪ある人間は、そのままでは神さまのご臨在の御前に立つことができないこと、神さまのご臨在の御前に近づいて、神さまとのいのちの交わりに生きることができるためには、罪の贖いがなされなければならないことなどが示されています。
 このように、神さまがお造りになった天と地こそが、神さまがご臨在されるまことの神殿です。もし人間が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落することがなかったとしたら、神さまがお造りになったこの世界のどこにおいても、そこにご臨在される神さまとのいのちの交わりができたはずです。初めから、人間が神さまのために神殿という建物を建てる必要はなかったのです。
 これを反映して、使徒の働き17章24節、25節に記されていますように、使徒パウロは、人間が「神」のために家を建ててあげたりお世話をしてあげなくてはならない、と考えていたアテネの人々に向かって、

この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。

と述べています。
 神さまはこの世界のすべてを造り出し、それを支えておられる方です。私たちは神さまから全面的に支えられていますが、神さまは私たちの支えを必要としておられません。神さまがこの世界にご臨在されるのは、人間から「世話」を受けるためではなく、「神のかたち」に造られている人間に特別に心を注ぎ、人間をご自身との愛の交わりのうちに生かしてくださるためです。
 このように、創世記1章2節で

神の霊は水の上を動いていた。

と言われていることは、この「」が「人の住みか」として形造られる前に、そして、「神のかたち」に造られている人間がそこに住むようになる前に、「神の霊」のご臨在がそこにあったことを示しています。
 ですから、この「」は「人の住みか」である前に、「神の霊」がご臨在される「神殿」であるのです。それで、「神のかたち」に造られている人間は、この世界のどこにおいても、造り主である神さまのご臨在とご臨在のしるしに触れることができたのす。目で見ることができない神さまは、創造の御業によって造り出されたこの世界に現わされている、さまざまな知恵と力と慈しみのしるしを通して、ご自身を示してくださっています。
 ただし、すでに申しましたとおり、実際には、人間が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことによって、人間は神さまのご臨在の御前から退けられてしまっています。それで、贖い主が成し遂げてくださった罪の贖いにあずからなければ、神さまのご臨在の御前に近づいて、神さまとのいのちの交わりに生きることはできませんし、この世界に現わされている神さまのご臨在のしるしを受け止めることもできません。
 この世界に造り主である神さまの栄光が映し出されていることが、詩篇19篇1節~4節では、

  天は神の栄光を語り告げ、
  大空は御手のわざを告げ知らせる。
  昼は昼へ、話を伝え、
  夜は夜へ、知識を示す。
  話もなく、ことばもなく、
  その声も聞かれない。
  しかし、その呼び声は全地に響き渡り、
  そのことばは、地の果てまで届いた。

と告白されています。また、詩篇104篇24節では、

  主よ。あなたのみわざはなんと多いことでしょう。
  あなたは、それらをみな、
  知恵をもって造っておられます。
  地はあなたの造られたもので満ちています。

と歌われています。
 また、詩篇8篇3節、4節においては、神さまがお造りになった広大な世界の中にあって「ちり」にも等しいような人間に、神さまが心を留めてくださることへの驚きが、

  あなたの指のわざである天を見、
  あなたが整えられた月や星を見ますのに、
  人とは、何者なのでしょう。
  あなたがこれを心に留められるとは。
  人の子とは、何者なのでしょう。
  あなたがこれを顧みられるとは。

と歌われています。


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