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説教日:2001年5月6日 (夕拝) |
日本語訳ばかりでなく、ヘブル語の原文においても、この、 初めに、神が天と地を創造した。 という言葉は、「初めに」という言葉で語り出されています。ヘブル語では、この「初めに」という言葉(ブレーシート)の最初の三つの子音字と、その次にくる「創造した」という言葉(バーラー)の子音字が同じで、頭韻法によってつながっています。 また、聖書のヘブル語では、この「創造した」という言葉(バーラー)の主語は、この形(カル語幹)では、常に神さまです。そして、この言葉は、材料を表わす言葉とともに用いられることはありません。 「創造した」という言葉は、天地創造の御業の記事の中では、この1節のほか、最初にいのちあるものが造られたことを記している21節と、人間が「神のかたち」に造られたことを記している27節に用いられています。このことから、「創造した」という言葉は、神さまの創造の御業において、新しい段階を画する御業がなされたことを示すものとして用いられていることが分かります。 この天地創造の御業の見出しに当たる、 初めに、神が天と地を創造した。 という言葉において、主語は「神」です。そして、当然のことながら、2節以下に記されている、創造の御業の記事全体において主語は神さまです。天地創造の御業は神さまの御業であり、神さまお一人の御業です。 最後の、「天と地」という言葉は、日本語では、私たちが見上げている「天」と、私たちが足を据えている「地」を指しています。しかし、ヘブル語では、これは一種の慣用表現です。日本語でも、「老いも若きも」というと「すべての人」を表わしますし、「昼も夜も」といえば「いつも」ということを表わします。このような表現の仕方を メリスムスと呼びます。「天と地」という言葉もメリスムスで表わされていて、「この世界のすべてのもの」を表わしています。しかも、実にさまざまなものから成り立っていながら、調和のある、この世界のすべてのものを指しています。ですから、これは、今日の言葉で言う「宇宙」に当たります。 日本の『古事記』にも「創世神話」があって、伊耶那岐と伊耶那美が天の神々の命令に従って、この国を産んだ、と言われています。同じような「創世神話」は世界の至る所にあります。文学的な分類の上では、創世記の天地創造の記事も、これらの「創世神話」の一つであると見なされることでしょう。しかし、「創世神話」と聖書の天地創造の記事の間には、それが表わしている思想の上で、決定的な違いがあります。 「創世神話」の神々は、この世界の中に「住んでいる」神々です。その神々が住んでいる所は、それが「天上界」であろうと高い山であろうと、この世界の一部で、人間が住んでいる所と「空間的に」つながっています。 また、「創世神話」においては、神々は、自分が住んでいる世界にすでにあったもの さらに言いますと、「創世神話」においては、神々自身が、この世界を構成する一部です。その意味で、神々はこの世界に依存しています。 私たち日本人は、このような発想に慣れているため、普通、「神」という言葉を聞いて考えるのは、このような、この世界の中に住んでいる「神」です。 創世記1章1節で、 初めに、神が天と地を創造した。 と言われているのは、これとはまったく違います。 先ほどお話ししましたように、 初めに、神が天と地を創造した。 という言葉においては、「初めに」という言葉が最初に出てきて強調されています。そして、これが頭韻法によって、「創造した」という言葉と結び合わされています。 これによって、この「天と地」という言葉によって表わされている世界のすべてが、神さまの創造の御業によって始まっているということを示しています。その意味で、この「初めに」の「初め」は、いわば「絶対創造の初め」を指しており、この創造の御業が、いわゆる「無からの創造」であることを示しています。神さまがこの世界をお造りになる前にすでに「先在の物質」が、いわば、神さまとともに存在していて、神さまはそれを素材として、この世界を造ったということではありません。 初めに、神が天と地を創造した。 という言葉は、「先在の物質」の存在を否定しています。ですから、この言葉は、造り主である神さまと、神さまによって造られたこの世界をはっきりと区別しています。 「天と地」という言葉は、「この世界のすべてのもの」を表わしています。そして、「この世界のすべてのもの」は創造者である神さまがお造りになったと言われています。当然、それをお造りになった神さまは、「この世界のすべてのもの」の中に含まれていません。 また、この世界には「初め」があり、その「初め」は神さまの創造の御業によっているということが示されています。