(第4回)


説教日:2001年8月5日 (夕拝)
聖書箇所:創世記1章1節〜5節
説教題:初めに神が(4)

 
 創世記1章1節〜2章3節には、34の節があります。その中に、「」(エローヒーム)という言葉が35回用いられています。しかも、すべて主語として出てきます。このことは、創造の御業の「主役」が神さまであることを反映しています。創造の御業は、神さまおひとりの御業です。神さまは造り主であり、私たちも含めて、この世界のすべてのものは神さまによって造られたものです。
 造り主である神さまは、この造られた世界の時間や空間を無限に超越した方であり、無限、永遠、不変の栄光に満ちておられます。ですから、神さまと、神さまによって造られたものの間には「絶対的な区別」があります。
 私たちは、この世界の中にあるもの、すなわち、神さまによって造られたものの間の違いを見ています。そして、それらの違いから類推して、神さまと神さまによって造られたものとの間の違いを考えます。それ以外には、私たちが神さまと神さまによって造られたものとの間の「違い」を考える方法がありません。
 しかし、この世界の中にあるものの間にある違いは、それが私たちの目から見て、どんなに違ったものであっても、相対的なものです。私たちには、この世界の中にあるものの間にある、相対的な違いを知ることができるだけです。その違いをいくら拡大しても、造られたものと、これをお造りになった神さまとの間にある違いにはなりません。
 また、私たちが、あるものとあるものの違いを考えるときには、それらのものを比べてその違いを考えます。それらのものを比べるとき、私たちは、それらのものを、私たちの心で同一平面上に並べてしまいます。そのようにして同一平面上に並べられたものは、みな「相対化」されてしまいます。言い換えますと、私たちは、相対的なもの同士しか比べることができませんし、相対的なもの同士の間にある違いを知ることしかできないのです。
 その意味では、その存在とすべての属性の栄光において無限、永遠、不変の神さまは、どのようなものとも比べることができない方であるのです。

  「それなのに、わたしを、だれになぞらえ、
  だれと比べようとするのか。」と
  聖なる方は仰せられる。
  目を高く上げて、
  だれがこれらを創造したかを見よ。
  この方は、その万象を数えて呼び出し、
  一つ一つ、その名をもって、呼ばれる。
  この方は精力に満ち、その力は強い。
  一つももれるものはない。

イザヤ書40章25節、26節
          *
 私たちは、造り主である神さまと、私たち人間を含めた、造られたものの間にある「絶対的な区別」を、十分に理解することはできません。ですから、造り主である神さまと、神さまによって造られたものの間には、「絶対的な区別」があるということをわきまえるためには、そのことを頭で理解するだけでは十分ではありません。私たちは、私たちの理解をはるかに越えた、造り主である神さまと、神さまが造られたものの間にある「絶対的な区別」を、いわば、「神のかたち」に造られている人間としての在り方のすべてを傾けてわきまえなくてはならないのです。
 それで、神さまを造り主としてわきまえ、自分たちを神さまによって造られたものとしてわきまえることは、全身全霊を傾けて神さまを礼拝することとして現われてきます。
 全身全霊を傾けて神さまを礼拝することは、「神のかたち」に造られている人間が、造り主である神さまのことを、自分の理解を無限に越えていて、この造られた世界の何ものとも比べることができない、無限、永遠、不変の栄光の神であることを告白して、栄光を神さまに帰するための、ただ一つの方法なのです。
 その意味で、礼拝を歪めてしまいますと、造り主である神さまを神としてわきまえて、告白する道はなくなってしまいます。また、造り主である神さまに、神としての栄光を帰する道もなくなってしまいます。
 このことから、造り主である神さまを信じる者たちが、決して偶像礼拝をしないことの理由が了解されます。造り主である神さまと人間の関係の在り方の根本にあることを示している、「十戒」の第一戒と第二戒を記す、出エジプト記20章3節〜5節では、

あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。

と言われています。
 人間の手によって作られた偶像は、造り主である神さまと、私たち人間を含めた、造られたものの間にある「絶対的な区別」を曖昧にしてしまうものです。
 この場合、偶像は、ただ人間の手で造られた何かの像であるだけでなく、人間が考えている「神のイメージ」でもありえます。人間が考えている「神のイメージ」は、それが人間が考えうるかぎりで最も高く、最も大きなものであっても、人間の想像力の限界の中にあり、相対的なものでしかありません。そのような、人間が考える「神のイメージ」は、人間の理解を無限に越えていて、この造られた世界の何ものとも比べることができない、無限、永遠、不変の栄光の神さまとは、まったく懸け離れたものです。
 ですから、私たちは、自分たちの想像力によって生み出される「神のイメージ」をもとにして、神さまを礼拝してはならないのです。
 自分たちの想像力によって生み出される「神のイメージ」をもとにして神を礼拝しようとした例は、出エジプト記32章1節〜6節に記されています。そこでは、

民はモーセが山から降りて来るのに手間取っているのを見て、アロンのもとに集まり、彼に言った。「さあ、私たちに先立って行く神を、造ってください。私たちをエジプトの地から連れ上ったあのモーセという者が、どうなったのか、私たちにはわからないから。」それで、アロンは彼らに言った。「あなたがたの妻や、息子、娘たちの耳にある金の耳輪をはずして、私のところに持って来なさい。」そこで、民はみな、その耳にある金の耳輪をはずして、アロンのところに持って来た。彼がそれを、彼らの手から受け取り、のみで型を造り、鋳物の子牛にした。彼らは、「イスラエルよ。これがあなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ。」と言った。アロンはこれを見て、その前に祭壇を築いた。そして、アロンは呼ばわって言った。「あすは主への祭りである。」そこで、翌日、朝早く彼らは全焼のいけにえをささげ、和解のいけにえを供えた。そして、民はすわっては、飲み食いし、立っては、戯れた。

と言われています。
 ここでの問題は、アロンが金の「鋳物の子牛」を作って、民がその「鋳物の子牛」を拝んで偶像礼拝をしたということにあるだけではありません。
 アロンは、その「鋳物の子牛」を指して、

イスラエルよ。これがあなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ。

と言いました。さらに、

あすは主への祭りである。

と言いました。この「」は、新改訳では太字になっていますように、契約の神である主、ヤハウェです。
 つまり、アロンは、この金の「鋳物の子牛」のことを、契約の神である「」、ヤハウェと呼んでいるのです。ですから、アロンとイスラエルの民は、金の「鋳物の子牛」を契約の神である「」、ヤハウェであると考えて、自分たちは契約の神である「」、ヤハウェを礼拝していると思っているわけです。
 一体どうして、このようなことになってしまったのでしょうか。それは、アロンとイスラエルの民のうちにある契約の神である「」に対する理解が、そのようなものであったからに他なりません。彼らは、この時までずっと、契約の神である「」を、金の「子牛」のイメージで理解していたのです。そして、この時、そのイメージにしたがって金の「鋳物の子牛」を作ったのです。
 では、その金の「子牛」のイメージはどこから得たかといいますと、それは、長いエジプトでの奴隷の状態にある生活の中で、イスラエルの民がいつの間にか身に着けてしまっていたものであったと考えられます。
 そうであれば、アロンとイスラエルの民は、出エジプトの際に契約の神である「」がなしてくださった救いとさばきの御業を目の当たりに見ながら、その御業をなしておられる「」を、金の「子牛」のイメージで理解していたわけです。事実、出エジプト記19章16節に、

