(第5回)


説教日:2001年6月3日 (夕拝)
聖書箇所:創世記1章1節〜3節
説教題:地は形がなく

 
 創世記1章1節の、

初めに、神が天と地を創造した。

という言葉は、独立した「見出し文」です。「天と地を」というのは大空と大地というのではなく、ヘブル語の慣用表現で「存在するすべてのもの」を指しています。ですから1節は私たちのいう「宇宙」全体とその中のすべてのものが神さまの御手によって創造されたという宣言です。
 続く2節では、

地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。

と言われています。
 この訳には訳し出されていませんが、実は2節の初めには接続詞があります。それを生かして訳しますと、「さて、地は ・・・・ 」というようになるでしょうか。1節で、いわば広大な宇宙全体を視野において、そのすべてが神さまによって造られたことを宣言した後、2節において、「さて、目を転じて、私たちの住んでいるこの地に焦点を合わせてみますと ・・・・ 」と語り始めるわけです。
 これ以後の創造の御業の記事は、神さまの創造の御業が私たちの住んでいるこの「」に対してどのようになされていったかを記しています。もちろん、実際には、同時並行的に宇宙のさまざまなものに対する創造の御業が進行していたのですが、そのことに対する関心はおいておいて、もっぱら、私たちが住んでいるこの「」のことに関心を注いでいるのです。
 しかも、この天地創造の御業の記事は、この「」に住んでいる私たちの「目」から見た「この世界」がどのように造られていったかを記しています。言い換えますと、この記事は天からの視点ではなく、地からの視点から見た天地創造の御業を記しているのです。これは、この天地創造の御業の記事が、私たちへの啓示であって、私たちが、自分たちの住んでいるこの世界のことを神さまの創造の御業とのかかわりで理解するようになるために記されているという、この記事の目的に沿ったことです。
 また、この創造の御業の記事は、今日の私たちがなじんでいる自然科学的な記述ではありません。別の機会にお話ししたことがありますので、詳しい説明は省きますが、科学的な研究を成り立たせているのは、科学の方法です。そして、科学はその方法論に適合する事柄だけを取り扱います。自然科学の方法論に適合するのは私たちが感覚的に捉えることができる現象(世界)だけです。神さまご自身はこの世界の現象の一つではありませんので、神さまを自然科学的な研究の対象にすることはできません。自然科学的な研究は、神さまがお造りになったこの世界の現象的な面を探るものです。天地創造の御業の記事は神さまの創造の御業について「証言」するものであって、それを科学的な方法論に基づいて「証明」しようとはしていません。
 そのことは、この記事が今日の科学的な研究によって唱えられている宇宙論と矛盾・対立するということではありません。ある科学的な理論と対立するのは、別の科学的な理論です。この神さまの創造の御業の記事は、一つの科学的な理論を述べるものではありませんから、ある科学的な理論と対立することはありません。
 また、天地創造の御業の記事は、神さまがこの「」に対してなさった創造の御業のすべてを記してはいません。この記事はある目的と関心の下に記されているのであって、それに関わりのないことには触れられていません。この記事が目的としているのは、先ほども触れましたが、「神のかたち」に造られている人間が、自分たちの住んでいる世界を造り主である神さまの創造の御業の光のもとで理解し受け止めるための光を与えることです。
 これによって、私たちは、自分たちが住んでいるこの世界が造り主である神さまの御手によって造り出され、こまやかな配慮の下に整えられていることと、この世界のすべてに神さまの愛と慈しみのしるしが満ちていること、そして、「神のかたち」に造られている人間は神さまがこのように整えられた世界の中にあって神ご自身との交わりにあずかることができるということを理解する土台を与えられています。私たちは、ここに記されている創造の御業の記事を通して、私たちの住んでいるこの世界を見ることによって、ただ単にこの世界の目に見える素晴らしさだけでなく、それを素晴らしくお造りになった方ご自身に(霊的な)眼を向けるように導かれるのです。


 このようにして、2節に記されているこの世界に目を転じてみますと、そこでは、

地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。

と言われています。
 問題は、ここに記されている、この世界の最初の状態はどこからきたのかということです。
 世界にあるさまざまな創世神話においては、この、

地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあった。

と言われているような最初の混沌とした状態は、初めからずっとあった状態で、そこに神や神々が働きかけて、自分たちの世界を整えていったとされることがあります。神学的に言いますと、「先在の物質」が初めからずっとあったということになります。
 しかし、それは、聖書の天地創造の御業の記事が示すところではありません。天地創造の御業の記事の見出しに当たる1節において、

