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説教日:2001年4月1日 (夕拝) |
まず、「創造した」という言葉(バーラー)ですが、この言葉は、ここで用いられている形(カル語幹)では、二つの特徴をもっています。 第一に、この言葉は神さまの創造の御業を表わすときにだけ用いられていて、人間や、他の神々の働きを表わすときには用いられていません。 第二に、創造の御業のために用いられる材料を示す言葉とともに用いられることがありません。 このことから、時には、創世記1章1節で、この(バーラーという)言葉が用いられていることを根拠として、天地創造の御業は「無からの創造」( creatio ex nihilo )であったと主張されることがあります。 確かに、神さまの天地創造の御業は「無からの創造」というべき御業です。けれども、そのことを、創世記1章1節で、この(バーラーという)言葉が用いられていることを根拠として主張することはできません。というのは、この(バーラーという)言葉は「無からの創造」を表わすための「専門用語」ではないからです。 この(バーラーという)言葉は創世記1章の中では、21節に1回と、27節に3回出てきます。21節では、 それで神は、海の巨獣と、その種類にしたがって、水に群がりうごめくすべての生き物と、その種類にしたがって、翼のあるすべての鳥を創造された。 と言われており、27節では、 神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。 と言われています。すぐにお分かりのように、これらの個所では「無からの創造」は記されていません。ですから、この(バーラーという)言葉は「無からの創造」を表わす「専門用語」ではありません。 とはいえ、この(バーラーという)言葉は、神さまの独自な御業を表わすものであり、創世記1章21節と27節においても、神さまの御業によって「新しいもの」が造り出されたことが示されています。21節では、初めて「いのちあるもの」が造り出されたことが示されていますし、27節では、人間が「神のかたち」に造られたことが記されています。 それで、この(バーラーという)言葉は、神さまの創造の御業が「無からの創造」であることを証明するものではありませんが、神さまの創造の御業が「無からの創造」であることと調和するものであると言うことができます。 創世記1章1節で、 初めに、神が天と地を創造した。 と言われているときの「天と地」が何であるかについても、いろいろな見方があります。 カルヴァン、ヴェルハウゼン、ケーニヒ、アアルダース、ハイデルたちは、これが2節に、 地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。 と記されている「最初の状態」、つまり、そこから、この世界のいっさいのものが造り出された「原材料」を示していると考えています。そして、1節では、この原材料が無から創造されたことを示していると言います。 このような見方に対しましては、二つの反論が出されてきました。 第一の反論は、「天と地」という表現は、「秩序立っている宇宙」を表わすもので、いまだ整えられていない「原材料」のようなものを表わすのではないというものです。 「天と地」というように、二つの相反する言葉をつなぎ合わせることによって「すべてのもの」を表わす表現の仕方をメリスムスと言います。日本語でも、「老いも若きも」と言いますと「すべての人」を表わします。「昼も夜も」と言いますと「いつも」ということを表わします。それと同じです。そのように、「天と地」はこの世界の「すべてのもの」を表わしています。しかも、それが「天と地」というように秩序立てられていることを示しています。 このことから、1章1節においては、神さまが秩序立った世界、今日の言葉でいう「宇宙」を創造されたことが記されている、と言うことができます。「天と地」は、最初に造り出された「原材料」だけではなく、それを用いたり、整えたりして造られたものも含んでいます。また、単に、「もの」だけではなく、存在するすべてのものの間にある秩序や調和をも含んでいます。 この第一の反論は決定的なものです。 第二の反論は、「混沌」あるいは「渾沌とした状態」を「創造する」ということは、矛盾しているというものです。 このことは、イザヤ書45章18節で、 天を創造した方、すなわち神、 地を形造り、これを仕上げた方、 すなわちこれを堅く立てられた方、 これを形のないものに創造せず、 人の住みかに、これを形造られた方、 と言われている中の「形のないもの」(トーフー)という言葉が、創世記1章2節の、 地は形がなく、何もなかった。 の「形がなく」と同じ言葉であることを根拠として主張されることがあります。つまり、イザヤ書45章18節によると、「地」は「形のないもの」には創造されなかったのであるから、創世記1章2節の、 地は形がなく、何もなかった。 状態が「創造された」と言うのはおかしいというのです。 これらの反論のうち、第二の反論には問題があります。 この第二の反論は、2節の 地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。 という言葉が示しているのは「混沌とした状態」である、という理解を前提としています。 確かに、2節では、 地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、 と言われています。これだけを見れば、「地」は「渾沌とした状態」にあると言えそうです。