この「初め」は、神さまがお造りになったこの世界の「初め」であり、この世界が時間的な世界として造られていることを示しています。 この世界は、時間的な流れをもって変化している世界ですし、空間的な広がりのある世界です。時間はこの世界の時間であり、空間はこの世界の広がりです。この世界が造られなかったら時間もなく、空間もありませんでした。 私たちは、この世界に属していますので、時間の中にあって変化しており、空間の中にあって動き回っています。私たちは時間と空間の中のある位置を占めています。私たちは現在にあって、過去や未来にはありません。また、ここにいますので、あそこにはいません。このように、私たちは時間と空間の制限の中にあります。 しかし、神さまは、この世界をお造りになって、すべてを支えておられる方です。この世界に属して、この世界の一部としてこの世界に依存しながら存在している方ではありません。ですから、神さまは、私たちと違って、この世界の時間の流れの中にあって時とともに変化していく方ではなく、この世界の空間の中にあって、この世界のどこかにしかおられないという方ではありません。 * 時間はこの世界の時間であり、空間はこの世界の広がりです。それで、この世界がなければ、時間もなく空間もありません。そして、私たちは、この世界の変化の流れを、「時間」として受け止め、この世界の広がりを「空間」として受け止めています。 時間の流れと空間の広がりをもっているこの世界の中にある私たちは、この世界がなくても時間と空間だけはあると感じています。たとえば、今日、分かっている宇宙の姿は、150億光年の彼方に広がっていて、絶えず膨張しているそうです。その150億光年の彼方が宇宙の果てですが、同時にそれは空間の果てでもあります。そのように空間は、実際には、閉じているのですが、私たちは、自分たちが考えている「どこまでも広がっている空間」の中に、閉じた宇宙があると考えてしまうのではないでしょうか。そのような「どこまでも広がっている空間」は、私たちが頭で考えているもので、実際の空間ではありません。 同じことは時間についても言えます。現在、宇宙の初めについては理論が混沌としていて、今一つ分からないところがあるのですが、仮に、今から150億年前に、いわゆるビッグ・バンによって始まったとしますと、そこが宇宙の始まりの時ですから、時間もその時に始まっています。 ところが、私たちは、時間だけがずっと前からあって、その流れの中で、今から150億年前にビッグ・バンが起こったと考えてしまいます。ですから、私たちは、たとえば、今から500億年前も考えることができます。しかし、実際には、500億年前という時間はありません。 このように、私たちは自分たちの存在だけではく、考え方や感じ方も、時間と空間に規定されれています。それで、創世記1章1節の、 初めに、神が天と地を創造した。 という言葉を読みますと、どこまでも延びている時間と空間の中に神さまだけがおられて、ある時、このどこまでも広がっている空間の中に、この世界を造り出されたと考えてしまいます。しかし、時間も空間も、この世界の時間であり、この世界の空間です。それで、時間も空間も、神さまがこの世界をお造りになったことによって造り出されたものです。この世界の創造者である神さまご自身は、この世界の時間や空間を越えた、無限、永遠、不変の方です。それで、神さまは、この世界の中に閉じ込められてはおりません。 このような、神さまのあり方のことを、存在においても、考え方においても、時間と空間の制限の中にある人間の言葉で言い表わすのはとても難しいのですが、たとえば、ペテロは、ペテロの手紙第二・3章8節において、 しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。 と述べています。これは、無限、永遠、不変の神さまと、この世界の関係を時間的な観点から述べたものです。 また、詩篇139篇7節〜9節では、 私はあなたの御霊から離れて、どこへ行けましょう。 私はあなたの御前を離れて、どこへのがれましょう。 たとい、私が天に上っても、そこにあなたはおられ、 私がよみに床を設けても、 そこにあなたはおられます。 私が暁の翼をかって、海の果てに住んでも、 そこでも、あなたの御手が私を導き、 あなたの右の手が私を捕えます。 と言われています。これは、無限、永遠、不変の神さまと、この世界の中にある者との関係を、空間的な観点から述べたものです。 このように、私たちには、神さまが無限、永遠、不変であられることを、この世界との関係で考えて、「神さまはこの世界の時間的空間的な限界を越えた方である。」という形で捕らえることができるだけです。