初めに、神が天と地を創造した。

と宣言されていることによって、この世界のすべてのものが、神さまの創造の御業によって造り出されたことが示されています。ですから、続く2節に記されている、

地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。

という状態は、造り主である神さまがお造りになったこの「」の最初の状態です。
 では、神さまが、まずこのような状態の地をお造りになったのは、どうしてなのでしょうか。
 言うまでもなく、それは、神さまの力の限界によっているのではありません。全知全能の神さまは、一瞬のうちに、この宇宙全体を完成した形で造り出すことがおできになります。それなのに、神さまは、まず、

地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあった。

という状態の世界を造り出されました。
 実は、これによって、この世界がどのようなものであるかが決定されていると言うことができます。
 最初に記されている、

地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあった。

という状態は、そこに用いられている「形がなく、何もなかった。」を表わす言葉(形容詞)のトーフー・ワ・ボーフーという響きと相まって、まことに殺伐とした空しい状態を示しています。
 イザヤ書45章18節ではこのトーフーという言葉を用いて、次のように言われています。

  天を創造した方、すなわち神、
  地を形造り、これを仕上げた方、
  すなわちこれを堅く立てられた方、
  これを形のないものに創造せず、
  人の住みかに、これを形造られた方、

 この「形のないもの」(トーフー)という言葉によって表わされているのは、「人の住みか」としてふさわしい状態と対比されています。
 創世記1章2節のトーフー・ワ・ボーフーは、この状態にボーフーという言葉が加えられてその空しく何もない状態が強調されています。つまり、とても「人の住みか」としてふさわしい状態ではなかったというのです。
 さらに、その形もなく何もない状態は、放っておけばそこから自然と何かが生まれてくるような状態でもなかった空しい状態を示しています。
 これは今日の科学的な言葉で言えば、「物質的な宇宙の全体を律しているのは、『エントロピー増大の法則』である。」というようなことを思わせる状態です。
 では、神さまが、まず、

地は形がなく、何もなかった。

というような状態の「」を造り出されたということをどのように考えたらいいのでしょうか。そのことには何か意味があるのでしょうか。
 1章1節〜2章3節に記されている、神さまの天地創造の御業の記事を全体的に見てみますと、神さまの創造の御業には順序があって、それぞれの御業の間には積み上げと発展の関係があることが分かります。創造の御業のより早い時期に造られたものはより基本的なものであり、その後に造られるものの存在にとって必要な土台のようなものであるということです。その一方で、より後に造られているものはより複雑で、生きておられる人格的な造り主である神さまをより鮮明に映し出すものです。その最後に造られているのが「神のかたち」に造られている人間です。
 神さまの創造の御業のそのような順序にからしますと、いちばん最初に造り出されたものは最も基礎的なもので、その後に造り出されるものすべての存在を支える土台のようなものであるということになります。しかし、その最も基礎的であるはずのもののが、

地は形がなく、何もなかった。

という状態にあったと言われているのです。
 すでにお話ししましたように、この「形がなく、何もなかった」という言葉は、ただ単に何もなくて空しい状態を示しているだけでなく、特に、とても人間が住むことができるような状態ではなかったことを示しています。
 私たちはこの世界そのものには固有の安定性があると感じていますので、この世界がどうなってしまうかということを心配しないで生きています。そういう大きなスケールのことには思いが及ばないというだけでなく、実際にそういうことに対する心配は必要がないくらいに、この世界は安定しています。それで私たちはこの世界そのものがこのような安定した世界なのだと感じています。
 これに対して、この創造の御業の記事は、この世界の在り方にとって最も基礎的であるはずの最初の状態は、

地は形がなく、何もなかった。

という状態であったということを伝えています。私たちが住んでいるこの世界は、この世界そのものの力で自動的に整ってきて、放っておいても安定しているのではないということを伝えています。そして、このことをとおして、私たちの住んでいる世界の本当の基礎と土台はこの世界そのものではなく、これを人の住み家に整えてくださり、創造者としての御手によって支えておられる神さまにあることを示しています。
 これによって、人はこの世界を最後の拠り所とすべきではなく、この世界を造り出しこれを真実に支えておられる神さまを信頼すべきであるという思いへと導かれるのです。詩篇119篇89節〜91節には、

  主よ。あなたのことばは、とこしえから、
  天において定まっています。
  あなたの真実は代々に至ります。
  あなたが地を据えたので、地は堅く立っています。
  それらはきょうも、あなたの定めにしたがって
  堅く立っています。
  すべては、あなたのしもべだからです。

と記されています。
 このように、2節の、

地は形がなく、何もなかった。

という言葉は、私たちが住んでいる「」の最初の状態においては、この「」そのものが自動的に何かを生み出すような状態にはななかったことを示しています。
 同じことは、これに続く、