けれども、そこではまた、 神の霊は水の上を動いていた。 とも言われています。「地」には神さまの御霊のご臨在があったことが示されています。ですから、2節に記されている、 地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、 という状態が「混沌とした状態」であるように見えるとしても、それは造り主である神さまの御手の中に保持され、支えられているのです。 さらに、この第二の反論は、「混沌とした状態」が「創造された」ということと矛盾していると言うことによって、2節に記されている状態を、創造の御業にはよらないものであるとしてしまう危険性をはらんでいます。 より正しくは、「神さまの御手を離れた混沌状態」が「創造された」というのであれば、それは矛盾しているのです。もし「混沌とした状態」ということが、神さまの御手の及ばないメチャクチャな状態を表わすというのであれば、2節に記されている「地」の状態を「混沌とした状態」であると言うべきではありません。というのは、2節に記されている状態の「地」は、そこにご臨在しておられる御霊の御手によって保たれているからです。 また、イザヤ書45章18節は、創造の御業の目的を指しているのであって、その御業の初めの状態が、 地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、 という状態であったことまでも否定しているわけではありません。そのような状態から出発して、最終的には、 これを形のないものに創造せず、 人の住みかに、これを形造られた。 ということを示しているのです。 このようなことから、「混沌」あるいは「渾沌とした状態」を「創造する」ということは矛盾しているという、第二の反論は成り立たないと考えられます。けれども、先ほど言いましたように、第一の反論は決定的なものです。それで、創世記1章1節で、 初めに、神が天と地を創造した。 と言われているのは、この世界の「原材料」(素材)となるものが造られたことを述べている、という見方を採ることはできません。 それでは、2節に記されている、 地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、 という状態はどこからきたのでしょうか。 もちろんそれは、造り主である神さまがお造りになったのです。そのことは、1節で、 初めに、神が天と地を創造した。 と言われていることから分かります。1節では、2節に記されている「地」最初の状態も含めた、宇宙の最初の状態から始まって、最終的に完成している「秩序立てられた宇宙」を神さまがお造りになったことを表わしています。それで、2節に記されている「地」の最初の状態は、神さまがお造りになったと言うことができるのです。 初めに、神が天と地を創造した。 と言われているときの「神」(エローヒーム)は(エローハの)複数形です。この複数形は偉大であることを表わす「尊厳の複数」で、数の複数性を示すものではありません。これにかかる動詞(これとともに用いられる動詞)はすべて単数形です。 この(エローヒームという)言葉は、1章1節〜2章3節の34の節の中で35回用いられています。そのすべてが「主格」で、主語として用いられています。ですから、「神」は1章1節において主語ですが、それは、1章2節以下2章3節に記されている創造の御業全体において主語であることを集約しています。 このことは、神さまが創造の御業を最後まで遂行されたことを示しています。それで、神さまが、初めに基本的な物質をお造りになると、後は自動的に世界が形成されていったというような考え方を退けるものです。 1章1節〜2章3節の天地創造の記事では、主語である「神」が、その創造の御業のすべての段階において「言葉」をもって働かれ、そこに造り出されたものに注意深い目を注がれ、よしとご覧になっておられます。 以上のことから、「初めに」という言葉を除いた、 神が天と地を創造した。 という言葉だけでも、神さまが秩序ある宇宙のすべてをお造りになったことを示していると言うことができます。これは、神さまと、神さまがお造りになった秩序ある宇宙との根本的な区別を示しています。神さまは創造者であり、この宇宙のすべては神さまの被造物です。 このように、「初めに」という言葉を除いた、 神が天と地を創造した。 という言葉だけでも、この世界のすべてのものは神さまによって造られたことを意味しています。それで、このことから、「無からの創造」が主張できるのではないかと思われるかもしれません。 けれども、これに対して、 神が天と地を創造した。 ということは、あくまでも、神さまが「秩序立てられた宇宙」を創造されたということであって、それは、最初にあったであろう「原材料」の創造を含むとは限らない、というような意見が出てくることが予測されます。 これは、決して、無理な意見ではありません。 神が天と地を創造した。 というだけでは、神さまの天地創造の御業もそれと同じようなことであるという主張が出てこないとも限りません。 事実、創造の第1日の御業が何であったかということについて、それは、3節に記されている「光の創造」であったという見方が一般的です。この見方では、2節の状態にある「地」はどこから来たのかという問題が生じてきます。2節の状態にある「地」も、神さまの創造の御業によって造り出されたというのであれば、そして、実際に、そうなのですが、創造の第1日の御業は、3節に記されている「光の創造」だけではなかったとしなければなりません。 