 三日目の朝になると、山の上に雷といなずまと密雲があり、角笛の音が非常に高く鳴り響いたので、宿営の中の民はみな震え上がった。

と言われていますように、この時、「」の御臨在の栄光がシナイの山全体を覆っていました。そのために、イスラエルの民は恐ろしさの余り震え上がってしまっていました。それなのに、イスラエルの民は、その山の麓で、金の「鋳物の子牛」を契約の神である「」、ヤウェであると考えて、それを礼拝しました。
 アロンとイスラエルの民のうちに、契約の神である「」に対する、このような、まったく歪んだイメージがあることは、ずっと隠されていました。自分たち自身の中にこのような歪んだイメージがありましたから、自分たちのうちにあるイメージがそんなにも歪んでいる、ということに気づくことはできませんでした。しかし、この時、「モーセが山から降りて来るのに手間取っている」という現実(危機)を前にして、彼らのうちに「」に対するまったく歪んだイメージがあることが、あらわになってしまったのです。
 このように、アロンとイスラエルの民は、初めから、自分たちの心の中で、契約の神である「」、ヤハウェを、自分たちのもっているイメージで「鋳直し」してしまっていたのでした。しかし、そのことには気づかないまま、契約の神である「」の救いとさばきの御業に接していたのでした。
 同じような危険は、私たちにもあります。私たちも、この世の宗教がもっている「神」のイメージをそのままもっているのに、そして、自分の心のうちで、そのイメージにしたがって、契約の神である「」を「鋳直し」しているのに、それに気がつくことができないままになっているというような危険があります。
 この世の宗教がもっている「神」のイメージとは、どのようなものでしょうか。この世の宗教の発想では、「神」とは、人間を助けてくれる「都合のいい存在」です。普段は出番はないけれど、いざという時には助けてくれる「保険」のような存在です。人間が奉仕をすると、それに応えてさまざまなものを与えてくれる「取引関係にある存在」です。
 私たちも、このような、この世の宗教の発想による「神」のイメージにしたがって、契約の神である「」を「鋳直し」しているようなことはないでしょうか。
 「神さまを信じるなら、あなたの人生は充実したものになります。」「神さまを信じるなら、平安な人生を送ることができます。」「十字架にかかって死んでくださったイエス・キリストを信じるなら、地獄の刑罰を免れることができます。」などと言われます。みんなそのとおりです。でも、「それって、神さまを利用して、自分の幸福を図ることではないのですか。」「神さまやイエス・キリストを『主』と呼びながら、実際には、『しもべ』のように働かせることではないのですか。」「それは、物質的な御利益宗教ではないけれど、やはり、一種の御利益宗教ではないのですか。」と問いかけられたら、どう答えたらいいのでしょうか。
 神さまのために一生懸命に奉仕している人が、自分が奉仕していることに一種の満足を覚えて、その満足感が、自分が神さまに受け入れられていることのしるしであると感じるようなことはないでしょうか。あるいは、その逆に、なかなか奉仕ができない人が、そのことに自責の念を覚えて苦しんでいるとき、その苦しみが、神さまから退けられていることのしるしであると感じるようなことはないでしょうか。
 これらは、御子イエス・キリストにある神さまの恵みを、この世の宗教のイメージで「鋳直し」してしまっていることの結果であると考えられます。
 それにしても、私たちは、自分なりのイメージをもたないままに神さまのことを理解する、というようなことができるのでしょうか。もちろん、そのようなことはできません。そうであれば、私たちは、どうしても、自分なりのイメージで神さまのことを考えてしまっているのではないでしょうか。確かに、そのとおりです。
 それでは、私たちは、自分のイメージにしたがって「鋳直し」した「神」を礼拝してしまう他はないのではないでしょうか。そうなれば、私たちは、実質的には、シナイの山の麓で、金の「鋳物の子牛」を契約の神である「」、ヤハウェであると考えて、それを礼拝したイスラエルの民と同じ罪を犯す他はないのではないでしょうか。また、礼拝において、造り主である神さまと、神さまによって造られたものの間にある「絶対的な区別」を認めて、神さまに栄光を帰することもできなくなってしまうのではないでしょうか。私たちは、どのようにしたらいいのでしょうか。