やみが大いなる水の上にあった。

という言葉にも示されています。
 「やみ」は、後に悪を象徴するようになります。しかし、この段階では倫理的なわきまえ(善悪のわきまえ)をもっている存在がいて、悪を行なっているわけではありませんので、「やみ」が悪の象徴であるというようなことは考えられません。むしろ、この「やみ」も、その前の「形がなく、何もなかった」という状態と同じように、消極的な意味で「いまだ光がない状態」を表わしています。
 さらに、

やみが大いなる水の上にあった。

の「大いなる水」も同じように理解できます。
 この「大いなる水」(テホーム)は、バビロニヤの創造神話に出てくる神話的な怪獣ティアマトから由来していると考えられたことがありました。このティアマトは「原始の海」にかかわる怪獣で、神々に敵対している勢力の中心であるとされていました。バビロニヤの主神であるマルドゥクは、ティアマトとの戦いの中で、ティアマトを打ち破り、その死体を2つに裂いて、その上の部分で天を造り、残りで地を造ったというのです。
 言語学的には、「大いなる水」を表わすテホームが、ティアマトから派生したと考えることはできません。この2つの言葉は、それぞれ、セム語族に共通の語源から派生したものと考えられます。
 それ以上に、それぞれの言葉が表わしていることには大きな違いがあります。ティアマトは、神話的な怪獣であって、神々に逆らって立つ暗やみの力です。しかし、聖書の中では、この「大いなる水」を表わすテホームは「深い水」を表わすだけで、それが神さまに逆らって立つ暗やみの力であるという意味合いはありません。
 確かに、バビロニヤにおいてだけでなく、古代オリエントの文化圏においては、「大いなる水」を神々に敵対する暗やみの力として恐れていました。そして、聖書の中にも、人々が「深い水」を恐れていることが記されています。しかし、聖書の中では、それは、決して、神話的な怪獣として示されてはいません。
 むしろ、その恐れは、古代オリエントの文化に共通して、ノアの時代の大洪水によって神さまのさばきが執行されたことにつながる恐れであると考えられます。聖書は、そのさばきを人間の罪に対する造り主である神さまのさばきであることをはっきりと伝えています。これに対して、古代オリエントの創造神話は、悪を自分たちの倫理性に結びつける代わりに、自分たちの外にあるものとして実体化して、それを退治するという方向で考えているわけです。
 先ほど触れました、創世記1章2節に記されている「やみ」は、後に、暗やみの力など、悪を象徴するようになりますが、この段階では、そのような悪を象徴するということはありませんでした。まして、後になっても、悪の力を表わすために用いられることのない「大いなる水」は、この段階では、倫理的な意味合いはまったくないと考えられます。それで、ここでは、その時、人が住むべき「」は「大いなる水」に覆われていて、現われてきていないという状態を示していると考えられます。
 このことを踏まえて、ペテロの手紙第2・3章5節、6節では、

天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によって成ったのであって、当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。

と言われています。

地は神のことばによって水から出て、水によって成った

という言葉は、神さまが、「大いなる水」に覆われていた状態にあった「」を出現させてくださったことを示しています。
 それに続いて記されている「当時の世界」とは、ノアの洪水の時代のことを指しています。ここで、ペテロは、ノアの洪水の意味を伝えています。
 人間はこの「」の存在を当然のものと考え、いわば我が物顔で歩いています。しかし、この「」が人間の住むことができる「」であることは決して当たり前のことではなく、造り主である神さまが創造の御業の中でそれにふさわしく整えてくださったことと、それを真実に支えてくださっていることによっています。
 かつてノアの時代に、その事実を忘れた人間たちが造り主である神さまの御前に高ぶって、「」を荒廃させ暴虐で満たしてしまいました。
 創世記6章11節、12節には、

地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである。

と記されています。
 これに対して神さまは「」を初めの状態に返すことによってさばきを執行されました。「」を堕落させ暴虐で満たしたことは、創造の初めに「」を「人の住み家」として整えてくださった神さまのみこころを踏みにじることであったのです。
 いずれにしましても、「大いなる水」は「水の惑星」にとってなくてはならないものですが、それは、造り主である神さまの御手によって整えられた状態の中で初めて、そのような意味と有用性をもっています。
 最後に一つ考えておきたいことがあります。それは、神さまが最初に造り出された、

地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあった。

という「」の状態は、悪い状態であったのかという疑問についてです。
 すでにお話ししましたように、「やみ」は、後に暗やみの力を象徴的に表わすのに用いられるようになります。また、「やみ」は、主のさばきを表わすのに用いられることもあります。出エジプトの時代にエジプトに下された十のさばきのうちの、9番目のさばきは、暗やみがエジプトの地を覆うというものでした。
 さらに、「大いなる水」は、ノアの時代においては、主の、終末的なさばきを執行するための手段として用いられています。
 また、背教したユダ王国に対してやがて来たるべき主のさばきを預言的に記しているエレミヤ書4章23節には、

