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説教日:2001年3月4日 (夕拝) |
トーレドート句が、その前の部分の「結びの句」であるという見方にはいくつかの問題があります。 第一に、トーレドート句は創世記以外にも用いられています。たとえば、民数記3章1節では、 主がシナイ山でモーセと語られたときのアロンとモーセの系図は、次のとおりであった。 と言われています。 これは、少し長いですが、全体をトーレドート句と見ることができます。これに先立つ2章には、イスラエルの民が氏族ごとに宿営するために定められた宿営の順序と登録された人数などが記されています。それで、3章1節のトーレドート句は、それに先立つ2章に記されていることをまとめる「結びの句」ではなく、続く3章2節に、 アロンの子らの名は長子ナダブと、アビフと、エルアザルと、イタマルであった。 と記されていることから始まる部分を導入する「導入句」であると考えられます。 また、ルツ記4章18節〜22節には、 ペレツの家系は次のとおりである。ペレツの子はヘツロン、ヘツロンの子はラム、ラムの子はアミナダブ、アミナダブの子はナフション、ナフションの子はサルモン、サルモンの子はボアズ、ボアズの子はオベデ、オベデの子はエッサイ、エッサイの子はダビデである。 と記されています。 この部分の初めには、 ペレツの家系は次のとおりである。 というトーレドート句があります。これも、それに続いて記されていることへの「導入句」です。 これらのことから、トーレドート句が常に「結びの句」であるわけではないことが分かります。 第二に、トーレドート句を結びの句とすると、意味が通るようになると思われる個所がある一方で、そのようにすると、おかしくなってしまう個所もあります。 創世記の記事の中で見てみますと、25章12節には、 これはサラの女奴隷エジプト人ハガルがアブラハムに産んだアブラハムの子イシュマエルの歴史である。 と記されています。このトーレドート句が結びの句であるとしますと、これに先立つ11章27節後半〜25章11節の結びの句であることになります。ところが、11章27節後半〜25章11節に記されているのは、アブラハムの生涯です。これでは、アブラハムの生涯が、「イシマエルのトーレドート」として結ばれることになってしまいます。 同じように、25章19節には、 これはアブラハムの子イサクの歴史である。 と記されています。しかし、この前の25章13節〜18節には、イシマエルの子たちのことが記されています。これを結びの句としますと、イシマエルの子たちのことが、イサクのトーレドートとして結ばれることになります。 また、36章1節には、 これはエサウ、すなわちエドムの歴史である。 と記されています。ところが、これに先立つ25章19節後半〜35章29節には、イサクと、その二人の子であるエサウとヤコブのことが記されています。 さらに、37章2節には、 これはヤコブの歴史である。 と記されています。ところが、この前の36章10節〜37章1節に記されているのは、エサウの子孫のことです。 これらのことから、創世記に出てくるトーレドート句を、それに先立って記されている部分の結びの句であるとすることには無理があることが分かります。それで、創世記に出てくるトーレドート句は、それに続く部分への導入句であると考えたほうがよいと思われます。 ただし、トーレドート句が、そこに出てくる「人物」あるいは「もの」の「起源」や「由来」を表わす導入句であるとしますと、意味が通らなくなってしまいます。 けれども、トーレドート句によって導入される記事が、トーレドート句に出てくる「人物」あるいは「もの」にかかわること、すなわち、その人の家族や、その人の生きた時代のことなどか、「その人物の子孫」あるいは「それから出たもの」に関することを記していると考えますと、創世記の中のトーレドート句は、すべてうまく説明できます。 大切なことですので、改めて確認しておきますが、トーレドート句によって導入される記事は、トーレドート句に出てくる「人物」あるいは「もの」の「起源」や「由来」を記しているのではありません。それは、トーレドート句に出てくる「人物」あるいは「もの」にかかわることか、その子孫など、それから出たものに関することを記していると考えられます。 このことは、2章4節〜4章26節に記されている記事の基本的な意味を理解するための光となります。この記事を導入する2章4節には、 これは天と地が創造されたときの経緯である。 と記されています。 ここで「経緯」と訳されている言葉が、トーレードートです。これまでお話ししたこととのかかわりで言いますと、このトーレドート句によって導入されている2章4節〜4章26節に記されているのは、「天と地」の起源や由来ではありません。その意味で、それは、いわゆる「もう一つの天地創造の御業の記事」ではありません。そこに記されているのは、神さまによって創造された「天と地」にかかわることです。特に、その中心である「神のかたち」に造られている人間のことです。 さて、一つの問題は、なぜ、1章1節〜2章3節にトーレドート句がないのかということです。 これについては、先ほどお話ししたトーレドート句の意味を念頭に置きますと、理解することができます。 トーレドート句は、何かの「起源」や「由来」を述べる記事への導入としては用いられません。ところが、1章1節〜2章3節の記事は、この世界のすべてのものが神さまの天地創造の御業によって造られたということを記しています。つまり、この世界のすべてのものの「起源」や「由来」を記しています。それで、1章1節〜2章3節の記事には、トーレドート句を導入句として用いることができません。 このことは、 初めに、神が天と地を創造した。 