創造の第1日の御業は3節に記されている「光の創造」であるという見方をするなら、2節の状態にある「地」は、初めからそこにあったとしなければなりません。そうしますと、いわゆる「先在の物質」のようなものが想定される余地が生まれてきてしまいます。 日本の『古事記』もそうですが、世界の至る所に「創世神話」があります。それによって、この世界の始まりが神話的な装いにおいて説明されています。それらの「創世神話」に一般的な考え方は、創世神話にかかわる神々もこの世界の中に存在していて、この世界の中に「すでにあるもの」(「先在の物質」)に働きかけて、秩序ある世界を形成していったというものです。 神さまの創造の第1日の御業は3節の「光の創造」であるとして、その「光の創造」から天地創造の御業が始まるとする見方は、これらの「創世神話」のような見方に道を開くことになります。 この問題に対しては、単純に、1章1節の位置というか役割という点に注目することによって、答えることができると思います。 すでにお話ししましたように、1章1節は独立した見出し文です。それで、1章1節は、1章2節〜2章3節とは区別されて、それら全体をまとめる役割を果たしています。ですから、1章1節は、1章31節の、 そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。 という言葉や、2章1節の、 こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。 という言葉に示されていることと、同じことを示しているのではありません。 確かに、1章31節や2章1節も、秩序立てられた宇宙が創造されたことを述べています。しかし、それらは、あくまでも、神さまの創造の御業の最終的な段階を示しているだけです。 これに対して、1章1節は、それらをも含め、また、神さまの創造の御業のすべての過程も含めて、さらには、それに続く第7日目の祝福と聖別をも含めて、そのすべてが神さまの創造の御業であるということを述べています。その中には、当然、2節に記されている状態の「地」が造り出されたことも含まれています。 1章1節の、 初めに、神が天と地を創造した。 という言葉の冒頭にあるのは、ヘブル語でも「初めに」という言葉(ブレーシート)です。その後に「創造した」という言葉(バーラー)が続きます。この二つの言葉の子音字に注目しますと、「初めに」という言葉(ブレーシート)の最初の三つの子音字は、「創造した」という言葉(バーラー)の子音字と同じです。ですから、この二つの言葉は、頭韻法( alliteration )によってつながっています。 エドワード・J・ヤングは、これに注目しまして、この二つの言葉が頭韻法によって結び合わされていることは、「初めは創造の御業によっている。」という思想を表わしていると言っています。つまり、1章1節では、「天と地には初めがある。そして、この初めは、神さまがそれらを創造されたという事実のうちにある。」ということが表わされているというのです。 このように、1章1節の、 初めに、神が天と地を創造した。 という言葉は、「天と地」、すなわち、秩序立てられた宇宙のすべてが、神さまの創造の御業によって造られた、ということを示しているだけではありません。それとともに、この秩序立てられている宇宙を時間的にも捉えて、その「初め」からの成り立ちが、神さまの創造の御業によっているということを示しているのです。 これらのことを考え合わせてみますと、1章1節の、 初めに、神が天と地を創造した。 という言葉は、基本的に「無からの創造」を示していると考えることができます。 1章1節では、頭韻法によって結び合わされた「初めに」(ブレーシート)と「創造した」(バーラー)が最初にくることによって、時間的・歴史的な側面が視野の中に入れられています。ここから、この世界は、時間的・歴史的な世界として創造されていることが分かります。 このことは、神さまの創造の御業のなされ方にも現われています。神さまはこの世界全体を、一瞬のうちに完成されたものとしてお造りになることができます。しかし、神さまはこの世界を6日の間に分けて、順序よく、完成にまで導いてゆかれました。神さまの創造の御業それ自体が、歴史性をもったものでした。 これは、この世界が秩序立った宇宙であるよりも前に、歴史的なものであることを意味しています。そして、秩序立った宇宙のすべてのものは、時間の中で、また、時間の中へと造られています。 けれどもそれは、創造の御業に先立って時間があったということではありません。1章1節の「初めに」は時間そのものの「初め」をも示しています。時間はあくまでもこの世界に関わるもので、この世界がなければ時間の流れもありません。その意味で、時間は創造の御業とともに始まったものです。 先ほど、「初めに」という言葉を除いた、 神が天と地を創造した。 という言葉だけでも、神さまと神さまがお造りになった世界との根本的な区別が示されているということをお話ししました。このことには、「初めに」という言葉によって示されている時間的なことが考慮されなければなりません。それは、神さまと、神さまがお造りになったこの世界の区別は、神さまがこの世界をお造りになった時から生じたものであるということです。人間は、神さまとこの世界が常に平行してあって区別されていると感じていますが、そのように考えることは、造り主である神さまと被造物世界の区別をあいまいなものにすることです。 |
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