 このことにつきましては、一つのことを考えたいと思います。それは、シナイの山の麓で、金の「鋳物の子牛」を契約の神である「」であると考えて、それを礼拝したイスラエルの民の問題は、どの点にあるのかということです。
 もちろん、金の「鋳物の子牛」を拝んだことは偶像礼拝です。確かに、彼らはその罪を犯しています。
 でも、彼らは、「他の神」ではなく、契約の神である「」を拝んでいるつもりだったのです。もちろん、そのような心情であったのだから、それが偶像礼拝でなくなる、ということはありません。偶像を拝んでいる人々に混じって同じように拝礼しながら、自分の心では天地万物の造り主である神さまを礼拝しているということで、それが偶像礼拝ではなくなるということもありません。
 エジプトの奴隷の状態にあったイスラエルの民が、エジプトの宗教の発想で契約の神である「」のことを考えていたことは、彼らが「」から離れていたことの現われです。しかし、それでも「」は、ご自身をイスラエルの民に啓示してくださいました。モーセを遣わしてくださり、モーセを通して語ってくださり、出エジプトの際の救いとさばきの御業を成し遂げてくださいました。
 イスラエルの民の問題は、そのような、「」のご臨在と御業に接していながら、「」がどのような方であるかを悟ることがなかったという点にあります。もし彼らが悟っていたなら、シナイの山の麓で、金の「鋳物の子牛」を契約の神である「」、ヤハウェであると考えて、それを礼拝するようなことはなかったはずです。
 私たちが、福音の御言葉を聞いたときに、それまで自分たちがもっていたこの世の宗教の発想で、神さまのことを考え、御子イエス・キリストの贖いの恵みを考えてしまったということは、罪のために神さまから離れてしまっていた者としては、当然のことでした。しかし、罪の贖いにあずかって神の子ども、「」の民としていただいて、常に御言葉に触れているのに、やはり、この世の宗教の発想をもったままで、神さまと御子イエス・キリストの贖いの恵みを理解しているとしますと、シナイの山の麓のイスラエルの民と同じ状態にあるということになります。
 ですから、大切なことは、常に、契約の神である「」の語りかけである御言葉に耳を傾けて、それを悟ることによって、「」をより深く、また親しく知るようになることです。聖書は、契約の神である「」のご臨在のしるしは、主の御言葉が語られることにあると教えています。出エジプトの贖いの御業の本体である、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによる罪の贖いの御業と、その意味をあかしする、福音の御言葉を常に新しく悟ることによって、「」をより深く、また親しく知るようになることが大切なのです。
 御子イエス・キリストによる贖いの御業の核心にあることは単純なものです。しかし、その意味の広がりは、私たちが生涯をかけて理解しても、尽きてしまうことはありません。なぜなら、福音の御言葉を通してあかしされている契約の神である「」、すなわち、イエス・キリストの贖いの恵みを通して、私たちが近づくことができるようにされている「」は、私たちが永遠に知り続けても尽きることがなく、常に新しい方であるからです。
 また、ヨハネの福音書16章13節、14節で、

しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。御霊はわたしの栄光を現わします。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。

とあかしされているように、御子イエス・キリストの血による新しい契約にあずかっている、神の子どもたちには、福音の御言葉を悟り、イエス・キリストをさらに親しく、また深く知ることができるように導いてくださる「真理の御霊」が与えられています。
 これらのことから、造り主である神さまと、神さまによって造られたものとの間にある「絶対的な区別」を告白しつつ、無限、永遠、不変の栄光を神さまに帰する礼拝は、福音の真理の御言葉と、御言葉とともに働いて私たちを御子イエス・キリストの御許に導いてくださる御霊のお働きによらなくてはならないことが分かります。

しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」

ヨハネの福音書4章23節、24節

 


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