という言葉によって導入される1章1節〜2章3節の記事が、その後に記されている、一連のトーレドート句によって導入される11の記事とは、異なった性格をもっていることを意味しています。 初めに、神が天と地を創造した。 という言葉によって導入されている1章1節〜2章3節では、すべてのものの「起源」が記されています。そして、すべてのものが、神さまの創造の御業によって始まったことを示しています。これに対しまして、一連の トーレドート句によって導入される11の記事は、どれも「起源」を記すものではありません。 このことと関連して、「初め」というものの大切さに注意したいと思います。「初め」を表わすギリシャ語のアルケーという言葉は、「初め」を意味するとともに「原理」をも意味しています。これは含蓄のあることで、「初め」がどのようなものであったかが、そのものの、その後の在り方にとって基礎的な意味を持っています。その意味で、 初めに、神が天と地を創造した。 という言葉によって導入される1章1節〜2章3節の記事は、それに続く、一連の トーレドート句によって導入される記事のすべてにとっての基礎となっています。その一連の トーレドート句によって導入される記事は、「神のかたち」に造られている人間の歴史(厳密に言いますと、後ほどお話しします「救済史」)を記していますが、それは、 初めに、神が天と地を創造した。 という言葉によって導入されている、神さまの創造の御業によって確立されている原理的なものによって、根本から律せられているのです。 このように、すべてのものの「初め」である、神さまの創造の御業について記している、1章1節〜2章3節は、その後に続く一連のトーレドート句によって導入される記事のすべてにとっての基礎であり、その後の、トーレドート句によって導入されるすべての記事は、その上に成り立っています。それらの記事は、神の御手によって支えられ、導かれている「歴史の記録」であることを意味しています。 すでにお話ししましたように、 これは天と地が創造されたときの経緯である。 というトーレドート句によって導入される2章4節〜4章26節の記事は、「天と地」の「起源」のことを述べるものではありません。その意味で、これは、「もう一つの天地創造の御業の記事」ではありません。 厳密な意味での天地創造の御業の記事は、1章1節〜2章3節の記事です。2章4節〜4章26節では、すでに1章1節〜2章3節に記されている、天地創造の御業によって造り出されたこの世界にかかわることとして、その中心に置かれている「神のかたち」に造られている人間の在り方に焦点を合わせて、その「歴史」が記されています。 2章4節以下に「もう一つの天地創造の御業」の記事があるとする立場では、2章4節以下を2章25節で区切らなくてはなりません。しかし、創世記の構造から言いますと、それは、そこで区切られるのではなく、次のトーレドート句の前である4章26節で区切られます。 この点からも、2章に触れられている創造の御業は、1章1節〜2章3節の記事のように、すべてのものの「起源」を記すという観点からではなく、造り主である神の御前における人間の位置や存在の意味を明らかにし、そこから、人間がどのように堕落してしまったか、同時に、神である主の恵みの備えがどのように示され、信じられ、受け継がれていったかを示しています。 このように、 初めに、神が天と地を創造した。 という言葉によって導入される1章1節〜2章3節に記されている天地創造の御業を基礎として、一連のトーレドート句によって導入される11の記事が記している歴史が展開していきます。 一連のトーレドート句によって導入される11の記事は、一つの中心主題によって貫かれています。それは、2章4節のトーレドート句によって導入される2章4節〜4章26節の記事において示されています。 「神のかたち」に造られて、主とのいのちの交わりのうちに生きていた人間は、誘惑する者の声にしたがって、神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまいました。その後に、神である主は、 おまえが、こんな事をしたので、 おまえは、あらゆる家畜、 あらゆる野の獣よりものろわれる。 おまえは、一生、腹ばいで歩き、 ちりを食べなければならない。 わたしは、おまえと女との間に、 また、おまえの子孫と女の子孫との間に、 敵意を置く。 彼は、おまえの頭を踏み砕き、 おまえは、彼のかかとにかみつく。 という、「蛇」の背後にいるサタンに対するさばきの言葉をとおして約束して、「女の子孫」の「かしら」である贖い主を約束してくださいました。 一連のトーレドート句によって導入される11の記事を貫いている中心主題は、この、「女の子孫」の「かしら」である贖い主による救済の御業の歴史です。 このような、贖い主の約束に基づいて、展開する主の贖いの御業の歴史を「救済史」と呼びます。 ただし、このような一連のトーレドート句によって導入される記事の関係だけですべてを説明しきることはできません。これらすべてを包んで、神である主の創造の御業と救済の御業を統一的にまとめているのは、「神である主の契約」というテーマです。 一連のトーレドート句によって導入される11の記事を貫いている中心主題が「女の子孫」の「かしら」である贖い主による救済の御業の歴史であるということは、その、救済の御業の歴史が、霊的な戦いとしての意味をもっていることを意味しています。それは、 初めに、神が天と地を創造した。 という言葉によって導入される1章1節〜2章3節に記されている天地創造の御業をめぐっての霊的な戦いです。サタンは、神さまの創造の御業の目的をくじこうとして働きます。これに対して、「女の子孫」の「かしら」である贖い主は、罪によって堕落した主の民を回復し、創造の御業の目的を達成してくださるためにお働きになります。 |
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