存在において時間と空間の限界の中にあるばかりでなく、考え方においても限界の中にある私たちには、無限であることや永遠であること自体がどのようなことであるかを知ることはできません。 * 創造の御業の記事の見出しに当たる、 初めに、神が天と地を創造した。 という言葉の最初に出てくる、「初めに」という言葉の「初め」は、また、別の意味でも、大切な意味を持っています。というのは、あるものの「初め」は、それがどのようなものであるかを、根本的に決定しているからです。 「初め」を表わす言葉は、ギリシャ語ではアルケーであり、ラテン語ではプリンキピウムです。そのどちらの言葉も「初め」を表わすとともに、「原理」、「原則」を表わしています。このことは、人間が古くから、「初め」は単に出発点に関わるだけではなく、その後のものの在り方に対して「原理」、「原則」として根本的に深く関わっていることに気がついていたことを示しています。 この、 初めに、神が天と地を創造した。 という言葉の「初め」も、それと同じような意味をもっています。それで、 初めに、神が天と地を創造した。 という言葉は、単なる、世界の「初め」についての情報ではありません。私たちとは関係のない、遠い昔のことを、情報として伝えているものではありません。むしろ、今ここに生きている私たちと、私たちが生きているこの世界のあり方を最も深いところで決定し規定しているのは、神さまの天地創造の御業であるということを伝えているのです。 そのような意味をもっている、 初めに、神が天と地を創造した。 という言葉は、この世界とその中のすべてのものをお造りになったのは、造り主である神さまであることを宣言し、告白しています。広大な宇宙全体も、その中にある無数とも思える天体も、また、それらの天体の中にある一つ一つのものも、いのちあるものもないものも、さらには、それらのものの複雑な関係に現われている不思議な秩序も、すべて、造り主である神さまがお造りになり、今も真実にそれを保っておられるということを、私たちに伝えています。 「神のかたち」に造られている人間は、神さまから与えられた能力を傾けて、神さまがお造りになったこの世界を眺め、そこに見られる多様なもののあり方と調和から、さまざまな法則を見出して、科学的な活動をしています。また、その調和の美しさに触発されて、さまざまな形での芸術的な活動を展開しています。このような活動ばかりでなく、人間のあらゆる営みは、神さまが、実にさまざまなものから成り立っていながら、調和の取れている状態にある、この世界のすべてのものをお造りになったことの上に成り立っています。 その意味で、飲むこと食べることを初めとして、人間のあらゆる営みが、造り主である神さまとの関係をもっています。それで、コリント人への手紙第一・10章31節には、 こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。 と記されています。 このように、 初めに、神が天と地を創造した。 という言葉は、この世界に存在しているすべてのものの存在の土台と、根拠を示しています。それとともに、この言葉は、私たちの存在の意味と価値の根拠が造り主である神さまにあるということも示しています。 私たち人間は、自分がどこから来てどこに行くのかを考えます。普段は目の前のことに捕らわれているとしても、何かの折りに、自分自身の内側からの問いかけの声を聞くことがあります。その声は、「自分は一体どこからきて、どこに行くのだろうか。」とか、「自分は一体何者なのだろうか。」と問いかけてきます。このような問いかけは、形は違っても、それが捜し求めていることは同じことです。私たちの存在と人生の意味とか価値を求めるものです。 実は、それほど改まって考えてみなくても、私たちそれぞれは、何かをするときには、必ず、自分が何のためにそれをするのかを考えています。たとえ、日常の雑事をするときにも、その一つ一つのことの価値判断をしています。たとえば、洗濯をするときには、まず、洗濯が自分にとって必要なことであると考えているはずです。洗濯機のスイッチを入れるときにも、それがどのような意味をもっているか、すなわち、それは、洗濯機に電気を通すためにすることであるということを理解しています。洗剤を入れるのも同じです。人間は、ほんの些細なことであっても、それがどういう意味をもっているかを考えています。そのことの意味や目的は分からないけれども、ただ手順がそうなっているからそうするというだけのことをすることには耐えられません。 古くから知られている「拷問」の中に、溜まっている水とか砂を、少しずつ、一つの場所からすぐ近くにあるもう一つの場所に運ばせ、それが終わると、今度はまた、同じ水や砂を最初の場所に運ばせるということを繰り返すものがあります。それは、肉体的には何の苦労も苦痛もなくできることです。