  私が地を見ると、
  見よ、形もなく、何もなく、
  天を見ても、そこには光もない。

と記されています。
 ここで言われている、

  私が地を見ると、
  見よ、形もなく、何もない。

ということは、主のさばきによってもたらされる「」の状態を示していますが、それは、まさに創世記1章2節で、

地は形がなく、何もなかった。

と言われていることと同じ状態であるということを示しています。どちらにおいても、「」の状態を表わすのに、トーフー・ワ・ボーフーという言葉を用いています。
 実際、このエレミヤ書4章23節では、主のさばきによって「」の「形もなく、何もない。」状態がもたらされたと言われているということ基づいて、創世記1章2節において、

地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあった。

と言われているのは、さばきの結果もたらされた状態であると主張する人々もいます。
 この場合、まだ人間が造られていないのに、どうしてさばきが執行されたのかということになりますが、その主張をする人々は、天使の一部であったサタンや悪霊たちが堕落したのだと言います。このような見方を「間隙説」と呼びます。創世記1章1節と2節の間に、天使の一部が堕落して、それに対する主のさばきが執行された期間があったというように、時間的な「間隙」を想定するのです。
 この見方の問題については、ずいぶん前にですが、お話ししたことがありますが、最大の問題は、人間の罪に対する神さまのさばきによって「」が「形もなく、何もない」状態になってしまったのは、創世記1章28節に記されていますように、「神のかたち」に造られている人間に、「」を治めるようにという使命が与えられているからです。いわば、「」は「神のかたち」に造られている人間をかしらとしてもち、人間との一体性のうちに置かれているのです。それで、人間の罪による堕落とともに虚無に服し、人間の贖いに伴って、虚無から解放される望みのうちに置かれています。
 ローマ人への手紙8章19節〜21節には、

被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。

と記されています。
 しかし、聖書の中には、この「」が御使いたちに委ねられたというようなことは、教えられてはいません。何よりも、「」は物質的なものですから、これを治めるのは、同じく物質的なものである肉体をもっている人間に委ねられているのです。それで、御使い達の堕落に対するさばきによって、創世記1章2節で、

地は形がなく、何もなかった。

と言われている状態になったという見方には、聖書的な根拠がまったくありません。
 話を分かりやすくするために、一つのたとえを用いますと、陶器師は、陶器を作るために良い土を集めます。その時の土は、何の形もなしていません。しかし、だからといって、それが土の状態であるから悪いものであると言うことはできません。
 その陶器師は土をこねてから、それをみごとな陶器の形に作り上げました。後は、上薬を塗ってから、窯に入れて焼くだけという状態です。そこに完成品ではないとしても、価値あるものが生み出されたわけです。ところが、それが何かのことで割れてしまったとします。陶器師は、それを粉々に砕いて、また、もとの土のような状態に戻してしまったとします。
 この場合、陶器師が最初に集めた状態の土は、そこに何の欠けた状態はありません。その土は土の状態であったとしても、良いものです。これが、創世記1章2節で、

地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあった。

と言われている状態に当たります。それは、神さまがご自身のみこころに沿って造り出された最初の状態として、よい状態だったのです。
 ところが、せっかく陶器師が、土をこねて陶器の形を作ったのに、それが壊れてしまったということは、それまでの苦労とそれによって作り出された価値あるものが破壊されてしまったということです。それは、「悪い状態」を意味しています。そして、これが、エレミヤ書4章23節で、

  私が地を見ると、
  見よ、形もなく、何もなく、
  天を見ても、そこには光もない。

と言われている状態です。それは、神さまが創造の御業をとおして「人の住みか」に形造ってくださった「」を、そして、それまでの歴史を通して、真実に保ってきてくださった「」を、人間が造り主である神さまに対する罪によって満たしてしまっことと、それに対する主のさばきが執行された結果もたらされた状態です。
 ですから、「」の状態を表わすのに、同じ、トーフー・ワ・ボーフーという言葉を用いて「形もなく、何もない」状態を表わしているからといって、2つを同じものと見ることはできません。創世記1章2節で、

地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあった。

と言われている状態は、神さまのが最初に造りだされた状態として、その段階としては、よい状態でした。

 


【メッセージ】のリストに戻る

「天地創造」
(第4回)へ戻る

「天地創造」
(第6回)へ進む

(c) Tamagawa Josui Christ Church