しかし、そのことの意味や目的が分かりません。そのような拷問を受けた人々は、ほぼ例外なく、正常な精神状態ではいられなくなってしまいます。 そのように、私たち人間にとって、自分の存在と働きの意味や価値をわきまえることは、いのちそのものに関わることです。そのような私たちは、毎日の生活の中での目の前のことの意味と価値を考えるばかりでなく、自分の存在そのものの意味や価値を考えるように造られています。聖書は、この世界の存在の出発点ばかりでなく、そのような私たちのいのちに関わる、自分の存在と人生の意味と価値という問題の出発点も、 初めに、神が天と地を創造した。 という事実にあると教えています。すでにお話ししましたように、この「初め」は、この世界とその歴史の「初め」の部分であるだけでなく、この世界とその歴史のあり方を根底から意味づけている原理のようなものです。 もしこの世界と私たち人間が造り主である神さまによって造られたのでなければ、この世界も人間も偶然の重なりから発生したものであることになります。すると、この世界と人間にとって、最終的な事実、究極的な真実は「偶然」であるということになります。 もし、この世界も私たち人間も、偶然たまたま存在するようになっただけのものであれば、私たちは、別に存在しなくてもよかったものであったということになります。別に存在しなくてもよかったのに、たまたま発生して存在するようになったということになります。 これに対して、聖書は、私たちを含めてこの世界のすべてのものは、永遠に生きておられる神さまが、ご自身のみこころにしたがってお造りになったということをあかししています。私たちは、一人一人、神さまの「永遠のみこころ」の中で存在すべきものとされています。そして、そのみこころにしたがって造られました。このことが、私たちの存在の意味と価値の最終的な土台です。これは、造り主である神さまの「永遠のみこころ」に基づく意味と価値ですので、「超越論的な意味や価値」と呼ぶことができます。 もし人間に自分自身を超えた意味や価値、すなわち、超越論的な意味や価値がないとしますと、たとえば、「覚醒剤でいい気持ちになることがなぜ悪いのか。」と問う人に答える最終的な基盤はなくなってしまいます。 その人に向かって、「覚醒剤なんか使っていては、人生がだめになる。」と答えたとしましょう。するとその人が、「もともと、なくてもよかった無意味な人生なのだから、それがだめになると言うこと自体がおかしいのだ。」と言い返してきたら、どう答えたらいいのでしょうか。 物事を突き詰めていって、すべてのことの最後の真相を見ると、「すべては偶然たまたまのことである。」ということになるのであれば、「人間は偶然の重なりの中で、たまたま発生しただけのものであって、別に発生しなくてもよかったものである。」といことになります。それで、いちばん深いところでは、私たちの人生に意味を与えるものはないということになります。 そのように突き詰めて考えていきますと、せいぜい「自分が殺されたくないから、殺人はいけない。」というような論理が生まれるだけです。言い換えますと、「最後には、自分にとってどうであるかであり、自分の都合や感じ方次第である。」ということになります。 それでも、「それは間違っている。」と言う人は、個人の感じ方を超えた意味と価値があると信じているのです。その上で、相手の人を説得しています。そのように考えて、その人を説得したりするのは、私たち人間を超える意味や価値をどこかで信じているからです。「偶然たまたま」ということ以上の意味や価値の土台、意味や価値の源があることを信じているからです。 私たちは自分の存在と人生の意味や価値を考えなくては生きられないものです。しかし、もし私たちが自分の存在や人生に人間を超える意味と価値があることを認めないなら、たとえば、「お互いにとっていのちは大切だから、殺人はいけない。」というような論理しか出てこなくなります。そうなると、「いや、自分のいのちもどうでもいいし、他人のいのちもどうでもいい」と言い返す人に答えることはできません。 もちろん、私たちは、「このようなことはおかしいと」感じます。「それでは自分の都合が悪くなるからこまる。」というのではなく、「どこか、間違っている。」と感じます。それは、私たちが、私たち個人個人の都合や事情によっては変わらない、さらに言いますと、人間すべてをそのうちに包んでいる意味と価値があることを、生まれながらにわきまえているからです。 そして、そのような意味と価値は、「偶然」の中から、「偶然」に生まれてくるものではありません。また、そのような意味と価値へのわきまえも、偶然たまたますべての人の中に生まれてきたのではありません。もしそのようなわきまえも偶然の産物であれば、そのようなわきまえ自体が「発生しなくてもよかった」わきまえであるということになります。私たちの人間としての存在そのものが、そのようなことを否定しています。 そのような、私たち個人個人の都合や感じ方を超えた意味や価値は、どこから出ているのでしょうか。それは、聖書があかししているように、ご自身が人格的な方であり、意味と価値の源である造り主である神さまが、この世界と私たち人間をお造りになったことから出ています。そして、私たちすべてのうちにある、そのような意味と価値に対するわきまえも、造り主である神さまが、「神のかたち」に造られた私たちの心の奥底に植え付けてくださった「神への思い」(神観念)に根差しています。 その、神さまが私たちの心の奥底に植え付けてくださった、「神への思い」は、この世界と私たちは「偶然」たまたま出現したものではないという、私たちの「内なる叫び声」を発しています。「私にもあなたにも、また、私の人生にも、あなたの人生にも、確かな意味と価値がある。」と叫んでいます。それが、この人生を意味あるものとして生きよう、少しでも善く生きようとする私たちの姿勢の根本にある確信です。それは、造り主である神さまが私たち人間を意味と価値を持つものとしてお造りになったという、私たちにとって究極的な事実と真実に対する、私たち自身の魂の証しです。 この世界と私たちが偶然の重なりの中でたまたま発生したのではなく、造り主である神さまのみこころに従って造られたのであれば、この世界にも私たち人間にも、明確な意味と価値があります。 天地創造の御業の記事の見出しに当たる、 初めに、神が天と地を創造した。 という言葉によって示されていることは、この世界のあらゆるものの存在の意味と価値の究極の土台です。その意味で、今この時代に生きている私たちの存在の意味と価値の究極的な土台です。 このように、この世界も、その中に住んでいる私たちも、神さまの永遠の意志に基づくご計画によって造り出されたものです。それで、この世界のすべてのものは造り主である神さまとの関係の中に存在しています。私たちも、造り主である神さまとの関係にあって存在し、その支えを受けています。 そのような事情を詩篇の記者は、40篇5節で、 わが神、主よ。 あなたがなさった奇しいわざと、 私たちへの御計りは、数も知れず、 あなたに並ぶ者はありません。 私が告げても、また語っても、 それは多くて述べ尽くせません。 と歌って告白しています。 また、マタイの福音書6章25節〜27節に記されていますように、イエス・キリストは、 だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。 と教えておられます。 神さまの真実な御手は、お造りになったすべてのものを支えておられます。私たちは、その御手に信頼するように招かれています。 これは、私たちと私たちの住んでいるこの世界は、何の人格的な特性もない無機的な力の作用により、偶然たまたま出現しただけのものであるとする、「機械的な世界観」、「機械的な人間観」と真向から対立するものです。 「神のかたち」に造られていて、人格的な存在である人間と神さまとの関係は、人格的な「交わり」です。その具体的な現われが、祈りや礼拝です。 文化人類学が明らかにしていますように、どのような文化にも宗教があって重要な役割を果たしています。宗教性は人間が生まれた後から身に付けるものではなく、先天的に人間自身のうちに備わっているものです。たとえある人が、自分は無神論者で宗教を否定すると言っても、それでその人に宗教性がなくなるわけではありません。その人は、「神」という呼び方はしませんが「神」に当たるものを作り上げて、それに頼ったり、それに献身したりしています。 このような宗教性を持っている人間が、「機械的な世界観」や「機械的な人間観」を基にして宗教を形成しますと、そこには神さまとの人格的な交わりはありません。祈りも、自分の宗教性を満足させるためのものとなったり、偶然の力を自分にとって都合がいい方向に転がそうと操作しようとする「おまじない」や「呪術」のようなものとなります。さまざまなカルト教団が、教祖崇拝と呪術的な超能力をうたい文句にしているのもそのような事情によっています。 初めに、神が天と地を創造した。 という言葉は、この世界と人間が人格的な神さまのみこころによって造り出され、神さまとの関わりにおいて存在していることを示しています。これは、私たちの存在といのちの中心である、神さまへの礼拝と祈りの根本的な土台となっています。人間は、神さまへの礼拝や祈りにおいて、造り主である神さまに思いを向けて、神さまとの人格的な交わりを経験するものとして「神のかたち」に造られています。 |
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